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境内案内

目次

 

 

【覆蓋の松(石碑)】

 

 昭和20年(1945)9月、枕崎台風により通津川は大氾濫し、堤防が決潰、一夜にして専徳寺境内は大量の土砂礫で埋まった。
 この台風によって、吉川12代領主経幹公より贈られた、駕籠(殿様駕籠)等々、さまざまな寺宝が失われた。また、その後、寺地決定の機縁となった推定500歳の老松が松食い虫の被害にあって枯死した。
 この樹はかって、島地黙雷師が激賞した松である。その枝は数十本の支柱によって支えられ、境内の庭地全体に広がっていた。黙雷師は「天下広しと云えどもかかる老松はすくなし、これを無名のままにして置くに忍びず」として自ら筆を執って、『覆蓋の松(ふくがいのまつ)』と命名した。
 今はその石碑だけが残る。
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【鶴翼の松】

 

 この後、「覆蓋の松」枯死を嘆いた本呂尾の村重義一氏(昭和29年往生)は永年丹誠を込めて育てた樹齢百歳を超える「鶴翼の松」を寄進された。 
 境内の樹木管理を委託されていた保津の畝挾勘一氏(昭和50年往生)は親戚知人に呼び掛けて、それぞれ秘蔵の松、梅を寄進することを勧め、賀屋国太郎、畝挾卯一、畝挾藤人、岩本軍一、畝挾富次、沖好繁の諸氏がこれに応じた。
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【蘇鉄】

 

 明治中期頃、通津に在住した陽明学者、東沢写宅跡(現在、岩国市教育委員会管理)にあったものを明治43年移植したもので、これは宗祖650回忌記念事業の一つであった。
 なお、現在ではこの記念碑が建っている。碑面は沢写先生のご子息東正堂氏の筆になるもので「営遠忌貴仏徳遺末世植古木」とある。裏面には施主35人の名と、世話人として、藤重百太郎(本呂尾)、岡田辰五郎(山田)、津秋助太郎(中村)、弘中佐太郎(中村)、森山岩太郎(本町)ら諸氏の名が連ねてある。
 この蘇鉄はあまりの大木故、道路上を運搬することができず、通津川の川床を伝って、専徳寺横の堤防にかつぎ上げ、更に竹林を切り開いてようやく境内に運びこんだ。
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【経蔵(納骨堂)と老松樹木】

 

 大蔵経(一切経)を収納した建物で、吉川3代目領主広嘉公より寄進されたもの。貞享3年(1686)年の建築とある。したがって、専徳寺では最も古い建物となる。
 大蔵経(一切経)とは仏教の経律論を内容とする基本的叢書であり、中国を原典とする。当時の印刷は木版刷であったため、書物にすると膨大な数量になる。古文書に、「この大蔵経を安置するもの防長においてこれなし」との記録があるので、いかに貴重品であったかがうかがわれる。
 経蔵とはこのような大蔵経を収納した仏教図書館であるが、単なる書蔵庫たるのみでなく、ここは地方の学僧達の学問所としての役割を果たしていたようである。
 妻木直良編『真宗全書』第18巻には『選択集通津録』(深諦院慧雲)なるものがあり、それらには、「安永已亥(師、時に五十歳)の夏、通津専徳寺にて講演せる筆録なり」とある。
 経蔵の規模は土蔵造りで面積は48平方メートルである。戸口に「転法輪」(写真)なる扁額が掲げてある。「転法輪」とは仏教用語で、仏法は戦車の如く一切の衆生の間を回転して人心の迷いを破砕するとの意味である。
 経蔵の屋内は地下室風で、土間の上に板敷があり、その上に大蔵経が積み上げてあったが、昭和20年の水害で、経蔵の蔵書および貴重な法物、記録等大部分が流失した。

 

平成21年より納骨堂。

 

 

 経蔵の前に存在感を持つこの松樹。その年代は不詳であるが、横の石灯籠に元禄15年(1702)とあるのでその年代のものと推測される。

 

 

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【鐘楼】

 

 昭和29年(1954)年の新築である。以前のものは昭和2年の水害で、土台が崩れたため解体された。設計は市内横山の中沢五橋氏。氏は、自らの発想で設計に取り組み、音響効果に主眼を置いた個性ある鉄筋コンクリート造りにし、中央を空洞化した。
 楼屋の大工頭は湯脇徳太郎老人。ひたむきな仕事ぶりが寺族の心に残ったという。
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【宗祖聖人銅像】

 

 南岩国町在住の松村健一氏が寄進されたもの。
 氏はかって満州の開拓員であった。希望の大地での生活は昭和20年8月15日をもって一変。ソ連兵と現地人に追われ山野をさまよい一家は離散。3人の愛児は栄養失調のため幼い生命を断った。「今もそのことを思えば胸の中がかきむしられる」と氏は述懐した。そして、たくましき行脚姿の「しんらんさま」を拝したいと発願された。
 毎年5月、宗祖降誕会には、幼稚園児がそれぞれ家から「花一本」を持ち寄って、御像の前に供えている。
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【弘中三河守の墓】

 

 弘中氏は大内氏の部将として、岩国地方に勢威を張っていたが、大内氏の滅亡により陶晴賢と共に厳島において毛利元就と対戦することになった。弘中氏と毛利氏と吉川氏はかって芸備の山野にあって盟友の好誼があり、そのため、厳島合戦に臨む三河守の心境には毛利氏討伐という意欲よりは、時の流れを感じる悲壮な出陣であったと郷土史研究家はいう。
 弘中三河守、弘治元年(1555)10月3日、厳島竜ヶ馬場において次男とともに討死。遺体は岩国市今津町大応寺に埋葬された。ここに弘中氏の時代が終わる。弘中三河守隆包、弘中氏岩国城最後の城主となった。
 厳島合戦に勝利した毛利元就は一族の吉川広家を、弘中氏に代わって岩国地方を領有させた。広家公は、隠居後、通津の地に浄土真宗寺院の建立を願い出た。その願いが受け入れられ、寛永元年(1624)年、光照寺(のち専徳寺)が誕生。
 開基には、高森正蓮寺開基了善法師の三男善超師を迎えられた。この善超師こそが、弘中三河守の曾孫となる人物である。
 昭和16年(1941)10月、広島証券会社社長松井礼蔵氏が三河守を顕彰すべしとして、ゆかりの専徳寺へ墓を移築した。この移築に際し、「当初は大規模のものが計画され、傍らに三河守についての碑文も用意されていたが、戦時中のため資材、技術者共に得られず、止むなく断念せざるを得なかった。」(弘中朗夫談)
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【手水鉢】

 

 本堂御拝前に「洗耳」(せんに)の扁額が掲げられている手水鉢がある。これは明治42年(1909)宗祖六百五十回忌記念事業として保津村門徒中が寄進したものである。
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※筆者は、ずっと、「洗耳」の意味がわからなかった。調べてみる。中国の故事で、汚れたことを聞いた耳を洗い浄めるという意味だそうだ。なるほど、耳(mimi)を洗って、身(mi)を正して弥(mi)陀の法を聞くというわけですな。

 

 

【石橋と燈篭】

 

 石橋です。渡った先には経蔵があります。 
 昔は、ここに大きな池があり、石橋はその時の名残です。
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【掲示伝道の看板】

 

現在は月に1度掲示。
トップページにその月の掲示伝道の言葉を見ることができます。

 

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【駐車場】

 

 現在では砂利がしきつめてある駐車場だが、以前は、普通のなんの舗装もされてない普通の土の駐車場だった。
 その為、当時は風が強い日などは砂が飛んできて、本堂の板間がよく砂だらけになってしまっていた。
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【中庭】

 木漏れ日がこぼれる素敵な空間です。
 中庭には二羽にわとりがいるなんてことはないのですが、2004年の12月に娑婆を去ったミーヤという猫が一匹、22年間ずっとひなたぼっこをしてました。私にとって大事な思い出です。 
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※参照 弘中聡明著『日照山専徳寺の歴史と事跡』

 

 

 

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