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過去の法話

 

縁起でもない縁起の話 (2月下旬)

水仙

【最後の会話】

 

義理の叔父Hさんと最後にお会いしたのは、
一昨年の年の瀬、大坂のホテルでした。
世間はクリスマスイブの日、ホテルも華やかでした。

 

二次会の後、ほろ酔いで陽気な叔父さんは、
「ラーメンを食べに行こう!」
「叔父さん、すいません、もうお腹いっぱいで。解散します。」
「そうかぁ、ではまた。」

 

次の日、ホテルで別れる際、
子ども達にお小遣いをくれました。

 

それからおよそ半月後、
インフルエンザにかかったと聞き、
「お大事に」という間もなく、数日後には肺炎に。
半月後、脳幹機能停止。
そして、世間がバレンタイデーという日、
静かに息を引き取られました。
数え70歳でのご往生でした。

 

【思い出話】

 

一週間後が葬儀でした。
叔父さんが住職をつとめるお寺へ。

 

葬儀の中で、
別れを惜しむ方々が弔辞を述べられました。
養子として入寺された叔父さん。
毎朝せっせと月忌参りに励んでおられた様子。
お寺へ参る方に気さくに声をかけ、
法座では一緒に幕をはったりと、
親しみのあるご院家さんだったようです。

 

またこんな話も。
「住職は『世の中には三つの偉大な「子」がいます。
孔子、老子、そして養子です』と言って、
場を和ませてくれました。」
「こんなお話を覚えています。
ある若い奥さんの所へお参りにいった際、
『お仏飯がないね。』というと、
『ご院家さん、オブッパンってどんなパンですか?』
面白かったです。」
「彼いわく、『私は三つの言語がしゃべれます。筑豊弁、八代弁、佐賀弁……』、
3ヶ国語を駆使される素晴らしい説教をしていました。」
楽しい叔父さんでした。

 

【色紙】

 

本堂の隣に叔父さんの事務室がありました。
ふと見ると、三枚の色紙が。
どうやら先月の元旦会の法話用に作成したもののようです。

 

一枚目には、一休禅師の言葉、
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」

 

二枚目には、
「縁起でもない縁起の話」とあって、
「来年の正月が迎えられなかったらどうしよう」

 

叔父さんらしいなと思いました。
そして叔父さん、
身をもってその事を示してくれました。

 

最後の色紙には、阿弥陀様の顔が描かれてありました。
その下には「大悲無倦常照我」の文字。
正信偈の言葉です。
意味は「大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照したまう」。

 

慈しみの極まりである仏様。
その救いのはたらきは、
光となって途切れることなく私を照らし護ってくださいます。
極重の悪人、煩悩盛んな凡夫の私。
こちらが目を向けることができなくても、
まったくお構いなく、私を慈しむ光の仏様、
それが阿弥陀様です。

 

【他力の話】

 

仏法は「縁起でもない縁起の話」です。

 

平生、死の問題は避けられがちです。
でもその問題こそ本当は大切な話です。
死の縁は無量、いつ死んでもおかしくないわが身です。

 

語り合う事がはばかられる話。
だからこそ共に法座に座り、仏様の話を聞いておきます。

 

……死の問題が避けられない時がやってきます。
たとえば、大切な人を亡くす時です。

 

「なぜ別れていかねば……、死んでいかねば……」

 

受け入れがたく、解決しがたい悩みに、
お釈迦様のご指南は、やはりお念仏一つでした。

 

「大悲無倦常照我」(大悲ものうきことなく、常に我を照したまう)

 

疲れ知らずのお慈悲の仏様。
私の生命の現場に、
「ナモアミダ仏」と名号法、
声の姿となって届き活動くださっています。
気づけば私にも、大切なあの方にも、
死の縁以上に、
生死(しょうじ)を超える縁が用意されてありました。

 

「お浄土でお会いしましょう」

 

故人をご縁として、
私自身が、死の問題を乗りこえていきます。

 

【おまけ:他力の信心】

 

浄土真宗では、
阿弥陀様に対する真実の信心を「他力の信心」といいます。
一般的な信心、「自力の信心」と、
性質が異なるからです。

 

……恩ある故人の棺に花を手向けます。
おだやかで眠ったような姿。
とても亡くなったとは思えません。

 

「信じられません。ついこの間、元気に会ってたのに……。」

 

一年たっても、思い出すたび、やっぱり信じられません。
事実と違うのですが、受け入れられません。

 

理由は煩悩とあわないからです。
自力の信心は、
希望的観測、期待や願望と密着しています。

 

そんな自力の信心では、
どんなに「阿弥陀様を信じる」、「お浄土を信じる」と思っても、
決して長続きしません。
必ず疑いが残ります。

 

……死んだことを受け入れたくない私。
しかし、故人がお浄土へ往生したことは疑っていません。
疑いようのない心、他力の信心です。
一見、矛盾していますが、
それは出所が違うからです。

 

如来さまから賜った信心です。
私の煩悩を水源とする「自力の信」とは、
別のところからわき出た心持ちです。

 

……私が信じようと、信じられまいと、
まったく構わない他力のお話です。
煩悩に関わってくる信心、わが心の判断は問題にしません。

 

(おわり)

 

 


 

 
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