幸せも不幸せも(11月下旬)
【珈琲の味】
ある休日の朝食の時、小学生の娘が私にたずねてきました。
「珈琲って甘いの?」
「いや、苦いよ。」
「なんで、苦いのに飲むの?」
「美味しいからだよ。」
「なんで、苦いのが美味しいの?」
「大人になると甘味だけでなく、
苦味や辛味の中にある旨味が分かってくるのかな。」
もしかしたら単に感覚がマヒしているのかもしれませんが、
大人になると、苦いばかり、辛いばかりでない、その深みの味が分かってきます。
人生も甘い幸せばかりでなく、
苦い思い出、辛い経験を味わっていきます。
けれども、そんな苦味や渋味の中に、
甘さだけでは決して味わえない深み、
仏さまの精錬なる教え、阿弥陀さまの広大なる慈悲という旨味がかくれています。
そのことを知るのが仏道、
仏の教えを聞くという事かもしれません。
仏法という料理にであった時、
人生の様々な味わいの旨味を知ります。
【合掌】
浄土真宗本願寺派の保育連盟の機関誌「まことの保育」。
その2023年11月号冒頭の「今月のことば」に、小池秀章(こいけひであき)先生のお話がありました。
思い通りになる人生も 思い通りにならない人生も 両方あって 一つの人生(小池秀章)
昔、あるCMで、
「シワ(皺)とシワを合わせて、しあわせ(皺合わせ)、南無」(合掌)
というものがありました。それをある小学生が「確かに合掌の姿は、シワとシワを合わせているけれど、よく見たら、関節、つまりフシ(節)を合わせているじゃないか」と言って、
「フシ(節)とフシを合わせて、ふしあわせ(節合わせ)、南無」(合掌)
と、茶化しました。
しかし、それを聞いていた、ある浄土真宗のお坊さんが、
「シワとシワを合わせて、ふしあわせ。
フシとフシを合わせて、ふしあわせ。
しあわせも、ふしあわせも、両方あって、一個の人生。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」(合掌)
と、頂かれたのです。
ここでいう「しあわせ」とは、本当の「しあわせ」ではなく、自分の思い通りになる人生ということでしょう。そして、「ふしあわせ」とは、自分の思い通りにならない人生ということでしょう。その両方あって、一つの人生なのです。
そして、思い通りになる人生も、思い通りにならない人生も、ともに、私の大切な人生だと受け止めていく。それが南無阿弥陀仏の、み教えなのです。 合掌
どのような境遇の時も、阿弥陀さまと共にある時、大切な人生です。
甘美の時も、辛酸の時も、お念仏を申す時、そこに薫っている、阿弥陀という隠し味を味わえることです。
【おまけ】
実はこの「合掌の話」、2019年頃にも別の所でされていました。
そして小池先生は最後に、こう付け加えておられます。
このお話しの様に「仏さまは、願いをかなえてくれないが、願いを解決してくれる」 私たちは、このように教えをいただいています。
この言葉は、2020年1月の「今月のことば」にも使用されています。
さて、この小池先生の法話をご縁に知った福田寺さんのHPの法話。
とても興味深い話が多かったので、
いくつか紹介させていただきます。
・「人生は邂逅(かいこう)と別離の繰り返し −人生の遺産相続−」
・「『不惜身命』・『但惜身命』」
・「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」
・「親子の年齢は同じ」
・「くふうする生活」
・「励ましと慰め −作家 五木寛之さんの思い−」
・「命の繋がり」
・「ドラえもんは仏教?」
・「沈黙を作り出せる者」
・「いのちといのちのであい 「培其根(ばいきこん)」」
・「「自分の鏡」 「他人の鏡」 「仏様の鏡」」
・「尊いのは足の裏」
・「不機嫌は大きな罪 = 瞋恚(しんに) =」