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過去の法話

 

食事と仏事(10月下旬)

水仙

【カレイ】

 

一年位前、「主人が釣ったもので、どうぞ」と、
ある方がお寺に鰈(カレイ)を持ってこられました。
ビニール袋を受け取ると、袋が動きました。

 

「生きてます?」
「ええ、そのまま冷蔵庫にいれて問題ないですよ。」

 

言われたとおり、冷蔵庫に入れました。

 

1時間後、何気なく冷蔵庫を開けました。
目の前にはカレイの入ったビニール袋。
何となくその位置が先ほどとは違います。

 

「ああ、生きてるのか。」

 

それからまた1時間。
飲み物をとろうとふたたび冷蔵庫を開けました。
するとビニール袋が飛び出してきました。
どうやらカレイが動いたのでしょう。
ビニール袋が移動して、
持ち手の部分が冷蔵庫の扉のポケットの何かにひっかかっていたようです。
落ちたはずみで、
ビニール袋から黒やかなカレイがニュッと飛び出してきました。
久しぶりに絶叫しました。

 

生きた魚を触った事がない私。
どうしたら良いかあたふたしていると、
母親がやってきました。
事の次第を説明すると、「まあまあ」と言いながら、
さっさとカレイをつかみ、
「よしよし」と言いながら水洗い。
皿にのせてラップをして冷蔵庫に入れてしまいました。
久しぶりに親を尊敬しました。

 

【食べ物は生き物】

 

思い出したのが、
昨年亡くなられたS先生のご法話のたとえ話。

 

親子3代魚釣りの同級生がタコを釣って
S先生のお寺に持ってこられました。
受け取った奥さんは気にせず冷蔵庫に入れました。
次の朝。
奥さんが冷蔵庫を開けようとするとあきません。
何か引っかかってるようなので、
力一杯、扉を引っ張りました。
するとそこには大きなタコがへばりついていたそうです。
目の前の大ダコに、奥さんは絶叫されたそうです。

 

……

 

冷蔵庫を開けます。
ハムや卵、刺身や佃煮……。
動きませんが、
「食べ物は生き物」です。

 

【一粒の涙】

 

「お魚」     金子みすゞ

 

  海の魚はかわいそう。

 

  お米は人につくられる、
  牛は牧場でかわれてる、
  こいもお池でふをもらう。

 

  けれども海のお魚は
  なんにも世話にならないし
  いたずら一つしないのに
  こうしてわたしに食べられる。

 

  ほんとに魚はかわいそう。

 

私たちは食べずには生きていけません。
それは言いかえると、私のいのちは、
他の生き物のいのちの犠牲の上でなりたっています。

 

金子みすゞの「お魚」や「大漁」はその事をうたっています。
生きているのではなく、生かされている自分に気づかされます。

 

谷川俊太郎さんにも魚の詩があります。

 

黄金の魚

 

  おおきなさかなはおおきなくちで
  ちゅうくらいのさかなをたべ
  ちゅうくらいのさかなは
  ちいさなさかなをたべ
  ちいさなさかなは
  もっとちいさな
  さかなをたべ
  いのちはいのちをいけにえとして
  ひかりかがやく
  しあわせはふしあわせをやしないとして
  はなひらく
  どんなよろこびのふかいうみにも
  ひとつぶのなみだが
  とけていないということはない
     (『クレーの絵本』より)

 

合唱部だった大学時代、
三善晃の合唱組曲『クレーの絵本』で知りました。

 

私の毎日を生きる喜びにも、
目に見えない涙が溶けています。

 

【おかげさま】

 

多くのいのちとみなさまのおかげにより
このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び
ありがたくいただきます

 

浄土真宗本願寺派の「食前の言葉」です。

 

今日を生きるエネルギーをいただく目の前の食事は、
多くのいのちの上に、
そしてたくさんの方々のご縁によって整いました。

 

その事を「忘れず」にいただきます。

 

けれどももう一つ。
浄土真宗は「忘れられていない」事を忘れないのです。
すなわち阿弥陀さまが私を忘れておられない事。

 

直接でないにしろ、私が食事をするという事は、
殺生の行為なくして成立しません。
そんな罪業の私を救いの相手と決して忘れない仏さまが、
阿弥陀如来というご本願をたてた仏さま。

 

自業自得の道理で、無間地獄に落ちゆく私を、
忘れず離さず、功徳を南无阿弥陀仏の名号にこめてふりむけておられます。
それも何よりの「おかげさま」です。

 

食事をご縁に仏縁をいただきます。
食欲の秋がやってきました。
毎日、多くのいのちをいただき、
多くの方々に感謝しつつ、
大きな仏恩を味わう事です。

 

(おわり)


 

 
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