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過去の法話

 

浄土の印象(10月上旬)

水仙

※10月3日の弘中隆兼470回忌を偲び

 

【千鳥ヶ淵】

 

先月9月18日、第44回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要でした。
「全」とあるように、第2次世界大戦を始め、
歴史上起こった全ての戦争犠牲者を追悼する法要です。
私の14代前の先祖も今から469年前、
厳島の合戦で亡くなりました。

 

法要に先立ち、作文の朗読がありました。
高校生の角谷美玖さん。
タイトルは「言葉の意味を変えてしまった戦争」でした。

 

「戦わなければ殺されたんだ。」
戦争の話をしたがらなかった曾祖父が、
母にたった一度だけ苦しそうに言った言葉。
開けてはいけない記憶の扉を開けてしまった罪悪感を母は今でも思い出すと言った。
戦争が終わり、何十年も経っているのに、
乗り越えることができないほどの苦しみを、
曾祖父は独りずっと抱えて生きてきたのだと思うと心が痛くなった。

 

戦争の辛さをいやという程味わったその方は、
太刀魚が大嫌いになったそうです。
武器を連想させ記憶がよみがえるからです。

 

その話を聞いて、ふと先日テレビでウクライナの今を取材した報道番組を思い出した。
テーマは「言葉」だ。
長引くロシアとの戦争が、ウクライナの人々の言葉を変えていっているという内容だった。

 

例えば、ある人はお風呂が以前はリラックスできる場所だったのに、
今は爆撃から身を守る場所となり、
ある人は、かつて恋人と聞いていた庭先に落ちるりんんごの音が、
ミサイルの音を連想させるようになったそうだ。
大切な思い出や自分の中のイメージが、戦争と結びつき、その言葉の意味を、記憶を変化させてしまっていたのだ。

 

言葉の意味を変えてしまう戦争、
興味深くYoutubeで聞かせてもらいました。

 

朗読の後、平和の鐘をつきました。
多くの浄土真宗本願寺派のお寺で鐘が鳴ります。

 

「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」

 

平和への思い、仏法の興隆を願います。

 

【浄土の意味】

 

話は変わります。

 

9月の下旬頃、
多くの浄土真宗本願寺派のお寺で
お彼岸の法要が営まれます。
法要でお説教を聞きます。
集まった方々とお浄土の話をご講師よりお聴聞します。

 

戦争とは逆の意味で、言葉の意味が変えなされる法座です。
すなわち、世間で聞く仏教の言葉。
お聴聞を通して、その本来の意味を知り、
その深い味わいにであい、印象が変わるのです。

 

たとえば「浄土」。
「お浄土? 死んだ先の話でしょう?
よく分からないけれど、あれば良いですね。でも本当にあるのかな?
信じれたら楽だろうけれど。」
世間はそんな印象でしょうか。

 

「浄土」は物理の言葉ではなく、仏理の言葉です。
私の人生の苦悩を救うべく、仏の道理にもとづき語られた言葉です。

 

そして浄土真宗の浄土は西方浄土の阿弥陀仏の世界を指します。
その仏の心を聞く時、
浄土は私の向かうべき目的となります。
私を浄土に向かわしめる仏の真心に気づくからです。

 

【代名詞】

 

甲子園は兵庫県西宮市の地名です。
そして高校野球が行われる甲子園球場の所在地です。
名前の由来は野球場が完成した大正13年(1924)が、
甲子(きのえね)の年であったことによるそうです。
今年は誕生100年。

 

毎年熱戦がくりひろげられる高校野球。
いつしか「甲子園」といえば「春の甲子園」「夏の甲子園」というように、
全国高校野球大会の総称となります。

 

そして「甲子園」は野球の枠をこえます。
商い甲子園、囲碁甲子園、吹奏楽甲子園、まんが甲子園……。
高校生のさまざまな大会、
何かを一生懸命めざすコンクールには「甲子園」がつくようになりました。
(一部、高校生でない場合もありますが)。

 

甲子園は地名です。
野球場があり、野球をする所です。
けれども現在は「高校生の青春の代名詞」といった印象です。

 

お浄土は「お彼岸」、迷いのこの世(此岸)をこえた場所です。
この世とは違うという意味では「あの世」かもしれません。
ただ同じ「あの世」でも、地獄や天国といった六道輪廻とは一線を画します。

 

そして浄土真宗にとって、
「お浄土」は「浄土真宗」の「浄土」、浄土門の浄土です。
阿弥陀仏の他力の法を指します。
言いかえれば、「如来の大悲の代名詞」です。
命終って到る世界ですが、
「むなしく命を終わらせない」と誓い、
今ここに到って私を抱え導く、阿弥陀という名の仏さまの活動領域です。

 

【易往而無人】

 

「浄土を甲子園にたとえるのはおかしい。
浄土はどんな者もいける場所。
甲子園は自力で勝った者しかいけない。」

 

ご意見ごもっともです。
甲子園に行く人はまれでしょう。
浄土もまれです。

 

お経には「易往而無人([浄土は]往き易くして人なし)とあります。
浄土は誰でも往けるけれど、生まれることが難しいのです。

 

親鸞聖人は次のようにお示しです。

「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、
人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
しかれば源信和尚は、
「報土に生るる人はおほからず、化土に生るる人はすくなからず」(往生要集・下意)
とのたまへり。
(『尊号真像銘文』。註釈版647頁)

自力修行の者、他力の信心、真実信心を得ていない人には到達できない世界が浄土です。

「無人」といふはひとなしといふ、

そんな参れる事が極めてまれな場所に参る得がたいご縁。
それがこの度のお念仏のご縁、阿弥陀さまと共に歩む人生です。

 

【すえとおった道】

 

現在、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻?から2年半過ぎました。
イスラエルとパレスチナの問題も泥沼になっています。
他にもたくさんの紛争がおこっています。
毎日が戦没者追悼の日ともいえる現在です。

 

しかし申し訳ありません。
毎日追悼法要はできません。
今地球上で苦しんでいる人々がおられると想像しつつ、
その事に思いを馳せる余裕jはありません。
ならばせめて、
お念仏の道は絶やすべきではない、
そんな事を思うこの頃です。

 

それに関連し、
最後に『歎異抄』の第4条を引用します。

 

(4)
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

 

(現代語訳)
(4)
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
このように聖人は仰せになりました。
(参照:山寺HP


 

 
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