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過去の法話

 

称えあれば憂いなし(11月下旬)

水仙

 

なもあみだぶつ となえれば♪
うれいのこころ 波にきえ♪
【仏教讃歌『念仏』(作詞/山本有希子 作曲/森琢磨)より】
こちらで大変上手い歌が聴けます。

 

【防災セミナー】

 

今月16日、専徳寺では防災セミナー「炊き出し訓練」を行いました。
参加者は16名。
「鯖トマトカレー」を作りました。

 

ハイゼックスという高密度のポリエチレン袋を使った「真空調理法」で米を炊き、カレーを煮込みました。
鍋を汚さない簡単な調理法でした。

伝道掲示板

伝道掲示板
食べると美味しいですが、やはり独特の味がします。
能登などの被災地の苦労が少し分かりました。

 

炊き出し訓練の後、ホットタオルの作り方、
タオルケットと洗濯ばさみで即席の衣服を身につける方法、
新聞でスリッパの作り方など教わりました。

 

最後に行ったのは防災リュックのチェック。
参考として、講師の白田さんが自分の防災リュックを見せてくれました。
小さなリュックからいろいろ出てきます。

携帯トイレ、水(ローリングストック。2週間で交換)、
貴重品、救急グッズ、薬、下着、懐中電灯、
トイレットペーパー、軍手、洗面用具、
タオル、防寒具、ホイッスル、文房具等々。

誰かが言いました。
「災害時は白田さんの所に逃げよう。」
講師はにこやかに、
「自分の身は自分で守りましょう」

 

【自分の身は自分で】

 

「自分の身は自分で守る」
防災セミナーは法座の次の日でしたが、大変役に立ちました。
いつやってくるか分からない災害です。

 

仏事も同様です。

 

「自分の事は自分で聴く」
他人ではなく私の生死の問題です。

 

決して「死に帰す」「無に帰す」ではすまされない自分の話。
巨大地震にいつ遭遇するか分かりませんが、
人生最後はいつか必ずやってきます。
地震よりも驚愕すべき瞬間です。

 

自分の問題は家族が法座に聴聞してもダメです。
自分が直接聴聞しましょう。

 

【備えるための仏事?】

 

防災セミナーでもう一つ感じたのは、
「備えあれば憂いなし」
災害を少し実感しつつ、また安心もしました。

 

仏事も同様……とは少し違います。
昔聞いたHさんのお説教を思い出しました。

Hさんがかつて子どもの頃、
お寺にお参りしたお婆ちゃんから次のように言われたそうです。

 

「ようお参りしたね。あんたもお寺でしっかりお聴聞するんよ。」
「なんで?」
「今聞いておいたら、いざという時安心なんよ。」
「そうか、“備えあれば憂いなし”、いざという時の安心のためにお聴聞するのだな」と思ったHさん。
その後Hさんは龍谷大学の真宗学科に入学します。
そして面接時、教官に、
「浄土真宗は、死んでも必ずお浄土に参れる『いざという時安心』な教えです」と言うと、
面接官の先生は、
「きみ、それは浄土真宗じゃないよ」と言われたそうです。

浄土真宗はお念仏一つです。
そしていのち終ってお浄土へ参る教えです。
けれどもいつかやってくる「死」の準備、
災害対策のようなもののために念仏したりお聴聞するのではありません。
今聞いて今救われる教えです。

 

今常に、老い、病み、死に行く私です。
その今を離さぬ仏さまが南無阿弥陀仏のみ名となって私といてくださる、
それが親鸞聖人の味わった浄土真宗という仏さまのお話です。

 

法座で聴聞するのは、
「将来のために善徳をそなえておきましょう、そうすれば安心です」ではないのです。
もしそうなら大変分かりやすいのでしょうが、
けっしてそうはならない人間の業をみつめた親鸞聖人。
そしてそのように自らを見つめるきっかけは、
他ならぬ仏さまの眼差しにであったからでした。
決して離さぬ仏さまの前だったからこそ、
自らの赤裸々な事情をさらけ出せたのでした。

 

お念仏は「備える」ためではなく、「ご恩報謝」です。
自らのはからいをまじえず、ただ「称える」ものです。

 

今私にはたらく仏さまへのお礼の活動です。
その報謝の活動は、
お念仏に始まり、家庭生活、社会活動に一貫すます。
かけがえのないご恩、
かけがえのないいのち、
かかがえのない未来をいただいた私の活動に制限はありません。
各々のご縁でいくらでもできるのです。

 

【備えるのではなく称える】

 

いつか「死」はやってきます。
その事をいやが上にも知るのが葬儀です。

 

葬儀で大切な人と別れ涙を流します。
そこで「また会いましょう」と約束する私。
気づけば普段は決して思わない事を考えています。
故人との再会の約束を通して、
自らの死を受けとめ、
「どうすれば故人と会えるのか。死んだだけで会えるのか?」
再会ための手立てや道を、おぼろげながら思うのです。

 

それは大切な仏縁です。
宗教や仏教への入り口です。
故人を偲ぶ法事の第一歩です。

 

けれどもそこからさらに二歩、三歩とすすみます。
「結局何もできない」「本当に会えるのか?」とあきらめるのではなく、
何もできない私と見抜いたが故の大悲の誓願を聞きます。
聞いて思い直し、わが身を見つめ直し、
そしてお念仏を言い直します。
「今すでに、私は故人との再会する道を歩んでいました。」
「煩悩具わる私でしたが、もうすでにお救いの光の中でした。」
そうご恩報謝のお念仏を称えるのです。

 

自分の事は自分で聞きます。
そして、南無阿弥陀仏。
「称えれば憂いなし」です。

 

(おわり)


 

 
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