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過去の法話

 

死ぬ時は一緒(12月上旬)

水仙

【死ぬ時は別々】

 

落語「粗忽長屋」にこんな場面があります。

 

行き倒れの人を見たハチ公が、
「あっ! やっ!」
「どうしました!」
「熊の野郎だ!」
「『熊の野郎だ』なんて言う所をみると、あなたこの人知ってる。」
「知ってるなんてそんな生易しいもんじゃない。
隣に住んでるんですよ。
兄弟同様に付き合ってんだ。
普段からね、『生まれた時は別々でも、死ぬ時は別々だ』って仲だ。」
「……当たり前だろ。」
「当たり前の仲だよ! 悪いか!」

 

この「生まれた時は別々でも、死ぬ時は別々だ」という台詞が面白いのは、
前提に「生まれた時は別々でも、死ぬ時は一緒」という言葉があるからです。
昔の芝居で、別れを拒んだ若いカップルがいう台詞だったのでしょう。
現在は任侠映画やマンガでかろうじて残っています。

 

「死ぬ時は一緒」とはなかなかいきません。
ですから「死んだ後は一緒のお墓に」と。
仲睦まじい夫婦を「偕老同穴」(かいろうどうけつ)というそうです。
意味は「一緒に老いて、最後は同じお墓に」と。
……最近は違うお墓を希望する夫婦が多いようですが。

 

【四人の妻】

 

夫婦の別れで思い出すのが、
四種の妻」というお釈迦さまの譬え話です(『雜阿含経』(大正蔵2巻, no.101))。

 

ある一人の夫が四人の妻と住んでいました。

 

一番目の妻を夫は最も大事にしていました。
いつでもどこでも一緒でした。
お風呂、お洒落、食事、娯楽。
いつも気を配り、欲しいものを与えました。

 

二番目の妻は、普段の生活や人と会話をする際、
夫はいつも側にいることを望みました。
彼女がいれば嬉しく、いないと悲しくなりました。

 

三番目の妻は、時々、一緒でした。
お互い気遣いはするものの、苦楽をそれほど共にする事はなく、
相手が苦しんでいる時、一緒になって悲しみ患う事もありましたが、
お互い適度な距離を置き、ときおり互いを思う関係でした。

 

四番目の妻に、夫は用事ばかり言いつけていました。
辛い仕事ばかり日々させられ、
けれども夫は気遣ったり、言葉をかける事はせず無関心でした。

 

【ついて来たのは】

 

そんなある日、夫は死出の旅路に向かうことになりました。

 

そこで一番目の奥さんに「私と一緒に行こう」というと、
「私はあなたに随えません。」
「俺はお前をこれ以上なく愛したよ。
 いつでもお前の希望を叶えたし、お前を養い護り続けたよ。」
「あなたは私を愛したでしょうが、私は無理なんです。」

 

悔しくて二番目の妻に「一緒に行こう」というと、
「一番大事にされたあの人が無理なのです。私もできません。」
「私はお前を手に入れる為に、どれほど苦労したか。
 寒さにふるえ仕事し、ひもじい思いをしながら、
 人と争ってまでして、ようやくお前を手に入れたんだ。」
「それはあなたの欲望の強さで、私はあなたを求めていません。
 どうしてそんな苦労をお語りになるのですか。」

 

悔しくて三番目の妻に「私と一緒にいこう」というと、
「私はあなたからご恩を受けました。
 ですからあなたを送って城外まではついて行きます。
 でもそれ以上、あなたが行く遠い場所まではいけません。」

 

男は悔しくて三人から去り、
戻って四番目の妻に相談した。
「私はこの世界から離れる。……私と一緒に行くのか?」
「私はもとより父母と離れ、ずっとあなたの言いつけを行って生きてきました。
 死ぬも生きるも、苦も楽も、あなたと一緒です。」

 

こうして夫は、
心にかなう大切にしてきた三人の妻に捨てられ、
悔しい思いばかり残り、
四番目の妻だけが一緒に行くことになったのでした。

 

以上、「四人の妻」というたとえです。
最後まで一緒に来てくれるという人こそ大切にしたいですね。
さてこの夫と四人の妻、
それぞれ何を表しているのでしょうか?

 

【こころ】

 

一人の男とは「人のこころにある思い」です。
「〜したい(と思う)」、「〜は嫌いだ(と思う)」と思っている「私」です。

 

一番目の最も大切にしてきた妻は「我が身」です。

 

二番目の苦労して手に入れた妻は「財産」。

 

三番目の妻は、所謂「家族・友人」です。

 

三人の妻は「死ぬ時は一緒」ではありませんでした。
「家族」に関しても経典には、
「臨終に声を上げて泣き、埋葬する場所まで送るが、
そこで死体を棄て、各自、帰宅する。
憂いの思いは十日を過ぎない。
残ったお互いで飲食するうちに、死者の事を忘れる」
とあります。
手厳しいですが、否定できません。

 

四番目は「こころそのもの」です。
愚痴まみれの汚れ仕事ばかりさせています。
貪りや怒りでによって、
いつも好き勝手に「好きだ」「嫌いだ」とはたらかされています。
正しい道を信じることもせず、
よって自業自得の道理にのっとり、
悪道である地獄や餓鬼や畜生の世界へ堕すというのです。
そんな汚れきった心だけは、
「死ぬ時は一緒」についてきてくれます。

 

【弥陀ごころ】

 

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。
されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。
(蓮如上人『御文章』1帖目11通)

 

阿弥陀さまの本願は、
そんな四人の妻(身体・財産・家族・業)との夫婦関係の私に向って誓われました。
たった一人、自らの業を抱えて行かんとする私に、
「私も一緒です」と喚ばれるお念仏です。

 

病気に気づかない私。
自覚症状のない私です。
四番目の奥さん「心」に、毎日々々嫌な仕事、罪作りをさせています。
煩悩に歯止めがかからない私。
そんな私でしたと、気づかされる弥陀の喚び声「南無阿弥陀仏」です。

 

  「詮無い」と 思えば憶え 弥陀の慈悲 愚痴を払えば 心喜ぶ

 

我が身の自業自得ではなく、
阿弥陀さまの自業自得の道理に導かれます。
お念仏の道理は、浄土へ間違いなく往生するというものでした。
無量のいのちと遭遇する世界、
さとりの智慧をいただく光明の世界です。

 

今生辛い思いばかりさせた四番目の奥さんに、
最後は一番のプレゼントを。

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 
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