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過去の法話

 

指の仏(9月下旬)

水仙

【同体の大悲】

 

浄土真宗の聖典『仏説無量寿経』には、

「如来 無蓋(むがい)の大悲をもって三界(さんがい)を矜哀(こうあい)したまふ。」

とあります。
「無蓋(むがい)」とは「蓋(ふた)がない」ということ。
「無尽」と同じで、限界がない、「この上ない」という意味です。

 

仏さまはこの上ないお慈悲の心をもって、
「三界(さんがい:欲界、色界、無色界)」という迷いの世界に生きる者、
すなわち私を哀れみ悲しまれます。

 

どのように哀れんでおられるか。
私の苦しみを自身の苦しみと同心・同調されています。
「同体の大悲(※1)」ともいいます。
私と一心同体の仏さま。
私の痛みをわが痛みと受けとめ哀れんでおられます。

 

【八十とみすゞ】

 

先月の8月12日は詩人であり作詞家、
西条八十の50回忌でした。

 

戦後大ヒットした「青い山脈」、また村田英雄の「王将」、
またジョー山中「人間の証明」の原詩「帽子」等々、
たくさんの有名な曲があります。

 

また大正時代の童謡運動の中心人物でした。
「かなりや」「肩たたき」等、童謡もたくさん作り、
北原白秋、野口雨情と並ぶ、三大童謡詩人の一人でした(※2)。

 

同時に八十は、多くの新人を育てました。
その中の一人が金子みすゞ(本名:金子テル)です。

 

大正12年6月、当時20歳のみすゞは、
選者が八十(31歳)である『童謡』等へ初めて自らの詩を投稿します。
9月、有名な「お魚」を投稿。

 

「お魚」

 

海の魚はかわいそう。

 

お米は人につくられる、
牛は牧場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう。

 

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。

 

ほんとに魚はかわいそう。

 

私の下手な法話より、よっぽどズシンとこたえます。

 

八十もダイヤの原石を見つけたとばかりに、
みすゞを絶賛します。
「この感じはちょうどあの英国のクリスティナ・ロゼッタ女史のそれと同じだ」
以降、何度もみすゞの作品は『童謡』に選ばれ、
その度に、八十はみすゞを評価しました。

 

「今度も金子氏の作がいちばん異彩を放っていた。
……氏には童謡作家の素質として最も貴いイマジネーションの飛躍がある。
この点はほかの人々の一寸模し難いところである。」
(『童話』大正13.1(復刻版))

 

「金子みすゞ氏も今月は例によって光った作品を多数寄せられた。
中でも「大漁」以下の推薦作は私の愛誦措かないものである。」
(『童話』大正13.3(復刻版))

 

そんな八十の励ましに、金子みすゞはますます詩を書き続けます。
昭和5年3月10日に亡くなるまでに、512編の詩を書き残しました。
金子みすゞという詩人の生みの親、もしくは育ての親、
それが西条八十です(※3)。

 

【指の仏】

 

「怪我」 西条八十

 

ふいても ふいても 血が滲む
泣いても 泣いても まだ痛む
ひとりで怪我した くすり指

 

ほかの指まで 蒼白めて(あおざめて)
心配そうに のぞいてる
 ―「赤い鳥」大9・4(岩波文庫『日本童謡集』47頁)(大正9.4.1「赤い鳥」。作曲・中田喜直。中田の童謡第一作。)

 

八十の初期の作品です。
怪我したのは薬指ですが、
他の怪我をしてない四本指まで青ざめていることを、
ユーモラスに詩っています。

 

「痛いだろうな」どころではありません。
だって同じ手の指同士です。
自分が怪我したのと同じです。

 

そんな指の関係のように、
私と一心同体となってくださるのが仏さまです。

 

「さびしいとき」 金子みすゞ

 

私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。

 

仏さまの心は、私の心と同じ言葉、同心でした。
一切の壁をなくし、私の心に飛び込んでくださいます。
同じ立場で涙し、憐れみむ仏さまは、
私の悲しみを一大事、
最も優先すべき解決事項とされます。

 

【回向】

 

故に「必ず助ける」と誓われた如来(法蔵菩薩)の行動は、
兆載永劫という果てしない時間をかけて積み重ね、
ついに完成した功徳を全部、
自らの名、「南無阿弥陀仏」の六字にこめて、
私に施し与えるものでした。
これを「回向(えこう)」とか「他力の回向」といいます。
私はいただくばかりです。
いただいたら私のものです。

 

「自分のもの」  西条八十

 

わたしのだいじな このお人形も
あなたにあげれば あなたのものよ。

 

あなたの好きな  その簪(かんざし)も
わたしに呉れれば わたしのものよ。

 

いままで自分の  ものだったのに
ちょいとわたせば むこうのものよ。

 

おもへばほんとに ふしぎだけれど、
自分のものとは  いえないものよ。

 

みすゞの自選詩集『ロウカン集』にもある八十の詩です。

 

本当に不思議な事で、勿体ない事ですが、
この度、阿弥陀さまの最も大事なものをいただきました。
南無阿弥陀仏のお六字、阿弥陀さまの功徳の全体です。
そして私の側なので、名前がかわります。
それを「信心」とか「他力の信心」と言います。

 

洗脳や催眠、または思い込みは、
いずれとけてしまいます。
けれども他力の信心は違います。
私と一心同体の大悲の仏さまが、
私に入り満ちた心です。
中身は「如来と等し」いが故、
決して揺れ動きません。

 

苦しみ悩みの止めどない人生。
だからこそ、仏さまがおられます。
薬指をみつめる親指のように。

 

(おわり)

 

※1:「しかれば諸の衆生は即ち是れ我身なり。
衆生と我と等しく差別なし。
この大菩薩かくの如き同体の大悲、無礙の願を発起しおわりて……」
(『大乗本生心地観経』4巻(『大正蔵』3巻311c16-19)

 

※2:他にも西条八十の童謡をいくつか紹介します。

 

  喧嘩をやめさせる歌
喧嘩をするのはどこの子だ、
喧嘩をするのはやめにして
そろってらうかをごらんなさい。

 

ふたりが喧嘩をしてるまも、
かべのうへには青と白、
帽子は仲よくならんでる。

 

喧嘩をするのはどこの子だ、
喧嘩をするのはやめにして
そろってお庭をごらんなさい。

 

ふたりが喧嘩をしてるまも、
石の上には赤と黒、
おくつは仲よくならんでる。

 

 

  桃太郎と桃次郎
どんぶらこつこ どんぶらこ
どんぶら 流れる桃の実は
やさしいお婆さんにひろはれて
それから生まれた桃太郎

 

どんぶらこつこ どんぶらこ
そのつぎ浮いた桃の実の
なかに居たのが桃次郎
桃太郎の弟の桃次郎

 

桃太郎はひろはれて
日本の子供になりました
けれど 誰にもひろはれず
流れていった桃次郎

 

川から海へ どんぶらこ
兄さんと別れて ただひとり
どこで大きくなつたやら
誰(だアれ)も知らない桃次郎

 

  かあさん と わたし
はな の 中 には はち が ゐる。
川 の 中 には うを が ゐる。
もり の 中 には とり が ゐる。
うち の おへやには かあさん が、
そして かあさん の おひざ には 
いつ も わたし が だかれて る。

 

  ことば
やさしい ことば
よいことば には
きぬのきものを きせてやろ。
「ありがたう」
「おはやう」
「ごきげんやう」
そしてあそびに つれていこ。
わるい ことばや
いやなことば には
ぼろのきものを きせてやろ。
「いやだい」
「おくれな」
「おぼえてろ」
そしておやまへ すてにいこ。

 

 

  ホシ ト タンポポ
アッチ ノ ハウ ヘモ フウ フウ フウ、
コッチ ノ ハウ ヘモ フウ フウ フウ。

 

フイテ フカレテ タンポポ ノ
シロイ ワタゲ ハ ドコ ヘ ユク。

 

テン ヘ ノボッテ ホシ ト ナル、
ユフグレ コドモ ガ カヘル コロ。

 

アッチ ノ ハウ デモ ピイカ ピカ、
コッチ ノ ハウ デモ ピイカ ピカ。

 

 

  学者とさくらんぼ
フランスの大科学者で
いまは白髪のパスツール、
ブールゴーニユの別荘で
ある日、可愛い孫たちを
あつえて夕餐(ゆうげ)をとつてゐた。

 

たのしい夕餐の済んだあと
玻璃(がらす)の鉢に盛られたは
色うつくしい桜桃(さくらんぼ)、
大好物と孫たちは
小さい手に手につかみとり
直ぐにむしやむしや食べだした。

 

けれど主人(あるじ)のパスツール、
自分ひとりは、ひとつひとつ、
その桜桃をつまみだし、
コップの水であらつては
艶の出るほど叮嚀(ていねい)に
布巾で拭いて喰べてゐた。

 

孫の一人がそのわけを
小首かしげて訊いたとき、
威儀を正してパスツールは、
この桜桃はきれいだが
これには見えぬ黴菌(ばいきん)が
幾百千とついてゐる。

 

その証拠をば見せようと、
実験室から持ち出した
ぴかぴか光る顕微鏡、
孫にいちいちのぞかせて
眼には見えない黴菌の
その恐さをば講義した。

 

フランス一の科学者の
長い、こまかいお講義に
眼をまるくして孫たちは
残らず感心し切つたが、
さてその後で気がつくと
みんなはも一度驚いた。

 

あんまり長いお講義で
すつかり喉がかわいたが、
われを忘れたパスツール、
汗を拭きふき右の手で
コップを口にあててゐた
桜桃の黴菌を
さんざ洗つたその水を
グビリグビリと飲んでゐた。

 

 

※3:昭和2年夏、下関駅で八十とみすゞは初めて出会いました。

 

その日、下関駅の構内に八十は降りたったがそれらしい影はなかった。捜しまわって「やうやくそこの仄暗い一隅に、人目を憚るやうに佇んでゐる彼女を見出した」が、彼女は「二歳ばかりの赤児を背負つ」ていた。「いかにも若くて世の中の苦労にやつれたといつたような、商人(あきんど)の妻らしい人でした。」「しかし、彼女の容貌は端麗で、その眼は黒曜石のやうに深く輝いてゐた。」そして「『先生にお会ひしたさに、歩いて山を越してまゐりました。』と、さもなつかしさうに言って睫毛に涙の粒を宿らせました。」
「手紙ではかなり雄弁で、いつも『先生が読んで下さっても下さらなくともよいのです。私は独言のやうに思ふままをここに書きます』と冒頭して、十枚に近い消息を記すのをつねとした彼女は、逢っては寡黙で、ただその輝く瞳のみがものを言つた。おそらく私はあの時彼女と言葉を換した時間よりも、その背の嬰児の愛らしい頭を撫でてゐた時間の方が多かつたであろう。
 かくて私たちは何事も語る暇もなく相別れた。連絡船に乗りうつる時、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振つてゐたが、間もなく姿は混雑の中に消え去つた。」「汽車から連絡船へと乗り移るわづか五分間、それきり、私たちは永久に逢へずにしまひました。」
(※1 筒井清忠『西条八十』pp.126-127。)


 

 
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