鈴のある家(4月下旬)
【琴にあるもの】
Oさんの家にお参りにいきました。
お勤めの後、お茶をいただいていると、
「実は、一年前に前住職がお参りされて、
その帰り際にこう言われたのです。
『Oさん、三味線にはなくて、琴にはあるものは何か分かりますか?』
『わかりません。」
『それはね、悪い事(琴)。』
そう言って笑顔で帰られたのです。
うちには見ての通り、琴があります。
それを見て言われたのでしょう。
でもなぜそんな……嫌な事を。
前住職さんに悪気はないように見えたのですが、
『楽しい事(琴)、面白い事(琴)』ではなく、
なぜ『悪い事(琴)』とおっしゃったのか。
琴のある私の家は不幸な事がおこるというのでしょうか。
一年間考えたのですが、分からないんです。」
「すいません、私も分かりませんので本人に聞いてみます。」
家に戻って前住職にたずねました。
「……というわけでOさんはこの一年、悶々としていたそうですよ。」
「いや、それは悪かった。
でもそれは誤解です。
自分は冗談を言ったつもりだったのだ。」
何といったのかというと、
Oさんの家に琴があるのを見て、
「Oさん、『三味線のない家はあっても、琴のない家はない』そうですよ。」
「どういう意味ですか?」
「それはね、もめ事(琴)。」
傍からみれば何もない様子みえても、
どの家庭にも様々な他人にはいえない事情があります。
大なり小なりもめ事・悩み事の類いがあるという意味です。
おそらく前住職はOさんの悩みを聴いて、
「悩みのない家なんてないですよ。」
そんな励ましの意味でその事を言ったのでしょう。
ところが、
「三味線のない家はあっても琴(事)のない家はない」を、
「三味線にはなくて、琴にはあるもの。それは悪い事」と、
聞き間違えられたのです。
うまく伝わっていませんでした。
【聞く教え】
4月15日は「立教開宗記念日」です。
浄土真宗の教えがあらわされ、宗派が開かれたことを記念する日です。
……「み教えのないお寺」もあります。
某作家いわく、良くも悪く「アクシデントでありユーモラス」な日本の仏教です。
浄土真宗は絶対他力の教えです。
阿弥陀様の一人ばたらきを説かれた親鸞聖人であり、
それをできるかぎり論理的に示された親鸞聖人の著『教行信証』です。
そこで大切になるのが「お聴聞」です。
他力の教えは「お念仏一つ」とも「信心一つ」とも、
そして「聞く一つ」ともいえます。
教えを聞いて行動する以前に、
教えを正しく聞く(信心をいただく)事が肝要です。
逆にいえばこの教え、
よく聞き間違えるのです。
「浄土真宗は不真面目だ。
『どのような生き方をすべきか』なんて説かず、
冗談や笑い話が多い。」
法話は落語とは違います。
布教使は不真面目に冗談や笑い話をしているのではありません。
真剣に他力の法義を伝えようとしています。
「何もしなくて良いとは、何といい加減な教えか」ではなく、
「何もかもご用意とは、何と勿体ない事か。(仏さまに)ご苦労かけました。」と。
「何としても救う」と誓われた仏さまの本心に心がうたれるのです。
【学びのある人生】
教えを聞く事を大切にする浄土真宗です。
ただ「教え」と聞くと「教育」「学校」と連想し、堅苦しいイメージを持つ人もいるようです。
「ちゃんと話を聞きなさい!」
「聞かないのなら、聞くまで話し続けるぞ!授業をやめないぞ!」
そんな厳しかった先生の辛い授業。
しかしそんなむごい事は法座にありません。
時間になったら終わります。
覚えなければ救われない話ではないのです。
お聴聞は、信心をいただき、如来のお慈悲にひたるばかり。
それが浄土真宗の「学び」です。
そしてお念仏するばかりです。
明日死んでおかしくない私が、今、
如来の永遠の光の中に包まれています。
もめ事・悩み事たえない私、
様々な事情をかかえた私たちです。
平穏無事とはいきません。
事をご縁に、如来の理(ことわり)にであいます。
そして、無事ではなく「大事(だいじ)」と聞きます。
「後生の一大事」を聞き、
如来のおおせをそのお心通りに聞く時、
今日も如来さまとの「一番大事な今生の一日」となります。
「『三味線のない家はあっても琴(事)のない家はない』。
わが家にも琴があります。
たくさんの悩み事があります。
ただわが家には鈴(りん)もあります。
お仏壇にある鈴(りん)です。
今日もお仏壇で鈴を打ち、お勤めし、お念仏し、お礼をします。
無事とはいえない人生ですが、
お慈悲と共にある大事な人生です。」
当たり前、
そう言うには勿体ないほどの現実が、
お念仏を通して知らされます。
学びの多い人生は豊かです。
浄土真宗に立教開宗があったこと、
学ぶべき尊い教え(如来のひとりばたらき)があった事を喜ばせていただく4月15日です。
(おわり)