誠実さ(11月上旬)

【間違いさがし】
突然ですが問題です。
下の文章は、浄土真宗で大切にしている「領解文」です。
み教えの受け取り方をあらわしています。
まずは声に出して読んでみてください。
@ もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。
@ たのむ一念のとき、往生一定 御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。
B この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、 次第相承の善知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。
C このうえはさだめおかせらるる御掟、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。
読んでみましたか?
では問題です。
次の文章は「領解文」とよく似ていますが、
間違いが3箇所あります。
全く意味の異なる言葉(熟語)に変わっています。
分かりますか?
@ もろもろの雑行雑修他力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の今生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。
@ たのむ一念のとき、往生一定 御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。
B この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、 次第相承の悪知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。
C このうえはさだめおかせらるる御掟、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。
答えはこの法話の最後にあります。
面白かったでしょうか?
「こんなの簡単すぎる。」
という声が多ければとても嬉しく思います。
では法話を始めます。
【誠実さ】
今年の夏休み、中学2年の次男は「職場体験」に行きました。
行った先は小児科の病院でした。
2日間、様々な体験をさせてもらったそうです。
体験期間中、息子は小児科の先生に質問したそうです。
「先生は仕事中、何を一番大切にしていますか?」
すると先生は、「誠実であること」と答えられました。
たとえば患者の子供に注射をするとき、
泣き叫ぶ子供に「痛くないからね」とは言いません。
ウソは言わずに、
誠実に対応し、病気を治すことによって、
子どもたちとの信頼関係をきずくのだそうです。
僧侶も同じです。
遺族が悲しむ葬儀ですが、
「故人はお浄土にいかれましたよ」といった事は、
安易に言わないようにしています。
なぜならば、
その方がお浄土へまいる因(たね)である「他力の信心」をいただいていたかどうか、
分からないからです。
ただいえるのは一つ。
今、葬儀という仏事のご縁を「私が」いただいている事実です。
私が今、聖典の言葉を通して、
如来さまのおおせを聞かせていただきます。
仏とは真逆の道を歩む、極重悪人の私を、
決して離さない誓う、阿弥陀如来のお慈悲を聞きます。
そんな大切な私の仏縁を、今故人が葬儀を通して結んでくださっています。
【辛い別れだが】
そうはいっても葬儀の現場はつらいものがあります。
誰もが泣きながら棺に花を手向けます。
「何もできなかったか。」
悔恨の情がわきおこってきます。
「故人に何かできることは?」
そんな思いがおこるのも至極もっともです。
ならば、その悲しみをご縁に仏法を聴聞するのが浄土真宗です。
回り道にみえるかもしれませんが、
そこには確かな答えがあります。
安方哲爾氏は、『歎異抄』第五条(※1)のご法話の中で、
このようなお話をされています。
本当のことはわからないが
「生まれてきてすぐに亡くなった我が子はお浄土に参ったのでしょうか」という質問を受けることがあります。これは僧侶として答えられない問題です。というのは僧侶にも本当のことはわかりません。情としては、「どんな方でもお浄土に参った」と言いたいのですが、そうすれば僧侶自身が、「聴聞不要論」を掲げていることにもなりかねます。
この「小児往生」の問題を少し整理させてもらえば、二つの答えがあります。一つはこの『歎異抄』のお言葉です。「あなたのお子さんがお浄土に参られたかどうかは、あなたがお浄土に参ればわかります。もしお浄土で会えなければ(救われていなければ)、仏となったあなたが救ってあげられますよ」というものです。
もう一つの答えは、「あなたのお子さんは、あなたにこの世の無常を知らせて下さるためにこの世に現れてきた菩薩さま、善知識(ぜんぢしき)さまかもしれません」というものです。
しかし、もう一つの考えがあります。それは、「浄土真宗は阿弥陀さまにおまかせする宗教ですから、私の後生も如来さまにおまかせします。私の家族の行く末も阿弥陀さまにおまかせします」というのが本当ではないでしょうか。というのは、如来さまは今生一生だけを問題にしているのではありません。「たとえ今生、縁がなくても、次生では必ず縁を結んでそのものを救うよ」とおっしゃる阿弥陀さまに、家族の後生のこともおまかせをするのが、浄土真宗ではないでしょうか。
(安方哲爾『これなら分かる歎異抄』「第31回 私も家族の後生も阿弥陀さまにおまかせ」、150-151頁)
肉親との別れの痛みは、早く忘れ去りたいかもしれません。
しかし僧侶は、
「大丈夫ですよ。あの方はもうお浄土ですよ」とは言いません。
厳しいですが、その痛みをご縁に、
お寺で一緒にお聴聞いたします。
そして「私が問題だった」と気づかされ、
そして「このお浄土の話は私のためでした」といただきます。
私が命をあずける相手にであう事、
私の領解がきまり、
浄土往生が定まる事、
その事がそのまま、別れの痛みの解決ともなるのです。
【間違い探しの答え】
@ もろもろの雑行雑修他力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の今生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。
@ たのむ一念のとき、往生一定 御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。
B この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、 次第相承の悪知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。
C このうえはさだめおかせらるる御掟、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。
- 他力のこころをふりすてて……仏さまの話を「他人任せ」と聞き間違っている可能性があります。
- 今生の一大事……「死んだ後なんかより阿弥陀さま、今何とかしてください」と思うがあまり、仏さまのお話(願い)が耳に入っていないかもしれません。
- 悪知識……たとえば「仏の話なんてきっと難しいし、怪しいわよ。それより一緒に映画にでも行きましょう」という人。
「一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。
いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。
(現代語訳
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。
というのは、 命のあるものはすべてみな、 これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で、 父母であり兄弟・姉妹であったのです。 この世の命を終え、 浄土に往生してただちに仏となり、 どの人をもみな救わなければならないのです。
念仏が自分の力で努める善でありますなら、 その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、 念仏はそのようなものではありません。
自力にとらわれた心を捨て、 速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、 迷いの世界にさまざまな生を受け、 どのような苦しみの中にあろうとも、 自由自在で不可思議なはたらきにより、 何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
このように聖人は仰せになりました。)
(おわり)
