忘れるもの・忘れないもの(6月上旬)
「忘れ物を、届けにきました。」
(糸井重里氏。映画『となりのトトロ』『蛍の墓』2作同時上映の時のコピー)
【粗忽】
落語にはよくそそっかしい人が出てきて、忘れ物をします。
「粗忽の使者」の主人公・地武太治部右衛門(じぶたじぶえもん)は、
使者の口上を忘れます。
エンマでお尻をつねってようやく思い出しますが、
「思い出した!」
「して、お使者のご口上は?」
「……聞かずに参った。」
「粗忽の釘」(「宿替え」)の主人公の大工さんもそそっかしい。
引っ越しの日、
なんとか荷物を運び終えた大工さんに、
女将さんがほうきを壁にひっかける釘を打ってくれるよう頼みます。
「そんなの朝飯前だ」と釘を打ちますが、
間違って壁に大工用の長い釘を打ってしまいます。
隣家に確かめにいくと案の定、釘が壁をつきやぶって、
しかも隣家の仏壇の中、仏さまの絵像からニュッと。
「どうしてくれるんですか!」
「いや、こいつはどうも不便だ。」
「何が?」
「何がって、これから一々ホウキをかけにここまで来なきゃならない。」
「冗談じゃない!」
……と大概はここで噺が終わる昨今ですが、
この落語、実はもう少しあるそうです。
「しかしあなたもそそっかしい人だ。
そうですか、お隣にこして来たんですか。
それで、どちらか?」
「へえ、堀之内の方から来たんでございます。」
「で、ご家族は何人?」
「あっしとかかあと、それからあっしの親が一人いるんです。お爺さんです。」
「ふーん、お爺さんがいるんだ。」
「いけね! お爺さんを前の家の二階におきっぱなしで来ちゃったよ!
まずいな、すぐに戻らなきゃ。」
「……あなた、そそっかしいのもいい加減にしてくださいよ。親を忘れたんですか?」
「いや〜、親を忘れるどころじゃない。
ちょいと一杯呑むと、我を忘れます。」
このような落ち(サゲ)から、
この演目、本来は「我忘れ」というのだそうです。
くだらないサゲなので、最近は流行らないとか。
【納骨】
落語は笑っていられますが、
現実の「物忘れ」はそうはいきません。
時間の約束を忘れる、聞いた事を忘れる。
「どこに置いたっけ……」
一日中探してしまう事も。
半年前、N家の納骨式に行きました。
当日は現地集合。
到着すると喪主が、
「……お寺さん、お遺骨は?」
葬儀で遺骨をあずかっていた事、すっかり忘れていました。
往復一時間かかって取りに戻りました。
納骨にお遺骨を忘れたら何にもなりません。
【自力忘れ】
覚如上人に『報恩講私記』という書物があります。
そこに親鸞聖人を讃えた言葉で、
「至心信楽おのれを忘れて」
(『報恩講私記』。註釈版1069頁)
至心信楽(ししんしんぎょう)はご本願、
阿弥陀さまの四十八願の中の第18願の言葉です。
親鸞聖人は本願を「至心信楽の願」とも名づけ、
よって正信偈には、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因となす)」と出てきます。
阿弥陀さまの救いにであう事。
それは「おのれを忘れ」ます。
一生懸命、無我夢中になるという事ではなく、
如来の願いを聞いている内に、
自然と、
煩悩に染まった凡夫の計算高いはからいをやめ、
「おのれ」という自力のはからい心を忘れるのです。
ただただ仏恩の深い事をいただき、
報恩のお念仏をもうすばかりです。
酒に酔わなくても、
浄土真宗は「我を忘れて」いるのです。
【お寺参り】
お寺参りが多い昨今です。
「お寺に何を持ってきたら良いでしょうか?」
「お家でいろいろです。特別なものはありません。」
そう答えます。
そしてお参りに来られたKさん家族。
お内陣を荘厳していると、
「すいません、ご院家さん、過去帳忘れました。」
「そうですか、大丈夫ですよ。」
しばらくすると、
「すいません、お供えを準備してたのに忘れました。」
「そうですか、大丈夫ですよ。」
またしばらくして、
「すいません、お念珠忘れちゃいました。」
「分かりました、お貸ししましょう。」
現実はここまででしたが、
ここからは創作です。
「あのー」
「まだ何か。」
「お布施を忘れてしまいました。」
「(苦笑)まあ良いでしょう。
でもいろいろお忘れですが、
それなら一体、何をもって来られたんです?」
「あのー、お念仏はもって来ました。」
「Kさん、お忘れ物はありません!それで充分です!一緒にお念仏いたしましょう!」
住職さん、感動しながらご法事をいたしましたとさ。
……お後がよろしいようで。
【忘れない】
年をとると悲しいかな、物忘れがひどくなります。
名前を忘れていきます。
行った場所を忘れます。
友達を忘れます。
今日が何曜日かも忘れるかもしれません。
でも如来さまのご恩は忘れません。
南无阿弥陀仏の名号は忘れません。
これから行くお浄土は忘れません。
いつでもご一緒の方を忘れません。
今日もお慈悲の一日を忘れません。
それで充分です。
でもそれも忘れるかもしれません。
病気か加齢か事故か。
親さま(仏さま)の事も忘れてただボケーッとしている毎日。
しかし私が忘れても、
決して私を忘れない如来さまでした。
他人はみな自分を忘れさっても、
お忘れにならない如来さまと今二人連れ。
「その事はお忘れなく。」
お念仏申す時、
「となりのトトロ」ならぬ、
私のとなりにいらっしゃる親鸞さまは、
そうささやいておられます。
(おわり)