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過去の法話

 

語呂合わせ(9月上旬)

水仙

【長寿の心得】

 

Yさんの家のお仏壇の上にはこんな言葉が額に入っています。

 

長寿の心得

長寿の心得 人生は山坂多い旅の道

 

還暦 六十才でお迎えの来た時は 只今留守と云へ
古稀 七十才でお迎えの来た時は まだまだ早いと云へ
喜寿 七十七才でお迎えの来た時は せくな老楽 これからよと云へ
傘寿 八十才でお迎えの来た時は なんのまだまだ役に立つと云へ
米寿 八十八才でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云へ
卒寿 九十才でお迎えの来た時は そう急がずともよいと云へ
白寿 九十九才でお迎えの来た時は 頃を見てこちらからボツボツ行くと云へ

 

ご本人にはたずねませんでしたが、
亡くなったお婆ちゃんが好きだったのでしょうか。
数えの89才でご往生でした。

 

面白いのですが、
気になるのは「お迎え」。
いったい誰がお迎えにくるのか?
デイサービス(通所介護)の送迎サービスではなさそうです。
想定しているのは死神でしょうか?

 

最後は、

気はながく 心はまるく 腹たてず 口をつつしめば 命ながらえる

 

気の右下部分は長く、
腹も寝ていて、
命も縦棒がながくなっています。
遊び心のある面白い文です。

 

【祖父の夕事】

 

9月15日は敬老の日。

 

「おばあちゃん、おじいちゃん、元気で長生きしてください。」

 

幼稚園の子どもも手紙を書いてポストに投函していました。

 

ただ個人的に元気で長生き」するには大変と思うのが、
今年7回忌だった祖父の思い出です。

 

20年くらい前です。

 

「老院さま(祖父)は、90過ぎても大きな声でお元気ですねー。うらやましい。」

 

そう言われていましたが、
一緒に住んでいて思うのは、「そんなことはない」と。
車でどこかへ行こうとさそっても「どこにも行きたくない」と。
食べたいものも減っていました。
よく寝ていました。

 

年をとって何か良いことはあるのか。

 

そんな頃の夕方に、
家族でお夕事をしました。
夕方のお仏壇でのおつとめです。

 

『重誓偈(じゅうせいげ)』というおつとめを少し早口でつとめて、
終わると食卓へ。

 

お仏壇の扉を閉めるのは私でしたが、
ふと耳をすますとおつとめの声が聞こえました。
後ろでまだ祖父がお勤めをしていました。
早口だったためついていけなかったのでしょうか。
一人で淡々とお経を誦していました。

 

「仕方ない」と扉をしめずに、だまって聞いていました。

 

お勤めが終わり、「ナマンダブ、ナマンダブ」と祖父はお念仏しました。

 

その時思いました。

 

「この祖父のお念仏は、私のするお念仏と比べて相当味が深いのではないか。」

 

もちろん他力のお念仏です。
中身はみな等しく必ず救うという阿弥陀さまのすべてのお徳がつまった「南无阿弥陀仏」です。

 

しかし90をすぎ、友もほとんど亡くなり、身体も動かなくなり、どこにも行けない祖父。

 

「そんな私といてくださる、見てくださる、喚んでくださる。」

 

若い頃に比べ、阿弥陀さまのご恩の味わいの深さは計り知れません。

 

「噛めばかむほど味わいが深いものがあるなら、長生きしても良いかも。」

 

そんな事を思いました。

 

【長生きの理由】

 

「なぜ長生きしたいのですか?」
かつて興味で聞いて回った事がありました。

 

「そりゃあ、年金をとりかえさんと。」

 

「毎日散歩します。季節のうつりかわりが楽しいです。」

 

なかには、
「新聞が好きなんです。毎日いろんな事があるじゃないですか。長生きしないと。」

 

「そうですね。最近新聞をみてないのですが、ところで一昨日は何がありましたっけ?」

 

「忘れました。」

 

みなさんそれぞれ、いろんな理由があると思います。

直枉カレンダー202509

今月の直枉カレンダーにはこうあります。

 

「長寿たまわったのも 仏法聴聞のご催促」

 

聞いても聞いてもまだ聞きたい、
かめばかむほど味わい深い仏法です。

 

六十すぎて仕事も一段落となり、
孫が可愛い昨今、
「おじいちゃん、死んだらどうなるの?」
そんな問いをきっかけに、
仏法にであってみませんか?

 

「おじいちゃん、なんで『南无阿弥陀仏』っていうの?」

 

南无阿弥陀仏は仏さまが思いやすいです。
黙っていたら心は何を思うかわかりませんが、
声にだせばそちらに向かいやすいのです。

 

けれどもそれだけではありません。
南无阿弥陀仏は名となり声となった仏さま。
お念仏は、
仏の名を称えつつ、仏の仰せを聞くご縁です。

 

死に神のように死ぬ直前にやってくるのが阿弥陀さまではありません。
いつでもどこでも参る仏、
抱いて離したくないと願われた仏さまです。
「常来迎」(じょうらいこう)ともいいます
「お迎え」は今です。

 

長生きの秘訣はわかりませんが、
無理矢理ドリンクを飲んで元気にならなくとも、
長生きして良かったと思える味わいが南无阿弥陀仏なのです。

 

長寿のお念仏の心得

 

六十才で如来の仰せを聞いた時は、「只今が救いのど真ん中でした。」とお念仏。
七十才で如来の仰せを聞いた時は、「まだまだ味わい深いお慈悲の味」とお念仏。
七十七才で如来の仰せを聞いた時は、「老楽は 如来と共に二人連れ」とお念仏。
八十才で如来の仰せを聞いた時は、「役に立たないこの身の上をご案じくださり、何もかもおかげさまでした」とお念仏。
八十八才で如来の仰せを聞いた時は、「一粒のお米にも如来のお慈悲が美味しいことです」とお念仏。
九十才で如来の仰せを聞いた時は、「親鸞聖人と同じ歳です。もう口に世間の話はいりません。阿弥陀さま、親鸞さま、ご苦労勿体なく」とお念仏。
九十九才で如来の仰せを聞いた時は、「今日もボツボツ、できる限りのご恩報謝です。長い間、ありがとうございました」とお念仏。

 

おわり


 

 
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