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過去の法話

 

恩に生きる(6月下旬)

水仙

【恩知らず】

 

先日、ニュースにこんな記事が。
「アメリカのトランプ大統領と、イーロン・マスク氏がお互いを公然と非難」
仲の良かった2人が口論したというのです。

 

原因はともかく、その口論でマスク氏が言ったのが、
「自分がいなければトランプは選挙に負けていた(中略)何て恩知らずなんだ。」

 

この「恩知らず」という言葉が気になって調べてみると、
原文は「Such ingratitude.」。

 

「ingratitude」は「感謝」をあらわす「gratitude」に否定詞「in」がついた単語です。
相手からの思いやりや恩恵を忘れ、感謝のない事、それが「恩知らず」です。
最近あまり聞かない「ご恩」や「恩知らず」ですが、
アメリカ人から教えてもらいました。

 

【頓智】

 

恩といえば、梅雨のじめじめしたこの頃に思い出すお話があります。
それは小学校の頃に読んだ話です。

 

鹿児島に「しゅじゅ(侏儒)どん」(1584〜1634)と呼ばれる背の低い人がいました。
大分の吉四六さん、熊本の彦市さんと同じく、頓智の才がありました。

 

ある時、殿様のお供で鷹狩りにでかけました。
途中で雨が降り出します。
雨具の用意をしていなかったのですが、
殿様は鷹狩りをやめません。
家来たちは困っていると、侏儒どんが泣きだしたのでした。

 

 「どうしたのじゃ。足でも痛くなったかい」
 「いいえ殿。足など痛みもさぬ」
 「では、何故そのように泣いておるのじゃ」
 「殿、お聞きくださりもせ。実はこの侏儒、今日ほど親の恩のありがたさを感じたことがござりませぬ。
 何ともありがたくて、ありがたさ涙をこぼしておるのでござりもす」
 「それは、感心なことじゃ。だが、またどうして今日に限って、そんなに親の恩に、ありがたさ涙をこぼすのかい」
 「それは殿。この通り私の親が、この鼻を上に向けずに下につけてくれたおかげで、どんなに雨が降っても、雨水が鼻の中に流れこみもさぬ」
 「うむ、なるほど」
 「これは皆、親のおかげ、親の恩でござりもす。そう思うとありがさに、涙がこぼれてともりもさぬ」

 

 そう言って侏儒どんは、なおもすすりあげて泣くので、お供の人たちがあきれ顔で言いました。

 

 「これ侏儒どん。たかが鼻の穴ぐらいのことで、泣きだすとは、ちょっと大袈裟すぎるわい」
 「たかが鼻の穴ぐらいとは、聞き捨てになりもさぬ。このありがたさが分からぬとは、各々方の鼻は、さては上向きについているのでは……」

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 侏儒どんは、お供の人たちの顔をじっと見つめ、
 「それぞれ各々方の鼻も、みな下向きについておりもす。お陰で雨水も鼻の中に流れ込まずに流れ落ちてきもす」
と、真面目な顔で言いました。
 「うむ、分かった。侏儒の言いたいことがな」
 雨の中でぬれねずみになったお供の者たちを見回しながら殿様が言いました。
 「皆の者、さあ馬をかえすぞ。親の恩で鼻の穴は下向きについておっても、こう濡れてはかなわぬからのう。
 ハッハッハ。また侏儒にやられたわい」
 殿様は笑うと、狩りをあきらめお城に帰ったそうです。
(冨田博之『あっぱれしゅじゅどん』, pp.52-63。※便宜上、ひらがなを漢字に変えました)
(『日当山侏儒戯言』(54-56頁)では内容が少し異なる)

 

【ようこそようこそ】

 

侏儒どんは殿様を説得するために「鼻が下に向いて」と泣きました。
ところで、この鼻の話と同じ事を言った人がいます。
妙好人(みょうこうにん)の源左(いなばのげんざ)さんです。
(妙好人とはお念仏を大変喜ばれた人の敬称です。)

 

1842〜1930年、鳥取県の人です。
18歳の時、お父さんが亡くなり、
「おらが死んだら、親様をたのめ」の遺言をご縁にお寺参りを始めました。
最初はなかなかみ教えを領解(りょうげ)、いただく事ができませんでしたが、
ある時の仕事の帰り道、
重くなったので持っていた自分の草束も牛に担がせた瞬間、
「ふいっと分からしてもらった」、
領解できたという話は有名です。

 

そんな源左さんに次のようなエピソードがあります。

 

夕方にであった源左、全身ぬれねずみのようになって田圃(たんぼ)から帰ってきました。
そのすがたをみかけた順正寺の住職が「じいさん、ようぬれたのう」と声をかけると、
ふりむいた源左は、ずぶぬれの顔をほころばせながら、
「ありがとうござんす、御院家さん、鼻が下に向いとるで有難いぞなぁ」
といったそうです。
(梯実圓『妙好人のことば』123頁)

 

「ようこそようこそ」が口癖の源左さん。
いただいたご恩にいつも感謝されるお念仏者でした。

 

「鼻があるのは当たり前」、
「生きているのは当たり前」、
「食べ物があるのは当たり前」、
それを否定はしませんが、
しかしそうではなかったといただける世界があります。
お念仏の世界です。

 

【視野の転回】

 

お念仏は、救いようのない者が救われる真実の話です。
その事にであった時、それはある意味、
何でもないと思っていた事柄が大変な値打ち物に見えてきます。
そしてどれだけ辛く、また憎らしい事柄にさえ、
感謝するという見方が生まれるのです。

 

「この上の称名はご恩報謝」と繰り返された蓮如上人です。
お念仏は感謝(gratitude)です。
わが身の罪を責めたり、他人の行為を非難する前に、
仏恩報謝にきづくお念仏です。
何気ないこの瞬間、
大変なご恩をいただいた事を再確認させていただきます。

 

源左において開かれた境地は、決していわゆる神秘的な境地でも何でもない。
それは結局あたりまえのことをあたりまえのまま受け容れるところにある。
人の苦しみは本来そのあたりまえのことを素直に受け取ることができないところにある。
しかもその原因はわれわれ自身のうちにある。
源左の言う「ふいっと分からしてもらった」ということには、
そういう逆転的・抜本的視野の転回がある。
そして「ようこそようこそ」という言葉には、そういう視野の転回において開かれた無限の諦念の世界がある。
(岡村康夫「ようこそ・源左」(『山口大学哲学研究』10, pp.1-20., 2001)

 

(おわり)

 

 

 


 

 
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