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過去の法話

 

死んだ後も(1月下旬)

水仙

【ギョッとした】

 

先日、見知らぬ方からお手紙をもらいました。

 

初めてお便りします。

 

15年ぐらい前に新聞の折り込みチラシに専徳寺様の広告が入っていました。
「ご一緒に親鸞聖人の教えを学びませんか?」という内容だったと思います。
それから何度かご法話を聴くために
そちらのお寺にお参りした事があります。

 

実は、去年の10月に義父を亡くしました。
それから一月経った頃、休んでいますと頭の中に
恩徳讃 おんどくさん」のメロディーが流れるようになりました。

 

本で歌詞を調べて「ギョッ」としました。
「身を粉にしても」とか
「ほねをくだきても」とかありました。
「死んでから後もアミダ様に感謝しなさい。」という意味なのでしょうか?

 

中学生にも解るようにやさしく
「恩徳讃」の意味を教えていただけませんか?

 

法話を聞いた人だからこその質問です。
とても有難いお手紙でした。

 

【自身の喜び】

 

 お手紙ありがとうございました。
 さて「恩徳讃」の歌詞について不審があるとの事、承知いたしました。ご質問は、

 

「身を粉にしても」とか「骨をくだきても」とかありました。「死んでから後もアミダ様に感謝しなさい。」という意味なのでしょうか?

 

 まず恩徳讃について少し述べます。
 恩徳讃は「歌わない法座はない」という程、浄土真宗で最も有名な仏教讃歌です。
 この歌詞は元々、親鸞聖人が作った 和讃 わさん の一首です。
 和讃は当時流行した「七五調の歌」です。およそ7文字と5文字の調子で作る歌で、例えば「春のうららの(7)隅田川(5)♪」(花)、「人生楽ありゃ(8)苦もあるさ(5)♪」(水戸黄門)、また「あおいお空の(7)そこふかく(5)」(星とたんぽぽ)といった金子みすゞの詩も七五調です。
 親鸞聖人は和讃をたくさん製作されました。お経の難しい教えを日本語の歌にすることで、すこしでも身近にしてもらおうという意図があったのかもしれません。
 けれどもそんな中、聖人ご自身の思い、お救いにであえた喜びを純粋にうたった和讃が、「恩徳讃」の歌詞です。

如来大悲の恩徳は♪(にょらいだいひのおんどくは)
身を粉にしても報ずべし♪(みをこにしてもほうずべし)
師主知識の恩徳も♪(ししゅちしきのおんどくも)
ほねをくだきても謝すべし♪(ほねをくだきてもしゃすべし)

「自身の喜びを表現した歌」、ここがポイントです。他人を教え導く内容ではありません。
 そんな親鸞聖人の心をくみとり、私たち各々が自身の喜びの表現として歌うためにできたのが仏教讃歌「恩徳讃」です。

 

 ではご質問にお答えします。
 「身を粉にしても」「骨をくだきても」とは非常に極端な言い方ですが、それは「阿弥陀さまのお救いにあずかった者はみな〈ハンバーグ〉になる」という話ではありません。「死ぬ気で」とか「死ぬまで」、ましてや「死んだ後も」という意味でもありません。
 たとえば、私の妻はよく美味しいものを食べたとき「もう死んでも良い!」と言います。本当に死んでも良いわけではありません。でも嘘ではないのです。この美味しさ、それを食べた自分の感激を最高に表現したいがために、このような言い方になるのです。
 ちなみに私の場合、大いに感動した時の口癖は「他になにもいらない!」ですが、本当に「他になにもいらない」のかとかれると、つらいものがあります。

 

 次に「報ずべし」「謝すべし」とは、詰まる所「お礼(感謝)をせずにはおれません」という意味です。このお礼(感謝)ですが、いろいろあっても、やはり「お念仏」が中心です。「南无阿弥陀仏なもあみだぶつ」と口にする行為をはずして「お礼」はありません。
 「報ずべし」「謝すべし」の「〜べし」は「(他人からの)命令」の意味ではありません。自分の気持ち・意志です。先ほど大切なポイントと言いましたが、この和讃は「自身の喜びを表現した歌」です。親鸞聖人が親鸞聖人に、私が私自身に言い聞かせる歌です。「自分は〜しないといけない」、もっといえば「〜せずにはおれない」というのが本当です。

如来大悲の恩徳は(阿弥陀さまのお救いは)
身を粉にしても報ずべし(これ以上ない喜びです)
師主知識の恩徳も(お釈迦さまや多くの有縁うえんの方々にも)
ほねをくだきても謝すべし(お礼を申さずにはおれません。)

 「師主」は仏教徒全員の師匠であり、教主きょうしゅであるお釈迦さまです。
 「知識」は善知識(ぜんちしき・ぜんじしき)といって、私をみ教えに導いてくださったご縁の方々の事。もし葬儀がご縁でみ教えにであえたなら、その亡き方も私にとって善知識といえるでしょう。

 

 くり返すようですが、恩徳讃は亡くなった方にかける声かけではありません。私自身が私を決して一人にはしない「如来大悲の恩徳」という救いにであった喜びの表明です。
 朝、目が開いた時、智慧の眼のひらかれた仏さまと一緒です。
 一人痛む身体をさする時、共に心を痛めてくださる方が一緒です。
 自分の人生をふりかえり、なげき、涙する時、共に涙をこぼしてくださる方、「そのあなたの人生を絶望へと落とさないために私は仏になる」と誓われた方と一緒です。

 「死んでから後も感謝せよ」と受けとめるのではなく、「この煩悩まみれの凡夫の私は、今、死んでから後、たとえ百年後、千年後もかわらず感謝せずにはおれない程の大きなご恩をいただきました。お念仏もうさずにはおれませんでした。」そんな味わいが歌って楽しい恩徳讃です。

 

……ではいつでも阿弥陀さまに感謝しお念仏しているか。そんな事はありえません。煩悩まみれの私は、身体が痛い時、疲れた時、争っている時、感謝の思いなんて吹っ飛んでいます。でもそんな煩悩まみれの私と見抜いたのが阿弥陀さまであり、故の「お念仏の救い」「無条件の救い」です。ハッと我にかえった時、いよいよ頭が下がり、お念仏もうすことです。

 

 仏教、特に浄土真宗の「他力の教え」は誤解されがちです。原因はいろいろでしょうが、その一つに、人は良くも悪くも亡くなった方の事が気になって、み教えを「私ごと(私のためにある教え)」「今この瞬間の問題」とは受け止めにくいようです。
 どんな人も最初は、「お経といったって、教えといったって、仏壇だって、亡くなった人のためにあるのだ」という先入観・思い込みがあります(私の子ども達もそうです)。その思い込みがあるかぎり、どれだけ法話を聴聞ちょうもんしても浄土真宗の味わいは分かりません。けれどもその思い込みが打ち砕かれるのもやっぱり「お聴聞ちょうもん」です。
 故人をないがしろにしているわけではありません。お聴聞を通して私自身が「如来大悲の恩徳」にであう事こそが、結局、故人にとって何よりの喜びとなるのです。そのように私自身も「お聴聞」で教わっています。
 またいつでもご質問お待ちしております。
合掌

 

(おわり)


 

 
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