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過去の法話

 

サインと塩(12月前半)

水仙

【寄席】

 

「わろてんか」は現在放映中の朝の連続ドラマです。
大坂を舞台とした寄席経営のお話です。

 

今夏、東京の品川へ幼稚園の経営セミナーに行きました。

 

セミナー終了後、
帰りの飛行機まで時間があったので、
上野の東京美術館へ行きました。
「ボストン美術館の至宝展」
ゴッホの大作「ルーラン夫妻」等、約一時間鑑賞しました。

 

しかしまだ時間があります。

 

「そういえば、この辺りに寄席があったような…」

 

調べて歩くこと15分。
「鈴本演芸場」の看板をみつけました。
油断すると通りすぎてしまうような間口。
生まれて初めて寄席に入りました。

 

丁度、大道芸の途中でした。
客席はビールを飲んだりボップコーンをほおばったり……席も自由です。
地方の落語会とはずいぶん雰囲気が違います。

 

300人入れるくらいの小さなホールです。
舞台と客席の距離がずいぶん近く、
漫才があったり、紙切り(林家正楽)があったり…楽しい一時間半でした。

 

【壁のサイン】

 

落語は四席聞きました。
最初は柳屋花緑師匠。
「初天神」でした。

 

でもその前にマクラが。
マクラとは噺に入る前に話される小話や世間話のことです。

 

熊本に仕事に行った時の事でした。
いつも行くお店へ食事に行くと……、

 

「まあカロクさん! よく来てくれたわねぇ。」
「今年もこちらに仕事がありましたから。」
「よかったらサインしてくれない?」
「良いですよ! どこに書きましょう?」

 

初めてサインを求められました。

 

「この壁に大きく書いてちょうだい。」
「大きくですね。このくらいで良いですか。」
「もっと大きく!」
「もっと? このくらいですか?」
「もっともっと大きく!」

 

遠慮なく思いっきり書きました。

 

「本当にありがとう!」
「あの〜、本当にこんなに大きくて大丈夫ですか?」
「良いのよぉ。だって、この店、来月で閉店だから。」

 

……何のためのサインなのか。

 

【塩】

 

トリは7代目、柳亭燕路(りゅうてい えんじ)師匠。
「笠碁」というお話でした。
やはりその前に、マクラがありました。

 

……友人から「ジュラ期の塩」というのをいただきました。
二億年近く前の時代の貴重な塩なのだとか。
大切にとっておきました。

 

ある時、家に友人が見えたので食事をすることに。
そこで思い出したのが「ジュラ期の塩」。
ここぞとばかり出してみました。
何気なく瓶の後ろをみると文字が見えます。

 

「賞味期限 20××/×/×」。

 

賞味期限が切れていました。
塩ですから、使えないことはありません。
……しかし二億年近く前のものなのに、
なんで賞味期限が切れるのか、どうにも納得できず…。

 

【十劫からの名号】

 

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

 

親鸞聖人の和讃、阿弥陀さまの讃歌です。

 

阿弥陀さまは、私を救うが為、「ご本願」をしあげられました。
二億年どころか「十劫(じっこう)」という昔より
南無阿弥陀仏の名の仏・声の仏となって
他ならぬ私の煩悩の闇路を照らしておられます。

 

「ジュラ紀の塩」には賞味期限がありました。
十劫の昔であっても、この仏さまの救いには賞味期限はありません。

 

しかし賞味期限のように、
味わうタイミングというのはあります。
それは、今です。
誰が?
友人でもなく先祖でもなく、私自身です。

 

取り壊す予定の「壁のサイン」は切ないです。
壊すくらいなら、小さくても色紙にして「あなた」が持ってほしかった。

 

阿弥陀様の願いも同様です。
南無阿弥陀仏は私に向けたサイン。
「あなたを救う功徳は名号というサインに仕上がってるよ。」
ああそうですかと言いながら、
法事が終わったらそれっきりでは寂しい。

 

お念仏がないものを救わない仏さまではありません。
しかし「南無阿弥陀仏」の心をいただいたのなら、
気づいた時には、お念仏申したいものです。

 

【はからい交えず】

 

光となり声となり、
南無阿弥陀仏の名となった仏さま。

 

「なぜナモアミダブツが仏さまなの?」

 

最初はピンとこないものです。
私自身もそうでした。

 

しかしやはり南無阿弥陀仏が仏さまなのです。

 

「どのようなものも、そのまま救い遂げたい」
という仏さまの願いを聞き受けた時、
その味わいとして、
「南無阿弥陀仏が仏さまです」以外、言いようがないのです。
「われにまかせよ。必ず救う」と誓われた仏さま。
「仏さまとは〜のような、念仏とは〜のような…」
言えば言うほど、自らの手垢がつく恥ずかしさに気づかされます。
自らのはからい心を交えるような事、
その仏さまの仕事を邪魔するような事はしたくなくなります。

 

故に、
「我々の仏さまは“南無阿弥陀仏”(名の仏)です。」
この表現以上にふさわしい言い方はありません。
もしこれ以上に、このお慈悲の法(ほう)を表現できる言葉があれば、
それは真宗のノーベル賞でしょう。

 

【尊い人生】

 

「ようやくお聴聞が板についてきました。」
といわれるOさん。

 

「父が亡くなった当初、憐れとしか思えなかった。」

 

突然亡くなった父は、さぞ無念だったろう。

 

しかし喪中の間、「仕方ないよ。あきらめよう」と思いはじめたそうです。
平均寿命はまっとうしたのだ。
苦しまずになくなったのだ。
父はあれで良かったのだと。

 

「けどお聴聞するうちに落ち着いたように思います。」

 

本堂に入り、「諸行無常」というマクラを聞き、
「法蔵菩薩」という仏さまの願いの噺を聞きました。

 

亡き人への想いは「かわいそうに」、「あれで良かった」。
どちらも正直な気持ちですが、
「〜だろう、〜だろう」は、自らのはからい心でした。
憐れな父、楽しんだであろう父……、
勝手に親の人生を作り上げてしまう煩悩凡夫の心。
自分の心の整理ばかりにとらわれ、
肝心の「今」の父を行方不明にしていました。

 

阿弥陀さまの眼には、亡き方の今の姿が映っています。
浄土で仏となり、私を導いている父。
その生涯は、お慈悲と共に生きた故人でした。
かつても、そして今も尊い方でした。

 

寄席ではなく法座では、
お笑いだけでなく、お念仏のお心もいただきます。
賞味期限なしのあみださまのサイン。
大切にいただきます。

 

(おわり)


 

 
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