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過去の法話

 

信者の信心、門徒の聞信(8月上旬)

水仙

【信者ですか?】

 

先日、某Oさんのお盆参りへ行きました。
普段は老夫婦だけなのですが、
娘さんも帰っており、一緒にお勤めをしました。

 

お勤めの後、『本願寺新報』のお盆特集号を渡しました。

 

「良ければ読んでください。歌手のKさんの事が載っています。
Kさんは来年の親鸞聖人850年 立教開宗800年慶讃法要の愛唱歌を作曲されたんですよ。」

 

すると娘さんがいいました。

 

「へぇ〜、Kさんって浄土真宗の信者なのかしら?」
「!?……いや、よくは知りませんが……。」

 

答えにつまってしまいました。
「…………信者?」
帰りの車内でつぶやく私。

 

次の日、別の家のご法事で、思い切ってたずねました。

 

「皆さんの中で、
『もんと』、もしくは『もんしんと』という言葉を知っている人は手を挙げてもらえますか?」

 

何と誰も手を挙げません。
かなりショックでした。

 

【門徒】

 

「信者」とは、いうまでもなく特定の宗教の信仰を持つ人のことです。
浄土真宗でも使わないことはありませんが、
普通は「門徒(もんと)」とか「門信徒(もんしんと)」と言います。

 

門徒は浄土真宗を信ずる在俗信者の名称です。
ですから自分自身が「浄土真宗の信者です」と言うのはOKでしょう。
しかし他人から、
「あなたは浄土真宗の信者ですか?」と言われると、
2つの点で違和感があります。

 

  1. 今の時代、「○○信者」という言い方があるように、信者には「熱狂的な」というイメージがあります。何か相手を揶揄した意味合いが感じられます。

     

    ちょうど伴侶を亡くした「未亡人」という言葉と同じです。「私は未亡人でして……」と自分にしか使えません。「あなた未亡人(まだ死んでない人)ですか?」は失礼です。

  2.  

  3. そしてもう一つ。「信者」とは「(何かを)信心する者」で、宗教全てを十把一絡げにしています。「信仰対象が違うだけで、あとは同じだろう」、「ご利益は異なるかもしれないが、おおよそ同じだろう。」

     

    浄土真宗も大きくみれば宗教です。しかしその「構造」は大きく異なります。それは具体的に「信心」という言葉の使い所に顕著です。

 

【信心】

 

先日、一人暮らしのMさんが、
こんな話をされました。

 

「先日、急に頭がいたくなりました。
病院へいくと原因は眼だったんです。
緑内障になっていました。
○○の病院で手術して、今は落ち着いています。
……これも日頃の『信心のおかげ』ですかね?」

 

「そうですね、信心は大事ですね」と話をあわせる私。
心の中では苦笑いです。
「今、私は浄土真宗から『ご先祖供養宗』に宗派替えしているな」と。

 

Mさんに限らず、お説教にご縁のない人の多くは、
つい「(私はまだ)信心が深くない」とか、
「(家族は)もっと信心しないといけない」という言い方をされます。
悪気はないのでしょうが、残念です。

 

その言い方の背景には、
3つの先入観があると思います。

 

  1. まず信心とは「先祖を敬う心」。「(よくわからないし……)先祖も阿弥陀如来も同じ」となりがちです。

  2.  

  3. 次にお経は「先祖のためにあげるもの。お勤めをすれば先祖がよろこぶ」。

  4.  

  5. そして最期に「信心していれば(先祖を敬っていれば)、思わぬご利益がある。家内安全、病気平癒、所願成就……」

 

これが今の日本の環境で生活をした場合、
自然に育まれる宗教に関する心持ちかもしれません。
……実際、寺院で生活をする小学生の子供たちも似たような感じをいだいています。
私も、子供の頃、漠然と思っていたでしょう。
いわんや寺院以外の方々も「宗教=先祖供養」「お経=先祖供養」「先祖供養→いつか何かの見返りが」と。

 

【聞信】

 

先祖をご縁に仏の教えを聞く浄土真宗です。
正信偈には、

 

聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信す)

 

お釈迦様の「自灯明・法灯明」を聞き、
「煩悩」や「縁起」の教えにもふれつつ、
浄土真宗(阿弥陀仏の本願の話)を聞きます。

 

教えを覚えるのではありません。
しかしおのずと目が覚めるのが、
わが身の大問題と、
それに対する仏の行き届いた救いの手はず。

 

「目的を間違えておりました。もうすでにお救いの中でした」
と聞き喜ぶお念仏です。
「自らを反省して起こす信心」など凡夫の私には皆無と気づき、
そんな私の中に届いていた「仏からの信(まことの)心」をかみしめます。

 

「(みずから)信心(していた事)のおかげで(ケガがなかった)」と、
門徒たるもの、そんな所で不用意に「信心」という言葉は用いません。
「おかげさまで」で良いのです。

 

ケガがなくても、ケガがあっても、
事故がなくても、事故があっても、
災害がなくても、災害があっても、
何の心配もない大きな目的の道を歩ませていただくお念仏の道。

 

先祖を信心する人、
特定の何かを信じる信者、
それに対して、
すでに救いの中と聞信し念仏する門徒。

 

そんなご門徒の家をお盆参りする楽しい今日の一日です。

 

(おわり)


 

 
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