蛇足のない教え(4月上旬)
【蛇足】
今年はへび年です。
そして親鸞聖人もへび年生まれです。
へび年といえば思い出すのが「蛇足」というお話です。
「ある人が家来たちに、大杯に盛った酒をふるまった。
すると家来たちは、数人で飲んだら足りないが、一人で飲んだらありあまる。
ひとつ、地面に蛇の画をかいて、先にできたものが飲むとしよう、ということになり、
一人がまず画きおわり、酒を飲もうとして左手に杯をもち、
なお余裕をみせて、足だって画き足せるぞとばかり、足を画き添えた。
そのうちにもう一人が蛇を画きあげ、その杯を奪いとると、
もともと蛇には足はない、足を画き添えたら蛇ではない、
といって、その酒を飲んでしまったということです。」
(飯塚朗『中国故事』より(角川選書71)より)
このお話から「蛇足」とは「付け加える必要のないもの。無用な長物」という意味で、
たとえば会話の中で、「蛇足ですが……」と使われます。
「無用な長物」なら言わなければ良いのですが。
【自力の足】
浄土真宗は「南無阿弥陀仏」のお念仏一つのみ教えです。
言いかえると他力の教えです。
他に何もいりません。
ところがその教えに妙な「足」をつけたがるのが私たちです。
自力の足です。
具体的にいえば、念仏を称えながら
「(自分は)功徳を積むぞ」と行動したり、
「(自分は)功徳を積んだ」と喜んだり。
「一日一善」を否定するつもりはありません。
しかしそれとお念仏を混淆してはなりません。
【聞いてない】
その原因は結局、最初の「聴聞」にあります。
「南無阿弥陀仏」の教えを聞いているようで、
実は聞こえているだけで、聞いてないのです。
(布教使)「法蔵菩薩が世自在王仏という仏にであいました。」
「はいはい、法蔵菩薩ですね。」
(布教使)「そこであらゆる仏の国をみせてもらいました。」
「はいはい、みせてもらいましたか。」
(布教使)「この上ない願いをたてるために五劫という長い間思案されました。」
「はいはい、考えたのですか。」
(布教使)「そしてどのような者ももらさず救うご本願を建てられました。」
「はいはい、願いを建てたんですね。」
(布教使)「本願を成就するために果てしない功徳をつまれました。」
「はいはい、何かされたんですね。」
(布教使)「南無阿弥陀仏の名の仏となってどのような者も摂め救い、西方浄土に生まれさせる光の仏さまです。」
「はいはい、どんな者も救う仏さまなんですね。」
(布教使)「……聞いてます?」
「はいはい、聞いてますよ。」
たぶん聞いてません。
「阿弥陀さまといったって、浄土といったって、結局自力が大事なんでしょ」といった先入観か、
もしくは、
「阿弥陀さまといったって、浄土といったって、結局他力で死んだ後の話でしょ。
今の事は自分でしないと……」といった早合点です。
そういった自分勝手な思いが聴聞している耳をふさぎ、
その結果、「自力の足」、生活の中でお念仏に余計なものを補足させてしまうのです。
「お念仏一つ」とは、到底満足できません。
【スポット破り】
「その昔、自分たちの住む近所に公園ができました。
ところがしばらくするとそこで骨折や首つりといった事件・事故が多発。
それで占い師にたずねると、そこは“千人坂”といって、
かつて合戦で多くの人がなくなり、その人たちを葬った場所だったんです。」
法事の後、そんな話を熱心にされる方がおられました。
たぶん、何かの不幸がおきた時、迷わずお祈りやお札を購入される事でしょう。
その人を笑う事はできません。
私もかつて学生の頃、朝のテレビ番組の星占いを意識した時もありました。
私たち人間は「おやとかお(親と顔)」の話が好きです。
- お……美味しい話
- や……役に立つ話
- と……得な話
- か……勝つ話
- お……面白い話
それに加えて、
「パワースポット」といった話が好きです。
それは逆にいえば「心霊スポット」といった、
幽霊のたぐいを無視できない環境を自らつくっています。
「おやとかおの話」に比べて、仏教の話が苦手な私たち。
それは「本当の話・真実の話」だからです。
ですがこの話にであって初めて虚仮なるもの、
パワースポットや心霊スポットといった、
俗信・迷信の類いを打ち破ることができます。
占いや祈祷、心霊スポットといった話を聞かせてもらうたびに、
浄土真宗の有り難さを味わうことです。
すべて蛇足、無用な長話です。
俗信迷信に惑わされない教え、
お札祈祷に用事のないお念仏です。
(おわり)