法座の言葉(201〜300)
内容
No.303 内藤昭文師 (2024/11/14-15)
【生没年に聞く】
親鸞聖人のご誕生の年は、西暦で一一七三年です。
「ひと(1)ひと(1)なみ(73)(人人並み)にお生まれになりました」と覚えます。
そして、その「人並み」という言葉から、
「本当に人間になるという事、心ある人生を歩むとはどういう事なのか」
という聖人からの問いかけを聞かせていただきます。
親鸞聖人のご往生の年、それは西暦一二六三年です。
「一人といえども二人連れ。六字のみ名と二人連れ」
と覚えます。煩悩まみれの私を離さぬ仏さま。
南無阿弥陀仏の六字のみ名(名号・喚び声)を聞く事こそ、
本当の人生と味わった親鸞聖人でした。
(おわり)
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No.302 福間義朝師 (2024/9/28-29)
【恩徳讃の人生を歩む】
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
どんな時でも見ておられ、
しっかり抱いてくださる慈悲の如来さまと一緒の人生がお念仏です。
この世には居場所、本当の安らぎ場所はありません。
しかし、お念仏申す所、どこにいてもそこが居場所となります。
そして如来さまに抱かれたからこそ、甘えません。
如来さまをより所とさせていただき、
「身を粉にしても」すりきれるまでのご恩報謝の生活を歩みます。
「ペコペコせよ」でもありません。
シャンと胸をはって生きるのです。
如来さま・親鸞さまにであった人生。
これほど誇らしい事はありません。
(おわり)
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No.301 深野純一師 (2024/8/30-31) ※台風の為、初日中止
【二つの生死(「せいし」と「しょうじ」)】
お経に何度も出てくる「生死」は、【せいし】でなく【しょうじ】と読みます。
生死は「生きる事と死ぬ事」です。
「生死の境をさまよう」というように、
生死は生と死を分別(ふんべつ)した(境をつくった)言い方です。
生死(しようじ)とは、「生まれる事と死ぬ事」ですが、
両者を分別しておらず、
「生死輪転(りんでん)」(生まれ変わり死に変る存在の私)、
永遠に苦悩の中を迷いつづけるわが身をあらわし、
また「生即死(生=死。生と死は表裏一体である)」といった事も内包した言い方です。
その事から「生死」は、
「@生まれる前は何だったのか。A死んだ後はどうなるか。B今が人生最後の瞬間かもしれない」
といった、人生問題を私に投げかける言葉なのです。
これらの問題を解く浄土真宗のお説教。
実感はわきませんが、
心しずかに「ほーっ」と仏さまの救いのお話をお聴聞しておく事が大切です。
(おわり)
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