「法座の言葉」について
専徳寺では昭和55年より、
法座が終わるたびに参詣者に葉書を送って来ました。
葉書には参詣へのお礼に続いて、講師の法話の肝要部分、
またそれを承けての住職の法語等を書いてきました。
当ページではこれらの言葉を紹介いたします。
No.294 白石智昭師 (令和5(2023)8/29-30)
【讃題】
聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
【不思議と当たり前】
不思議な事といえば、たとえば飛行機。
何故あんな重たいものが空に浮いていられるのか?
メールも不思議です。
なぜ文字が瞬時に地球の裏側まで届くのか?
飛ぶ理由も分からず、届く理屈も分からないが、
私たちは楽しく利用します。
そんな不思議な飛行機も、
飛行機を作った方、
航空力学を学び作った人からすれば逆です。
つまり飛ぶのが当たり前。
メールも同様、届くのが当たり前です。
そのメカニズムをご存じの方からすれば、
決して不思議ではないのです。
【願力自然】
世の中の多くの不思議なものに対し、
仏教が問題にするのはもっと大きな不思議です。
「何故、南無阿弥陀仏一つで、
それこそ地獄行きの私が浄土の仏となるか。」
たずねられても凡夫の私にはわかりません。
とうてい思議のおよぶ世界ではないのです。
ところが救う側の如来さまからすれば逆です。
ご苦労をかさねて、
「南無阿弥陀仏一つで私を浄土の仏にする」というこのメカニズム、
如来さまが完成をして、
この口元まで「ナンマンダブツ」と運ばれます。
それを「願力自然」といいます。
つまり当たり前の事なのです。
お聞かせにあずかってみると、
仏さまの側のお心は、
私がわからんまんまで良い、
どうにもならん私であろうとも、
その私を救わずにはおれんという親心です。
「私はあなたの親じゃもの、
手放すことも見放すこともできん」と、
罪業深重、煩悩凡夫なれども、その私を救うために
願いと力を成し遂げたぞと喚んでくださるのがお念仏。
そのことに気づいた私は、
そのメカニズムは分からないまま、
ありがたく称えさせていただきます。
(おわり)