山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

青蓮華

【夫婦】

 

2月14日、岩国市市民会館にて前進座の公演『花こぶし』を観劇しました。

 

恵信尼さまを中心にした親鸞聖人のご生涯のお芝居でした。
歴史上、公けに僧侶で妻帯した親鸞聖人と、
初めて、僧侶の妻を名乗られた恵信尼様。
京都・越後・関東と、
人々が災害や罪業に苦しむ激動の時代を、
お念仏のみ教えを支えに共に歩まれるご夫婦を熱演くださいました。

 

親鸞聖人は29歳の時、六角堂で観音菩薩より夢告を受けました。

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
(御伝鈔 上巻 第三段)

「行者、宿報にてたとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。
一生のあひだ、よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん。」
(和訳 もし行者(のあなた)が過去からの因縁により女犯の罪を犯してしまうなら、
わたしが美しい女の身となりその相手となりましょう。
そして一生の間よく支え、 臨終には導いて極楽に往生させましょう。)

 

親鸞聖人にとって、妻は観音菩薩の化身、阿弥陀さまのお慈悲の象徴でした。
また恵信尼様もかつて夢で、

「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」
(恵信尼消息 第一通)

そうお告げを聞いたのでした。

 

夢告で相手を特別な存在と知らされ、
お互いを敬慕しあった恵信尼様と親鸞聖人です。

 

お念仏こぼれる家庭は、
単なる夫婦や家族関係で終わらない事を教えられました。

 

【インタビュー】

 

観劇の後に思い出したのがSさんご夫婦でした。

 

一昨年の12月3日、「コロナ禍の時だからこそ、ご門徒の声を残そう」というインタビュー企画があり、
担当したSさんのお宅をおとずれました。

 

海風対策らしく、ガラス張りの立派なお仏壇でした。
その仏間でのSさんとインタビューは、
当初20分のつもりが45分を超えてしまいました。

 

土徳の話、法座参りのご縁、お父さんの話……
そして奥様の話になりました。

 

「こう言ってはなんですが、うちの家内は少々抜けてるところが多い。
けれども私が『○○寺へお参りにいこう』と言うと、
一度として反発することなく『はい』と言って、ついてきてくれました。」

 

Sさんの奥さんがお寺参りできるようになったのは、Sさんのお父さんのお育てでした。
「自分はもう行けないからお寺へいってくれないか。」
たのまれた奥さんがお聴聞から帰ってくると、
「どんな話だった?」とお父さんからたずねられたそうです。
すぐには答えられず、しばらく家の周りを回った末に、
「たしか……阿弥陀さんいう仏さんが救う、って話でした」と答えると、
「おお!そうか、そうか」とお父さんは喜ばれたのでした。
いつの間にか、お寺参りが自然な事になったのでした。

「わが妻子ほど不便なることはなし。それを勧化せぬはあさましきことなり」
(蓮如上人御一代記聞書65)

家族ほど愛しいものはありません。
だからこそお念仏のみ教えを伝えるべきである、という意味です。
その言葉通り、
Sさんと奥さんは山口県のいろんなお寺の法座へ参り、一緒にお聴聞したのでした。
時には車中でさっき聞いた話を「ありがたかったね」と話しているうちに、
こらえきれず車を停めて二人で涙した思い出もあったそうです。

 

【青蓮華】

 

奥さんは現在は施設。
認知症になりもうお念仏はでません。
「一緒にお聴聞した頃が懐かしいです。」
Sさんは少し照れながら、
「家内とはこんな約束をしました。
『お浄土にはいろんな色の蓮の花がある。
でも自分は青い蓮の花がすきだから、
お互いどちらが先か分からないが、
お浄土では青い蓮華の上で再会しよう』と。」
奥さんは素直に「はい」と答えられたのでした。

 

インタビューの後、Sさんはこんな笑い話をしてくださいました。

 

かつて関西であった仏教壮年会の大会に参加して、
帰りは寝台列車に乗ったSさん。
ところが朝起きると、車内が騒がしく、どうやら泥棒がいたとの事。
調べてみるとなんと自分も腕時計が見当たりません。
仕方なく「紛失届」などの提出のため途中下車をして家に電話しました。
「……そういうわけで少し帰りが遅くなる。」
「あなた、大阪に何しにいったの。後生の一大事を聞いておいて、
腕時計がなくなったぐらいで何を狼狽しているのですか。」
一本とられたそうです。

 

……インタビューから1年後、
Sさんの奥様がご往生された事を風の便りで聞きました。

「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」

『阿弥陀経』を勤めると出てくる青蓮華。

「両目浄若青蓮華(りょうもくじょうにゃくしょうれんげ)」(阿弥陀さまの目は浄らかな青蓮華のようです)

『十二礼』にも出てきます。

 

読経しながらお浄土の青蓮華で待っているSさんの奥様を想像してしまいます。
コロナ禍のおかげで聞く事ができた貴重な仏縁でした。

 

【青蓮華】

「わが妻子ほど不便なることはなし。それを勧化せぬはあさましきことなり。」

Sさんから教えていただいた蓮如上人の言葉には続きがあります。

「宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか。」

家族を勧化する事、一緒にお聴聞する事はすばらしいですが、
ご縁がととのわなければ残念ながらかないません。

 

けれどももっと大切なのは自分自身です。
自分自身が葬儀・法事・法座と「わが事」として仏法を聞いていきます。
わが身の勧化です。
その後ろ姿が、もしかしたら家族にも伝わるご縁になるかもしれません。
そして「倶会一処」、お浄土の蓮の花の上での再会につながるかもしれません。

 

新年度です。
お互い、新たな気持ちでお聴聞したいと思います。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

2つの贈る言葉

【過去はかわる】

 

先週の金曜日、中学校を卒業する長女の卒業式に出席しました。

 

会場には「卒業証書授与式」の大きな横断幕がかかっていました。
先生・生徒・保護者・来賓あわせて200人をこえるであろう中、
厳粛に証書授与がとりおこなわれました。

 

授与式の後、校長先生がこんな言葉を生徒に贈っていました。

 

「過去は変えられる。未来は変えられない。」

 

一般的に「過去は変えられない。未来は変えられる」といいます。
(調べると、元は精神科医エリック・バーンの言葉で、
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分自身だ」
(You cannot change others or the past. You can change yourself and the future.)
のようです。)

 

過去の出来事は終った事。くよくよしても仕方がありません。
未来に向かって歩もうといった励ましに使います。

 

では「過去は変えられる」とは何でしょうか。
この場合の「過去」は、「過去の出来事」ではなく「過去の解釈」といった意味合いです。

 

何気ない過去の出来事、
また思い出したくない辛い過去の思い出も、
今の自分の見方によって、「あの時のおかげで」と思えた時、
大切な思い出へと変わります。
過去を忘れるのか、過去を変えるのか、その人次第です。

 

卒業式はその後、在校生のお礼の言葉、卒業生のお礼の言葉と続きました。
「あの時、先輩にやさしく指導してもらった事、決して忘れません。」
「みんなで工夫しあって成し遂げた運動会。大切なものを教えてもらいました。」
激励やお礼の言葉を聞きながら、
「運動会・・・暑くていやだ・・・」と言っていた娘の言葉を思い出しながら、
何気ない過去が、とても意義深いものに変わっていっているなと感じました。

 

【法事の時間】

 

やり直しのきかぬ 人生であるが 見直すことはできる(金子大栄)

 

卒業式は単なる儀式ではありません。
卒業生本人も、保護者も、そして学校にとって大きな意味があります。

 

法事も同様です。

 

葬儀の辛い悲しみをご縁にみ教えにであう時、
その悲しい過去の出来事から、「あの流した涙のおかげで」と、
尊い意味が生まれます。

 

誰もが最初はお念仏を申す事に抵抗があります。
お経を読む事には不慣れです。
けれども仏さまの教えを聞き、
「南無阿弥陀仏」の中身を聞く中で、
徐々にできるようになっていきます。

 

そして、ちょうど落語を聞いていると、
そこにいないはずの熊さんや与太郎が見えてくるように、
美しいお荘厳のお仏壇、
厳粛なご法事の雰囲気の中で、
目の前で読経したり法話したりする僧侶の姿は透けて、
尊い姿が浮かび上がり、
尊い声が聞こえてくる、
そんな人もいるかもしれません。

 

わが身の無常の有様と、
仏さまの常住の存在。
この悲しみと喜びをかみしめられるのは、
他ならぬ“あのときの過去”なのです。
どの出来事一つとして漏れてしまえば成立しない、
そんな今、ここに、私の仏さまに抱かれた尊いいのちがあります。

 

世界中のどんな宝物にもまさり、私のいのちを捨てず、
煩悩まみれの私を離さぬというご本願。
そんな如来さまのお心、仏心の結晶が「南無阿弥陀仏」です。

 

【証書の中身】

 

中学校の卒業式から9日後、
小学校を卒業する次男の卒業式に出席しました。

 

授与の後、校長先生のお話がありました。
(……以前、「校長先生ってどんな人?」とたずねると「話が長いかな」という息子。
その事が気になりながらお話を聴いてしまいました。
すると、
(校長先生)「卒業の皆さんに2つの事をお話したいと思います。」
(私)「1つじゃないんだ……」
(校長先生)「1つ目は某研修会で山口大学の小川仁志先生がおっしゃられた言葉です。これからの子が必要な力に、5つあります。」
(私)「5つもあるのか……」
盛りだくさんの内容に、
だんだん目の前に座っている5年生数名が猫背になっていくのが印象的でしたが、
とても格調高い、ありがたい祝辞でした。)

 

その話の冒頭でした。
「先ほどみなさんが受け取った卒業証書。
そこにはここにおられる来賓の方々や先生、
地域の方々の愛情がすべてこめられていることを忘れないでください。」

 

卒業証書は子どもによっては単なる紙切れに見えるかもしれません。
なかなかその値打ちはわからないかもしれません。

 

大人になって見えないものが見えるようになった時、
その卒業証書にはたくさんの思い出や周りの思い・願いがこめられていると実感します。
「卒業証書」一枚に託された、言い尽くすことのできない心です。

 

【授与式】

 

南無阿弥陀仏。
葬儀で故人から託された唯一無二のものです。

 

それは単なる仏の名であって、
阿弥陀さまから授与された、
凡夫の私の往生浄土のための全ての功徳がこめられています。
その事に気づき「南無阿弥陀仏」と称える時、
初めて法事はその人にとって真の「法事」、
を大とする時間となります。

 

卒業式の中心は「卒業証書授与式」です。
単なる学校最後にやる行事ではなく、
証書を受けとる事が大事であるように、
自分がまさに南無阿弥陀仏のお慈悲の法を受けとり、
往生浄土が間違いない身と定まり、
その証としてお念仏申せる身となる事で、
真の意味で浄土真宗の法事は成立するのです。

 

法事に座り、念仏申す事で、
過去の悲しい事実がかけがえのない大事なご縁へと変わります。
そして、「未来は変えられない」です。
中学の校長先生のおっしゃった意味とは異りますが、
決して変えられる事のないお浄土への道。
「何があってもこの道が変えられることがない、むなしく終わる事がない」、
そのように‘後生の一大事’(生死の問題)が解決させられる事、
そのような法事が浄土真宗の厳粛なご法事の中にあるのです。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

露と月と時計

【露】

 

コロナも落ち着き、
先日、久しぶりに布教団の懇親会に出席しました。

 

その乾杯の席で、先輩のN先生が次の歌を紹介されました。

 

「世の中は 何にたとえん 水鳥の はしふる露に やどる月影」(道元)

 

89歳のN先生。最近しみじみと感じるそうです。

 

寒中、川で休む水鳥がいます。冬は川が凍ります。
ですから水鳥は時折起きて凍った川をつつくのです。
その際にくちばしから飛び散る一瞬の水滴。
「そのぐらい世の中ははかない」と、
実際に寒中の川辺で水鳥と一緒に過ごしたであろう道元禅師ならではのたとえです。

 

【月影】

 

一瞬で消える露に映る月影。
見事な無常歌ですが、
単なる厳しい無常歌に見えないのがこの歌の魅力です。

 

ポイントは月です。
なぜ道元禅師は水滴が見えたのか。
その水滴に月の光が反射していたからでした。
月がなければ夜露はみえません。

 

仏教の定石として、露が無常をあらわすように、月は如来をあらわします。

 

こんな一瞬のようなわが生涯(世の中)にも、
仏の光、如来さまのお慈悲が宿ってくださるありがたさ。
また逆にいえば、
月の光のおかげで露がみえたように、
仏の光にであったおかげで、
この人生のかけがえのなさが見えてくるのです。

 

露と月、二つの語が登場する歌。
N先生のおかげでまた一つ、ありがたい歌にであえました。

 

禅宗は厳しくも禅の体得によって悟る聖者の教えです。
真宗は念仏のおいわれ(ご本願の話)を聴聞する事で仏の光に出遇う凡夫の教えです。

 

大切な人との別れの涙を経験し、
その事を縁として仏法を聴聞し、
信心・名号という拠り処にであいます。
そんな人生、光に照らされた露は、はかない露にはかわりませんが、
永遠(アムリタ)を意味する甘露のごとき、
無量寿の仏さまと共にあるいのちです。

 

今日もまた 露のいのちを 永らえて ほとけの法(のり)を 聞くぞうれしき

 

なめて知る無量寿の香や露の味(一次庵菊舍)

 

【時計】

 

さらにN先生は、歌に続いてこんな話をされました。

 

「現在自分の部屋には時計が3個ある。
どれも正確に時をつげる。
それを見て何を思うか。
『……少しは遅れたら良いのに』。」

 

時計は無常をしっかり教えてくれます。
一瞬として留まることなき世です。
どんどん経過します。
「もう少し長く娑婆にいたい。」
寿命が短くなっていく感覚。
その気持ちは凡夫であるかぎり脱ぎ去ることはかないません。

 

いずれ多くの人が経験する、病院のベッドにいる時間。
白い無菌の部屋で一人ぽつんといます。
周りは何も変化しなくても、
時間は刻々と流れていきます。

 

静かに経過する時間、無常の風吹く中にも、
静かに経典の教えが、至徳の風吹く念仏が、
「そのまま来い」という南無阿弥陀仏の喚び声が鳴り響きます。

 

弥陀の大悲の願船に乗せられて、
悲しくも凡夫の後悔ぬけないまま、
嬉しくも光明の広海を進んでいく、
それが阿弥陀さま、無量寿仏と共にある寿命観。
寿命そのものが、単なる器ではなく、「生きた寿命」となる生命観です。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

蕎麦と苺

【同じ麺類だけど】

 

ご門徒のMさんは蕎麦打ちの達人です。
先日、例年の「節分そば」を打って持ってきてくださいました。
早速、お昼にざるそばでいただきました。
のどごしなめらか、実に美味でした。

 

息子が部活を終えて帰宅。

 

「Mさんの蕎麦だけど、食べる?」
「食べる。あとインスタントラーメンも食べる。」
「!?」

 

よほどお腹がすいていたのでしょう。
でも、あの手打ち蕎麦を食べた後に、インスタントラーメン?
なんだか蕎麦に失礼な気が。

 

確かにインスタントラーメンも美味しいです。
非常食としても便利です。
でも打ち立ての蕎麦の味が台無しです。

 

そういう私も、ネギやワサビで食べます。
蕎麦本来の香りを充分に味わっているかどうか。
けれどもインスタントラーメンは食べません。
Mさんに失礼です。

 

夕方にMさんとLINEのやりとりをしました。

 

「(蕎麦は)もう召し上がりましたか?」
「堪能いたしました! ごちそうさまでした!」
「そう言っていただけると、励みになります。」

 

今年の秋の新そば、楽しみです。

 

【二つの門】

 

蕎麦とインスタントラーメン。
同じ麺類ですが、蕎麦を打ってくださった思いを考えれば、
2つ同時に食べるものではありません。

 

さて仏教に二つの道があるとする浄土真宗です。
それは「聖道門」(しょうどうもん)と「浄土門」(じょうどもん)。
前者は比叡山・高野山・永平寺等、修行をして煩悩を断じ、仏となる道です。
後者は浄土真宗のように、阿弥陀仏に帰依をして、浄土往生する道です。

 

「聖道門」にもいろいろあるように「浄土門」にもいろいろあります。

 

その中、浄土真宗は「他力の信心」が肝要です。
煩悩を断じる事はしません。
阿弥陀仏に帰依しようとしない、わが身に巣くう疑惑心(仏智疑惑)を問題とします。
疑念をはらす方法はただ一つ、仏法の聴聞です。

 

お聴聞を通して、お経を伝えてくださった方の思いをいただきます。
わが身の愚痴・罪悪深重の性質と、
阿弥陀さまの仏智・摂取不捨の道理をうかがいます。

 

気づけば如来への疑い心、自力の過信は廃っていました。
阿弥陀さまへ安心して生死流転の問題(後生の一大事)をおまかせする心持ちから、
報恩感謝の意味でお念仏を称える人生です。

 

手打ち蕎麦とインスタントラーメンの同時食。
あまりおすすめできないように、
「聖道門」(しょうどうもん)と「浄土門」(じょうどもん)、この2つを混ぜると大変です。
もっといえば、(前住職の法話によく出ますが、)水と油です。
混ぜるとどちらも使い物になりません。
聖道門と浄土門、全く違うのです。

 

煩悩という「油」あるまま安心して歩める道。
ですが油はすぐ引火します。
だから火には近づきません。
わが心の煩悩を野放しにはしません。
他力の教えだからこそ、非常に倫理性が高い宗教といわれるのが浄土真宗です。

 

【2つの味】

 

ところで、たとえば、
インスタントラーメンには近づかず、蕎麦を堪能した後に、
食後に苺の「あまおう」とミスドのドーナツが出たとします。

 

苺とドーナツ、どちらから食べますか?
当然、苺からです。
ドーナツから食べたら、苺の本来の甘さは分からなくなります。
「この苺、甘くない」となりがちです。

 

「いのちの問題、死の問題」を語る仏教の話は苺、
「ワイドショー」的な世間の話はドーナツです。
あまおうという仏教の繊細な味は、
ドーナツという世間の濃い味と比較すれば負けます。

 

世間の話を無視して生きる事は、
現実問題、出家していない私たちには無理です。
だからこそ順番を大切にしましょう。

「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ」(蓮如上人)

お寺参り、すなわち法話を聞き、法語をかみしめ、そして世間の事と関わります。

 

「聞いても仏教の事がちっともわからん。」
それは世間の味に少々マヒしているのかもしれません。
たまたまつけたテレビで、
義理でまいった法事で法話を聞いたぐらいでは、
なかなかその味はわかりません。

 

またお仏壇があるならば、一日の始まり、「お朝事」を大切にしましょう。
お仏壇の前でお勤め、お念仏、阿弥陀さまのお礼をして、
それから、学業・稼業・事業に専念したいものです。
(もしもないならば、起きたら「南無阿弥陀仏」とお念仏から始めてはどうでしょう?
誰にも邪魔されることはありません。)

 

仏教の味、お慈悲の甘みを忘れません。
諸行無常の逆風。
日々いろんな事がある人生ですが、
お慈悲の香り、仏智の光を知る時、
諸行無常は他力無上の風、
浄土という大いなる目的にいざなう順風と感じられることです。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

青鬼の目に阿弥陀

【鬼体験】

 

毎年2月の第一週、にっしょう認定こども園には”ある”お客さんがやってきます。
太い棒を持ち、2本の角を生やした怖い人。
子ども達は新聞紙をまるめて「豆」を作り、豆まきの練習をします。

 

生まれて初めて「鬼」役をしました。
幼稚園の衣装は小さかったので青鬼の衣装を購入しました。

 

青鬼となって各クラスを訪問すると、
おびえる子ども、泣き叫ぶ子ども、喜ぶ子ども……反応は様々でした。
仮面でほとんど前は見えません。
「福は内 鬼は外」とずいぶん豆を投げつけられました。
面白い体験をさせてもらいました。

 

【鬼先生】

 

鬼で思い出すのが今から25年前の僧侶の教習。
約10日間、僧侶としての本格的な作法を学ぶ研修です。
いろいろな先生がおられた中、
「鬼の○○○」と異名をもつK先生がおられました。

 

教習初日だったと思います。
「スリッパがそろっていない! やりなおし!」とK先生の大音声。
大広間に集合した私たちの脱いだ上靴がバラバラでした。

 

「そんな事もできないのか。教習をうける資格はない!」

 

真に受けた私は本当に辞めようと思いましたが、
友人がなんとかとめてくれました。

 

その教習の後半、『御文章』拝読の試験の時です。
部屋に入ると、なんとK先生が。
「聖人一流章」を読み終った後、
どんな厳しい指導があるのかドキドキしてると、
K先生は言いました。

 

「ええっと、岩国組の専徳寺さんですね?
初めまして、同じ組の□□寺の○○○と言います。
お父さまにはいつも大変お世話になっております。」

 

低姿勢で大変親しく話しかけられビックリしました。

 

鬼のK先生。
僧侶としてのマナーの大切さを厳しく教えてくださいました。

 

【鬼神】

 

そして鬼で思い出すのは、
親鸞聖人の『浄土和讃』現世利益和讃です。
鬼、正確には「鬼神」という見えない超人的威力をもった存在が何度も出てきます。

 

鬼にも良い鬼、悪い鬼の二種類あります。
仏法に帰依する梵天・帝釈天は善鬼神。
仏法に帰依なき夜叉・羅刹等は悪鬼神。

 

(101)南無阿弥陀仏をとなふれば
 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ
 よろづの悪鬼をちかづけず

 

(106)天神・地祇はことごとく
 善鬼神となづけたり
 これらの善神みなともに
 念仏のひとをまもるなり

 

(107)願力不思議の信心は
 大菩提心なりければ
 天地にみてる悪鬼神
 みなことごとくおそるなり

 

お念仏を称える者は悪い鬼が近づいてきません。
それは阿弥陀さまと共にある者だからです。
仏法を邪魔する悪鬼神に決して邪魔されることなく、
仏法を守護する善鬼神に常に仏道を護られています。

 

【鬼の才市】

 

外部の悪鬼は豆をまかなくても近づかない念仏者ですが、
では悪鬼はいないかというと、
大変近くにいるようです。

 

浄土真宗の法話でよく登場する妙好人浅原才市さん。
その肖像画のお話は有名です。

 

ある時、妙好人で有名な浅原才市さんの肖像画を、
同じ町の日本画専門の画家が描きました。

 

それは小柄な才市さんが、肩ぎぬをつけてきちんと正座し、
珠数をもった両手を合わせ、合掌している真正面のポーズでした。
いかにも美しい念仏の信者という姿です。

 

ところが絵ができあがったので才市さんに見せると、
気に入るどころか才市さんは、

 

「この絵はわたしに似ていない、わたしの絵じゃない。」
「どこが似てないというのですか。」
「いい顔でありすぎる。」

 

才市さんは、
「わたしはこんな良い人間じゃない。
鬼のような恐ろしい心をもって、
人を憎んだり、ねたんたり、怨んだりする浅ましい私が、
少しも描かれていない」、
そんな心持ちだったのでしょう。
気に入らなかったのです。

 

「じゃ、どうすれば、あなたに似るのですか?」
画家がたずねると、
「頭に角を描いてください。
人の心をつきさし、
傷つける恐ろしい角を心のうちにもっている事を描いておくれ。」

 

「私はこんな美しい信者ではない。
もっともっとどろどろした浅ましい煩悩をかかえている凡夫。
私の心は如来さまに向かうどころか、
如来さまに背きづめのどうしようもない、
鬼のようなものだ。」
それが才市さんの本心です。

 

説明に納得して帰った画家は、
数日たって描き直してもってこられたそうです。
頭に二本の角の生えた才市さんの肖像画はこうしてできました。
(参考 梯実圓『妙好人のことば』149-151頁)

 

【青鬼の私】

 

先日、幼稚園の生活発表会プログラム用に、
先生が私の絵を描いてくれました。
やさしそうな笑顔です。

 

生活発表会1

 

でも中身は青鬼です。
愚痴の心、嫉みの心、被害妄想にとどまる様子がありません。
縁がととのえば、
いつでも体をつきやぶって角がでてきそうです。

 

でも、だからこそお念仏で救うと誓われた仏さまの理由がここにあります。

 

あさましや
さいち(才市) こころの火の中に
大悲のおやは 寝ずのばん
もえる機(き)を ひきとりなさる
おやのお慈悲で

 

「機」とは如来さまのお救いの対象になっているものという事です。

 

鬼の私が正真正銘の私であり、
そんな私を「私」と受け止められる大悲の親さまとの人生です。

 

「なんでこんな辛い目に」と悔やみ、同時にその原因の他を怨み……
業がつもりつもってできた青鬼。
その青鬼の目にも見えるのが阿弥陀の大悲です。
自業自得の悪業も、
仏さまとの邂逅のかけがえのないご縁とかわる時、
青鬼のまま、この身このまま、大切に前に歩んでいけるのです。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

光る君と

【宿題】

 

年末に高2の長男が不平をこぼしていました。

 

「また百人一首を覚えなければならない!」

 

高校1年生の冬休みも同じ宿題があったそうです。
そして彼は言うのでした。

 

「百人一首なんて絶対つかわないし!」

 

そういう気持ちも分からなくもありません。
では、何故担任の先生は百人一首を覚える宿題を出したのか?
何も生徒を苦しめるためではないでしょう。

 

「百人一首の素晴らしさ、そして短歌の素晴らしさを知る人間になってほしい。」

 

そんな思いの宿題のはずです。
「テストで出るから」という理由で嫌がる生徒に無理矢理覚えさせるのです。
そんな先生を、私はありがたい先生だと思います。

 

日本人がはるか昔から大切にしてきた短歌という詩型。
大人になってから本格的に内容を味わうには、
今、十代で感動しなくてもある程度覚えてしまった方が、
今後の人生、はるかに楽しいものになります。

 

【夜半の月】

 

今年の大河ドラマ『光る君へ』の主役は紫式部。
彼女の詠んだ歌が百人一首57番目の作品です。

 

「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(新古今集より)

 

歌の意味は、
「めぐりあって、見たのはそれかどうかもわからないうちに、
雲にかくれてしまった、夜中の月のように、
ひさびさにめぐりあって、逢ったのは、
あなたかどうかもはっきりしないくらいに、
あわれただしく帰ってしまわれたあなたですよ。」
(三木幸信著『小倉百人一首』57頁)

 

あわただしく逢い別れた幼友達への名残惜しさを詠んだものです。

 

三木氏いわく、
「理知的な作者の才能に支えられて、余情のある一首」となっています。

 

全く「友」の事は出てきませんが、
内容がシンプルなだけに、
大切な「友」がおのずと見えてくる、
その人を大切に思う気持ちがうかがえる作品です。

 

【六字】

 

「お経なんて絶対つかわねーし!」
という声が法事に参列した若者から聞こえてきそうです。

 

そういう気持ちも分からなくもありません。
では何故僧侶や法事をつとめる施主は、法事で読経をすすめるのか?
何もその若者を苦しめるためではないのです。

 

「お経にこめられたお釈迦さまの思い、
そして故人の思いを知る人間になってほしい。」

 

誰もが故人同様、波瀾万丈の人生です。
その荒波を渡る船、
仏の光と声にであってほしいのです。

 

「あなたはお念仏に、
南無阿弥陀仏の六字に、
阿弥陀さまの喚び声が聞こえていますか?
あなたの煩悩の雲をつらぬいて、
一直線に届いている仏さまの光が見えていますか?」

 

平安時代よりはるか前から大切に伝えられてきた六字の念仏。
人生の苦難に遭い、いよいよもって、仏さまのお慈悲に出遇う前に、
若い内からお念仏の心にふれておく事をおすすめします。

 

法事が終われば、紫式部の詠んだ「夜半の月」のように、
煩悩の雲で世間の情報にのみこまれ、
故人の事も仏さまの事も見えなくなる私です。
けれども月は常に私の上にあるように、
阿弥陀さま、お浄土だけでなく、
旧交を温めた無数の懐かしい故人は、
常に見守ってくださっています。

 

お念仏申す時、その雲をさっとはらい、月を見ることです。
そこには「光る君(あなた)」ならぬ、光の仏さまがおられます。
光るあなたと共に歩む人生、それがお念仏の人生です。

 

【念仏浴】

 

現在、本願寺では一週間、御正忌報恩講、親鸞聖人の御命日法要が勤まっています。
来週、専徳寺でも3日間、報恩講が勤まります。
法事もさることながら、
やはり法座でお説教を聞く事が何よりもお念仏が身につきます。

 

日光浴、森林浴、そして博物館浴。
気分がリフレッシュし、
実際に体に良い影響をあたえてくれる「〜浴」。
同じ「よく」でも「欲」と「浴」では全然違います。

 

ならば法座浴というのはどうでしょうか。
法座に参り、
仏さまの光を浴び、
仏さまの香りを浴びます。

 

そして念仏浴。
いつでもどこでも一人でも実践できます。
いつでもどこでも「一人にさせない」という、
仏の深きみ法の遇う時間。
その効果はメーターがないので数値化できませんが、
僧侶の私は、そして親鸞聖人も、多くの方々も、
そしてきっと故人もおすすめの筈です。

 

(おわり) ※冒頭へ

 

 

 

阿弥陀さまが運転手

 

人生はいつだって今が最高のときなのです。(宇野千代)

 

【入校式】

 

昨年末、経営している幼稚園バスの運転のために、
地元の自動車学校に相談にいきました。

 

「どんな教習を受けたら良いのでしょうか?」
「ではこれをどうぞ。」

 

もらった入校案内の紙には「MT8t限定解除教習」とありました。

 

「……ミッションですか?」
「ええ。」

 

ミッションはクラッチを使ってギアチェンジをする車です。
28年前、ミッションで普通免許をとりました。
けれどもそれから一度も乗ったことがありません。

 

掲示板

一週間後に入校式、そして午後から教習が始まりました。
待っていると、「ガガガガ」っという音を立ててトラックが。
「え、こんなに大きいの?」と驚く私。

 

運転席に座ると想像していたよりはるかに高い位置です。
ミラーはサイドミラーの他にアンダーミラー、サイドアンダーミラーがあります。
それでも死角が多いので、目視は必須です。
曲がるときは後ろの車体(オーバーハング)がはみ出る事に注意。
また急いでハンドルを回すと車体が縁石に当たります。

 

28年ぶりのクラッチ操作、ギアチェンジでした。
しかも普通車と違ってセカンドからの発進。
その上その教習用トラックはバックギアがセカンドギアの左隣。
頭がこんがらがってしまいました。

 

トラック独特の感覚に全くスピードが出せません。
あまりにひどい運転にイライラする教官。
「もっと、飛ばしてください。」
「左によりすぎです、ミラーが当たります!」
「ギアがセカンドじゃなくてバックに入ってます!」
「後輪が縁石にあたります! ミラーを見てください!」
「もっとスピードを落とさないとギアチェンジできません!」
「クラッチを踏み続けないでください!」
「もうやめたい」と心底思いました。

 

そして一週間後の12月28日。
合計5人の教官から2時間オーバーの7時間の教習を終え、いよいよ卒検。
路端停止、S字コース、クランク、隘路、バック……何とかやりとげました。

 

終了後、卒検の教官(一番やさしい方でした)が、
「オートマの幼稚園バスは、トラックより運転が難しいです。
エンジンブレーキがほとんどききませんから。
未来ある子どものいのちをあずかる運転です。
とにかく安全運転にこころがけてください。」
懇々と諭され、ギリギリ合格することができました。

 

あれから一週間。
教官の言葉を思い出しながら安全運転にこころがけています。

 

【2種類の運転】

 

教習中、あらためて運転には2種類ある事を教わりました。

 

「かもしれない運転」と「だろう運転」。
運転時の心構えを言い表したものです。

 

「だろう運転」は希望的観測にもとづく運転です。
「たぶん縁石には当たらないだろう」
「たぶん(他の車は)いないだろう」
「たぶん(歩行者は)飛び出してこないだろう」
運転に慣れた人に多い、
自分に都合のいい解釈で運転してしまう運転です。

 

「かもしれない運転」は危険予測運転です。
「縁石に当たるかもしれない」
「他の車がいるかもしれない」
「歩行者が飛び出してくるかもしれない」

 

「かもしれないと思えない運転は絶対に事故る。見てないんだから。」
目視をしつこく言われた4番目のT教官の言葉です。

 

「免許なんかとらなければ良かった」と思うのが事故です。
そうならないようにしたいものです。

 

【本願力】

 

「かもしれない運転」と「だろう運転」。
これは普段の生活にも言えます。
「だろう」ではなく「かもしれない」と予測する事の大切さ。
「火を消し忘れているかもしれない。」
「雨が降るかもしれない。」
「……かもしれない。」
慎重しすぎるにこしたことはありません。

 

そして仏教の説く「諸行無常」とは、
人生の「かもしれない運転」です。

 

「まだ死なないだろう。」
ではなく、
「今日が私の人生最後かもしれない。」(関連法話 「毎朝の仏壇の前で」
だからこそ悔いなくつとめます。

 

ただもう一つ、浄土真宗は「本願他力(他力本願)」を説きます。
それは阿弥陀さまの「かもしれない運転」。
阿弥陀さまの予測、油断なき活動です。

 

「今日がお前の人生最後であっても、空しく終わらせない。」

 

本願力というお慈悲の活動がしあがった事。
私はその事を聞くばかり、
お慈悲をいただくばかり、
そしてお念仏申すばかりです。

 

今日も目を覚ましてから「かもしれない運転」にこころがけます。
車の運転中、曲がる時はきちんと目視。
生活でも要所要所はきちんと点検。
けれどももう一つ、
仏さまの「かもしれない運転」、
私には決して見えない死角を見通した仏さまの安全かつ円滑な運転の車に乗車します。
その車とは具体的には「南無阿弥陀仏」というお念仏となって現れています。

 

半分冗談ですが、「念」は「今の心」と分解できます。
今、私がどんな心境であっても、
「もうやめたい」と思っていても、
私は仏さまが運転する車中、
常に仏さまの安全運転の上です。
それをいただくお念仏です。

 

【今がありがたい】

 

年末のお参りをしながら、
ご門徒の皆さんに質問しました。

 

「コロナが五類になった今年です。
一年を振り返ってみて、
一番嬉しかったのはいつですか?」

 

小旅行と答える方が多く、また家族・親戚との再会との答えもありました。
中には「いや〜、嬉しかった事って……ないですね。」
「辛い事なら覚えてますけど。」
と苦笑いされる方も。

 

満点の答えがあります。

 

「一番嬉しかったのはいつか。今です。」(関連法話 「1番はいつ?」

 

生きている事、それ自体が嬉しいともいえます。
でもそれ以上に、如来さまと共に生きている事。

 

一年365日、今日も24時間、片時もはなれず、
まさに今、仏さまが共にあるいのち、
それが私です。

 

旅行している時も、親しい人と再会している時も、
何もない時も、辛い時も、
今とかわらず如来さまと一緒でした。
そしてこれからも如来さまと一緒です。

 

「いつが仕合わせ? 今が仕合わせ。」

 

そう合点させられたお念仏の人生は、
最後の最後まで最高です。

 

 

(おわり) ※冒頭へ

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