山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

法話2010

内容

《四つの門 〜喜びも悲しみも〜(12月後半)》

  

※「住職だより(第3号)」と同じです。

 

前略

 

寒い毎日、いかがお過ごしでしょうか?
今年も後少しとなりました。

 

さて、お寺には仏事以外、四つの門があります。
今回はその事をお話いたします。
少し心に留めておいてくだされば幸いです。

 

 

【喜びの門】

 

【内容】
法座(彼岸会、盆会、報恩講等)
【解説】
これはお寺の中心であり、骨格です。法座で仏法を聴聞します。「救われない者(=私・あなた)が救われていく道」を伝えていくのがお寺の存在理由です。どうか法座を、仏法聴聞を体験ください。

 

次に、お寺は信心に関係なく、浄土真宗の信仰が無くても、
次の三つの門を開いています。

 

【楽しみの門】
【内容】
専徳寺倶楽部、仏教婦人会(仏婦)、子ども会、文化講演会や音楽会・落語会、境内の庭の散策等々
【解説】
お寺は憩いの場です。共に和気あいあいと語り、遊び、呑み、活動いたします。

 

【学びの門】
【内容】
生活相談
【解説】
仏教は知恵の宝庫です。生きる上での大きなヒントがたくさんあります。人間関係で困ったこと、腹が立つ事について、お寺はきっと助言ができると思います。気軽にいつでもおこしください。

 

ところで、次の門は、いつでも開けています。

 

【哀しみの門】
【内容】
心の悩み相談(メンタルヘルスケア)
【解説】
“とにかく話を聞いてくれる”場がお寺です。家庭の事、仕事上の事で心に大きな負担をしょっている方は、この門をくぐってください。共に悩み、考えてまいります。遠慮無く、いつでもどうぞ飛び込んでくだ さい。

 

以上です。
来年は 親鸞聖人七五〇回忌 です。
より一層、門を開放しております。
ご門徒を問わず、多くの方がお寺の門をくぐってくださる事を念じております。

 

(おわり)

 

 

 

《翼(12月前半)》

  
【名前ランキング】

 

来春、我が家には3人目の子どもがやってきます。
坊守のお腹もだいぶ大きくなってきました。
無事に生まれて来てもらいたいものです。
男の子か女の子か分かりませんが。

 

さて、子どもが生まれて来るについて、
相変わらず決まらないのが名前。
いろんな名前が頭に浮かんでは消える毎日です。

 

そんな中、
明治安田生命が毎年おこなっている「名前ランキング」というサイトを見つけました。
そこには今年だけでなく、
過去、どんな名前が子どもにつけられたのか、
とてもよくまとまっています。

 

それによると、今年、
男の子で一番多かった名前は………「大翔」です。
これは「ヒロト」、
または「ハルト」「ヤマト」「タイガ」と読むのだそうです。
そういえば、知り合いにも「大翔」君っていたような。

 

「大翔」は4年連続「名前ランキング」1位です。
とても人気があります。
冬の日本経済、混迷の世の中だからこそ、
“(未来の空を)大きく翔けてほしい、羽ばたいてほしい”
という親の願いがあらわれた名前です。

 

さらに面白いのは、
なんと23年前の昭和62年から、
この「翔」という字は、平成11年以外、
ずっと「名前ランキング」3位以内に入っているのです。
5年前までは「大翔」でしたが、
それ以前には、
「翔太」「翔」という字が3位までに入っています。

 

「翔」という字は、子どもの名前に使用される頻度が高いようです。
子どもが立派な翼を持って広い世の中を翔けめぐって欲しい。
親として、その気持ち分かります。

 

【愛は翼にのって】

 

「翔」で連想するのは、
アメリカの歌手ベット・ミドラーの歌「WIND BENEATH MY WINGS」。
直訳すれば「私の両翼の下の風」。
ラブソングです。

 

Did you ever know that you're my hero (あたたは私のヒーローなの)
You're everything I wish I could be (あなたは私の憧れ)
I could fly higher than an eagle (私は鷲より高く跳べる)
For you are the wind beneath my wings (私の翼の下を吹く風があなただから)

 

「自分がここまで大きな舞台に上がることができるようになったのは、
あなたの献身的なサポートのお陰」と、
パートナーに感謝を述べる歌です。

 

先程の「名前ランキング」に出てきた「大翔」君。
きっと将来、その名の通り、大空を飛ぶことでしょう。
彼は大きな翼を持っているはずです。
けれどもそこには、見えませんが、
大空を飛ぶためのさらに大きな「風」があるのです。
決して一人では「大空を翔ける」ことはできないのです。

 

【仏の風】

新井満さんに「千の風になって」という詩があります。
4年前に秋川雅史さんが歌って大変有名になりました。
冒頭、

 

  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません

 

「そこに私はいません 眠ってなんかいません」
大変仏教的だなと思います。
ただ「墓前で泣いても良い」のが仏教ですが。

 

その後です。
では「私」はどうなるのか。

 

  千の風に
  千の風になって
  あの大きな空を
  吹きわたっています

 

「千の風」。
それは「光」であり「雪」でもあり、
「鳥のさえずり」「星」でもあります。

 

別になんでも良いのです。
「あなた」の見えない、気づかないところで、
あなたを常にそっと見守る存在になっている、
それが「千の風」です。

 

大変仏教的ですが、
少し感覚が違うのが「千の風」だと思います。

 

仏も風にたとえられます。
けれどもその風は私を「そっと見守る」のではなく、
私という翼をもった鳥を、
迷いの境地の地面から、
仏の境地の大空へと舞い上がらせる、
力強いはたらきを意味します。

 

私はどこに向かって歩むのでしょうか。
楽しい時、嬉しい時はそんな事は考えません。

 

「死んだら? そうね、自然に帰るんじゃない!」
「自然に帰るって、とっても自然だよね!」
「今を精一杯生きたらそれで良いじゃない!」

 

けれどもそうはいかないのが人生。
人間関係に悩んだ時、
不安や悲しみがやってきた時、
「一体、私って何のために生きてるのか」
それは、そのまま、
「何に向かって生きているのか」という、
自分の本当の未来に目が向く契機でもあるのです。

 

「もう人生(人間)はいやだ、自然(土)に帰りたい……(涙)」

 

そういう人もいるでしょう。
でも、そう思う時こそ、
どうか、仏のみ教えに出遇ってください。

 

「やっと、人間に生まれてきましたね!」
仏(智慧者)は、
人間の境界にようやく生まれて来たあなたを待っていました。
欲望まみれだけれど、同時に、
仏の教えに耳を傾けられる「機(きっかけ)」を持つ「人間」のあなたを。
真実の智慧に出遇って欲しい一心で。

 

仏の風の前で、
ただ翼を広げてください。
他力の慈悲の前で、
ただ仏の名を称えてみて(お念仏して)ください。

 

「必ず迷いの境界から救ってみせる。」
その仏の声の風にのって、
お浄土へ参る仏さまの道があります。

 

(おわり)

 

 

 

《用事ある世界(11月後半)》

  

 

こちらは本願寺山口別院テレフォン法話です。
本日は、岩国組 専徳寺 弘中 満雄がお取り次ぎさせていただきます。

 

今、お参りの際、ご門徒の皆様にアンケートをしています。
質問の内容は、

 

  「あなたは、命が終わったらどこへ生まれたいですか?」

 

当初、ほぼ全員「お浄土」と応えてくださるだろうと期待していました。
しかしおよそ半分は「天国」「この世」「自然」「お星様」といった、
お浄土以外です。
住職として責任を感じ、恥じ入るばかりです。

 

浄土真宗は、お浄土を願う教えです。
その事に関して、七高僧のお一人、源信和尚が
「お浄土は恩返しができる世界」として、こんな事をおっしゃっています。

 


「人の世とは、無常の世、願い通りにならないものだ。
子どもが大きくなって、いよいよ親に恩を返そうと思った時には、
もう親はいない。
またたとえ親がいても、
厳しい現実の前では恩を返す力、経済的ゆとりがないのだ。

親だけではない。
恩師・妻子・友人、みな同じである。

……いや、私は本当に恩返ししたいと思っているのだろうか。
私の本音は、
たくさんの恩に対する心どころか、
欲望を空しく振り回し、
いよいよ迷いの罪を重ねているではないか。
その結果、
また私は迷いの境界を巡るのだ。
親をはじめ多くの恩人達と、別れ別れになってしまうのだ。

この私は命終わってどこへ行くのだろう。
地獄か、餓鬼か、畜生か。
自業自得だから仕方がない。
しかし、もしも野の獣、山の鳥となったならば、
どうしてあの方たちのご恩を返し、お礼ができよう。悲しいかな、全て忘れてしまうのだ。

しかし、もしお浄土に生まれ、仏になったならば、
必ずあの恩あった人達全員に、遇うことができるのだ。
お礼ができるのだ」。

 

このように源信和尚はおっしゃるのです。

 

「天国、冥土、草葉の陰……いろんな“あの世”がありますね。
でも私にはご用がありません」

 

そうおっしゃったお婆ちゃんがおられたそうです。
そうです、
他の世界が悪いというわけではないのです。
けれども私達には、お浄土へ参る大切な用事・目的があるのではないでしょうか。

 

最後に、あなたにおたずねいたします。
「あなたはいのち終わったらどこへ生まれたいですか?」

 

(終わり)

 

 

 

《真言と念仏(下)(11月前半)》

  
【この世でさとる?】

前回のつづき)

 

真言宗を始め、
他の宗旨は大変すぐれた教えです。
「この世でさとりを得る」ことのできる教えです。

 

それに対して浄土の教えは
「あの世でさとりを得る」ための教えです。

 

世間で最も有名な浄土真宗の本『歎異抄』。
その第15条に、次のような言葉があります。
長いのですが、現代語版を引用します。

 

(15)あらゆる煩悩をそなえた身でありながら、
この世でさとりを開くということについて。

 

このことは、もってのほかのことです。

 

この身のままこの世で仏になるというのは
真言密教の根本の教えであり、
三密(さんみつ)の行を修めて得られるさとりです。
また身心のすべてが清らかになるというのは法華一乗の教えであり、
四安楽(しあんらく)の行を修めて得られる功徳です。
これらはすべて、能力のすぐれた人が修める難行の道であり、
観念を成就して得られるさとりなのです。

 

これに対して、次の世でさとりを開くというのは
他力浄土門の教えであり、
信心が定まったときに間違いなく与えられる本願のはたらきなのです。
これは、能力の劣った人に開かれた易行の道であり、
善人も悪人もわけへだてなく救われていく教えです。

 

この世で煩悩を断ち罪悪を滅することなど、
とてもできることではないので、
真言密教や法華一乗の行を修める徳の高い僧であっても、
やはり次の世でさとりを開くことを祈るのです。
まして、戒律を守って行を修めることもなく、
教えを理解する力もないわたしどもが、
この世でさとりを開くことなどできるはずもありません。
しかしそのようなわたしどもであっても、
阿弥陀仏の本願の船に乗って、
苦しみに満ちた迷いの海を渡り、
浄土の岸に至りついたなら、
煩悩の雲がたちまちに晴れ、
さとりの月が速やかに現れて、
何ものにもさまたげられることなく
あらゆる世界を照らす阿弥陀の光明と一つになり、
すべての人々を救うことができるのです。
そのときにはじめてさとりを開いたというのです。

 

この世でさとりを開くといっている人は、
釈尊のように、
人々を救うためにさまざまな姿となって現れ、
三十二相八十随形好をそなえ、
教えを説いて人々を救うのでしょうか?
このようなことができてこそ、この世でさとりを開いたといえるのです。
『高僧和讃』に、
金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光照護して ながく生死(しょうじ)をへだてける

(決して壊れることのない信心が定まるまさにそのとき、阿弥陀仏の慈悲の光明に摂め取られ、
つねに護られて、もはや迷いの世界に戻ることがない。)

とあるように、
信心が定まるそのときに、
阿弥陀仏はわたしどもを摂め取って決してお捨てにならないのですから、
迷いの世界に生れ変り死に変りするはずがありません。
だから、
もはや迷いの世界に戻ることがないのです。
しかしこのように知らせていただくことを、
さとりだなどとごまかしていってよいものでしょうか。
大変悲しいことです。

 

「往生浄土の真実の教えでは、
この世において阿弥陀仏の本願を信じ、
浄土に往生してさとりを開くのであると法然上人から教えていただきました」と、
今は亡き親鸞聖人のお言葉にはございました。
(『浄土真宗聖典 現代語版 『歎異抄』 35〜39頁)

 

【念仏は真言】

このように、真言と念仏は全く立場が異なるのです。

 

ところで、
真言には「真実の言教=真実の教え」という意味もあります。
親鸞聖人は『教行信証』の初めに次のような言葉を述べておられます。

 

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
(浄土真宗聖典注釈版 p. 132)

浄土真宗にとっての真言(真実の教え)とは、
この私を「摂め取って捨てない」という阿弥陀様の本願のことなのです。

 

一生涯、煩悩生活に明け暮れる私を、
決して浄土への道から外さないのが如来の本願力。
ですから、
念仏生活に決して無駄な一日はなりません。
どのような日々であろうとも、
自分の煩悩心にとらわれながらも、
そのまま包まれている安心と喜びに、この世を生きます。

 

【生きてよし 死んでよし】

(たしかではありませんが)こんな話を聞きました。

 

温泉津の浅原才市さんが、
ある時重い病気にかかったのだそうです。
医者から「治る見込みがない」と言われ、
近所の人も心配してお見舞いに。

 

すると才市さんは、
「ああ、ありがたい。
いよいよお浄土へ参ることができる」
そう言って、お念仏したそうです。

 

それから数週間。
才市さんは介抱に向かいました。
近所の人はまたお見舞いに。

 

すると才市さんは、
「ああ、ありがたい。
まだ娑婆の縁はつきていなかったようじゃ。
阿弥陀さんのお給仕をさせてもらえる」
そう言って、お念仏したそうです。

 

念仏は浄土でさとりを開く教えです。
決して煩悩まみれの私を離そうとしない阿弥陀様と一緒だからです。
そのことは、
今、もうすでに「必ずさとる」という目的の中にいる事を意味します。
ならば私のする用事は何もないのです。

 

ただ「有り難いことです」と、
報いても報い切れない阿弥陀様とのご縁、仏のご恩に対し、
お念仏申し、ご恩報謝の生活を楽しみながらの毎日です。

 

(おわり)

 

 

 

《真言と念仏(中)(10月後半)》

  

前回のつづき)

【何が書いてあるのか】

 

先週の火・水曜日、宗学院の旅行に行ってきました。
小倉の永照寺、中津の照雲寺と長久寺と浄光寺。
原口針水和上ゆかりの阿蘇の光照寺。
博多のど真ん中にある万行寺(七里和上で有名)。
どこも大変有り難いご縁でした。

 

その中で次の額に出遇いました。

 

オンマニペメフーン

 

「『阿弥陀経』の一句かな?
……でも違うような。
「オーン マニ」……えっ、もしかして真言?」

 

気になったので帰宅後すぐに、
真言宗の先輩に尋ねると、
「オン マニ ペメ フーン (om. man.i padme huum. //)」
と読むのだと教えてくださいました。

 

「ペメ」はサンスクリット語の「パドメ(パドマ)」で、「蓮華」を意味します。

 

この真言はチベット仏教では代表的な真言、
観音菩薩の真言(マントラ)でした。
チベットでは多くの人が日常的によく唱えるそうです。
唱えれば唱えるほど功徳があると言われます。
またこのマントラを書いたマニ車(マニコル)という物を回せば、
マントラを唱えた功徳と同じ功徳を得るのです。
チベットにいくと、マニコルを回す人をよく見かけるそうです。

 

【大乗至極の教え】

 

「真言」や真言宗について親鸞聖人はどのようなことをおっしゃっているか。
ご消息(お手紙)にこのような事が書いてあります。

 

聖道門(しょうどうもん)というのは、
すでに仏になられた方が、私たちを導こうとして示された、
仏心宗(禅宗)・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗などの大乗究極の教えです。……
 (第1通 『浄土真宗 現代語訳 親鸞聖人御消息・恵信尼消息』5頁)

真言宗をはじめ、他のご宗旨は、大変勝れた教(大乗至極の教)なのです。
しかしこのお手紙では最後に、

選択本願は浄土真宗なり。……
浄土真宗は大乗の中の至極なり
 (浄土真宗聖典注釈版 737頁)

と結論づけます。

 

真言宗も浄土真宗も共に大乗の至極とはどういうことでしょうか?

 

【宇宙船と私】

 

『尊号真像銘文』にはこのようにあります。

 

「頓」はこの娑婆世界にしてこの身にてたちまちに仏に成ると申すなり。
これすなはち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。……
「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。……
このゆゑに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。
  (浄土真宗聖典注釈版 668頁)

真言宗を始めとする多くの教えは、
この世この身で即座に仏に成るという教えです。
大変勝れた教えなのです。

 

しかし問題は、私自身です。
悲しいかな猿のような凡夫の心を持つ私は、
いつまでも欲望のおもむくままに生きようとする心根です。
そんな私にとって、
聖道門は大変難しい行の教えなのです。

 

どんなに素晴らしい教えがあっても、
その教え通りの行ができなければ、
意味がありません。

 

たとえば飛行機の免許さえない私に、
何千億円もする素晴らしい宇宙船を1つ手渡されても
どうにもならないのです。

 

もちろん宇宙船を使って“何か”はできるでしょう。
それは宇宙船を持っていなければ決してできない“何か”かもしれません。
けれども、宇宙船の目的は宇宙へ行くことです。
決して本来の目的に向かって“操縦する”ことは私にはできません。

 

親鸞聖人は、
選択本願、阿弥陀様の本願に出遇いました。
それは他力の教えでした。
言い換えると、操縦者のいる宇宙船に出遇ったようなものです。

 

私は何もしない。
ただ宇宙船に乗るだけです。
余計なことはしません。
けっして操縦席のボタンを押すような真似、
自らの煩悩の智慧は使わないのがルールです。
阿弥陀様の智慧にお任せです。

 

仏教は私には想像もつかないほど、
宇宙のように深遠です。
目的はどこにあるのか、どうやっていくのか。
だから私たちは手短な目的で満足しようとします。
所謂、「生きる目的(生き甲斐)」です。
……その目的は、いつか失われることを、うすうす察していながら。

 

「生きがい」にしがみつかないで済む教えがあります。
宇宙という大海を、大きな「目的」向かって泳ぎ切る手だて。
それを親鸞聖人は「選択本願」と言われたのです。
そしてそれを「摂取不捨の真言」とも言われました。

 

(つづく)

 

 

 

《真言と念仏(上)(10月前半)》

  
【初めての納骨】

 

8月の終わり頃です。
Yさんが1人で兵庫から、ここ山口の専徳寺に来られました。
ベレー帽をした品の良さそうな方でした。

 

年は80過ぎ。
小学生の低学年までこちら(通津)で生活し、
その後はずっと関西にお住まいなのだそうです。

 

「妻がなくなりました。
葬儀は向こうですませましたが、
お墓はこちらにあるので、
○月○日、このお寺で49日の法要と納骨をお願いします」
そう言ってサーッと帰っていかれました。

 

それから2週間後。
時間通りYさんは来られました。

 

本堂で49日の法事をつとめた後、
作務衣に着替え、軍手と樒を持ち、
Yさんと2人で墓地に出発しました。

 

墓地は駅裏の山の中。
「こんな所にも墓地があるのか」
距離はありませんでしたが急な坂道を登りました。
軽く汗が出てきた頃、小雨が降り始めました。

 

お墓はかなり古いものでした。
「明治3◆年建立」とあります。

 

「このお墓はどこから納骨するのですか?」
「わかりません」
「探していいですか?」
「どうぞ」

 

墓石の前の香炉台の石をずらしました。
すると微かに穴らしきものあるのですが、
中は完全に土で埋まっていました。
しかもやっかいなことに、
太い根っこが2本、穴から外に飛び出しています。
どうやら墓石のそばに生えている大木の根のようです。

 

「最後に納骨されたのはいつですか?」
「さあ……」

 

これではとても納骨できない。
仕方なく墓地を下りて、近くのご門徒の家からスコップと鍬を借りました。

 

それからどのくらい時間がかかったでしょうか。
小雨の中、
墓石の下の根を切り取り、土を掘り起こし、
かろうじて空間をつくり、
骨壺から遺骨を布にうつし、
納骨し、読経しました。
終わった時、作務衣は汗と雨でびっしょりでした。

 

【一字違い】

 

帰りの電車の時刻まで、Yさんとしばらくお話をしていました。

 

「どちらでお葬儀されたのですか?」
「○○寺」

 

あまり聞き慣れないお寺の名前です。
そんな名前の真宗のお寺もあるのかと思っていた時、

 

「でもこうして終わってホッとしました。
同じ真言宗のお寺が通津にあって良かったですわ」

 

え、真言宗!
軽くめまいがしました。
「いや、うちは(浄土)真宗ですよ」といいかけてやめました。
今更言ってどうするのだと。

 

Yさんは電車に乗って兵庫に帰って行かれました。
見送りながら、心の中で思いました。

 

別にいいのです。
他のご宗旨だからって、納骨に困っておられたのですから。
わざわざ兵庫から何時間もかけて来られたのです。
少しでもお役に立てたのだから。
けど、「真言宗って、何なんだ〜〜!」

 

(つづく)

 

 

 

《傾聴施(9月後半)》

  
【納骨堂の前で】

「○○さん、ようこそ(のお参りです)」

 

夕方の5時半すぎでした。
庭の水撒きをそろそろ終えようと思っていた時、
Mさんがこられました。

 

「お参りして良いかい?」
「どうぞ!」

 

「本当は5時までなのだけど」とは思いつつ、
納骨堂へ行かれたMさんを見送り、
ホースを片付けていました。

 

しばらくしてMさんが戻ってこられました。
車に向かうMさんに、何気なく、

 

「今日はお一人ですか?」
「じつは家族と言い争ってね」

 

家の中にいるとムシャクシャして、
家を飛び出してきたのだそうです。
行くあてもなく、いつも参る納骨堂へ来たのだそうです。
「ここへくれば、少しは気持ちが落ち着くかな」
そう考えて。

 

2人でたっぷり一時間、話しました。
数年前にした手術の事、
それから調子がおかしくなった事、
薬があわない事、
ストレスを解消できない事、
家族とのトラブル、
昨今思う事、などなど。

 

Mさんは帰っていきました。
普段なかなか話すことができなかったMさんと話ができ、
私も嬉しく、
またMさんもとても喜んで帰られました。
聴き疲れましたが(笑)。

 

【傾耳施】

「無財の七施」(むざいのしちせ)をご存じでしょうか。
誰もが他人にできる七つの布施です。

 

1 眼 施(げんせ)   :優しいまなざし。
2 和顔施(わげんせ) :なごやかな顔つき。
3 愛語施(あいごせ) :温かい言葉。
4 身 施(しんせ)   :自らの身体での奉仕。
5 心 施(しんせ)   :共に喜び、共に悲しむ心持ち。思いやり。
6 床座施(しょうざせ) :座席や立場を他の人に譲ってあげること。譲り渡し。
7 房舎施(ぼうしゃせ):自宅に人を迎えたり、雨露を凌いでもらったり。おもてなし。

 

仏教徒として、家族で、職場で、試みてください。

 

そんな無財の七施に関連して、
最近、こんな言葉を知りました。

 

傾耳施(けいじせ)

 

岡野守也さんという方が提示されたものです。
「人の言葉や思いに耳を傾けること」だそうです。

 

これも誰もができる布施です。
相手の話に耳を傾ける。
それだけで相手は心がスーッと軽くなるのです。

 

この「傾耳施」に似た話を、ご門徒のA部さんに教えてもらいました。
ひろさちやさんの『仏教とっておきの話』(夏?秋?)にある話でした。
たしかこんな内容でした。

 

キリスト教のカトリックには、
 教会の中に「懺悔室」というものがある。
 信者はそこで罪を告白、しきりの向こうで牧師さんがそれを聴く。
 またそこは罪だけでなく、
 他人には言えない辛い悩みを打ち明ける場所でもある。

 

 この懺悔室の影響だろう、
 仏教にも「相手の悩みをジッと聞く」、
 「相手に自らの時間を差し出す」という行為(布施)がある。

 

自分の時間を布施する、大変興味深い話でした。

 

【傾聴ボランティア】

ところで、
浄土真宗本願寺派の仏教総合研究所では、
「傾聴ボランティア」というものを進めていると知りました。
「プロジェクトダーナ東京」というのだそうです。
(ちなみに「ダーナ」は「布施」のことです。)

 

「高齢者や障害者のために自分の時間を差し出し(布施し)、
お話を聞かせて頂くことを通して寺院の近隣地域に貢献する」

 

シンプルなボランティア活動です。
2010年1月から始まったそうです。
活動は月一回、一時間程度。

 

以下、『中外日報』(7月22日)より、
プロジェクトダーナ東京の江田智昭氏のインタビューを引用します。

 

江田氏は
「地域のために時間を差し出し、
できるだけ多くの人に多くの場所で活動してもらうのが目標。
特に僧侶は小さいころから檀家さんなど高齢者と接する経験が多く、
このボランティアに向いている」
と話す。

 

ボランティアを受け入れている都内グループの職員は
「利用者は外部の人との接触がいい刺激となり、
ストレスを発散できる」と評価。
「耳の遠い人が多いので、
間近で話のやりとりをしてくれるのがありがたく、
みんな楽しみにしています。
さらに回数を増やしてほしい」と歓迎する。

 

「檀家制度の限界が指摘される中、
こうした活動こそ寺がやるべきです」と江田氏。
俗世に出て法を説いた宗祖親鸞聖人の原点に帰る行為だともいう。
素晴らしい!
自分にもできる!
さっそく実践しよう!
さいわい近所にはたくさん養護施設がある。
そこへ時間を作って訪問しよう!

 

……あれから2ヶ月。
お盆参りが終わって1ヶ月。
実行できていません(反省)

 

(おわり)

 

 

 

《パレードに行こう(9月前半)》

  
【初めてのパレード】

 

8月の中旬、坊守の里帰りにあわせて、
家族で有名なテーマパークへ行きました。

 

到着すると1枚の紙を渡されました。
8月のイベント情報です。
お得な情報や、特別企画の紹介、
そしてパレードの案内が書いてありました。

 

「パレード!」

 

今まで生でみたことのない私は興奮しました。
よくテレビで観るディズニーランドのパレードを連想しました。

 

翌日、その紙に書いてある通り、入場門へ。
10〜15分、待っていました。

 

ことに暑い日でした。
3歳の息子があまりにせがむので、坊守は息子とジュースを買いに。
私は1歳の娘をだっこして、ジッと日陰で待っていました。
私たちの観る場所を確保しなければ……って周りには誰もいません。

 

「あれ、今日はパレード休みかしら?」

 

すると向こうの方から派手な黄色のオープンカーがやってきました。
たくさんのシャボン玉を飛ばしながら、
きれいなお姉さんが「ようこそー」と叫んでいます。

 

「きたよ、きたよ!○○ちゃん(娘の名前)! きたよ!」

 

興奮する私。ボーッとしている娘。

 

遠目に、車の後にはたくさんの着ぐるみが歩いています。
全部で1,2,3……7体です。
………7体? たった?
そして他には誰もいません。

 

車が私たちを通過します。

 

「みなさん! ようこそ!」

 

笑顔のお姉さん。
楽しい音楽、たくさんのシャボン玉。
そしてその後を、ノロノロと歩く無言の着ぐるみ集団。

 

坊守と息子が笑いながら戻ってきました。

 

「たったこれだけ!」

 

私も思いました。
車一台と7体の着ぐるみだけで、パレード!?
すると車の上のお姉さんが、

 

「みなさーん! これはみなさんと一緒に作るパレードです。
一緒に△△△エリアまで歩きましょう!」

 

そうなんだ、私たちもパレードの一員なのか。
仕方なく炎天下の中を一緒に行進しました。

 

無言の着ぐるみ達と一緒に歩きながら、あらためて彼らを観察しました。
チューリップの形、王様のような形、風車の形、塔もいます。
でも、かれらは何者?
おそらくこのテーマパークのキャラクターなのでしょう。
でも名前を知りません。
呼びかけることもできません。

 

ずっとにっこり笑っているお姫様がいます。
私の娘と同じピンクの服を着ています。
娘が喜ぶかと思い、そのお姫様の隣りを歩きました。
握手を求めてくるのですが、
娘はこわがって拒否していました。
細い眼をカッと見開いて、まじまじとお姫様をみていました。

 

15分ほどあるき目的地の広場へ。

 

「みなさん、一緒にパレードに参加してくださってありがとうございました。
ここで、一緒に歩いたお友達を紹介します。
このチューリップの形のお友達は「ちゅーりー」。
そして後のみんなは……名前募集中です。」

 

ショックで倒れそうでした。
そんなのと一緒に歩いていたのか。

 

娘をずっと抱いていたので汗びっしょり。
早々に近くのカキ氷屋へ行きました。

 

【笑顔の中身】

テーマパークの帰り。
パレードの事を思い出しました。

 

暑い中、お姉さんの明るい声。
そして7体の無言の着ぐるみ。

 

「あの中、相当暑いだろうな」

 

着ぐるみの顔は笑顔ですが、
中のスタッフは相当しんどいことでしょう。
でも私たちを一生懸命迎えてくれるのでした。

 

苦笑いしながら、
着ぐるみと一緒に歩きました。
何者なのか分からずに。
でもなんだか楽しい時間でした。
ずっと暑かったですが。

 

【娑婆世界へようこそ】

 

縁あってこのたび人間の世界にやってきた私。
そこは悲しいかな欲と迷いの世界でした。
四苦八苦の苦しみ、
煩悩のやむことなき世界です。
暑さ厳しい世界です。

 

  「みなさん、ようこそ!」

 

そんな世界に来た私を出迎えてくださる方がいました。
釈尊の教えです。

 

迷いの世界です。
当然、苦しい世界です。
けれどもこの度の人間の世界は、
その迷いの境界を超える世界でもあると
教えてくださいました。

 

  「さあ、一緒に歩きましょう!」

 

他のどこにいくでもない、
迷いの境界を超える道を歩く。
そこは一人ではありませんでした。
美しい微笑みをたたえていますが、
私には想像も及ばないご苦労をされてきた仏がたと一緒です。

 

【名前は有ります】

中でも私の真横を一緒に歩く仏。
ちゃんと名前がありました。
「ナモアミダブツ」
無量のいのち、無量のひかり、という意味です。
私の喜びに共に喜び、
私の悲しみに共に悲しんでくださる仏です。

 

  来た道に 山坂あれど この道は 浄土への道 念仏の道 (森田真円和上)

 

人生は季節に似ています。
穏やかな春・秋だけなら良いのですが、
大切な人と別れていかねばならない、
そんな冬の時期もあり、
つらい言葉を浴びせられる、傷つけられる、
そういう夏の時期もあります。

 

その全ての人生の景色ひとつひとつを、
共に歩み、
決して無駄とはさせないと働き続けなのがナモアミダブツ。

 

お念仏。
称えやすいその言葉の中身は、
この私を決して落としはしないという
果てしないご苦労、無限の功徳で一杯です。
その仏の目的は、
必ずこの私を浄土へ導く事。
必ずこの私を自分と同じ仏にする事。
それはすなわち、
必ずこの私を、
あらゆるものを平等に慈しみ、救っていく者にする事です。

 

お寺にお聴聞できる方はお聴聞ください。
せっかく同じ時代に生まれた私たち。
共々にお念仏のパレードを味いたく存じます。

 

(おわり)

 

 

 

《安穏なるために(8月後半)》

  
【家族サービスをよそおいつつ】

先日、家族と呉までドライブに行きました。
広島から呉までとても便利な高速道路ができ、
「気持ちいいよ。船も見られるよ」と家族を説得。
船を見られると息子は喜び。
初めて行く町に坊守も喜びました。
しかし私の目的は、別にありました。

 

【大和ミュージアム】

大和ミュージアムは呉市の海沿いにある建物で、
ユメタウンや、巨大な潜水艦の側にありました。
なかに入ってまず驚かされるのは、
10分の1サイズの模型、「戦艦大和」。

 

史上最大の戦艦でありながら、
まったく活躍できずに沈没した悲劇の戦艦、
当時の日本の技術の素晴らしさに感心しつつも、
この模型は、65年前、
たしかに私たち日本人が命をかけて戦っていたのだという事実を
淡々と物語っています。

 

ヤマトの隣りには「大型展示資料室」があります。
そこには有名な特攻兵器「回天」がありました。

 

こんなに小さかったのかと思いました。
ソナーの無い時代。
人間の目をつけて相手の船を捜し命中する人間魚雷。
戦争というのは本当に恐ろしいものをうみ出すものです。

 

他にも本物のゼロ戦や、砲撃用の実弾、
様々な「物言わぬ戦争の証言者」がいました。
しかし三階には、子どもが楽しく体験できる「船をつくる技術コーナー」や、
科学展(宇宙開発展)もやっていて、
館内はとても明るく、楽しそうな雰囲気です。

 

館長(戸高一成氏)のあいさつには、

 

「技術というモノが持つ素晴らしい一面と同時に、
多くの悲劇を生む要素をも持っているのだ、と言うことが伝わってきます。
……技術・戦争・平和、こういった重い内容を持ったテーマと真剣に取り組んでいるのです」
とありました。
若年層にも気軽に、楽しく、そして真剣にならざるを得ない空気を持っているミュージアムでした。

 

さて見終わった後に息子に、
「何が一番気になった?」
「エレベーター」
「……そうか。」
今度は子供なしでゆっくり訪れたいものです。

 

【世の中安穏なれ】

平和といえば、
今年の親鸞聖人750回大遠忌のテーマが思い出されます。

 

〔世の中安穏なれ〕

 

世界中が穏やかに安らかであることを願う言葉です。
これは親鸞聖人の次のお手紙から出ています。

 

往生を不定におぼしめさんひとは、
まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。
わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、
仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、
世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。(浄土真宗聖典784頁)

 

[現代語訳]
浄土に往生できるかどうか不安な人は、
まず自らの浄土往生をお考えになって、
念仏するのがよいでしょう。
自らの往生は間違いないと思う人は、
仏のご恩を心に思い、
それに報いるために心を込めて念仏し、
世の中が安穏であるように、
仏法が広まるようにと思われるのがよいと思います。

 

ここには「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」とあります。
そうなのです、
「世の中安穏なれ」とは、
「仏法ひろまれ」と表裏一体なのです。

 

世界が本当の意味で平和であってほしい、
そのために実現すること、
それは本当の法が世界にいきわたってほしいと願ったのです。

 

【平和の実現のために】

平和のために私たちはいろんな行動をします。
戦争の悲惨さの語り伝え、
戦争の責任転換などへの対応(かつて教科書問題というのがありました)、
個人誌発行(非戦のメッセージをそえて)、
平和遺族会の結成……等々。

 

しかしその前に肝心な行動があります。
それは「法を聞く」という事です。

 

行動をするのは私の心です。
ところが私の心は日々、暴力・武器を生み続けています。
怒り、腹立ち、嫉妬、……その心が武器を、暴力を生み出します。
そんな平和を願いながら、日々、平和を壊そうとする自分とは何なのか。
「いや、相手が悪い。私は悪くない。」
正邪の判断、善悪の裁定をして、その心の矛盾を納得させようとする自分がいます。
それは結局、応急処置です。
本当の心の平和とは言えないのです。

 

自分でルールを決めるのではなく、
ルールを聞いてみることが大切です。

 

釈尊は心の平安の道(ルール)を説いた方です。
その教えを何度も聞き、
自らの心の矛盾の解決を聞く。
そこから生まれる行動こそ正しい行動なのではないでしょうか。

 

世界の人が「武器をもたない」という宣言も大事です。
しかしその言動を支える法も必要です。
人間の心は常に「武器をもたない」とはいきません。
人間を超えた言葉を聞く、
それが世界が本当の意味で平和になることである。
親鸞聖人の「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」は、
単なる願望ではなく、
真の平和の実現を目指した言葉なのです。

 

(おわり)

 

 

 

《せっしょうの夏(8月前半)》

  
【納骨式】

その日の午前中はまずご法事、
そして3件の盆参りがありました。

 

最初のK本さんのご法事では、
法事の後に納骨式がありました。
その家のお墓は山の中腹にありました。

 

夏の山は暑さはもちろんですが、
それよりも問題なのが、虫です。
山のお墓に到着すると、じわじわと蚊がよってきます。
久しぶりに“エサ”が来たと思うのでしょう。

 

お墓にお骨を納め、おつとめを始めました。
するとしばらくして後ろにいたK本さんが、
ゴソゴソとバックから何やら取り出し始めました。
(なんだろう)
と思いながらもおつとめ続行。
すると後の方で
「シューッ」
という音が。
殺虫スプレーをまいているのでした。
「チョロリと出せば コロリと落ちる」で有名なスプレーです。
お墓の周囲も念入りに噴射。
私の目の前(お墓の裏側)も通り過ぎます。
結局、おつとめの半分以上、スプレーをかけておられました。
おかげで蚊にさされることなくおつとめできましたが。

 

【盆参り】

お盆参り2軒目のY本さん宅へうかがうと、

 

「ご院さん、ちょっと待ってください!」

 

Y本さんが慌てていました。
理由を訊ねると仏壇にたくさんのアリが群がっているというのです。

 

「こんな事はこの家に引っ越して10年、初めてのことです。」

 

今年はお盆参りやめましょうかと言うと、
「少し待っていてください」との事。
しばらく待つこと5分。

 

「もう大丈夫です。どうぞ!」

 

仏間にあがらせていただきました。
もう仏壇にアリは見あたりません……いや、
お仏壇側の壁に何匹かアリがいます。
さっきまで随分といたのでしょう。
どこいったのかしら。

 

お灯明と線香をつけ、おつとめを始めました。
するとしばらくして後ろにいたY本さんが、
ゴソゴソと立ち上がってどこかへ行かれました。
(なんだろう)
と思いながらもおつとめ続行。
すると後の方で
「シューッ」
という音が。
殺虫スプレーをまいているのでした。
どうやらまたアリが畳に這い出してきたようなのでした。
私の背中にもあきらかにスプレーがかかる感覚があります。
だんだんY本さんも熱中してきました。
お仏壇横の壁にもスプレーをかけます。
私の脇でアリがバタバタと死んでいきます。
結局、おつとめの半分以上、スプレーをかけておられました。

 

「かわいそうですけどね」

 

おつとめの後、Y本さんはそうおっしゃっていました。

 

【仏法ひろまれ】

その日の法務が終わって、
お夕事のおつとめ。
如来さまの前に座って読経しながら、

 

  セッショウの夏

 

そんな言葉が浮かびました。

 

殺生せずにはおられない私です。
ところ構わずです。
おつとめ(読経)しながら、法を聞きながらでも、殺生します。
あらゆる生物がかけがえのない“いのち”をいただいているという知識を持ちながら、
殺生はできるのです。
いや、おつとめ中はせずとも、
「おつとめが終わったら……」と、
殺生の算段をする私がいます。

 

「戦争のない、いのちを取り合うことのない平和な世界を」願う私。
しかし日常の私はいつも片手に殺虫スプレーを持っていたいのです。

 

縁がともなえば、どのような恐ろしい行為もやりかねない者が、私です。
そして、一番の問題は、
その事実を、結構忘れがちな私です。

 

「わたしは決しておかしくない。」
「たしかに殺したが、それ相当の理由がある。正当防衛だ。」

 

言い訳のガスで自らの頭を覆っています。
自分の罪業を真正面から見ることができません。

 

仏法に出遇うという事は、
本当の私を知り抜きつつ、その私を救いの目当てとする方に出遇うことです。
「どのようなあなたであっても救う」と誓い、
その誓い通りに活動するナモアミダブツの声の仏。

 

本当のよりどころとなる法(み教え)に出遇った時、
言い訳の雲が頭を覆っている私ではありますが、
自分の恥ずかしさに頭がさがり、
そんな自分のままが仏の目当てあったのかという喜びに、
さらに頭がさがります。

 

「平和(殺生しない)と戦争(殺生する)」
「相手を傷つけたくないが相手を傷つけずにはおれない」

 

一生涯、矛盾した心持ちの私です。
いえ本性は後者(殺生者、傷害者)です。
その事を「あなたを救う」とよぶナモアミダブツの声から聞かせてもらうのです。

 

衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ。摂め取る。救う)する如来のはたらきを「摂生(せっしょう」といいます。
殺生の夏、そして摂生(せっしょう)の夏です。

 

(おわり)

 

 

 

《念仏のサイレン(7月後半)》

  
【思いやりのパッシング】

昼間に一人、運転していました。

 

横断歩道の前で、数人の小学生が立ち止まっていました。
ゆっくり止まってパッシング。
  「どうぞ」
帽子をぬいで歩道を渡る子ども達。
  「有難う」
声なき会話のやりとりです。

 

次に、ゆるやかな上り坂を運転していました。
すると対向車がパッシング。
  「気をつけて」
こちらもパッシング。
  「ありがとう」
速度を落として運転します。
すると、前方には警察。
スピード違反を取り締まっています。
  「私は大丈夫ですよね?」
ゆっくり通り過ぎます。

 

一人で道路を走る時、
私たちは誰とも会話せず運転しています。
すれ違うたくさんの人々。
そのほとんどは知らない人です。
けれどもパッシングをする時、
そんな静寂状態に会話が生まれます。
誰とも知らない、
もしかしたら二度とあうことのないだろう人達と通じ合うものが生まれます。
何ともいえない気分になります。
……そうでない時のパッシング(バッシング的パッシング)もありますが。

 

【連帯感を生むサイレン】

 

後ろから音がします。
「ピーポーピーポー♪」
救急車です。
次々と後ろの車は脇に寄っていきます。
私も、そして前の車も脇へ。
そして対向車も全部、脇へ。
一同に一台の車を先に通します。

 

通り過ぎる救急車。
「ピーポーピーポー♪♪」
ゆっくりと車道はいつもの状態に戻ります。

 

先ほどのパッシングと同じです。
それまで視界の車は全部無関係な人たち。
しかし救急車がやって来た時、
さっきまでお互いうつむいていた車が一斉に協力し合うのです。

 

【見えない中身】

ところで何故、
全ての車は救急車のサイレンが聞こえたら脇に寄るのでしょう?

 

一つは交通ルールだから。
けれどもお互い、無意識に知っているのです。
あの白い車の中身を。

 

あの中に、見えませんが苦しんでいる人がいるのです。
血を流しているのかもしれません。
呼吸困難なのかもしれません。
一刻も早く治療しなければならないのです。
その気持ちが脇に寄せるのではないでしょうか?

 

え?
そんな事は考えた事もない?
そうですか…。
では今度救急車が通る際、想像してみてください。
あの車の中は自分の身内かもしれないと。
もしくはあの車内には、
親戚の友達の家族のお世話になっている習い事の先生の親がいると。
その人が一刻をあらそっている……はずです。

 

【明るい日】

サイレン(警笛)ならす救急車。
中は見えませんが間違いなく緊急状態の方がおられます。

 

私の口から出る「南無阿弥陀仏」のお念仏。
これもサイレンと、み教えにお聴聞させていただきます。

仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ
     (蓮如上人、御一代聞書、第155条)

そうです。
仏法が不変に説き続ける真実。
それは無常、「私に明日はない」という厳しい現実です。
葬儀をつとめなければならないお寺の人間は、特に痛いほどこの事を感じます。

 

無常の風が静かに確実に吹くのが今です。
時間はないのです。
それなのに今の私はどこ吹く風、素知らぬ顔をして生きています。
煩悩という大病かかえて。
そんな超緊急状態の私を目当てに今、もう既に如来様の方から私に届いてくださいました。
南無阿弥陀仏の声の仏となって。

 

間に合いました。
私はサイレンならす如来のまっただ中。
間違いなく、病院ならぬお浄土へ参ります。
お浄土で煩悩は完治され、
仏となってまた帰ります。

「明るい日」と書いて、明日と読みます。

煩悩だらけの私を「めあて」と喚ぶお念仏に出遇った時、
人生は“明日なき”無常のまま、明るい未来ある今と変わります。

仏法は聴聞にきはまることなり (蓮如上人、御一代聞書、第193条)

お互いお聴聞を、み教えを大切にいたしましょう。

 

(おわり)

 

 

 

《アサガオはどこに咲くか(7月前半)》

  
【朝顔物語】

先月ご往生された浅井成海先生。
先生を偲んで先生の本を読んでいると、
次のような話がありました。
千利休と秀吉にまつわる逸話です。

 

その頃、
利休は「聚楽第(じゅらくだい)」の内に屋敷を与えられて住んでいました。
側近としても秀吉の大きな信頼を受けていたのです。

 

ある日のこと秀吉は、
「利休の庭に朝顔が咲いてみごとでございます」と家来から伝え聞きました。
そこで早速使いをやって、
「明朝訪ねるから」と通知し、
次の日、
利休の庭を訪れました。

 

ところが訪れてみると、
庭に朝顔は一つも咲いておらず、
みな刈りとられてました。
不思議に思って茶室に入ると、
床の間に、
葉をつけた「朝顔」が一輪だけ生けてあったということです。

 

利休は、庭に咲き乱れる沢山の朝顔の美を、
床の間の一輪の美に凝縮したのでした。
そして秀吉に、
本当の美とはこのようにして受け入れてゆくものです、
と教えたのでしょう。

 

一輪に集約された朝顔にこそ、
あらゆる美を見ることができるという考え方であります。
    (参照 浅井成海『法に遇う 人に遇う 花に遇う』(1988年、本願寺出版)

 

【念仏の花】

浄土真宗は念仏です。
でもその前に「聞法」です。
法を聞く。
それは「本願を聞く」ということ。
もっといえば「如来の本願のおいわれを聞き」ます。

 

私が称えるお念仏。
そこには仏教全体の美、功徳が凝縮されているとご本願に聞きました。
「何としてもあなたを救う」
一声のナモアミダブツに、
極重の悪人の私を救うためのあらゆる功徳を凝縮させたという、
如来の気持ち、如来のご苦労を聞きました。

 

お念仏の花は私の心で常に咲いています。
枯れない花、
あなたにも届いています。
南無阿弥陀仏と。

 

(おわり)

 

 

 

《究極の目玉焼き(6月後半)》

  
【お父さんの勝利】

 

この間、テレビ番組「ためしてガッテン」で、
究極の目玉焼きの作り方の話をしていました。

 

美味しい目玉焼き、
それには二つのポイントがあるのだそうです。
その一つが、

 

  「○○○○ように」

 

この○○○○に何が入るのでしょう?

 

番組では、ある二組のご夫婦が目玉焼き対決をしました。

 

  「パパ頑張れ!」

 

子ども達が応援しています。
普段めったに料理を作らないお父さんは苦笑い。

 

しかし勝負直前、
番組スタッフがお父さん達に耳打ち。
放映していませんでしたが、
次のように言ったと想像します。

 

  「作り方は隣りの奥さんのやっている通りしてください。
  ただし卵ですが、『○○○○ように』。
  それで勝てます」

 

お父さんは何かを見てうなずいていました。

 

対決が始まりました。
@お母さんがプライパンに火を点けます。
 お父さんもプライパンに火を。
Aお母さんが油を引きます。
 お父さんも油を。
Bお母さんが卵を割ってフライパンに落とします。
 お父さんも卵を割ってフライパンに。
Cお母さんがプライパンの加熱量を調整します。
 お父さんもプライパンの加熱量を。

 

「お父さん、真似してない?」
じろっとお父さんを見るお母さん。

 

そしてできた目玉焼き。
コックさんが食べて判定は………お父さんの勝ちです。

 

  「お父さん、すごい!」

 

子ども達は大喜び!
信じられないという顔のお母さん。

 

一体お父さんとお母さんは何が違うのでしょう?

 

【落下防止】

実はスタッフは直前にこう言ったのです。

 

「(卵ですが、)わが子のように」

 

そこでお父さんはどうしたか。
先ほどのBの時、
卵を割って落と……しはしなかったのです。

 

  「この卵はわが子なのだ」

 

そう思ったお父さんは、
卵を割って、黄身をソッとフライパンにのせたのでした。
たったこれだけで美味しい目玉焼きが出来るのだそうです。

 

以下、『ためしてガッテン』のHPからです。 

 

殻から出た後の黄身にとっては、
わずか10pの落下でもすさまじい衝撃。
このとき、卵には取り返しのつかない変化が起こっていたんです。
黄身の中を拡大して見てみると、
小さな丸い粒がぎゅっとつまっています。
これ、《卵黄球》といいます。
黄身は180万個もの卵黄球の集まりなのです。
この卵黄球、衝撃に非常に弱いため、
10pの高さから落としただけで、
ほとんどつぶれてなくなってしまうのです。
つまり目玉焼きを美味しく作るコツ、
それは目玉焼きを落とさない。
ソッとフライパンにのせるでした。

 

たかが目玉焼き、されど目玉焼きです。

 

【仏の受け皿】

如来さまと私の関係は、
昔から親子の関係と言われます。
私を一人息子、一人娘のように案じているのが如来さまです。

 

お父さんは卵の中にわが子を見ました。
殻が割れた途端、この高さからだったらこの子は落ちて傷むだろう。
そうはさせたくないと、落ちない高さで卵を割ったのでした。
如来さまも私の中に私の行く末を見たのでした。
命が終わった途端、積み上げてきた罪業、具えていた悪業の崖から真っ逆さまに迷い落ちていくだろう。
いや現時点も落下中の私でした。
そうはさせたくないと、今ここに届く仏、南無阿弥陀仏となったのでした。

 

間違いなく落ちていく私ですが、
間違いなく落としはしない仏の受け皿、御手の中、
それが念仏者の状況なのです。

 

(おわり)

 

 

 

《念仏の願い(6月前半)》

  
【飲み合わせ】

この間、薬局に行ったときです。

 

初めてだったので問診票を記入していました。

 

  「タバコを吸われますか?」
  「お酒は飲まれますか?」

 

いつものように書いていました。

 

すると、

 

  「珈琲は飲まれますか?」
  「グレープフルーツジュースは飲まれますか?」

 

グレープフルーツ?
珈琲は何となくわかるけれど、
何でグレープフルーツを訊ねるのか。
薬剤師さんに訊ねました。
するとグレープフルーツは高血圧などに対する治療薬の作用を強めてしまうのだそうです。

 

薬には飲み合わせがあります。
調べてみると納豆やブロッコリー、パセリやホウレンソウなどの緑黄色野菜は、
ビタミンKが入っているので血液凝固防止薬の作用を弱めるのだそうです。

 

食べ物だけではありません。
健康食品と薬品にも注意すべき飲み合わせがあるのだそうです。
たとえばワルファイン(血液固まるのを抑制)という薬を服用する場合、
健康食品のプロポリスを飲むと、凝固作用が効かなくなるそうです。
たまにお世話になるプロポリスですが、気をつけないと。

 

薬は医師、薬剤師の注意をよく訊いて正しく服用いたしましょう。

 

【真宗病院】

浄土真宗を病院にたとえたいと思います。

 

親鸞聖人が建立された浄土真宗という病院がありました。
そこにある患者さんが来院しました。
  「先生、私は別にどこも悪くないと思うのですが。」
そんな事を患者が言う前から、
ドクターお釈迦様はにっこり笑って、
カルテにさらさらっと「煩悩具足の凡夫」と書きました。
そして処方箋を。
そこには「大無量寿経」とあります。
それをもって薬局へ。
諸仏というやさしい顔の薬剤師さんが、
「これは念仏です。
別に特別生活に気をつけることはありません。
普段通りの生活をしてくださって結構です。
いつでも思い出した時、南無阿弥陀仏と称えてください」。
そう言われたので、
先生・薬剤師さんに言われるまま、「南無阿弥陀仏」。
難しくも何ともありません。
阿弥陀様との共同生活が始まりました。

 

【主役が違う】

浄土真宗は他に何の目的もありません。
ただ口からお念仏を申させていただく日々です。

 

「ご院家さん。そんな私、お念仏なんて恥ずかしい。
それにもっと人の役に立つ事とか、エコ生活とか、そっちの方が社会的に私は良いと思います。
他にも相手を傷つけない、嘘をつかない、そういう事は言わないのですか?」

 

人の役に立つ事をする、嘘をつかない。
大事なことです。
しかしその事とお念仏は、比較できないのです。
なぜならそれらは全て「私の願い」。
お念仏は「阿弥陀様の願い」通りに生きることです。
主役が違うのです。
そして先ほどの薬の飲み合わせ同様、
私の願いは絶対に差し挟ませないのが「ただお念仏申す」という教えです。

 

【人間の本性】

「人を助けたい」「自然を大事にしたい」といった願い。
私の中に、いや人間の中に必ずあります。

 

それは人の本性とつながっています。
相手に迷惑かけず、正直に生きいのです。
ボランティア精神、また自然保護もそういう精神からあらわれるものです。

 

しかしもう一つ私には願いがあります。
自己利益。
自分が助かりたい。自分が苦しい思いをしたくない。

 

これらの願いは普段はバランス良く共存しています。
しかしある条件、すなわち自分が少しでも危険な状況、
不利な状況になると途端にくずれます。
自己利益の願いが一人勝ちするのです。
それが私の願い、私の正体なのです。

 

「私の願い」は大事にしたいと同時に、
悲しいかなとても変わりやすい、
いつでも凶暴な野獣に変わってしまう、
そのことを知り抜いたた阿弥陀様です。
「あなたが思い浮かぶ事、願いはとりあえず脇に置いておきなさい。
差し挟んではいけない。」
仏の願いに身を置く。
それがお念仏の生活です。

 

お念仏。
たとえ最後は自分が自分を裏切るようなこの世で、
決して裏切らない阿弥陀様の願いに生かされる人生の歩みです。

 

(おわり)

 

 

 

《二つの晩年 (5月後半)》

  

 

【後ろがつかえてます】

 

「市役所に行った時のことです」と、
半月前にご主人を亡くされたあるお婆さんが次のような話を聞かせてくれました。
「亡き主人の手続きをしながら、
ふと主人の事を思い出し『やっぱり人は死んで行くのねえ』ってつぶやいたのです。
すると職員さんが、
『お婆ちゃん、それは諦めないと。
人間は毎日何万人と生まれてくるよ。
誰も死ななかったら世の中は人で一杯になってしまう。
後ろがつかえているのだよ』
と言われたのです。
その人に悪気は決してないのでしょうが、
“後ろがつかえてる”って、寂しいですね」。
苦笑いされながら話してくださいました。

 

「後ろがつかえている」。
聞きながら、そこには私も含め社会の本音が隠されているように感じました。

 

【社会の本音】

日本は今、超高齢社会と呼ばれます。
15年後の2025年には、
国民の4人にひとりが65歳以上の高齢者となるそうです。
(【捕捉】この約3年後、国民の4人に1人が高齢者に。2020年現在、65歳以上は28.7パーセント)
医療や福祉などで様々な問題が山積みです。
そんな社会は年をとり、病気になった私に決して甘くはないのではないでしょうか。

 

【如来の本音】

お念仏はこのような社会から私をすくい上げるのです。
なぜならお念仏の生活は、
如来様の願い、如来様の本音を聞き味わう暮らしだからです。
如来様はこの私に、
「もう既にあなたを浄土へ辿り着く人生に仕上げました。
今、あなたは老い、追い出されているのではないのです。
日々、浄土の仏となる身に近づいているのです」
と喚んでくださっています。
如来様の本音を聞き味わった時、
そこには仏に導かれていく人生の景色があらわれるのです。

 

社会は高齢者となった私には住みにくい所かもしれません。
しかしお念仏申す時、
人生は最後まで浄土という目的に向かって前に進みゆくものに変わるのです。
追い出されてゆく晩年から導かれてゆく晩年へ。
お念仏は私の人生観を転換してくださるのです。

 

※6月1〜10日の山口別院の3分間のテレフォン法話( 083-973-0111)に予定しています。

 

(おわり)

 

 

 

《追慕の念(後) (5月前半)》

  
【浄土へ参る理由】

(前回のつづき)

 

お世話になった人や動物との別れ。
その追慕の中にわき起こる後悔の思い。
「あの時、何故あんな事いったのだろうか。」
「何故もっと優しくしてあげられなかったのだろうか。」
誰しもあると思います。

 

七高僧の一人に源信和尚(※1)がおられます。
その著『往生要集』には、
私たちがお浄土を求めるべき理由の一つとして、
「(お浄土は)有縁の人を導き入れることができる(引接結縁(いんじょうけつえん))」と言われます。
そして次のように説明されます。

 

人の世とは、願い通りにならないものだ。
樹が静であろうとしても決して風は停まない(風樹の嘆)。
子がいよいよ恩返しと欲った時には親はいない(孝行した時分に親はなし)。
またどんなに恩返しの志が強くても、厳しい現実の前ではそれをする力(経済力、ゆとり)がない。
親だけではない。
君臣・師弟・妻子・朋友、さらにはあらゆる恩人、あらゆる友人、みな同じである。

 

…いや、私の本心はたくさんの恩に対する志どころか、愚痴・貪愛の心を空しく振り回し、
いよいよ迷いの輪廻の業を増しているではないか。
当然またその業の結果によって私は迷いの境界を巡るのだ。
親をはじめ多くの恩人達……みなと別れ別れになってしまうのだ。

 

この私は命終わってどこへ行くのだろう。
地獄・餓鬼・畜生・修羅……(ハァ)。
私の責任なのだから仕方がない。
しかし、もしも野の獣、山の鳥となったならば、
どうしてあの人たちのご恩を偲び、お礼申すことができよう。
悲しいかな、全て忘れてしまうのだ。
     (中略)
しかし、もし極楽に生まれたならば、智慧は高く、神通も備わり、
あの有縁の恩人、お世話になった友人を心に願うとおり導き入れることができるのだ。
   (以上、住職私訳 原文は※2を)

 

【本物の追慕の念】

追慕の念が、
単なる悲しみ・後悔の念で終わっては残念です。
なぜならその悲しみ、後悔の念はいずれ自分で忘れ去ってしまうのです。
そう時間をかけず。
長くて三年。

 

後悔が後悔のまま終わらない世界があります。
悲しみをご縁として、どうぞお互い聞法にいそしみたいと思います。
それこそが本当の恩返し、本物の追慕の念ではないでしょうか。

 

「有難うございました。
つらかったけれど、
あなたとの別れがあったからこそ、
法に出会えました。」

 

聞法とは、お寺にお参りすることです。
「また会う世界」、お浄土の話。
私の価値観が根柢からひっくり返される智慧の話。
頭が下がる世界……。

 

どうぞ近くのお寺の法要へお参りください。
お説教を聞いてみてください。
浄土真宗本願寺派のお寺へ(笑)。
(ちなみに当山の法要は今度は5月28日です)

 

※1
源信僧都(942-1017)は、七高僧の第六祖です。
7歳で父と別れ、その遺言によって9歳の時に出家されます。
有名なエピソードがあります。
ある時、天皇より、その才能が認められ、
「布帛(ふはく)の賞」(布と絹の織物)を賜りました。
うれしさのあまり郷里の母親にその織物を送った所、
後日、母親から、
後の世を 渡す橋とぞ 思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき
(他説に「後の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」)
の歌とともに織物は送り返されてきました。
母の歌に悔悟した源信僧都は、
あらためて、名声や損得の思いを離れ、
仏道修行に励まれました。
そして最後は、母に往生浄土の道をすすめられました。

 

※2
「第六に引接結縁の楽といふは、人の世にあるに、求むるところ、意のごとくならず。
樹、静かならんと欲へども、風停まず。
子、養せんと欲へども、親待たず。
志、肝胆を舂くといへども、力水菽に堪へず。
君臣・師弟・妻子・朋友、一切の恩所、一切の知識、みなまたかくのごとし。
空しく痴愛の心を労らかして、いよいよ輪廻の業を増す。
いはんやまた業果推し遷りて、生処あひ隔たぬれば、六趣・四生いづれの処といふことを知らず。
野の獣、山の禽、たれか旧親を弁へん。
(中略)
もし人、極楽に生じぬれば、智慧高明にして神通洞達し、世々生々の恩所・知識をば心に随ひて引接す。」
(源信『往生要集』「引接結縁」より)
(浄土真宗聖典[七祖篇], p. 869)

 

(おわり)

 

 

 

《追慕の念(前) (4月後半)》

  
【私と茂吉と、それからネズミ】

 

鼠等を 毒殺せむと けふ一夜 心楽しみ われは寝にけり(斉藤茂吉)
  【解説】
  今日はたっぷり「猫イラズ」をまいた。
  これだけまけば明日からネズミもおとなしくなるだろう。
  明日から始まる静かな夜。
  それを考えると嬉しくて嬉しくて、なかなか寝付けない。

 

最初に目撃したのは、去年の三月でした。

 

お彼岸の法座。
夜座が終わり、お説教のご講師を台所で接待していた時のこと。

 

目の前をサッと横切ったのは、小さなネズミ。
あっという間に冷蔵庫の下へ入っていきました。

 

  (私)「いや〜、ネズミでしたね(苦笑)」

 

ご講師の先生の目の前で起こった事件。
非常に恥ずかしかったのを覚えています。

 

以来、彼らと私は何度か出会うようになりました。

 

ある朝。
おつとめをしようとお内仏の部屋の電気をつけると、目の前にネズミが。
向こうもビックリしたようで、
逃げようとするが部屋がしまっていて逃げられない。
9畳の部屋を走り回ります。
30分、おつとめどころではありませんでした。

 

夕飯を食べていると、天井を駆け回る音。
イタチがネズミを追いかけているのです。
ガサゴソ音がするたびに、3歳の息子は不安そうな顔。
  「ネズミさん、もう行った?」
と訊いてきます。

 

先日のことです。
夜中。
一階で仕事を終え二階の寝室に上がっていました。
ふと見上げると、
階段の一番上の段を一生懸命上がっているネズミがいるではないですか。
結局、逃げられました。
すぐに二階を調べると………かじられた形跡が。
ショックでした。

 

猫ホイホイ、猫イラズを増やしました。
しかしなかなか捕まりません。

 

壁の中に 鼠の児らの 育つをば 日ごと夜ごとに われ悪みけり(斉藤茂吉)
  【解説】
  壁の向こうでゴソゴソ音がする。
  また彼らが増えているのか。
  この壁を引っぺがして成敗してやりたいができない。
  ……悔しい。

 

ネズミはとてもかわいらしい動物です。
外でみかけるならいつまでも見ていたい。
しかし見るのは私の家族・子どもが住んでいる家の中。
殺生はよくないことです。
しかし正直、本音は冒頭と今の二つの歌に近いものです。

 

私の心を見事に代弁してくれる斎藤茂吉なのでした。

 

【ミーヤ】

そんな昨今思い出すのが、
かつてわが寺にいた一匹のネコの事です。

 

名前は「ミーヤ」。
私が小学1年生の時、
同級生が生まれたばかりのミーヤを連れて来ました。
  「お寺なら飼ってくれるからってお母さんが言うから持ってきました。」
母は渋々承知しました。

 

雌のキジネコでした。
彼女はいろんな動物をよく捕まえていました。
その度に私はというと、強くミーヤを叱っていました。

 

ある日学校から帰ってくると、
ミーヤが冷蔵庫の側でジッと冷蔵庫の下を見ています。
ネズミを狙っているのです。
何をしても決して動こうとしません。

 

  「かわいそうなことをするなよ!
  もっと別な遊びをしろよ!」

 

しかし動かないミーヤ。
脇目もふらず冷蔵庫の下を睨んでいます。

 

あれは中学か高校生の時だったでしょうか。
学校から帰るとミーヤがいました。
口にはネズミ。
誇らしげに私に見せるのです。

 

  「お寺のネコのくせに何故、殺生する!」

 

部屋から追い出したのを覚えています。

 

【代役】

ミーヤは今から六年前、
2004年の12月26日、22歳に亡くなりました。
今年は七回忌です。

 

ミーヤの有り難みが痛いほど分かるこの頃です。

 

あの頃はネズミ退治が野蛮な行為にしかみえませんでした。
しかし今になって思います。
ミーヤは私に代わって、一番つらい役を引き受けてくれていたのではないか。

 

おつとめをしながら思う今日この頃です。

 

(つづく)

 

 

 

《無限の炎(後) (4月前半)》

  

(前回のつづき)

 

【一水四見】

こんな言葉があります。
「一水四見」(いっすいしけん)
聞いたことあるでしょうか?

 

人間にはただの綺麗な水。
しかし魚にとっては家(すみか)に、
地獄に落ちた者には火に、
天人には瑠璃でできた大地に見えるのです。

 

このように、
見る側のあり方によって同じ事物もその姿が変わる、
それが「一水四見」です。

 

たとえば新聞紙。
大人にとっては読み物に、
子供にとってはオモチャに、
山羊にとっては食べ物に……。

 

何を言いたいかというと、
仏と私では同じ煩悩でも姿が異るのです。

 

【煩悩が燃料】

仏教徒として仏を目指す私です。
しかしその心に仏を目指そうという意欲、火がつきません。
なぜなら私の心は、
悪業という寒風が吹き荒れ、
煩悩というまるで火のつかないアンコロで一杯な心だからです。

 

しかし阿弥陀様の光は「光炎王」と呼ばれます。
すなわち炎の王さまという名の光を放っているのです。
決して火が点くことのない私の心に仏の火を点けるからです。

 

そのことを親鸞聖人の次の言葉より味わいます。

なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。
          (教行信証、浄土真宗聖典、201頁)

「諸見(しょけん)」とは、諸々の偏見、偏った見方のことであり煩悩のことです。
阿弥陀様は私たちのあらゆる偏った見方を焼き去るので、
まるで大火のようだという意味です(※1)。

 

ここに「薪」とあります。
薪とは炎を燃やすための燃料です。

 

阿弥陀様にとってこの私の中の煩悩は「薪」に見えるのです。
すなわち邪魔どころか、
煩悩こそ仏の炎を点しつづける燃料と見られたのでした。

 

煩悩は私にとっては私の仏道を妨げるものです。
しかし仏にとっては、私の仏道を突き進ませるものに見えるのです。
なぜなら、
阿弥陀様は、私の煩悩を糧として、
今、私の中で炎となって活動くださっています。

 

一生涯つきることのない無限の煩悩・悪業を備えた私。
(私)「このまま一生終わっていくのか……」
不安な気持ちがあります。
しかし、そのような無限の煩悩を目当てとされる方にこの度出遇いました。
無限の煩悩を糧として、
無限に点り輝きつづける炎がありました。
(仏)「心配するな。そのまま一生終わって参れよ。」
私の煩悩にぴたっと寄り添う仏さまに、
まかせ切った人生でありました。

 

(おわり)

 

※1 参考
親鸞聖人のお言葉だけでなくお経には次のようにあります。  

なほ火王のごとし、一切の煩悩の薪を焼滅するがゆえに
  (仏説無量寿経、浄土真宗聖典、51頁)

これは浄土に往生した人を説明した箇所ですが、
阿弥陀様の事でもあります。
お浄土に往生した人は阿弥陀様と同じお悟りを得ているからです。
阿弥陀様は、
あらゆる煩悩を焼き尽くす、まるで炎の王だという意味です。

 

 

 

《無限の炎(中) (3月後半)》

  

(前回のつづき)

 

【訂正:同じでした】

 

前回、ガスマッチの話をしました。
「周囲温度が低い時(10度以下)は、着火しにくいときがあります」
と書きましたが、
その後、チャッカマンも裏面に同様のことが書いてあると知りました。
大変失礼しました。
ガスマッチもチャッカマンも、
寒さに弱い発火道具でした。

 

【火のつかないアルコール】

さて落語『不動坊』にこんな一段があります。

 

悪口を言った友達に幽霊を出して仕返しを企む徳さんと裕さんと新さん。
その準備をしている所です。
徳さん「裕さん、幽霊火持って来い、アルコールやがな……。
    ん? こんなもんフタしとかんと気が抜けてしまう気が抜けてしまうやないか……、
    ホンマにもぉ……、
    ん?? 出ぇへんなぁ?

 

裕さん「いっぱい詰まったるさかいなぁ」

 

徳さん「??? (舐めてみると、)甘ぁいなぁ?

 

裕さん「一番上等なん買ぉたさかいなぁ。」

 

徳さん「一番上等? どこで買ぉて来たんや?

 

裕さん「角の饅頭屋」

 

徳さん「饅頭屋にアルコールてなもん売ってるか?」

 

裕さん「売ってるがな、皿に盛って一つ五厘いぅて」

 

徳さん「何が?」

 

裕さん「アンコロ」

 

徳さん「……、アンコロとアルコール間違うか?
    ほんでまた、どこぞの世界にビン持ってアンコロ買いに行くやつ居てる?」

 

裕さん「そうかぁ、どうりで饅頭屋のおっさんも言ぅてたわ『詰めにくい』」

 

徳さん「当たり前や!!!」
アルコールのはずがアンコロ。
火が点くはずがありません。

 

【私の心の火は】

 

低温下では火がともらないガスマッチ&チャッカマン。
火が点くはずがないアンコロアルコール。
これが私の心模様です。

 

仏教徒なのに、
仏を目指す火がともらない私です。

 

なぜなら心の中を悪業という寒風が吹き荒むでいます。
いのちを殺め、悪態をつき、
「(あいつが)遠くへ飛んでいってくれたら……」と、
思ってはならないことを思う私。
それが四六時中です。
そんな時、私の心は温もりのない冷え冷えとした状態です。
そんな中では、
ガスマッチのごとく、
とても火がともりはしません。

 

さらにアンコロのような煩悩が満ちあふれています。
いかり、ねたみ、むさぼり、おろかさ……。
仏の心とは正反対の性質です。
仏を目指す火がともる余地などないのです。

 

【炎の王様】

さて阿弥陀様の光のお名前に「光炎王」があります。
お正信偈には、

「無碍無対光炎王(むげむたいこうえんおう)」

阿弥陀様の光は炎の王さまだというのです。

 

炎は火をつけるものです。
すなわち阿弥陀様は、
他では決して点けることができない条件の中でも、
火をともし、そして決して消えることがないのです。
だから炎の王さま。
それは他でもない、
この私の心の中に火を点けるのです。

 

こんな寒風吹き荒むアンコロ一杯の心にどうやって火をつけてくださるというのでしょう。

 

(つづく)

 

 

 

《無限の炎(上) (3月前半)》

  
【環境によくて】

去年、近くのホームセンターへ行くと、
「ガスマッチ」を売っていました。

 

ガスマッチとは
燃料がガスのライターです。
かたちはチャッカマンに似ていて柄が長く、
特徴は「使い捨て」でないこと。
ガスが減ってきたらライター用のガスで補充できます。

 

値段は少し高いのですが繰り返し使えるので、
長い目でみればお得。
しかも環境にも良い!
さっそく補充用ガスと一緒に買って帰りました。

 

【10度以下は】

…………今年2月のある寒い朝でした。
「お朝事」(※朝のおつとめ)のため本堂へ。
蝋燭に火をつけようとすると、
いつも使っていたライターの火が点きません。

 

そこで「ガスマッチ」を取り出しました。
ところが。

 

(カッチ………カッチ………カチッ………)

 

何度やってもだめでした。
火が点いてもすぐに消えてしまいます。
ガスを補充してもやはりダメ。

 

お昼過ぎにホームセンターへ行き、
店員さんに言いました。

 

「以前ここで購入したガスマッチ、火が点きません。
使い方教えてもらえませんか?」
「良いですよ。どれですか?」
「これです。ほら。」

 

持ってきたガスマッチのスイッチを押しました。

 

(カチッ、ボ!)

 

……なんと勢いよく火がつくではないですか!

 

「あれ?(恥) 
おかしいな(笑)。
今朝は何度やっても火が点かなかったんですよ。」

 

すると店員さんが教えてくれました。

 

「お客様。
ガスマッチはガスを補充してからしばらくガスが充満するまで火がつかないんです。
それから……そうですね……これはあまり寒い所では使用できません。」

 

店員さんがガスマッチの裏を見せてくれました。

 

  警告:周囲温度が低い時(10度以下)は、着火しにくいときがあります

 

店員さんにお礼を言って帰りました。
本堂の裏でもう一度、ガスマッチのスイッチをON。

 

(カチッ、ボ!)

 

火は勢いよく点きます。
壊れてはいないのです。
しかし、朝はどうやら使えない。
当然、お朝事では使えない。

 

ガスマッチを大事に引き出しへしまいました。
このガスマッチを使用するのは、
暖かな春になってからです。

 

またホームセンターへ。
使い切りのチャッカマンを大量に買いました。

 

(つづく)

 

 

 

《鷹とホトトギス(終) (2月後半)》

  

(前回のつづき)

【こなくて良いよ】

 

ご門主の本に次のような言葉がありました。

 

災害のときの緊急医療で、トリアージという作業があります。
治療する患者さんに優先順位をつけるのです。
被災された方には慰めの言葉もありませんが、
どうにも助からない方は医療の対象から外さざるを得ません。
また軽症の方の治療も後になります。
どうしたっていのちに序列を付けざるを得ないのです。

 

2005年の福知山線の事故のときも現場が混乱しました。
トリアージのため被害者の方々にタグをつけるのですが、
黒いタグをつけられた時点で
「あなたはだめですから、申し訳ないですが、医療から外させていただきます」
と宣告されることを意味します。
された方はまことにお気の毒ですが、宣告する側の心理的な苦痛も大きい。
自分の判断が人の生と死を分けるのですから辛い仕事です。
だが、救急救命を成立させるためには誰かが引き受けなければならない決断です。

 

なんとも割り切れない、まさに「末通(すえとお)らない」決断と言えます。
    (大谷光真(本願寺門主)『愚の力』p. 147)

 

トリアージ。
前回からお話している「派遣切り」にも通じます。

 

会社も経営が悪くなければこんなことはしたくないでしょう。
長年一緒に働いてきた仲間です。
けれどもトリアージと同じく、厳しい事を言わなければならない。
情けをかけられないのです。
  「君は今日から こなくて良いよ」
優先順位を付けざるを得ない、
悲しいかな相手を見捨てざるを得ないのが現実社会の本質です。

 

【仕合わせ】

八代目のご門主、蓮如上人(れんにょしょうにん)にこういう言葉があります。

仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ

世間の法、すなわち法律や道徳は勿論大切です。
それに順ってお互い穏やかにすごします。
しかしこの世間の法には最初から、
トリアージ・派遣切り同様、
私が見捨てられる可能性があります。

 

仏法、すなわち阿弥陀様の本願は、
そういう私の存在を知り抜いて建てられた誓いです。

鳴かぬなら 代わりに鳴こう ホトトギス

「南無阿弥陀仏」と、
仏にかしずく心など毛頭わき起こらない私です。
そういう根性の私に不可思議なる光となって至り届き、
私の口を通して「南無阿弥陀仏」と出て下さる。
その方を阿弥陀様と言います。
私といつもご一緒くださいます。

 

阿弥陀様の心は鷹によって目覚めたシビ王の心持ちです。

 

「自分のいのちと他のいのちの重さは同じ」

 

阿弥陀様は自分のいのちと私のいのちを同等にみています。
ですから「あなたが救われなければ、私も仏にはならない」と誓われたのです。
私を助けるためには、
私に飛び込んで、
私と一緒に歩まなければならない。
「南無阿弥陀仏」はもっとも側にいることのできるお慈悲の姿です。

仏法をあるじとせよ

南無阿弥陀仏は一生涯安心して仕えることのできる「あるじ」です。
決して切られることのない方と、
この度会えました。
「仕合わせ」ってそういうものではないでしょうか。

 

(おわり)

 

 

 

《鷹とホトトギス(其の三) (2月前半)》

  

(前回のつづき)
  泣かぬなら 鳴くのを買おう ホトトギス

【宮崎の人】

昨年の秋、お彼岸法要の前日のことです。
法要準備を終えてホッとしていた時、

 

「ごめんください。お参りしたいのですが。」

 

見知らぬ男の人が玄関にいました。
年は三十過ぎ。
薄黒いTシャツに灰色のズボン。
無精髭も目立ちました。
あわてて本堂へ案内しました。

 

「ありがとうございます。」

 

その人は焼香に座り込み、目をとじて一心に手を合わせ始めました。
しばらく後ろにいましたが、なかなか終わられないので廊下で待つことに。
坊守がお茶を廊下に準備してくれました。

 

ところが、
15分経っても一向にその人は本堂から出てこないのです。
心配になり本堂へ入ると、
なんとさっきと全く同じ状態なのです。
その真剣な様子に、
とても声をかけることができませんでした。
目をとじ一心に合掌。
あきらめて廊下に戻りました。

 

それから更に5分位してその方は本堂から出てこられました。

 

「ありがとうございました。」

 

しばらくお茶を飲みながら話をしました。

 

【自転車に乗って】

彼の名前はMさん。
宮崎出身。
高校を中退してから15年間、ずっと東京の派遣会社で働いていたそうです。
しかし一昨年、突然、派遣切りに遭ったのでした。
働く場所、住む場所が無くなったMさんは宮崎へ帰郷。
しかし故郷に仕事はありませんでした。

 

「東国原知事で元気な宮崎に仕事がないのですか?」
「私みたいな仕事のない人間は宮崎にたくさんいます。
……お寺さん。宮崎は自殺率全国トップなんですよ。」

 

突然「自殺」という言葉を告げられ何の返事もできませんでした。
(後日「自殺率」について調べました。
宮崎は全国トップでありませんが、
他県よりも割合は高いという調査結果をインターネットでみつけました。)

 

毎日何もすることが無くブラブラしていました。
そんな時、ふと高校の頃に友人が自転車で全国を回った事を思い出したのでした。
「そうだ、自分も自転車に乗ってみよう。」
宮崎から親戚がいる神戸を目指して出発しました。
そして神戸に到着し、その帰り道、このお寺をみつけて寄られたのでした。

 

「またいらしてください。」
「ありがとうございました。」

 

御礼を行って自転車に乗って出発したMさん。
厳しい日本社会の現実を改めて教えてくださいました。

 

(つづく)

 

 

 

《鷹とホトトギス(其の二) (1月後半)》

  

(前回のつづき)

【やさしさって一体】

この間、お参りの帰りにラジオ(RCC)を聞いていると、
「やさしさについて」がテーマの某宗教団体のCMが流れていました。
おもしろいCMでした。

 

たしかこんな内容でした。

 

舞台は学校。
日本史の授業が終わった時、
若い女子生徒が質問します。

 

「先生♪、
短気な信長は「鳴かぬなら 『殺してしまえ!』 ホトトギス」、
社交的な秀吉は「鳴かぬなら 『鳴かせてみせよう!』 ホトトギス」、
我慢強い家康は「鳴かぬなら 『鳴くまで待とう』 ホトトギス」、
だったら、
もしこれがと〜〜〜っても優しい人だとどうなるのですか♪」

 

学生の質問に若い先生はいろいろ考えます。

 

  鳴かぬなら 『のど飴なめるか?』 ホトトギス。
  鳴かぬなら 『それでもいいよ』 ホトトギス。
  鳴かぬなら ・・・

 

学生は「もっと優しく! もっと優しく!」とリクエストします。

 

そして行き着いた最後の歌は、

 

(先生)「鳴かぬなら 『代わりに鳴こう』 ホトトギス 『ホー、ホケキョ♪』」
(学生)「……先生、優しすぎ(冷)」
学生の冷ややかな反応。
でも実際にこんな人ばかりだったら、
戦争はおきないのかな等と考えながら運転しました。

 

【ペットショップへ】

このCMを聴いて思い出したのは、
某芸能人が吟じた「ホトトギス」。

 

  「鳴かぬなら 『鳴くのを買おう』 ホトトギス」

 

芸能人らしいのんきな歌だなと思いながら、
この歌と同じ考え方がよぎる自分に気づきました。
物質至上主義の世の中。
こういう歌の人は結構多いのではないでしょうか。

 

物が溢れかえる世の中です。
少し傷んだら修理・修繕せずにすぐに新しいものを購入。
事情はあるにせよ、そういうことができる時代。
便利な世の中です。
でもそういう物に対する安易な考え方が
ホトトギスならぬ「人間」へも波及しようとしているのが今の時代なのかもしれません。
派遣切り。
使い捨て社会というのは、
合理的なのかもしれませんが寂しい限りです。

 

(つづく)

 

 

 

《鷹とホトトギス (1月前半)》

  
【シビ王】

この間、子ども会で「シビ王」の話をしました。
今年度の法話テーマが「本堂にいる動物たち」。
毎回、本堂にいる動物にちなんだ法話をしています。

 

そして今回は北余間、
聖徳太子像の前のふすま絵に描かれた「鷹」にちなんでお話しました。
(注意:下記の「シビ王」の話は、
だいぶ子ども向けで個人的な描写が多い書きぶりになっています)

……昔々、インドという所の大きな国に「シビ王」という王様がいました。
とても心の優しい方でした。

 

王様は仏さまが大好きでした。
そしていつか自分も仏さまのように
多くのいのちを救うことができる者になりたい
と願っていました。

 

ある時、
王様がいつものように部屋にいると、
窓から一羽の鳩がとびこんできました。
そしてその鳩を追うようにして、
大きな鷹も部屋にとびこんできました。

 

鳩は言いました。

 

「王様、助けてください!
私は鷹に命を狙われているのです!」

 

それを聞いて王様は鷹に言いました。

 

「鷹よ。こんなか弱い鳩の命を狙うのはやめなさい。
かわいそうではないか。
どうかこの王に免じて許してやってくれ。」

 

「王様、それは無理な願いです。
私は何週間もの間何も食べていないのです。
おなかが空いて死にそうなのです。
それがようやく食事にありつけそうだというのに。
ここで今鳩を食べなければ私が死んでしまいます。
私に死ねとおっしゃるのですか?」

 

「……なるほど、それはもっともな言い分だ。
では鷹よ、これではどうだろうか。
鳩と同じ重さの“わたしの肉”をおまえにやろう。
それをやるから許してやってくれないか?」

 

「……それなら良いでしょう。
ではあそこに天秤があります。
それできちんと量ってください。」

 

シビ王はいわれたように近くにあった天秤の一方に鳩をのせました。
そして次に持っていた剣(つるぎ)を自分の腕に突き刺しました。

 

「く……!」

 

腕の肉を削ぎ落として天秤にのせました。

 

ところが……天秤はピクリとも動きません。
鳩の方に傾いたままです。

 

「そんなばかな。ではこれではどうだ。えい!」

 

今度は足の肉を削ぎ落として、それも天秤にのせました。
しかし、やはり天秤は動きません。

 

王さまは腕と言わず足と言わず、体中にある肉を天秤にのせましたが、
鳩と同じ重さにならないのでした。

 

「なぜだ。なぜ同じ重さにならない?」

 

血だらけで今にも倒れそうな王さま。
その時です。
王さまは気づいたのでした。

 

「そうか。こうすれば鳩と同じ重さなのだ。
鷹よ、またせたな。
これが鳩と同じ重さの“わたしの肉”だ。」

 

王さまは剣を自分の心臓に突き刺しました。
そしてどっと身を天秤にのせたのでした。

 

王さまは死んでしまいました。
その時、今までピクリともしなかった天秤が、ぐぐーっと動き出し、
ついに鳩とつりあったのでした。
鳩と同じ“いのちの重さ”を天秤は量っていたのでした。

 

その時、鷹は言いました。

 

「王さま、よくぞ気づかれました!」

 

そして一瞬にして鷹はインドの神、帝釈天になったのでした。

 

「それこそがまことの慈悲というもの。
あなたは必ずや仏になって、
多くのいのちを救う者になられるでしょう。」

 

帝釈天は王さまの身体を抱きかかえ、
空高く飛んでいきました。
周りの人たちはその二人を見ながら手を合わせました。

 

【スーパーへ】

お話の後、カルタゲームをして、
ぜんざいを子ども達とみんなで食べていました。
その時、隣りに座っていた小学一年生の男の子が、

 

「先生、さっきのシビ王だけどね……。」

 

おっ、この子はちゃんと聞いていてくれたんだと嬉しくなり、

 

「うん、シン君、何?」
「僕思うんだけど、
シビ王は自分の肉をあげなくても、
スーパーに行ってお肉を買ってきたら良かったんじゃないかな。」
「……ああ、それは良い考えだね」

 

お話の中で、
鷹が「自分は生肉しか食さない」と言うセリフを忘れていたこと、
いのちの重さは鳩も、王さまも、虫も、草木も平等だということを
きちんと説明(合法)できていなかったことを反省したのでした。

 

(つづく)

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