山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

スリルある人生(5月上旬)

【飛ぶことよりも】

 

緊急事態宣言が続いています。
GW(ゴールデンウィーク)もSHW(ステイホーム)へ。

 

テレビをよく観るこの頃。
先週、あるテレビ番組で日本人プロスカイダイバーのKさん(久保安宏氏)が、
「ベースジャンピング」というスポーツを紹介していました。

 

パラシュートをつけて高さ数百メートルから飛び降りるスポーツ。
一歩間違えると死に直結です。
世界で最も危険なスポーツの一つとされています。

 

Kさんは600回以上の経験者で、
しかもギネス認定、「上空3000mからパラシュートだけ先に落下させ、追いかけてパラシュートを開くタイムの最速保持者(50秒)」(こちらを参照)だとか。

 

ベースジャンピング

番組で挑戦したのは、
「150m上空からダイブ。80m離れた、直径60センチ(マンホールサイズ)に着地できるか!?」
あっさり成功していました。

 

そんなKさんにスタッフが質問しました。
「やっぱり、飛ぶのは怖くないんですか?」
すると苦笑いしながら、
「飛ぶことより、老いていく自分が一番怖いですね。」
Kさんは現在57歳だそうです。

 

【わが弥陀は】

 

アンチ・エイジング、○○体操……しかし肉体的老化に歯止めはかかりません。
その先は間違いなく死。
そう思うと「老」はいやなものです。

 

しかし漢字のなりたちからいえば、
「老」と「考」は同義なのだとか。

 

「老いるとは、思慮分別が備わって円熟した「考」になることを意味している。」
(串田久治『無用の用 −中国古典から今を読み解く−』, p.216))

 

「肉体的老化=精神的老化」ではありません。
物覚えは悪くなりますが、
だからこそ、余計な知識がそぎ落とされ、
大切な事に目を向けやすくなります。

 

「死ぬなんて考えたくもない」と思考停止するのではなく、
自分自身を深く見つめる契機にしたいものです。

 

老いや病いや死。
仏教ではさらに「生まれる事」も加えて、「四苦」と言います。
どれも私の思い通りにはいきません。
そんな不安と向き合うのが仏法です。

 

親鸞聖人は阿弥陀さまの話、
すなわち他力本願、往生浄土というお念仏の教えを説かれました。
主著『教行信証』にはこんな言葉を引用されます。

 

「わが弥陀は 名をもつて物を 接したまふ」(元照)

 

この私を救うという阿弥陀様は、
南無阿弥陀仏の名となり、
私と離れない仏さまになると誓われました。

 

【二度のジャンプ】

 

ベースジャンピングを観て思い出したのが、
今から22年前の5月のこどもの日。
山形県の朝日村へ行きました。

 

目的はバンジージャンプ。
高さは30メートルだったでしょうか、
橋から飛び降ります。

 

雨天の中、ドキドキしながら順番を待ち、
とうとう橋の上で自分の順番が来た時、
両足に太いロープが取り付けられました。
ロープの重みで川へ引きずり込まれそうになる恐怖。
カウントダウンの後、絶叫しながら飛び降りました。

 

……

 

それから7年後の五月下旬。
埼玉県桶川市(おけがわし)にあるホンダエアポートへ。
性懲りもなく、今度はスカイダイビングを。

 

勿論、一人で飛び降りる勇気も資格もありません。
初心者は「タンデムジャンプ」といって、
インストラクターと一緒に飛び降ります。

 

少し小雨でしたが、
誓約書に署名しながら、
「やっぱり、亡くなる人もいますか?」
インストラクターのお兄さんは笑顔で答えてくれました。
「大丈夫。年に一人ぐらいです。」

 

【フリーフォール】

 

雨がやんでフライトの許可がおり、覚悟しました。
目の前には扉のない小型プロペラ機。

 

乗り込む前に、先ほどのお兄さん、
「私があなたと一緒に飛び降ります。
気をつける事は一つです。
何もしないでください。私に任せてください。」

 

飛行機はみるみる上昇しました。
扉がないせいでゴーっという爆音が機内にひびきます。
とても会話できません。

 

富士山の高さをこえたあたりで、
お兄さんが「始めます」のサイン。
私の背中と自分のお腹をかなり強く固定しました。

 

ゆっくりと二人で立ち上がり、扉のない出口へ。
眼下には……何もありません。
たじろく私に躊躇なく、カウントダウンの後、
あっという間に空中に放り出されました。

 

落ちる恐怖。
背中から「手をひろげて」と指示され、練習通り両手を広げます。

 

徐々に落ちる事になれてきました。
不思議な事に落ちる感覚が消え、空を飛んでいるような浮遊感が。
フリーフォールという現象。
落ち着いて、見渡せば見たことのない壮大な景色。
「おぉ!」
感動していたらガクンという衝撃が。
パラシュートがひらいてました。
(余談ですが、パラシュート後の方が、高所恐怖症気味の自分としては恐ろしく……。)

 

【スリルある人生】

 

仏法の教え。
そこには日々、仏の心とは真反対、
煩悩の心に堕落し、自業自得の道理にて、
遂に地獄の世界へ墜落するわが身と気づかされます。

 

「死にさえすれば天国?
とんでもない、
死にさえすれば地獄です。」(M先生)

 

だからこそ、そんな私を救う手立てを案じた仏が、
南無阿弥陀仏の名となって、
この私と接着して離れない誓いを建てられました。

 

わが悪業という太いロープに縛られ、ひきずり落とされるような人生観から、
南無阿弥陀仏が接着した仏縁の人生観に。
わが弥陀のしっかりとした慈悲に固定されています。

 

墜落ではなく着地に転ぜられます。
スカイダイビングのインストラクターが何の不安もいだいていないように、
至極当然、願力のパラシュートで浄土の大地へたどり着きます。

 

先の見えない怖さからの震えではなく、
「これからどんな道を歩ませていただくのか」
心が勇み立つ震え、
喜びいさんで称える「いさみの念仏」を申す日暮らし。

 

老いの不安だけではありません。
コロナウイルスの影響はどこまで続くのか。

 

お念仏申しつつ、くっついて離れない如来様の、
「私に任せて」の声に響感する日暮らしです。

 

今日もハラハラドキドキの一日。
やるべき事を、お互い淡々と。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

緊急事態に(4月下旬)

【緊急事態】

 

緊急事態宣言が発令されて一週間経過しました。
徐々に感染が広がる毎日。
先日、岩国市にも感染者が出ました。
今週からマスクをつけての法事を開始……少し息苦しいです。

 

医療崩壊も不安です。
マスクも防護服も不足してきたこの頃。
最前線でいのちをかけて奮闘される医療現場の方には、ただただ頭が下がるばかりです。

 

前代未聞の大騒動。そんな時こそ浮き足立たず、自らの足下を見つめてみたいものです。
そこには「法灯明」とお釈迦さまが言われたごとく、
仏さまのゆるぎない支えが輝いています。

 

仏さまのお名前を「名号(みょうごう)」といいます。
阿弥陀様の名号は「南無阿弥陀仏」です。
口に称えると、それは「お念仏」です。

 

私たちの仏さまは名前で私を救われます。
どうして、名前が救いになるのか。
名前とは何でしょうか?

 

【由来】

 

みなさんは自分の名前の由来、ご存じですか?

 

あるドキュメンタリー番組で、こんな場面がありました。

 

俳優「松坂桃李(とうり)」さん。
桃李(とうり)は芸名でなく実名です。

 

仕事がうまくいかず落ち込んでいる時に父親に電話をして、
名前の由来を聞いていました。
「昔から変わった名前だなと思ってたんだけど、どういう意味?」
すると父親から、
「桃李ものを言わざれども、下おのづから蹊(こみち)を成す」という言葉を教えてもらいました。

 

中国の歴史家司馬遷(しばせん)の『史記』にある言葉で、
「徳のある誰からも慕われる人」になって欲しいという父の願いが。
ようやく自分の名前の意味を知り、何だかうれしそうでした。
(参考:ウィキペディア。また中国の故事「桜梅桃李」からも、
「自分らしさを大切に」という母親の願いがこめられているそうです)

 

名前には響きやバランス、呼びやすさもさることながら、
得てして親の願いが「漢字」や「言葉」にこめられています。
子供への最初のプレゼントが「名前」です。
親が亡くなった後も、残り続ける大切なもの。
単なる呼ぶための道具や記号ではありません。

 

【願いと行動が】

 

私たちがいただく阿弥陀様の名前「南無阿弥陀仏」。
そこにも阿弥陀様の願いが響いています。

 

インドの言葉「阿弥陀(アミダ)」を翻訳すれば「無量寿」「無量光」です。
「どこまでもあなたを放さない仏になる。」
「いつまでもあなたと共に歩む仏になる。」
私たちに向けて誓われた、
仏さまの願い、約束がこめられた名前です。

 

そして阿弥陀様の名は「名号」です。
号令のように私を大声で喚び通しです。
「われにまかせよ。かならず救う!」

 

喚ぶだけではありません。
名前だけつけて何もしない親なんていないように、
喚んだ通り、誓い通りに実行される仏さまです。

 

【救命士】

 

なぜそこまで願い、行動される仏なのか。
原因は私です。

 

ある意味、緊急事態(レベル5)の私です。

 

悲しいかな法を聞いてもさっぱり分からず、
仏の光明を観る能力も、神通力を察知する能力もない私です。
仏さまの事は何も分かりません。
どんな手立ても思いつきません。

 

けれど唯一知りうる事、それが名前です。
その唯一の接点に、
功徳のありったけをこめてくださる仏さまです。

 

救急車にいる救命士。
「大丈夫ですか!」と声をかけつつ病院までの搬送上、
患者に救命処置を施し、速かに病院へ搬送する国家資格です。

 

「南無阿弥陀仏」もそんな救命士のごとく、
「だいじょぶだぁ!」と喚び続け、
苦悩の私に功徳のありったけを回向し(ふりむけ)、
速かにお浄土へ往生させる、
諸仏が認めた救済の法なのです。

 

死ととなりあわせの日常ではなくて
浄土ととなりあわせの日々 (みつお)

 

緊急事態で先行き不透明な中、
「どうせ人生はかないもの」と開き直る前に、
あらためてお念仏の中に響く、
お浄土がとなりにある境界を聞かせていただきます。

 

【補足:耳をすます】

 

詩人谷川俊太郎さんの「耳をすます」。

 

みみをすます
きのうのあまだれに
みみをすます

 

みみをすます
いつから つづいてきたともしれぬ
ひとびとの あしおとに
みみをすます……

 

雨だれや人々の足音に集中するうち、はるか昔の自分の産声や母の子守歌、父の心拍を感じる。
千年、一万年前のひとの息づかいを思い、やがて、宇宙の始まりの「とどろき」に遡る。
未来の小川のせせらぎも流れ込んでくる。音が世界をいきいきと感じさせる。
(2015/5/17付 春秋 日経新聞より)

 

1200字をこえる何とも壮大な詩は最後まで「みみをすます」。

 

みみをすます
みちばたの いしころに
みみをすます
かすかにうなる コンピュータに
みみをすます
くちごもる となりのひとに
みみをすます
どこかでギターのつまびき
どこかでさらがわれる
どこかであいうえお
ざわめきのそこの いまに
みみをすます

 

みみをすます
きょうへとながれこむ
あしたの まだきこえない
おがわのせせらぎに
みみをすます

 

「これから日本はどうなるのか。」

 

家で静かに自粛しつつ、
けれども心が穏やかならざる毎日。

 

一人耳をすませてみます。
たとえば、
一声の鳥の鳴き声に、森の息吹を、周りの動植物を、一万年前の息づかいを感じます。
同時に、
一声のお念仏に、浄土の息吹を、あらゆるいのちを、無量寿の仏さまの喚び声を感じます。
「南無阿弥陀仏」と私がつぶやく時に聞こえる法の音。
阿弥陀様の種々なるはたらきに耳をすませます。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

みな兄弟(4月上旬)

【七歩の道】

 

今月8日は、お釈迦さまの誕生日「花まつり」です。

 

お釈迦さまは約2500年前、インドのカピラヴァストゥの王、
浄飯王(じょうぼんおう)を父とし、
摩耶夫人(まやぶにん)を母として誕生されました。

 

誕生の時のエピソードは有名です。
生まれてすぐに七歩あゆまれたお釈迦さま。
右手を上に、左手を下にしてただちに「天上天下唯我独尊」と宣言されました。

 

「七歩あゆむ」とは何か。
いろいろありますが、一つの解釈として「六を一つ超える」。

 

六とは六道。
「@地獄道、A餓鬼道、B畜生道、C阿修羅道、D人道、E天道」の迷いの境界です。
私たちが生まれ変わり死に変わり、苦悩の中を迷い続けている事を、
「六道輪廻」といいます。
そんな境界を超える「七番目の境界」、
それが仏道(さとりの道)です。

 

直枉カレンダー4月

「天上天下唯我独尊」とは何か。
「……なんだか自分勝手で偉そう」ではありません。
仏教の尊さ、そして「いのちの尊さ」を意味しているといわれます。

 

「釈尊は どんないのちも 天下一とみそなわし」(『直枉カレンダー』4月の法語)

 

生まれながらにしていのちに差別があるのではなく、
どのようないのちもたった一つのかけがえのないいのち……、
「仏の道を歩むいのち」であり、
「仏の救いに照らされているいのち」です。

 

【50年前の法話】

 

七歩あゆんだお釈迦さまと似たエピソードが、
中国にあると知りました。

 

昨年の10月に開催された「山口教区青年布教使大会」。
恒例の懇親会にて、
80歳半ばのN先生が乾杯の挨拶をされました。

 

「気づけば布教団でも最高齢の方になってしまいました。

 

……今の若い方々は話がとてもお上手です。
そんな若手布教使のお説教を聞きながら、
何を思い出したかというと、
50年前の自分が若い頃の法話です。
『三国演義』の「七歩の詩」を例話に使っていました。

 

『豆を煮るに豆まめがらを燃せば、
豆は釜中(ふちゅう)に在りて泣く。
本(もと)是れ同根より生ぜしに
相ひ煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる』

 

……(中略)……では乾杯。」

 

スラスラっと暗唱された事に感動し、
同時に「我々もまだまだ精進しなければ」と痛感した事でした。

 

【七歩の詩】

 

「七歩の詩」とは次のような物語です。

 

中国三国時代、魏(ぎ)の国を建てた曹操(そうそう)には、
曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)という兄弟がいました。
弟の曹植(192-232)は大変な詩才があり、
兄の曹丕は、
同じ後継者候補である弟の才能を大変ねたみ憎んでいました。

 

曹操が亡くなった後、
皇帝になったのは兄の曹丕でした。
日頃から憎んでいた弟を呼ぶと、

 

「お前に世間が言うような詩才があるかためしてやる。
『二頭の牛』を題材に詩を一首、作ってみせよ。
ただし七歩あゆむうちに作れ。
できなければ、お前を殺す。」

 

兄の無情な無理難題に対して、
曹植は見事に七歩あゆんだ後、
兄の条件通りの素晴らしい詩を詠みました。

 

悔しい兄は引き下がりません。
「七歩ではまだ遅い!私が一声出すうちに、すぐさま詩を作れ!」
「題は何ですか?」
「『兄弟』だ。」
「では……、
煮豆燃豆萁 豆在釜中泣 本是同根生 相煎何太急
(訳:人が豆がら(茎・葉・さや)を燃やして豆を煮ていました。
釜の中の豆が、泣きながら語りました。
「本来は同じ根っこから生長した兄弟なのに、
どうしてそんなに急いで煮ようとするのか」と。)

 

即座に詩を詠みました。
それを聞いた曹丕は、涙をこぼしたのでした。

 

【念仏の道】

 

同じ母親の胎内という「根」から生まれた特別な関係が兄弟です。
それはお念仏者も同様です。

 

同一に念仏して別の道なきがゆゑに。
遠く通ずるに四海のうちみな兄弟とするなり。(曇鸞大師)
 ※四海:世界全体を指す。

 

お念仏者は、性格も生活も違えど、
共々に、阿弥陀様の光明という父、
名号という母から生まれた、
「信心」という子供をいただいています。
他人であって他人ではありません。

 

いつも妬みや憎しみが消えない凡夫ですが、
そんな妬みや憎しみを洗い流す涙(なみだ)の仏、
「南無阿弥陀仏(「な」もあ「みだ」ぶつ)」と一緒です。

 

共に阿弥陀という名のファミリー。
いのちの最後、帰る家路も「お浄土」という、
「さとりの花(正覚華)」のある境界です。

 

辛い別れであっても、必ず再会いたします。

 

【みな兄弟】

 

「南無阿弥陀仏」

 

念仏者として、
即座に申す一声のお念仏の中に、
「天上天下唯我独尊」なるお釈迦さまの言葉も味わいます。

 

どのいのちも尊い。
それは単に「いのちはたった一つだから」ではありません。
どのいのちにも阿弥陀という救いの光が届いているからです。

 

ウイルスのような目に見えない虫、
地球の真反対に住む人々、
……今日殺してしまった小さないのちも、
阿弥陀さまの眼中では、救いのど真ん中です。
阿弥陀様という道理の上において、
私とは無縁なものは何一つありませんでした。

 

……昨今、コロナウイルスの影響で閉塞感が高まる国々。
本来ならばオリンピックで「てをつなごう♪」とした年でした。
そんな時だからこそお互い、「天上天下唯我独尊」のような、
各々がもつ宗教の言葉を忘れず、
自分勝手な行動をつつしみたいものです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

別売りではなく(3月下旬)

【ついてくる】

 

今年のお正月のテレビ番組、
「新春!爆笑ヒットパレード」で某漫才師がこんなやりとりをしていました。

 

「ここ最近でもらった一番高い物って何?」
「車。」
「すごいね!」
「家族全員で旅行に行ける大っきい車もらった。」
「うれしいね!」
「来月、納車。」
「楽しみやろ!」
「楽しみ。」
「待ち遠しいやろ!」
「待ち遠しい。だからね、僕もう先にタイヤ買ってあんねん。」
「?」
「やっぱり準備しといた方がいいと思って。」
「……何て?」
「だから、車楽しみにしてるから、先にタイヤ、買ってあんねん。」
「…………ついてくるで。」
「え?」
「タイヤ、ついてくるで。」
「ついてくんの?」
「当たり前やん!」
「別売りちゃんの?」
「別売りちゃうで! お前、どうやって届くと思ってたん?」
「じゃあ、ハンドルは?」
「買ったん?」
「うん。」
「阿呆ちゃうか! ハンドルだけ買ってどないすんねん!」
「じゃ、シートベルとは?」
「ついてくるに決まってるやんか!」
「じゃ、アクセルは?」
「ついてくる!」
「ブレーキ!」「ついてくる!」
「サイドブレーキ!」「ついてくる!」
「サイドミラー!」「ついてくる!」
「バックミラー!」「ついてくる!」
「ボンネット!」「ついてくる!」
「エンジン!」「ついてくる!」
「じゃあ、車体も?」
「お前、もう一台買ってもうてるやないか!
 バラバラの車、もう一台買ってるよ!」

 

正月から笑わせてもらいました。
(なお実際の台詞は「もらった物」ではなく「買った物」でした。)

 

【完成品】

 

阿弥陀様は法蔵菩薩であった時、
「無上殊勝の願」、
これ以上ない勝れた願いを立てられます。
本願とも、第十八願ともいいます。

 

「一切の者を平等に往生させる」というお慈悲の極まりの誓いです。
それは「南無阿弥陀仏」という、
自らの名に、一切の功徳を摂め、
等しくふりむけるというものでした。

 

名の中に功徳が全て摂まっているとはどういうことか。

 

たとえば「家」という名の中には、
棟も梁も柱も瓦も入っています。
「家ができた」と聞く時、
「柱はちゃんとあるのか」と思う人はいません。

 

同じく「車」といえば、
タイヤもハンドルもシートベルトも、
ブレーキもサイドブレーキも、
サイドミラーもバックミラーも、
ボンネットもエンジンもすべてついているのです。

 

「名号はこれ万徳の帰するところなり。」(法然上人)

 

阿弥陀様の名「南無阿弥陀仏」は、
目にはみえない仏さまが凡夫の私の為にしつらえた
完成品のすがたをあらわしています。

 

お念仏は阿弥陀様の名を称える事ですが、
別の言い方をすれば「名を聞く」、
私を浄土へ往生させる為の仏さまの功徳が、
完成され、私に届けられておりましたと聞かせていただきます。

 

【易しい行の意味】

 

お念仏はいつでもどこでも行える易しい行です。
そのため、簡単な行、レベルの低い行、
「これでは物足りない」、
「これでは不安だ」と思われやすい行でもあります。

 

けれども仏法を聴聞すると、
事実は全く逆になります。

 

「一切の者を平等に往生させる」というお慈悲の仏さまです。
仏さまが自らの願いを満たす為、
突き詰めた行がお念仏、
「わが名に功徳をこめてふりむける」という、
他力回向の行なのです。

 

もし布施や寄付行為が往生の条件なら、生活困窮者はアウトです。
才能や学問が必要ならば、智慧の劣ったもの、仕事に追われる人は往生できません。
戒律が必須なら、破戒の人、殺生する人は救われません。
少なくとも私にはかなわぬ阿弥陀様の誓いとなってしまいます。

 

阿弥陀仏はそういうオリンピック選手のような、
選ばれし優秀な人向けの誓いは立てられませんでした。
どこまでも私をもらさない為のご用意を整えられました。

 

念仏の中身を知らず、
勝手に「自分は他の人よりももっと清らかな行をしたい」と思う私がいます。
それを自力の見方といい、
凡夫の場合、拭いがたいおごりの心が混ざっています。
それは仏さまからまっすぐ我が身に届く清らかなはたらきを、
さらりとかわす疑い心です。
親鸞聖人が浄土真宗という教えに関して、
一番問題視した、
凡夫の心の一面です。

 

【別売りはない】

 

阿弥陀様から名号という一台の車を、いただきました。
間違いなく、お浄土までたどり着ける特別車です。
その他の善行、
「別売り」を買う必要はありません。
チャイルドシートもいりません。

 

なぜ余計な物を買ってしまう(他の善行を求める)のか。
現物が届いてないからかもしれません。

 

冒頭の漫才のやりとりのように、
「来月、納車」ではありません。
車は今届いています。
実際の車を見たのに、
誰がタイヤやサイドミラーが必要と思うでしょうか。

 

車はもうすでに届いています。
「南無阿弥陀仏」とお念仏を申し、
お念仏を聞く時、阿弥陀さまを見ます。
「他に準備するものは」と思うはずがないのです。

 

学問をしたり、才能をみがいたり、
仏像を彫ったり、お寺を建てたり、
心を磨いたり、精神を高めたり、
布施やら精進やらと善行を積んだり……、
ディアゴスティーニのように、
浄土真宗の行は組み立てるものではないのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

石の下にはいない(3月上旬)

【三月四日】

 

突然ですが、
今月四日は妙好人(みょうこうにん。篤信な念仏者を指す)で有名な「讃岐の庄松(しょうま)」の命日でした。
今年は百五十回忌でした。

 

庄松は現在の香川県東かがわ市土居(どい)で百姓をしながら暮らしていました。
生活は貧しくとも、素晴らしいお念仏者だった事が言行録に残っています。

 

無欲で、世間体を気にせず、
東に西に、仏法を聴聞し、思いのままに行動し、
人々にありがたい法味を伝えていきました。
そのさとしぶりは、少しのかざり気もなく、
単刀直入に法義の核心をずばり云いきっていたそうです。

 

【石の下には】

 

庄松さんにはお墓についての面白い話がつたわっています。

 

庄松が臨終の床についた時、
近くの村の市蔵(いちぞう)という同行(どうぎよう。同じ念仏の仲間)が見舞いにやってきました。
庄松は生涯、独身で、したがって子供もありません。
ひとりぼっちで寝ているすがたを見てあわれにおもった市蔵は、
彼のために墓をたててやろうと思いたちました。

 

他の仲間にも相談すると、みな賛成してくれたので、
市蔵は庄松の枕元へいき、
「死んだら墓をたてるから、後のことは心配するなよ。」
すると庄松は、にこりともせず、
「おらぁ、石の下にはおらぬぞ!」
と言い放ったそうです。

 

お念仏に生きる者は「独り生まれ独り死ぬ」と自覚しつつ、
如来様と常に一緒です。
よって煩悩の生涯がつきれば、
ただちにお浄土という永遠な「いのち」の境涯に生まれます。
そして阿弥陀様と同じ功徳を完成し、
すぐさま阿弥陀様と同じくあらゆる世界にみちみちて、
苦悩の者を救うはたらきをさせて頂きます。

 

「キリギリスじゃあるまいし、おれは石の下やら草葉のかげなどにいないぞ」
と庄松はいいたかったのでしょう。

 

皮肉なことですが、庄松がなくなると、
その十三回忌、有縁の人々が墓標をたてました。
さらに五十回忌、玉垣をめぐらした立派な墓に改修されました。
「おらぁ、石の下にはおらぬぞ」
という庄松の声がひびいてくるお墓。
そういう意味では、お墓もまたすばらしい法縁(ほうえん。み教えのご縁)となります。
(以上参考、梯実円『妙好人のことば』71頁〜)

 

【悠然なる道】

 

まもなくお彼岸です。
お墓をご縁に、お念仏のご縁に遇います。

 

諸行無常……世間の事が気にかかり、
わが「いのち」のはかなさに油断し、
漫然(まんぜん)と生きてきた私に気づかされます。

 

今、仏様のお慈悲に出遇う時、
見た目は同じでも
「漫然から悠然へ」と、
人生の道は自然と変化していました。

 

「今日何があっても心配なかった。」

 

日々の生活に右往左往しながらも、
芯の部分はゆるぎません。

 

人生に油断しているのではなく、
最後まで悠然と生きるお念仏の生活。
ご一緒に歩んで参りましょう。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

叱られないように(2月下旬)

【チコちゃん】

 

NHKで放送中の「チコちゃんに叱られる!」は、
「永遠の5歳」の女の子「チコちゃん」が、
毎回、ゲスト解答者に質問をします。
質問に答えられない場合、
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られます。
流行語にもなりました。

 

そんな人気番組の第一回(2017年3月24日)の質問が、
「なぜお線香をあげるの?」

 

「それは……立ち上っていく線香の煙があの世とつながるからかな?」
苦し紛れに答える田中美佐子さんへ、
「ボーッと生きてんじゃねーよ!」の一喝。

 

そしてチコちゃんの答えは、
なんと「亡くなった方の食べ物」。
成田山新勝寺のお坊さんが解説していました。
「お線香は焚くと煙が出ます。その煙の香りを亡くなった方は召し上がっているのです。」
典拠はインドの世親菩薩(4〜5世紀)の『倶舍論』(くしゃろん)で、
「人は[死後、生まれ変わるまでの四九日間、]香を食す」と。

 

「浄土真宗とは違うな」と思う私。
すると番組の最後、
「「お線香」をあげる意味は、宗派やお坊様によって様々な考え方があります。」
として次の四つの例が。

  • 香りによって、場所を清める。
  • 香りで心を落ち着かせる。
  • 煙で壁をつくり、仏様に息がかからないようにする。
  • 煙や香りを通じて、仏様とお話しをする。など

やはり浄土真宗的なものはありませんでした。

 

【いただきもの】

 

香はインドに起源を持つ礼拝の必要品です。
ですから浄土真宗でも、日常のおつとめの際にも香を使用し、
お線香を香炉にたきます。

 

お線香をたく、また焼香するのは、
本尊の阿弥陀如来へのお敬いのこころを、
香をお供えし合掌・礼拝するという作法に表したものです。

 

「そうそう、お敬い! お供え! そのために場所を清めないと……。」
「仏様に息がかかってもいけないしね。」
「いえ、心を落ち着かせるのよ。」
「そして、仏様とお話しするの。」

 

たしかに香は悪い臭いを防ぎ、
心身ともに落ち着かせる効用があります。

 

ですが浄土真宗の場合、
もっと大事な答え(意味)があります。
それは……「阿弥陀さまから、恵みをいただく。」
もしくは「お慈悲をいただいたから(お線香をあげる)。」

 

「……なんであげる行為が、いただく行為なの?」

 

そう思われるのも至極もっともですが、
香に限らず、浄土真宗には理由があります。

 

【他力の生活】

 

龍谷山本願寺(西本願寺)の八代ご門主蓮如上人は、
『蓮如上人御一代聞書』(以下、『聞書』)で、

(100)蓮如上人は、 「弥陀を信じておまかせする人は、 南無阿弥陀仏にその身を包まれているのである」 と仰せになりました。
(『現代語版 蓮如上人御一代聞書』より。原文は、(※1)

阿弥陀さまから信心をいただき浄土真宗に生きる生活。
それは阿弥陀さまに抱かれた生活です。
故に日常のもの全般、「わたしのもの」「わたしが買ったもの」「作ったもの」と思うよりも、
「仏さまからいただいた」と受けとめる方が自然です。

 

衣食住、私の周囲にあるもの何もかもが南無阿弥陀仏です(※2)
どれ一つとして、私を救うための阿弥陀さまのはたらきと、
無縁なものではありません。

(169)蓮如上人は、 お食事を召しあがるときは、 まず合掌されて、 「阿弥陀如来と親鸞聖人のおはたらきにより、 着物を着させていただき、 食事をさせていただきます」 と仰せになりました。」
(『現代語版 蓮如上人御一代聞書』より。原文は、(※3)

ボーッと食べてる場合ではありません。

 

【お荘厳】

 

仏壇の香も同じです。
お仏壇の中の「お荘厳」は、香もロウソクもお花もみな、
阿弥陀さまのお徳を表現したものといただきます。

 

「なぜローソクをつけるの?」
「阿弥陀さまからのいただきもの。」
「なぜお花を飾るの?」
「阿弥陀さまからの恵まれもの。」
もしくは、
「お慈悲をいただいたから、お礼のお花をお供えするのです。」
どちらでも構いません。

 

テレビ受けはしませんが、浄土真宗の他力の主張です。
一様に阿弥陀さまのはたらきといただく生活。
それをふまえた上で、きちんとお飾りしたり、線香をあげお礼します。

 

自然に「南無阿弥陀仏」が出るお焼香の習慣を心がけます。
ボーッと焼香している場合ではありません。

 

(よろしければこちらの「親子で学ぶクイズ浄土真宗@」もご覧ください。)

 

【聖人に叱られる】

 

他にも『聞書』には、こんな蓮如上人のご指南があります。

(58)「どのような人であっても、 自分は悪いとは思っていない。
そう思っているものは一人としていない。
しかしこれはまったく親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである。 ……」

 

(80)「仏法では、 無我が説かれている。
われこそはという思いが少しでもあってはならないのである。
ところが、 自分が悪いと思っている人はいない。
これは親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである。」(※4)

 

阿弥陀さまを無視して、
「自分は正しい」、「自分は自己反省しているから大丈夫」とうぬぼれている人。
阿弥陀さまではなく他人と比較して、
「あの人に比べれば自分は悪くない」と自己評価している人。
親鸞聖人に叱られます。

 

「ボーッと、お念仏している場合ではありません!」

 

他力のお念仏は、阿弥陀さまの声を聞くお念仏です。
「どのような悪人も救う」という仏の声に、
「私のことだ」と聞き受ける私。
悪の重さと救いの深さが同時に身にしみるお念仏です。

 

雑学王のチコちゃんに叱られるのは仕方ありません。
けれども親鸞聖人が嘆くような事はしたくないものです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
(100)一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に身をばまるめたることなりと仰せられ候ふと[云々]。

 

(※2)
参考までに『聞書』の現代語訳を。

(78)「日々の食事は、 阿弥陀如来、 親鸞聖人のおはたらきによって恵まれたものである。
だから目には見えなくてもつねにはたらきかけてくださっていることをよくよく心得ておかなければならない」

 

(101)丹後(たんご)法眼蓮応(ほうげんれんおう)が正装して、
蓮如上人のもとへおうかがいしたとき、
上人は蓮応の衣の襟をたたいて、 「南無阿弥陀仏だぞ」 と仰せになりました。
また実如上人は、 座っておられる畳をたたいて、
「南無阿弥陀仏に支えられているのである」 と仰せになりました。

 

(※3)
(169)御膳まゐり候ふときには、御合掌ありて、如来・聖人(親鸞)の御用にて衣食ふよと仰せられ候ふ。

 

(※4)
(58)たれの輩も、われはわろきとおもふもの、一人としてもあるべからず。これしかしながら聖人(親鸞)の御罰をかうぶりたるすがたなり。……

 

(80)仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なり……

 

 

 

 

49の教え(2月上旬)

【お寺にちなんだ数】

 

昨年末、Yさんの家にお参りへ行きました。
すると、壁にたくさんの折り鶴が糸で綴じて掛かってありました。

 

「折り紙ですか?」
「紙じゃないんですよ。」

 

アルミ缶で作った折り鶴でした。
テレビで作り方を見かけ、
何気なくマネしてみると面白く、
すっかりはまってしまったのだとか。
これまでに千羽鶴どころか、一万羽以上製作したそうです。

 

「病院へお見舞いと一緒に持っていくと喜ばれます。」
「大した物ですね!」

 

後日、Yさんが例の折り鶴を持ってお寺へ。

 

「ほめてくださったので、お寺にもどうぞ飾ってください。」
「ありがとうございます。何羽あるのですか?」

 

Yさんはにこやかに、
「お寺にちなんだ数です。」
「……48羽ですか?」
「いいえ、49羽です。」
「49羽?」
「お寺といったら49日じゃないですか。」

 

Yさんのいわれる「49日」。
お葬式の後の49日間の中陰の事でしょう。
お寺といえばお葬式、そして49日。
だからお寺といえば「49」。

 

世間の見方を教えてもらいました。

 

【追善回向】

 

ところで「49日」の中陰ですが、
こんな風に考えられています。

 

「人は死んで49日間、
次の行くべき世界(地獄や天界などの六道)が決まっていない。
しかも七日ごとに冥土の裁判官による審理が行われる。
だからその裁判の日の前に法要を勤め、
その功徳を故人にふり向けて“よい世界”に行ってもらおう。」

 

これを「追善供養」(ついぜんくよう)とか、
「追善回向」(ついぜんえこう。善を積んで故人にふり向ける)といいます(※1)。

 

【他力回向】

 

それに対して浄土真宗の法要では、
「追善供養」や「追善回向」を用いません。
なぜなら、

「阿弥陀さまのはたらきによって、亡き人は死後ただちに浄土に生まれ、
追善の必要がない仏さまになっておられるのです。
また、仮に、まだ迷っているとしても、
私たち凡夫に善を振り向けてよりよい世界に行かせる能力は何一つ備わっていません。」
(『浄土真宗 仏事のイロハ』83頁)

 

追善の必要がない根拠は「本願」です。
阿弥陀さまの48願の願い、
特にその中心となる第18願の事です。

 

第18願の解釈、回向の見方が、
他の宗旨と異なります。
経文通りの「○○した者は往生させてみせる」ではなく、
その背景にある、
阿弥陀さまの大悲の話をうかがいます。

 

「どのような者も離さず仏にせずにはおれない。」

 

阿弥陀さまが私たちへ功徳を振り向けられる話、
すなわち「他力回向」の誓いを聞きます。

 

お念仏の世界を聞く時、
故人も生前中、
途絶える事の無い阿弥陀さまから振り向けられた功徳の中でした。
種々のご縁でその事に出遇い(信心を得て)、
お念仏の中に、阿弥陀さまの「必ず救う」の声に全うした人生。
死んだ後に関しては、何の心配もありません。

 

【追悼を縁として】

 

「そうすると、浄土真宗では中陰の法要はいらないのではないか?」

 

冥福を祈る法要はいりません。
しかし別の意味で中陰の法要をいとなみます。
それは故人の為ではなく私事。
別れの悲しみを縁として、
初めて、また改めて、
私が阿弥陀さまの縁にあう為です。

 

「人生に別れはつきもの」と頭で分かっていても、
実際の葬儀の場面、涙がこぼれます。
「仕方ない」ではすまされない、
言いようのない別離の悲しみがこみ上げるのが私です。

 

共にお念仏の法(おみのり)を聞く私たち。
追善の気持ちはありませんが、
追悼の悲しみは止めようがありません。
情ある者として、
死別に際し、後悔なしではいられません。
そんな心の動揺・変化に寄り添いつつ、
七日ごと、節目、節目にお経のご縁、お念仏のご縁にあうのです。

 

別れの傷はきえませんが、
時間と共に悲しみが癒えていく中、
「お念仏は私事でした」と、
自らの事、人生の依りどころを知り、
本当の意味で悲しみを乗り越えるが中陰の期間です。

 

【遺言】

 

今月15日(2月15日)は涅槃会です。
お釈迦様の今生最後の日。
クシナガラのサーラ林にて、

「比丘らよ、いざ私はお前たちに告げる。
すべての現象は衰滅無常のものである。
お前たちは放逸(わがまま)ならずして、
目的を達成させよ。」
(水野弘元『釈尊の生涯』292頁)

これが最後の教誡だったそうです。

 

また有名な遺言として、

「自分の亡き後には、
お前たちは自己自身を所依とし、他人を所依としてはならない、
仏教の正しい教法を所依として、
その他のものを所依としてはならない。」
(水野弘元『釈尊の生涯』289頁)

これは「自灯明 法灯明」として有名です。

 

……中陰法要で、
徐々に悲しみが落ち着いていく中、、
この釈尊の遺言同様、故人の遺言を聞きます。

 

「後生の一大事。
いつ終わりが来てもおかしくない今。
故に汝みずから問い、
今、みずから仏法に出遇え。」

 

お念仏という「今すでに目的の中」という法義に出遇います。
「またお浄土で会いましょう。」
別れのまま終わらせない法を知る。
それこそが故人が何より望んでいる事なのです。

 

……中陰最後の法要「満中陰」。
三月にまたがると「49、3(始終苦が身につく)からダメだ」という人が。
単なる語呂合わせですが、
そんな悲観的な語呂合わせより、
「阿弥陀さまはこの私のために「49」、始終苦労くださった。
そして「49」、始終功徳を振り向けてくださる。」
とお念仏申します。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

※1 他にも浄土宗さんのHPには「法事」について、こう説明があります。

 

【追善回向(供養法要)(ついぜんえこう)】
よくいわれる「法事」とは本来「仏さまの教えを実践すること」で、その意味では毎日仏さまにお茶やご飯を供えたり、お勤め(読経)をしたりすることも全て法事といえます。仏さまを敬う心や行い、また仏前に物品を捧げることを供養ともいい、亡き人のために供養することを追善供養、追善回向といいます。

 

追善とは、私たちが亡き人のために善(よ)い行い(善根功徳(ぜんごんくどく))を積むことで、極楽浄土にいらっしゃる亡き方が早くさとりを開き、私たちを見守り、導いてくださることを願ってめぐらし向けることを回向といいます。回向は、自分が積んだ功徳を自分のためだけでなく他の人に振り向けること、正確にいえば、阿弥陀さまにお願いして亡き人のもとに届けていただくこと″で、すべての人が極楽に生まれて、ともにさとりへの道を歩むことを願うという、大きな慈悲の心をあらわす行為なのです。浄土宗の教えでは、心をこめて「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえることが最高の功徳であり、追善供養です。

 

 

 

浮気の見方(1月下旬)

【浮気】

 

先月の中旬、隣りのお寺が報恩講の法要だったので、
お参り、お聴聞に行きました。

 

後日、ある法事のお斎についた時、
隣りのお寺の総代さんがおられたので、

 

「この間は、報恩講お参りさせていただきありがとうございました。」
「こちらこそ、お忙しい中ようこそでした。」

 

法座のお飾り準備の事や、
法話の内容についてしゃべっていました。

 

すると脇で聞いていた方が、
「自分の所属と違う、隣りのお寺の法座へお参りしても良いのですか?」
「もちろん構いません。
どのお寺に所属していても、
本願寺はもちろん、隣のお寺でも法話のご縁にあってください。」
「そうだったのですか!知りませんでした。」

 

喜んだその方は、
「いや〜、浮気をしても良いのですね!」
思わず、
「そうですね……いや、浮気はいけませんよ!」
ご本人、少し酔われてもいたようです。

 

心がうわついて変わりやすいことを意味する「浮気」は、
一般的に、カップル・既婚者が他の異性にも手を出す事を指します。
仏教でも浮気(うわき)は五戒の一つ「邪婬(じゃいん)」として認めません。

 

自分の所属する寺院以外の法座へ参るのは、決して浮気ではありません。
専徳寺のご門徒も、
いろんなお寺の法座を聴聞してもらいたいものです。

 

【浮世】

 

「浮気」は肯定しませんが、
仏教ではこの世を「浮世」、人生を「浮生(ふしょう)」と呼んだりします(※1)。

 

「浮世(うきよ)」は、元々、
「定めない世の中、はかない人生、世間」を指す語です。
仏教の生活感情が色濃く示されています。

 

けれども平安時代に入り、
つらい世の中を嘆く心情が仏教の無常観と結合。
「なんと、この世は浮世なことよ」と、詠嘆的に使われ、
さらに「浮き世(うきよ)」と同音の「憂き世(うきよ)」が重なり、
嘆かわしい現世を意味する用法が一般化しました。

 

ところがさらに意味が逆転します。
江戸時代頃、
現実を肯定的に、
刹那々々を楽しもうとする風潮が広まります。
そして「浮世」は、
「どうせままならぬ世なら、せめて浮き浮きと楽しく!」
そんな気持をこめた使い方が広まります。
そのため、「浮世草子」や「浮世絵」など、
現在流行中の風俗的なものに「浮世」という語をつけるようになります。
さらには遊郭といった遊びの意にも用いられました。
こうなるとまさに浮気です。(参照『岩波仏教辞典』「浮世」)

 

【浮世は無関係】

 

去年の10月、N医師に密着したテレビ番組を観ました。

 

「生きているように死んでもらいたい。」

 

患者が自分らしい人生を最後まで過ごせる手伝いをしたいというその方は、
究極の在宅医療を常に模索されています。
94歳のお婆ちゃんを、最後まで見届けたホスピス医。
「死亡診断書」を「卒業証書」として泣きながら遺族に渡されていました。
素晴らしい仕事だなと思います。

 

ただ、Nさんはその家を出られた後、
「もう(患者の)家には行かれないのですか?」
というテレビ局の質問に、
「私の役目は終わりました。」
ではなく、
「浮世の事は私には関係ありませんから。」
そんな風に答えられました。

 

Nさんにとって「浮世」は仏教の話であり、
死んだ後の話というイメージなのでしょう。
そして「死んだ後のお婆ちゃんには、私には関係ありません」、
そんな風にも聞こえ、
少し淋しくなりました。

 

【手段】

 

世間では「浮世」というと、
「どうせいつか死んでいく、はかない人生」、
死というマイナスイメージ、
またその死をさけた享楽的、
仕事もしないで遊んでいるイメージなのでしょうか。

 

しかし仏教の「浮世」は、基本的に悲観も楽観もしません。

 

この世を「浮世」と見つめ、
だからこそ今、何をすべきか、
正しい道を歩む原動力とします。

 

世を厭う事をきっかけとして、仏法を喜べる身となり、
自らの人生から目をそらさず歩んでいける身へ。
決して悲観的な生き方を推奨しているわけではありません。

 

【浮気だってる私】

 

私と大いに関係した「浮世」の話があります。

 

くも膜下出血や心筋梗塞に限らず、
交通事故や大災害。
はかない世の中、はかなきわが人生です。

 

しかし実際には、
世の中がはかないのではなく、
「はかなき世」と“思う私”に問題があるようです。

 

浮世とは、世の中の事ではなく、
私自身の心が、浮気と同様、浮ついている状態、
浮き草のように水中にただよっている状態でした。
「何が支えとなるのか」と、
わが足が確かな支えとなる大地を踏みしめていません。

 

そんな浮き草の私がいつか沈んでいきます。
「むなしく落とさず」と誓う仏の本願は、
そんな沈む私を目当てとされます。

 

【浮世の見方】

 

大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
(【現代語訳】
本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮かぶと、
この上ない功徳の風が静かに吹き、
すべてのわざわいの波は転じて治まる。)

 

お念仏を称えても、世の中が浮世、
私が浮き草である事はかわりません。
けれども、浮き草状態の私ですが、
漫然と浮かび漂っているのではなく、
また自力修行して、
根を伸ばして地に根付いたのでもなく、
船に乗せられ、
浮かべられた状態と聞きます。
それが弥陀一仏、
念仏一つに定まるみ教えです。

 

浮気だっている浮世か、
仏の船に浮かべられた浮世か。
同じ浮世でも仏法に遇った者のイメージは異なります。

 

【念仏の見方】

 

お念仏も同様です。

 

お念仏をする時、
世間では「死のイメージ」、
「縁起が悪いイメージ」が浮かぶのかもしれません。
けれども法座で聴聞をする時、
お念仏は仏の喚ぶ声、
いつでもどこでも私の救いを願わずにはおれない仏のイメージが
心に浮かんできます。

 

病気や別離、あらゆる禍いや災厄、
そんな苦悩でさえ「この悲しみのおかげで」と、
苦でさえ拝むお念仏があります。

 

平生もお念仏一つの生活。
そして病室や終末期も「南無阿弥陀仏」の生活。
それは誰にも強制されない、
自分らしい生活を支える、
仏様の願いの船です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
・それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(白骨章)

 

・しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、
まことに五戒をたもてる功力によりてなり。
これおほきにまれなることぞかし。
ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。(易往無人章)

 

・出づる息は入るををまたぬ浮世なり。(御一代聞書)

 

 

 

言葉が変われば(1月上旬)

【四字熟語で誓う】

 

昨年の12月28日、
日経新聞に「四字熟語で誓う新年の抱負」というページがありました。
新年の抱負を表す四字熟語を1000人に質問したそうです。
たくさんの四字熟語の中から選ばれた第一位は、

 

「心機一転 (気持ち新たに 前へ)」

 

昨年は年号が新しくなった節目の年でした。
また台風などの被害、つらい事も多く経験した年。
気持ちを切り替え、新たにスタートしたいと多くの人が思ったようです(※1)。

 

心機一転:あることをきっかけとして、すっかり気持ちがよい方向に変わること。また、変えること

 

気持ちを切り替えるきっかけ。
それは就職や進学に限らず、
お寺へ参る、お聴聞する事も大きなきっかけになります。
喜びも悲しみも、すべてご縁です。
「仏法聴聞」を生活の変化に入れて下さい。

 

【ネガポジ】

 

言葉が変われば心がかわる。
心がかわれば行動がかわる。
行動がかわれば習慣がかわる。
習慣がかわれば一日がかわる。
一日がかわれば人生がかわる。(※2

 

昨年、ある若手布教使Kさんの法話から聞きました。
言葉をきっかけとして、
心機一転、心がかわるというのです。

 

一つの例として「ネガポジ」があります。
ネガティブ(否定的)な言葉づかいから、
ポジティブ(肯定的)な言葉づかいに変える事です。

 

相手に「それはつまらない」といえば角が立ちます。
けれど「もうひと工夫ほしい」というと快く受け取ってくれます。

 

「太っている」を「ふくよか、貫禄がある」に変えたり、
「不便だ」を「使いこなす楽しみがある」に変えます。

 

「偉そうにしている」を「堂々としている」へ。
「うるさいなぁ」を「活気があるなぁ」へ。
「落ち着きがない」を「アクティブだ」へ。

 

さらに、
「そそっかしい」は「行動が素早い」へ。
「せっかちな人」を「テキパキしている人」へ。
「遠慮がない人間」を「物怖じしない、フレンドリーな人間」へ。
「時間にルーズな人」を「なにかと多忙な人」へ。

 

……「物は言いよう」という話かもしれませんが、
それによって相手に不快感を与えず、
加えて自分のイライラも少し消えるという「ネガポジ」です。
(詳しくはこちらへ)

 

雨でお寺の行事の参詣者がたった3人だった時。
「残念ですが悪天候になってしまい……たった3人でしたが…」ではなく、
「お足元の悪い中ようこそ。人数も少ない事で、皆さんとじっくりお話ができる良い機会となりました。」
少し雰囲気も変わるかもしれません。

 

【仏語】

 

言葉が変われば心がかわる。

 

お寺で仏様のみ教え、阿弥陀さまの話を聞きます。
聴聞を重ねる内に、
おのずと変わるのが「言葉の意味」です。

 

「南無阿弥陀仏」のお念仏の意味、
「他力本願」の意味、
「(浄土)往生」の意味、
「悪人」の意味……。

 

世間に蔓延した“私たちが使いやすいように加工”した意味から、
本来のお経の意味、
浄土真宗でいう場合の意味を知ります。
すなわち仏語、
仏様が私たちに語られる、
阿弥陀さまがこの私に喚び続けられる時の言葉と知ります。

 

お聴聞を通して、
私の疑い心が取り払われ、
私的で勝手な解釈に染まっていない、
仏様の心が宿りこんだ言葉を知った時、
おのずと私の心にも変化があります。
「有難うございます」というお礼です。

 

感謝の気持ちは行動となって生活に。
生活が習慣となり、
その一日一日の積み重ねによって、
人生が変わります。

 

【ネガのまま】

 

「ネガティブをポジティブへ。」

 

どの本屋にも大量にある(売れるからでしょう)「自己啓発本」によくある提言です。
心が軽くなる素晴らしいアドバイスですが、
続けるとなると、なかなか簡単にはいかない人がほとんどです。
(……だからいつまでも売れるのでしょうが。)
失敗多きわが人生です。

 

今日も愚痴 明日もため息 悲観的 されどこぼれる 念仏の喜び

 

煩悩という悩み多き煩しい心は、
大河のように決して枯れることはありません。

 

しかしお聴聞を通して、
お念仏への先入観がひっくり返された時、
「故に阿弥陀さまが私と共に歩んでくださっていた。」
「決して離さぬ、一人にせぬ」という法の道理と一体の心境があります。

 

人生の最後まで、
煩悩の海深きまま、
されどさとりの海果てしなき、
仏さまに包まれた喜びに心が転じ変えなされる、
そんなお念仏があります。

 

お寺の法会の行事をきっかけとして、
仏のお慈悲に出あい、
すっかり気持ちが喜びの方向にかわる「心機一転」。
2020年も、
そんな年であってもらいたいものです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 


(※1)
ちなみに2位以下は、

 

2位 悠々自適(忙しいときこそ心穏やかに)
3位 泰然自若(たいぜんじじゃく。周囲に振り回されず、堂々と)
4位 一期一会(あまたの出会いが待っている)
5位 前途洋々(未来は明るい、期待を込めて)
6位 七転八倒……ではなく七転八起(しちてんはっき)(立ち向かう。きっとうまくいく)
7位 不言実行(目標に向かって突き進もう)
8位 不撓不屈(ふとうふくつ。くじけてしまう私にピリオド)
9位 一念発起(なし遂げる。これまでとは違う)
10位 油断大敵(気を引き締め、ケガなく健康に)

 


(※2)
おそらく元ネタは、フレデリック・アミエルというスイスの方で、

 

心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
運命が変われば人生が変わる。

 

だと思います。

 

 

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ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2008
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2007
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。

 
境内案内 内陣 歴史 ◆納骨堂・永代供養墓◆ 地図