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49の教え(2月上旬)

【お寺にちなんだ数】

 

昨年末、Yさんの家にお参りへ行きました。
すると、壁にたくさんの折り鶴が糸で綴じて掛かってありました。

 

「折り紙ですか?」
「紙じゃないんですよ。」

 

アルミ缶で作った折り鶴でした。
テレビで作り方を見かけ、
何気なくマネしてみると面白く、
すっかりはまってしまったのだとか。
これまでに千羽鶴どころか、一万羽以上製作したそうです。

 

「病院へお見舞いと一緒に持っていくと喜ばれます。」
「大した物ですね!」

 

後日、Yさんが例の折り鶴を持ってお寺へ。

 

「ほめてくださったので、お寺にもどうぞ飾ってください。」
「ありがとうございます。何羽あるのですか?」

 

Yさんはにこやかに、
「お寺にちなんだ数です。」
「……48羽ですか?」
「いいえ、49羽です。」
「49羽?」
「お寺といったら49日じゃないですか。」

 

Yさんのいわれる「49日」。
お葬式の後の49日間の中陰の事でしょう。
お寺といえばお葬式、そして49日。
だからお寺といえば「49」。

 

世間の見方を教えてもらいました。

 

【追善回向】

 

ところで「49日」の中陰ですが、
こんな風に考えられています。

 

「人は死んで49日間、
次の行くべき世界(地獄や天界などの六道)が決まっていない。
しかも七日ごとに冥土の裁判官による審理が行われる。
だからその裁判の日の前に法要を勤め、
その功徳を故人にふり向けて“よい世界”に行ってもらおう。」

 

これを「追善供養」(ついぜんくよう)とか、
「追善回向」(ついぜんえこう。善を積んで故人にふり向ける)といいます(※1)。

 

【他力回向】

 

それに対して浄土真宗の法要では、
「追善供養」や「追善回向」を用いません。
なぜなら、

「阿弥陀さまのはたらきによって、亡き人は死後ただちに浄土に生まれ、
追善の必要がない仏さまになっておられるのです。
また、仮に、まだ迷っているとしても、
私たち凡夫に善を振り向けてよりよい世界に行かせる能力は何一つ備わっていません。」
(『浄土真宗 仏事のイロハ』83頁)

 

追善の必要がない根拠は「本願」です。
阿弥陀さまの48願の願い、
特にその中心となる第18願の事です。

 

第18願の解釈、回向の見方が、
他の宗旨と異なります。
経文通りの「○○した者は往生させてみせる」ではなく、
その背景にある、
阿弥陀さまの大悲の話をうかがいます。

 

「どのような者も離さず仏にせずにはおれない。」

 

阿弥陀さまが私たちへ功徳を振り向けられる話、
すなわち「他力回向」の誓いを聞きます。

 

お念仏の世界を聞く時、
故人も生前中、
途絶える事の無い阿弥陀さまから振り向けられた功徳の中でした。
種々のご縁でその事に出遇い(信心を得て)、
お念仏の中に、阿弥陀さまの「必ず救う」の声に全うした人生。
死んだ後に関しては、何の心配もありません。

 

【追悼を縁として】

 

「そうすると、浄土真宗では中陰の法要はいらないのではないか?」

 

冥福を祈る法要はいりません。
しかし別の意味で中陰の法要をいとなみます。
それは故人の為ではなく私事。
別れの悲しみを縁として、
初めて、また改めて、
私が阿弥陀さまの縁にあう為です。

 

「人生に別れはつきもの」と頭で分かっていても、
実際の葬儀の場面、涙がこぼれます。
「仕方ない」ではすまされない、
言いようのない別離の悲しみがこみ上げるのが私です。

 

共にお念仏の法(おみのり)を聞く私たち。
追善の気持ちはありませんが、
追悼の悲しみは止めようがありません。
情ある者として、
死別に際し、後悔なしではいられません。
そんな心の動揺・変化に寄り添いつつ、
七日ごと、節目、節目にお経のご縁、お念仏のご縁にあうのです。

 

別れの傷はきえませんが、
時間と共に悲しみが癒えていく中、
「お念仏は私事でした」と、
自らの事、人生の依りどころを知り、
本当の意味で悲しみを乗り越えるが中陰の期間です。

 

【遺言】

 

今月15日(2月15日)は涅槃会です。
お釈迦様の今生最後の日。
クシナガラのサーラ林にて、

「比丘らよ、いざ私はお前たちに告げる。
すべての現象は衰滅無常のものである。
お前たちは放逸(わがまま)ならずして、
目的を達成させよ。」
(水野弘元『釈尊の生涯』292頁)

これが最後の教誡だったそうです。

 

また有名な遺言として、

「自分の亡き後には、
お前たちは自己自身を所依とし、他人を所依としてはならない、
仏教の正しい教法を所依として、
その他のものを所依としてはならない。」
(水野弘元『釈尊の生涯』289頁)

これは「自灯明 法灯明」として有名です。

 

……中陰法要で、
徐々に悲しみが落ち着いていく中、、
この釈尊の遺言同様、故人の遺言を聞きます。

 

「後生の一大事。
いつ終わりが来てもおかしくない今。
故に汝みずから問い、
今、みずから仏法に出遇え。」

 

お念仏という「今すでに目的の中」という法義に出遇います。
「またお浄土で会いましょう。」
別れのまま終わらせない法を知る。
それこそが故人が何より望んでいる事なのです。

 

……中陰最後の法要「満中陰」。
三月にまたがると「49、3(始終苦が身につく)からダメだ」という人が。
単なる語呂合わせですが、
そんな悲観的な語呂合わせより、
「阿弥陀さまはこの私のために「49」、始終苦労くださった。
そして「49」、始終功徳を振り向けてくださる。」
とお念仏申します。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

※1 他にも浄土宗さんのHPには「法事」について、こう説明があります。

 

【追善回向(供養法要)(ついぜんえこう)】
よくいわれる「法事」とは本来「仏さまの教えを実践すること」で、その意味では毎日仏さまにお茶やご飯を供えたり、お勤め(読経)をしたりすることも全て法事といえます。仏さまを敬う心や行い、また仏前に物品を捧げることを供養ともいい、亡き人のために供養することを追善供養、追善回向といいます。

 

追善とは、私たちが亡き人のために善(よ)い行い(善根功徳(ぜんごんくどく))を積むことで、極楽浄土にいらっしゃる亡き方が早くさとりを開き、私たちを見守り、導いてくださることを願ってめぐらし向けることを回向といいます。回向は、自分が積んだ功徳を自分のためだけでなく他の人に振り向けること、正確にいえば、阿弥陀さまにお願いして亡き人のもとに届けていただくこと″で、すべての人が極楽に生まれて、ともにさとりへの道を歩むことを願うという、大きな慈悲の心をあらわす行為なのです。浄土宗の教えでは、心をこめて「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえることが最高の功徳であり、追善供養です。

 

 

 

浮気の見方(1月下旬)

【浮気】

 

先月の中旬、隣りのお寺が報恩講の法要だったので、
お参り、お聴聞に行きました。

 

後日、ある法事のお斎についた時、
隣りのお寺の総代さんがおられたので、

 

「この間は、報恩講お参りさせていただきありがとうございました。」
「こちらこそ、お忙しい中ようこそでした。」

 

法座のお飾り準備の事や、
法話の内容についてしゃべっていました。

 

すると脇で聞いていた方が、
「自分の所属と違う、隣りのお寺の法座へお参りしても良いのですか?」
「もちろん構いません。
どのお寺に所属していても、
本願寺はもちろん、隣のお寺でも法話のご縁にあってください。」
「そうだったのですか!知りませんでした。」

 

喜んだその方は、
「いや〜、浮気をしても良いのですね!」
思わず、
「そうですね……いや、浮気はいけませんよ!」
ご本人、少し酔われてもいたようです。

 

心がうわついて変わりやすいことを意味する「浮気」は、
一般的に、カップル・既婚者が他の異性にも手を出す事を指します。
仏教でも浮気(うわき)は五戒の一つ「邪婬(じゃいん)」として認めません。

 

自分の所属する寺院以外の法座へ参るのは、決して浮気ではありません。
専徳寺のご門徒も、
いろんなお寺の法座を聴聞してもらいたいものです。

 

【浮世】

 

「浮気」は肯定しませんが、
仏教ではこの世を「浮世」、人生を「浮生(ふしょう)」と呼んだりします(※1)。

 

「浮世(うきよ)」は、元々、
「定めない世の中、はかない人生、世間」を指す語です。
仏教の生活感情が色濃く示されています。

 

けれども平安時代に入り、
つらい世の中を嘆く心情が仏教の無常観と結合。
「なんと、この世は浮世なことよ」と、詠嘆的に使われ、
さらに「浮き世(うきよ)」と同音の「憂き世(うきよ)」が重なり、
嘆かわしい現世を意味する用法が一般化しました。

 

ところがさらに意味が逆転します。
江戸時代頃、
現実を肯定的に、
刹那々々を楽しもうとする風潮が広まります。
そして「浮世」は、
「どうせままならぬ世なら、せめて浮き浮きと楽しく!」
そんな気持をこめた使い方が広まります。
そのため、「浮世草子」や「浮世絵」など、
現在流行中の風俗的なものに「浮世」という語をつけるようになります。
さらには遊郭といった遊びの意にも用いられました。
こうなるとまさに浮気です。(参照『岩波仏教辞典』「浮世」)

 

【浮世は無関係】

 

去年の10月、N医師に密着したテレビ番組を観ました。

 

「生きているように死んでもらいたい。」

 

患者が自分らしい人生を最後まで過ごせる手伝いをしたいというその方は、
究極の在宅医療を常に模索されています。
94歳のお婆ちゃんを、最後まで見届けたホスピス医。
「死亡診断書」を「卒業証書」として泣きながら遺族に渡されていました。
素晴らしい仕事だなと思います。

 

ただ、Nさんはその家を出られた後、
「もう(患者の)家には行かれないのですか?」
というテレビ局の質問に、
「私の役目は終わりました。」
ではなく、
「浮世の事は私には関係ありませんから。」
そんな風に答えられました。

 

Nさんにとって「浮世」は仏教の話であり、
死んだ後の話というイメージなのでしょう。
そして「死んだ後のお婆ちゃんには、私には関係ありません」、
そんな風にも聞こえ、
少し淋しくなりました。

 

【手段】

 

世間では「浮世」というと、
「どうせいつか死んでいく、はかない人生」、
死というマイナスイメージ、
またその死をさけた享楽的、
仕事もしないで遊んでいるイメージなのでしょうか。

 

しかし仏教の「浮世」は、基本的に悲観も楽観もしません。

 

この世を「浮世」と見つめ、
だからこそ今、何をすべきか、
正しい道を歩む原動力とします。

 

世を厭う事をきっかけとして、仏法を喜べる身となり、
自らの人生から目をそらさず歩んでいける身へ。
決して悲観的な生き方を推奨しているわけではありません。

 

【浮気だってる私】

 

私と大いに関係した「浮世」の話があります。

 

くも膜下出血や心筋梗塞に限らず、
交通事故や大災害。
はかない世の中、はかなきわが人生です。

 

しかし実際には、
世の中がはかないのではなく、
「はかなき世」と“思う私”に問題があるようです。

 

浮世とは、世の中の事ではなく、
私自身の心が、浮気と同様、浮ついている状態、
浮き草のように水中にただよっている状態でした。
「何が支えとなるのか」と、
わが足が確かな支えとなる大地を踏みしめていません。

 

そんな浮き草の私がいつか沈んでいきます。
「むなしく落とさず」と誓う仏の本願は、
そんな沈む私を目当てとされます。

 

【浮世の見方】

 

大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
(【現代語訳】
本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮かぶと、
この上ない功徳の風が静かに吹き、
すべてのわざわいの波は転じて治まる。)

 

お念仏を称えても、世の中が浮世、
私が浮き草である事はかわりません。
けれども、浮き草状態の私ですが、
漫然と浮かび漂っているのではなく、
また自力修行して、
根を伸ばして地に根付いたのでもなく、
船に乗せられ、
浮かべられた状態と聞きます。
それが弥陀一仏、
念仏一つに定まるみ教えです。

 

浮気だっている浮世か、
仏の船に浮かべられた浮世か。
同じ浮世でも仏法に遇った者のイメージは異なります。

 

【念仏の見方】

 

お念仏も同様です。

 

お念仏をする時、
世間では「死のイメージ」、
「縁起が悪いイメージ」が浮かぶのかもしれません。
けれども法座で聴聞をする時、
お念仏は仏の喚ぶ声、
いつでもどこでも私の救いを願わずにはおれない仏のイメージが
心に浮かんできます。

 

病気や別離、あらゆる禍いや災厄、
そんな苦悩でさえ「この悲しみのおかげで」と、
苦でさえ拝むお念仏があります。

 

平生もお念仏一つの生活。
そして病室や終末期も「南無阿弥陀仏」の生活。
それは誰にも強制されない、
自分らしい生活を支える、
仏様の願いの船です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
・それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(白骨章)

 

・しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、
まことに五戒をたもてる功力によりてなり。
これおほきにまれなることぞかし。
ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。(易往無人章)

 

・出づる息は入るををまたぬ浮世なり。(御一代聞書)

 

 

 

言葉が変われば(1月上旬)

【四字熟語で誓う】

 

昨年の12月28日、
日経新聞に「四字熟語で誓う新年の抱負」というページがありました。
新年の抱負を表す四字熟語を1000人に質問したそうです。
たくさんの四字熟語の中から選ばれた第一位は、

 

「心機一転 (気持ち新たに 前へ)」

 

昨年は年号が新しくなった節目の年でした。
また台風などの被害、つらい事も多く経験した年。
気持ちを切り替え、新たにスタートしたいと多くの人が思ったようです(※1)。

 

心機一転:あることをきっかけとして、すっかり気持ちがよい方向に変わること。また、変えること

 

気持ちを切り替えるきっかけ。
それは就職や進学に限らず、
お寺へ参る、お聴聞する事も大きなきっかけになります。
喜びも悲しみも、すべてご縁です。
「仏法聴聞」を生活の変化に入れて下さい。

 

【ネガポジ】

 

言葉が変われば心がかわる。
心がかわれば行動がかわる。
行動がかわれば習慣がかわる。
習慣がかわれば一日がかわる。
一日がかわれば人生がかわる。(※2

 

昨年、ある若手布教使Kさんの法話から聞きました。
言葉をきっかけとして、
心機一転、心がかわるというのです。

 

一つの例として「ネガポジ」があります。
ネガティブ(否定的)な言葉づかいから、
ポジティブ(肯定的)な言葉づかいに変える事です。

 

相手に「それはつまらない」といえば角が立ちます。
けれど「もうひと工夫ほしい」というと快く受け取ってくれます。

 

「太っている」を「ふくよか、貫禄がある」に変えたり、
「不便だ」を「使いこなす楽しみがある」に変えます。

 

「偉そうにしている」を「堂々としている」へ。
「うるさいなぁ」を「活気があるなぁ」へ。
「落ち着きがない」を「アクティブだ」へ。

 

さらに、
「そそっかしい」は「行動が素早い」へ。
「せっかちな人」を「テキパキしている人」へ。
「遠慮がない人間」を「物怖じしない、フレンドリーな人間」へ。
「時間にルーズな人」を「なにかと多忙な人」へ。

 

……「物は言いよう」という話かもしれませんが、
それによって相手に不快感を与えず、
加えて自分のイライラも少し消えるという「ネガポジ」です。
(詳しくはこちらへ)

 

雨でお寺の行事の参詣者がたった3人だった時。
「残念ですが悪天候になってしまい……たった3人でしたが…」ではなく、
「お足元の悪い中ようこそ。人数も少ない事で、皆さんとじっくりお話ができる良い機会となりました。」
少し雰囲気も変わるかもしれません。

 

【仏語】

 

言葉が変われば心がかわる。

 

お寺で仏様のみ教え、阿弥陀さまの話を聞きます。
聴聞を重ねる内に、
おのずと変わるのが「言葉の意味」です。

 

「南無阿弥陀仏」のお念仏の意味、
「他力本願」の意味、
「(浄土)往生」の意味、
「悪人」の意味……。

 

世間に蔓延した“私たちが使いやすいように加工”した意味から、
本来のお経の意味、
浄土真宗でいう場合の意味を知ります。
すなわち仏語、
仏様が私たちに語られる、
阿弥陀さまがこの私に喚び続けられる時の言葉と知ります。

 

お聴聞を通して、
私の疑い心が取り払われ、
私的で勝手な解釈に染まっていない、
仏様の心が宿りこんだ言葉を知った時、
おのずと私の心にも変化があります。
「有難うございます」というお礼です。

 

感謝の気持ちは行動となって生活に。
生活が習慣となり、
その一日一日の積み重ねによって、
人生が変わります。

 

【ネガのまま】

 

「ネガティブをポジティブへ。」

 

どの本屋にも大量にある(売れるからでしょう)「自己啓発本」によくある提言です。
心が軽くなる素晴らしいアドバイスですが、
続けるとなると、なかなか簡単にはいかない人がほとんどです。
(……だからいつまでも売れるのでしょうが。)
失敗多きわが人生です。

 

今日も愚痴 明日もため息 悲観的 されどこぼれる 念仏の喜び

 

煩悩という悩み多き煩しい心は、
大河のように決して枯れることはありません。

 

しかしお聴聞を通して、
お念仏への先入観がひっくり返された時、
「故に阿弥陀さまが私と共に歩んでくださっていた。」
「決して離さぬ、一人にせぬ」という法の道理と一体の心境があります。

 

人生の最後まで、
煩悩の海深きまま、
されどさとりの海果てしなき、
仏さまに包まれた喜びに心が転じ変えなされる、
そんなお念仏があります。

 

お寺の法会の行事をきっかけとして、
仏のお慈悲に出あい、
すっかり気持ちが喜びの方向にかわる「心機一転」。
2020年も、
そんな年であってもらいたいものです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 


(※1)
ちなみに2位以下は、

 

2位 悠々自適(忙しいときこそ心穏やかに)
3位 泰然自若(たいぜんじじゃく。周囲に振り回されず、堂々と)
4位 一期一会(あまたの出会いが待っている)
5位 前途洋々(未来は明るい、期待を込めて)
6位 七転八倒……ではなく七転八起(しちてんはっき)(立ち向かう。きっとうまくいく)
7位 不言実行(目標に向かって突き進もう)
8位 不撓不屈(ふとうふくつ。くじけてしまう私にピリオド)
9位 一念発起(なし遂げる。これまでとは違う)
10位 油断大敵(気を引き締め、ケガなく健康に)

 


(※2)
おそらく元ネタは、フレデリック・アミエルというスイスの方で、

 

心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
運命が変われば人生が変わる。

 

だと思います。

 

 

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