山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

生まれる事、出会う事(6月上旬)

 

なぜめぐり逢うのかを
私たちはなにも知らない
いつめぐり逢うのかを
私たちはいつも知らない
どこにいたの生きてきたの
遠い空の下ふたつの物語

 

(中略)

 

縦の糸はあなた横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合わせと呼びます
(中島みゆき「糸」)

 

【あえてよかった】

 

コロナ禍の恩恵で、
ずいぶん法話の動画配信が増えました。
懐かしいご法話にもであえます。

 

先日、こんなお話を聞きました(51:00)。

 

その先生のご長男が、4歳ぐらいの時です。
物の順番をつけるのが大好きな子でした。

 

ある日の朝ごはんの時、

 

「お父さん、このお家で一番最初に生まれたのは誰?」
「トシくん、あなたが探してごらん。」
「うーん……あ、このお家で一番最初に生まれたのは、おじいちゃまだ!」
「そうだ、よう分かったね。」
「2番は誰?」
「探してごらん。」
「ええっと、1番はおじいちゃんで、2番は……おばあちゃんだ!」
「あたり!」
「3番目は?」
「……探してごらん。」
「3番目は……お父ちゃんだ。4番目は…お母ちゃんだ。5番目はお姉ちゃんだ。
6番目は僕だ。最後はノリ君。」

 

終ったかと思うと、

 

「このお家で一番最初に生まれたのは誰?」
「しつこいね。もういっぺん探してごらん(さっき言ったじゃない)!」
「1番はおじいちゃま、2番はおばあちゃま、3番はおとうちゃん、4番はおかあちゃん。
5番はお姉ちゃん、6番は僕、ノリ君。……1番目はおじいちゃん……」

 

「終わらないなぁ」と思いながら、仕方なく聞いていると、
その内、ピタッと言葉がやみました。
見ると、茶碗と箸をもってぽかんとしています。

 

そして家族の顔を不思議そうにみながら言いました。

 

「みんな……生まれたねぇ! みんな、生まれたねぇ!」

 

4歳の子の言葉にハッとしました。
するとその時、お母さんが言ったのでした。

 

「あえてよかったねぇ!」

 

【何もいらない】

 

「みんな、生まれたねぇ!」

 

生まれるという事のものすごさを、
すっかり忘れていた大人が、
子どもに教えられます。

 

人間に生まれる。
当たり前のようで、
とんでもない事かもしれません。

 

さらにもっとすごいのは、

 

「あえてよかったねぇ!」

 

生まれただけでは出会えません。
「袖すり合うも多生の縁」ということわざもあります。
親子・夫婦、家族という出会い、
よほどの事がないと、
ありえないはずの出来事が、
今、ここに起こっています。

 

これ以上、何を望むか、
これ以上、何もいらない、
そう断言できるものが、
今、ここに広がっています。

 

【誕生と出会い】

 

「人生は邂逅(めぐりあい)と別れの繰り返し」

 

しかし念仏者には別の見方があります。

 

「人生は誕生と出遇いの繰り返し」

 

かけがえのない人間に生まれ、
多くの出会いを経験します。

 

別れや悲しみを通して、
「われにまかせよ」と喚ぶ、
ゆるぎない本願に出遇い、
わが身に真実の信心が生まれます。

 

阿弥陀さまの本願にゆだねる人生。
その最後は、
お浄土へ生まれ、
なつかしい人達と再会します。
みんなが待っています。

 

「あえてよかった」です。
みんなとあえてよかった。
仏様にあえてよかった。
そしてまた、みんなとあえる。

 

私たちは、「会う」ために生まれるのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

丁度良い(5月下旬)

【丁度良い】

 

隣町のとあるお店。
会計の時、ふと見ると、後ろの壁に、
何やら文字の書かれた杉板がかけてありました。

 

「これ、どうしたのですか?」
「両親が山陽自動車道の小谷(こだに)サービスエリアで買ったものです。」

 

そこにはこう書いてました(一部訂正)

 

丁度良い

 

丁度良い   良寛

 

お前はお前でちょうどよい.
顔も体も名前も姓も、お前に
それは丁度よい。
貧も富も親も子も 息子の
嫁もその孫も、それはお前に丁度
よい。幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度よい。
歩いたお前の人生は悪くも
なければ良くもない、
お前にとって丁度よい。
地獄へいこうと極楽へいこうと 
いったところが丁度よい。
うぬぼれる要もなく卑下する
要もなく上もなければ下もない 
死ぬ月日さえも丁度よい。
お前はそれで丁度よい。

 

「分るような分らないような(笑)」 

 

苦笑いの若い店主さん。

 

確かに、なぜ「丁度良い」のでしょう?

 

【仏様のことば】

 

何度も出てくる“丁度良い”という言葉の響きが印象的なこの詩。

 

実は、良寛作と書いてありますが、
本当は浄土真宗の坊守(ぼうもり)「藤場美津路(ふじばみつじ)」さんの詩です。
そして実際のタイトルは「丁度良い」ではなく、「仏様のことば」。

 

実は、最後の五行が抜けてます。

 

仏様と二人連れの人生
丁度よくないはずがない
丁度よいと聞こえた時
憶念(おくねん)の信が生まれます
 南無阿弥陀仏

 

丁度良い理由が、はっきりとあらわれています。

 

この詩はお念仏の喜び、
阿弥陀様のお慈悲に出遇えた喜びの詩なのです。

 

【他力の信心】

 

コロナ禍の今だけでなく、
これからもイライラしたり、
愚痴がこぼれる私です。
「こんなはずではなかった」と嘆いたり、
「私の人生丁度良い(こんなもの)」と開き直ったり。

 

あせってあがいたり、反対にあきらめて居直ったり。
それとは違う第三の道、仏様と二人連れの人生の道があります。

 

「何の不足もありませんでした。」

 

仏様の救いが聞こえた時、「他力の信心」が生まれます。

 

自ら信じて救われるのではなく、救われていた事を聞くばかりです。

 

【追伸:コロナ禍に】

 

いろんな法座がありまして
いろんな法話を聞きました。
コロナの時も聞きました。
弥陀の大悲を聞きました。
 南無阿弥陀仏

 

今月20、21日と当山は宗祖降誕会です。

 

コロナ禍の第四波の影響は深刻です。
山口もGWから2週間、
コロナ感染者が50人を超え出してます。

 

感染対策はしっかりとして、
ご恩報謝もしっかりと、
法座を開きたいと思います。

 

仏様が見つめているのは、他ならぬ私です。
始まりもわからぬ昔から迷いつづけてきた私の歴史。
条件そろえば、あっけなく終わる私の人生。
見つめた上で、
見捨ててはおけぬと本願をおこし、
その願いの完成についやした時間は「兆載永劫(ちょうさいようごう)=永遠」。

 

「われにまかせよ」と喚び続け、
どこまでもいつまでも、
光と名のはたらきで、
私と離れない仏さま。

 

今日もお念仏を通して、
南無阿弥陀仏の広大なおいわれを聞くばかりです。

 

疑いのなき仏の道
どこどこまでも仏の道
いついつまでも仏の道
仏さまとの仏の道
 南無阿弥陀仏

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

警察ではない警察(5月上旬)

【日常にある仏教用語】

 

「油断禁物」の「油断」。
「愚痴をこぼす」の「愚痴」。
「金輪際あなたとは会いません」の「金輪際」。

 

これら日常語は、元々、仏教用語です。
日本語には多く仏教の言葉が浸透しています。

 

「一大事」や「有頂天」、「精進」や「退屈」、
「挨拶」や「玄関」等々、探せばいろいろと出てきます。

 

そんな言葉の中で、
浄土真宗の僧侶があまり用いない言葉づかいがあります。

 

「(突然ガラスが割れて)……何だか『縁起が悪い』」。

 

何かよくないことがおこりそうな様子、
そのようなしるしを見た場合に用いる表現です。
「縁起が良い」と同じく、
浄土真宗の僧侶はあまり言いません。

 

「縁起」は仏教の最も基本的な教えで、
正しい物の見方を指す言葉です。
運の良し悪しを指す言葉として、
あまり使いたくありません。

 

もし使うなら「何だか気味が悪い」とか、
「縁起が良い」は「ついてる!」で十分です。
(もっとも浄土真宗は、
『これは何か悪い(良い)予兆だ』という考え自体、あまりもちません。)

 

また「嘘も方便」は、
「ものごとがスムーズにすすむためには、嘘も時に必要」ということわざ。
これもあまり使いたくありません。

 

「方便」は仏さまの「巧みな手立て」、人を正しく導く力です。
「人をだます」意味の「嘘」と一緒にしたくないのです。

 

【三本柱】

 

「縁起が悪い」や「嘘も方便」以上に使わない言葉があります。

 

「車がこんで往生した。」
「もう他力本願しかない。」

 

「往生」と「他力本願」の使い方が気になって使えません。

 

浄土真宗は「阿弥陀仏の救済の教え」です。

 

仏さまの願いは、
「どのようなものも皆、もらさず救う」という誓いでした。
その誓いを成し遂げ、
阿弥陀仏と名のり、
どこまでも、いつまでも衆生をもらさず、
「浄土往生」、
仏の世界、お浄土へ往生させるべく、
はたらきつづけておられます。

 

仏の切なる願いを聞き、
仏の本心にふれた時、
仏の眼にうつったわが身のふるまいが知らされます。
自業自得の道理にて、
地獄まっしぐらの自分。
その私をよそ見なく、仏の眼は真っ直ぐ見つめておられます。

 

阿弥陀様の救いの正しき相手は、
他ならぬ悪凡夫の私。
これを「悪人正機(あくにんしょうき)」と言います。

 

この「他力本願、浄土往生、悪人正機」が、
浄土真宗の三本柱です。

 

本願も往生も阿弥陀さまの救いの話であり、
大切にしたい言葉なので、
「困った」意味の「往生」、
「他人まかせ」「運命まかせ」の「他力本願」という、
世間の言葉は避けるのです。

 

特に「本願」は私の願いではなく、
仏さまの願いです。

 

【警察でない警察】

 

昨年できた言葉に「マスク警察」「自粛警察」があります。

 

コロナウイルスが広がるのを防ぐためなのでしょうが、
マスクを強要したり、
自粛を強要するあまり、
営業している店へ押しかけたりする人を指します。
「オミセシメロ」などの貼り紙を店に張ったり、
他県ナンバーの自動車を傷つけたりする事件もありました。

 

昨今は「不織布マスク警察」を聞きます。
おしゃれなウレタンマスクではなく、
飛沫防止のすぐれた不織布マスクを強要する人の事です。

 

そんな警察を装う「○○警察」。
ところで、かれらは本物の警察官ではありません。
そして、本物の警察官はそんな事をしません。
迷惑な人を指す「○○警察」。
警察官にとって、いい迷惑な言葉でしょう。

 

【本願でない本願】

 

「そんな他力本願ではダメだ。」

 

自分は何もせず、
何とかなるさと考える「他力本願」。

 

「他力本願な人」は「○○警察」同様、
世間ではよく思われません。

 

ただ本来、「本願」は仏さまの願いです。
そして「他力」は摂取不捨(せっしゅふしゃ)、
私を離さぬお慈悲の力です。
困った時の援助ではありません。
怠け心を指す世間の「他力本願」。
仏さまの心とは次元が違います。

 

「どのような人生でも、
 私と共におられる仏さまがおられる。」

 

浄土往生という大きな目的をもって、
悠然と生きる、
他力本願をいただいた念仏者がいます。

 

世間に出回る「他力本願」は今更仕方ないですが、
本来の「他力本願」の意味も忘れてもらいたくないものです。

 

【立ち止まる】

 

昨年末、車の運転をしていると、
突然、左前方に立っていた警察官から「止まれ」の合図。

 

「しまった、スピードが出ていたか。」

 

恐る恐る停車して窓をあけると、

 

「年末の交通安全運動で止めました。どちらに行かれますか?」
「ええっと、○○の方へ。」
「そうですか。では安全運転を!」

 

何のおとがめもなく、ホッとして出発しました。
やはり警察を見ると緊張します。
それからしばらく安全運転に……。

 

立ち止まらせてくれた警察のおかげで、
安全運転、正しいマナーを思い出します。

 

同様に、
法事も故人が私を立ち止まらせてくれます。
めまぐるしい社会の流れから。
何が一番大切なのか。
願うべきものは、
目先の利益よりも大きなものでした。

 

世間の「自粛警察」ではなく、
本物の警察に遇うように、
世間の「他力本願」ではなく、
本物の仏願に遇ってもらいたい、
それが真宗僧侶の願いです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

日めくりメッセージ(4月下旬)

【尊敬する人】

 

先日、子どもの中学入学式に出席しました。
入学式の後、生徒はクラスへ。
担任の先生から自己紹介がありました。

 

「私は何事も全力でやるのが好きです。
 私が尊敬するのはこの人(本をだしながら)、松岡修造さんです。
 この人の作った「日めくりカレンダー」、
 毎日読んでいます。

 

 この人のメッセージは、
 すごく分かる時もあれば、意味不明な時もあります。
 でも先生は尊敬しています。

 

 ……これからの中学校生活、
 『先生はなぜ私に厳しく言うのか』と思う時もあるでしょう。
 けれど先生はあなたたちの3年後の卒業の事を考えています。
 その事を忘れないでください。」

 

なかなか熱血な先生でした。

 

【意味不明な話】

 

尊敬する人といえば、
仏教徒の名前を法名(ほうみょう)と言います。

 

「釈○○」

 

釈は釈尊、お釈迦さまのことです。
おさとりを開かれ、私たちにお経、み教えを説き残してくださったお釈迦さま。
必ず「釈」がつくのは、
私たちはお釈迦さまの弟子である事を意味します。

 

お釈迦さまの言葉は、すごくよく分かる時もあります。

 

生まれによって、いやしい人となるのではない。
生まれによって、バラモンとなるのではない。
行為によっていやしい人となり、
行為によってバラモンともなる。

 

運命(さだめ)といったものから距離をおく仏教です。
個人的に好きな言葉です。

 

けれどもよく分からない言葉もあります。
「お浄土」もそうです。

 

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。
いま現にましまして法を説きたまふ。」(『阿弥陀経』)

 

書き下し文にされても、
見たこともない浄土の話、
考えてもピンときません。

 

そんな浄土や阿弥陀さまのメッセージを、
わかりやすく、奥深く示された多くの先人、
そして親鸞聖人がおられます。
おかげで浄土の教えの意味、
今私に間に合う救いの話を聞くことができます。

 

別れの悲しみを縁に、
親鸞聖人、多くの先人がたのご恩、
さらにそれを法話してくださる方々のお陰で、
今、お念仏の喜びをいただくことができます。

 

【33回忌】

 

先月の法事でした。
祖母の33回忌というお寺参りがありました。

 

お勤めが終わって、何気なく、

 

「お婆さまのご命日は4月8日ですね。
花まつり、お釈迦様のお誕生日と一緒ですね。」

 

「そうです。そしてこの次女の誕生日でもあります(笑)。

 

 ……このお婆さんの葬儀からです、
 私が仏壇で手を合わすようになったのは。
 慣れなかった『正信偈』や『阿弥陀経』のお勤めも、
 お陰で、今では一人でできるようになりました。
 お仏壇に手を合わせる事が習慣となりました。」

 

何とも有り難く聞かせていただきました。

 

亡くなられましたが、その別れをご縁として、み教えが伝わり、
阿弥陀様中心の生活をされる人がまた一人生まれていく。
とても嬉しく思いました。

 

【法に遇う事の難しさ】

 

逆にこんな事も。

 

道で知り合いとすれ違い、
「お元気ですか?」というと、

 

「いや、悩んでいる。
自分は不信心で寺にも参らないが、
最近、今までの人生を振り返る。
いろんな悪いこと、反省する事も多い。
これから先どんな生き方をしていけば良いのか……。

 

あなたのお寺の説教に悪口を言うつもりがないが、
どうも笑い話、馬鹿話が多い気がする。
それよりも、み教えのどまん中、
『こういう風に生きるのだ』という話が聞きたい。
そんな話の時には是非、案内をしてもらいたい。」

 

別れた後、住職の仕事、
教化のいたらなさを嘆いたことです。

 

80歳を過ぎられ、耳も遠くなられました。
これまで多くの葬儀や法事、
また法座や法話にも触れられたでしょうが。

 

他力の法に遇う事の難しさを教えられました。

 

【今からではなく】

 

「私はどう生きれば良いのか」という論理回路。
私中心、自力の論理には答えがないと教えられる、
他力の論理、阿弥陀様中心のみ教えです。

 

もちろん「自分」が大切なお互いです。
しかし「急がば回れ」というか、
阿弥陀様の説法を、
そのまま聞いていきます。
他力の信心をいただいた時、
笑い話、バカ話の意味も、
「あ、そういう事ね」と分かってもらえるのですが。

 

「今ここから私は何を」ではなく、
「今、ここに仏が私を」です。

 

他力の法話は最初から、
み教えのど真ん中、
救いのど真ん中の法話です。

 

……私自身、毎朝、仏壇の前でお経とお念仏です。
「日めくりカレンダー」ならぬ、
和讃、三部経をくりよみ、そして御文章を一通ずつ拝読します。
お釈迦様の日めくりメッセージ。

 

今ここに阿弥陀様が私を思ってくださっています。
念仏者は3年後どころか、人生の最後、
その後の後生までみすえた大きなまなざしに包まれているのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

桜の花びらふる時は(4月上旬)

 

   この法話を山田のOさんへ

 

【歌詞と違う】

 

四月から小学生になる娘が、
不満そうな顔で話しかけてきました。

 

「お父さん、卒園式の歌と違う!」

 

それは『さよならぼくたちのようちえん』という歌。
卒園式の最後、みんなで合唱した曲です。

 

「あの時、
『さよならぼくたちのようちえん♪
  ぼくたちのあそんだにわ〜〜♪
  さくらのはなびらふるころは♪
  ランドセルのいちねんせい♪』

って歌ったのに、
まだ小学校に行けてない!」

 

今年は例年より二週間ばかり桜の開花が早い年です。
町はいたるところ桜吹雪の真っ最中。
娘が入学する頃は、
おそらく小学校の桜の花びらは一枚もないでしょう。

 

【散る桜】

 

桜吹雪で思い出すのが、
読み人知らず(一説に良寛さん)の歌です。

 

散る桜 残る桜も 散る桜

 

綺麗に咲いていますが、
やがて残らず散りゆく桜。
同様に、いのちある者はみな必ず死んでいく……。

 

若い頃は「なんと陰気な歌だ」と嫌っていましたが、
この頃は身にしみます。
場をしらけさせる歌ではありません。
限られたお互いのいのち。
今日という日暮らしの大切さを教えてくれます(※1)

 

また葬儀の時も、
この歌が思い出されます。

 

散る桜」とは、棺の中の故人です。
波瀾万丈の人生を終えられました。

 

残る桜も 散る桜」とは、
他ならぬ残された私たちです。

 

葬儀を他人事にしません。
ましてや義理の席だからと、
居眠りしている場合でもありません。
私のための時間、
仏法のご縁に遇う時間といただきます。

 

【弥勒と同じ】

 

便同弥勒」(べんどうみろく)という教えがあります。
念仏者は弥勒菩薩と中身が同じだというのです。

 

その事について、
親鸞聖人は次のように説明されます。

 

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、
 龍華三会の曉、まさに無上覚を極むべし。
 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、
 臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
 ゆゑに便同[弥勒]といふなり。」
  (『教行信証』 註釈版聖典p.264)

 

弥勒さまは「等覚(とうがく)」、
非常に高い位で、「金剛心(こんごうしん)」を得た菩薩さまです。
ですから次の生(五十六億七千万年後ですが)、
龍華樹の下でさとりを開かれ、
大衆の前で三回説法をされます。

 

一方、念仏の衆生は凡夫です。
修行の量も智慧も、菩薩さまには遠く及びません。
まして弥勒菩薩さまとは比べようにも桁が違いすぎます。

 

でも念仏者は「他力の金剛心」を得ています。
そして、この世の命を終えて、
五十六億七千万年どころか、ただちに浄土に生まれ、
たちまちに完全なさとりを開かせていただきます。
次の生に間違いなく仏となる……、
そういう意味で「念仏者は弥勒菩薩と同じ位」といえるのです。

 

【内定・伴走】

 

浄土真宗のお説教。
お聞かせにあずかってみれば、
この身この心のまま、
浄土へ往生して仏となる事が内定したわが身に驚かされます。

 

煩悩を払うことなく、苦悩が除かれる道。
それは他力の信心、
言い換えれば金剛心(決してくずれることのない心)、
如来さまのさとりのすべてをいただいているからです。
それほどの功徳の仏様が、
常に私と伴走くださっている出来事に気づかされます。

 

如来のみちみちているわが身。
力むことなく報恩のお念仏、
わが身にのりこんで下さってある如来様の御名(みな)を称えます。

 

【名に帰す】

 

想像してみてください。
自分の葬儀。

 

棺の中の自分。
それは死(し)に帰した姿。
しかし無(む)に帰るのではありません。

 

この人生は念仏の人生でした。
如来さまに帰依した人生。
南無阿弥陀仏の名(な)に帰した十分たる人生。

 

 桜の花びらふるころは♪
 ランドセルのいちねんせい♪

 

散る桜の時節が入学の時節であるように、
故に念仏者の最後は、
浄土へ入学、いえ往生して、
ランドセルの一年生ならぬ、おさとりの仏となります。

 

死を見つめつつ、
法の眼をいただき、
「だれもが最後は必ず死に帰す」という事よりも、
大事な事をいただきます。

 

皆、死に帰す(帰る。終わる)ではなく、
今、名に帰す(帰依する)念仏者です。

 

 

(※1)
親鸞聖人は9歳で得度をされる際。
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠まれました。
こちらの方がより無常観、
「今、なにをすべきか」と身が引き締まります。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

あの日あの時あの念仏(3月下旬)

【試験に役立つマンガ】

 

先日、林修さんが司会をする某テレビ番組で、
こんなランキングを紹介していました。
「東大生が選ぶ勉強になると思う漫画ランキング」

 

古典の勉強に役立つと、
源氏物語を漫画化した『あさきゆめみし』が8位。
生物の勉強になると、
人の細胞を擬人化した『はたらく細胞』が5位。

 

昨今人気の『鬼滅の刃』、
また『ワンピース』『進撃の巨人』『宇宙兄弟』などが、
次々とランクイン。

 

そして栄えある1位は何だったか。
まさかの『ドラえもん』でした。
番組が始まってから、
「ドラえもん!」と主張していた幼稚園児の娘は大喜び。

 

なぜ『ドラえもん』が試験勉強に役立つのか。
番組では、
「ひみつ道具が理科系への興味になった。」
「発明のヒントになる」等と評価されていました。

 

またある人は、
ひみつ道具「バイバイン」は利率の計算につながり、
お金の勉強になったと。
……分かるような分からないような。

 

【ダルマ】

 

『ドラえもん』には勉強にまつわる、次のようなお話があります。
第18巻の「あの日あの時あのダルマ」

 

……「ママの指輪を失くして勉強どころじゃない」と落ち込むのび太に、
ドラえもんはひみつ道具「なくし物とりよせ機」を取り出します。

 

過去に失った物を取り戻すことが出来るこの道具。
無事、ママの指輪を取り寄せますが、
その後、のび太は次々と過去に失った漫画や玩具を取り戻し始めます。

 

勉強せずに、とりよせた昔の物を懐かしむのび太。
あきらめて部屋を出て行くドラえもん。

 

しばらくして、のび太は一個のダルマの玩具を見つけます。
それは幼稚園の頃、庭で転んで泣いていたのび太に、
急いでかけつけたおばあちゃんがもっていたダルマでした。

 

「病気だから寝てなきゃ!」
「のびちゃんが泣いていたら、心配で寝てなんかいられないよ。」

 

やさしいおばあちゃんは、ダルマを渡して言いました。

 

「ダルマさんは偉いね。何度転んでも、すぐに起き上がるんだもの。
のびちゃんもダルマさんのようになってくれると嬉しいな。」
「転んでも転んでも、1人で起き上がれる強い子になってくれると、
おばあちゃんとっても安心なんだけどな。」
「僕、ダルマになる。約束するよ、おばあちゃん」

 

その後、おばあちゃんはすぐに亡くなってしまいました。

 

回想が終わり、のび太は机に向かいます。

 

「僕、一人で起きるよ。
これから何度も転ぶだろうけど、必ず起き上がるから。
安心してね、おばあちゃん。」

 

のび太の勉強する姿を見て、ドラえもんはほほ笑んでいるのでした。

 

【本願というダルマ】

 

亡くなる前に残してくれたダルマの玩具。
そしておばあちゃんの願い。
何度失敗しても、立ち上がるのび太の原動力になっています。

 

ご法事も同様です。

 

法はインドの言葉で「ダルマ」と言います。
お釈迦様の正しいみ教え(教法)を指します。

 

故人は私に様々な思い出を、
そして何度失敗しても立ち上がることのできる、
お釈迦様の教法を聞くご縁を残してくれました。
それが読経であり、聴聞です。
その法(ダルマ)の名を、
親鸞聖人は「浄土真宗」と名づけられました。

 

「選択本願は浄土真宗なり」(ご消息より)

 

 ※選択本願(せんじゃくほんがん):阿弥陀様の第十八願を指します。

 

阿弥陀如来の大悲の願い。
私のために選びに選ばれた救いのはたらきが、
決してくずれることのない私の人生の支えになります。

 

【故人の願い】

 

ダルマを知ったからといって、
試験勉強には何の役にも立ちません。
勝ち負けのためのものではないからです。

 

しかし人生の試練は受験だけではありません。
失敗はつきものです。
「何のためのわが人生か」と、
苦難の道に立ち止まる時、
お念仏に聞く「そのままこいよ」の如来の喚び声は、
単なるその場しのぎで終わりません。

 

生涯、煩悩にたえず悩まされる私。
しかしその都度、
「その煩悩あるが故に、
離れたまわぬ南無阿弥陀仏のお慈悲でした」と、
その支えの勿体なさをいただき歩む道。
お念仏の道、浄土往生の道です。

 

お念仏を称える時、故人の思い出がよみがえります。
たとえばこんな思い出とか。

 

「阿弥陀様はすごいね。
どんなに罪深き煩悩の私たちも、決して離さないんだもの。
○○ちゃんも、お念仏を喜べる人になってくれると嬉しいな。」
「どんなに苦悩の人生でも、阿弥陀様と二人でしっかり歩んでくれると、
おばあちゃんとっても安心なんだけどな。」
「僕、お念仏するよ。
これから何度も転ぶだろうけど、阿弥陀様と一緒に必ず起き上がるから。
安心してお浄土で待っててね、おばあちゃん。」

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

牛にひかれて(3月上旬)

【丑年クイズ】

 

今年は丑年です。
そこでいきなりですが、「クイズ・牛の出てくることわざ」。

 

次の意味のことわざは何でしょう?

 

@牛のよだれが細く長く尾を引くように、商売は気長に辛抱してやるということ。

 

答えは「商いは牛のよだれ」
ご存じだったでしょうか?
では、一気に三問!

 

A曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまう事から、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまう事。

 

B同類や似た者同士は、自然と集まりやすいことのたとえ。

 

C暗い所に黒い牛がいると何が何やらはっきりしないところから、物の区別がつかないたとえ。また、言動等がにぶくて、はきはきしないたとえ。

 

答えは次の通りです。

 

A角を矯(た)めて(直して)牛を殺す
B牛は牛連れ馬は馬連れ
C暗がりから牛

 

です。では最後にもう一つ。

 

D牛に引かれて善光寺(ぜんこうじ)参り

 

これは、どういう意味でしょう?

 

【牛にひかれて】

 

昔、長野県の善光寺の近所に、
一人のお婆さんが住んでいました。

 

「お浄土なんて、死んだ後の話さ」

 

仏縁のなかったお婆さんでしたが、
ある日、干していた自分の洗濯物を牛が角にかけて逃げたそうです。
追いかけるうちに善光寺へ。
見ると牛のよだれで、

 

うしとのみ おもひはなちそ このみちに なれをみちびく おのがこころを
(ただの牛の仕業(しわざ)と思ってくれるな。あなたを、この仏の道へ導いている私[弥陀]の心に気づいておくれ) [住職訳]

 

と書かれた文字。
驚いたお婆さん。
それがきっかけでお聴聞し、
仏法を喜ぶ人に・・・転じて、
「思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれること」を、
「D牛に引かれて善光寺参り」
というようになったそうです。

 

【専徳寺参り】

 

善光寺だけでなく、
ご先祖を「牛」といただき、専徳寺へもお参りください。

 

仏の道は難しくありません。
「南無阿弥陀仏の名号=真実の信心」一つです。
それ以外にはありません。

 

世間の場にいては「仏」も「浄土」もよくわかりません。
暗がりから牛」です。
だからこそ、お寺という特別の場所があります。
先祖が仏法聴聞のために大切に伝え残してきました。

 

牛は牛連れ馬は馬連れ」、そして門徒は門徒連れ。
今年こそ一緒にお聴聞しましょう!

 

(住職便り 25号より)

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

縁起でもない縁起の話(2月下旬)

【最後の会話】

 

義理の叔父Hさんと最後にお会いしたのは、
一昨年の年の瀬、大坂のホテルでした。
世間はクリスマスイブの日、ホテルも華やかでした。

 

二次会の後、ほろ酔いで陽気な叔父さんは、
「ラーメンを食べに行こう!」
「叔父さん、すいません、もうお腹いっぱいで。解散します。」
「そうかぁ、ではまた。」

 

次の日、ホテルで別れる際、
子ども達にお小遣いをくれました。

 

それからおよそ半月後、
インフルエンザにかかったと聞き、
「お大事に」という間もなく、数日後には肺炎に。
半月後、脳幹機能停止。
そして、世間がバレンタイデーという日、
静かに息を引き取られました。
数え70歳でのご往生でした。

 

【思い出話】

 

一週間後が葬儀でした。
叔父さんが住職をつとめるお寺へ。

 

葬儀の中で、
別れを惜しむ方々が弔辞を述べられました。
養子として入寺された叔父さん。
毎朝せっせと月忌参りに励んでおられた様子。
お寺へ参る方に気さくに声をかけ、
法座では一緒に幕をはったりと、
親しみのあるご院家さんだったようです。

 

またこんな話も。
「住職は『世の中には三つの偉大な「子」がいます。
孔子、老子、そして養子です』と言って、
場を和ませてくれました。」
「こんなお話を覚えています。
ある若い奥さんの所へお参りにいった際、
『お仏飯がないね。』というと、
『ご院家さん、オブッパンってどんなパンですか?』
面白かったです。」
「彼いわく、『私は三つの言語がしゃべれます。筑豊弁、八代弁、佐賀弁……』、
3ヶ国語を駆使される素晴らしい説教をしていました。」
楽しい叔父さんでした。

 

【色紙】

 

本堂の隣に叔父さんの事務室がありました。
ふと見ると、三枚の色紙が。
どうやら先月の元旦会の法話用に作成したもののようです。

 

一枚目には、一休禅師の言葉、
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」

 

二枚目には、
「縁起でもない縁起の話」とあって、
「来年の正月が迎えられなかったらどうしよう」

 

叔父さんらしいなと思いました。
そして叔父さん、
身をもってその事を示してくれました。

 

最後の色紙には、阿弥陀様の顔が描かれてありました。
その下には「大悲無倦常照我」の文字。
正信偈の言葉です。
意味は「大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照したまう」。

 

慈しみの極まりである仏様。
その救いのはたらきは、
光となって途切れることなく私を照らし護ってくださいます。
極重の悪人、煩悩盛んな凡夫の私。
こちらが目を向けることができなくても、
まったくお構いなく、私を慈しむ光の仏様、
それが阿弥陀様です。

 

【他力の話】

 

仏法は「縁起でもない縁起の話」です。

 

平生、死の問題は避けられがちです。
でもその問題こそ本当は大切な話です。
死の縁は無量、いつ死んでもおかしくないわが身です。

 

語り合う事がはばかられる話。
だからこそ共に法座に座り、仏様の話を聞いておきます。

 

……死の問題が避けられない時がやってきます。
たとえば、大切な人を亡くす時です。

 

「なぜ別れていかねば……、死んでいかねば……」

 

受け入れがたく、解決しがたい悩みに、
お釈迦様のご指南は、やはりお念仏一つでした。

 

「大悲無倦常照我」(大悲ものうきことなく、常に我を照したまう)

 

疲れ知らずのお慈悲の仏様。
私の生命の現場に、
「ナモアミダ仏」と名号法、
声の姿となって届き活動くださっています。
気づけば私にも、大切なあの方にも、
死の縁以上に、
生死(しょうじ)を超える縁が用意されてありました。

 

「お浄土でお会いしましょう」

 

故人をご縁として、
私自身が、死の問題を乗りこえていきます。

 

【おまけ:他力の信心】

 

浄土真宗では、
阿弥陀様に対する真実の信心を「他力の信心」といいます。
一般的な信心、「自力の信心」と、
性質が異なるからです。

 

……恩ある故人の棺に花を手向けます。
おだやかで眠ったような姿。
とても亡くなったとは思えません。

 

「信じられません。ついこの間、元気に会ってたのに……。」

 

一年たっても、思い出すたび、信じられません。
事実と違うのですが、受け入れられません。

 

理由は煩悩とあわないからです。
自力の信心は、
希望的観測、期待や願望と密着しています。

 

そんな自力の信心では、
どんなに「阿弥陀様を信じる」、「お浄土を信じる」と思っても、
決して長続きしません。
必ず疑いが残ります。

 

……死んだことを受け入れたくない私。
しかし、故人がお浄土へ往生したことは疑っていません。
疑いようのない心、他力の信心です。
一見、矛盾していますが、
それは出所が違うからです。

 

如来さまから賜った信心は、
私の煩悩を水源とする「自力の信」とは、
別のところからわき出た心持ちです。

 

……私が信じようと、信じられまいと、
まったく構わない他力のお話です。
煩悩に関わってくる信心、わが心の判断は問題にしません。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

生まれ変わる(2月上旬)

【生きる】

 

映画『生きる』は、黒沢明監督作品の中でも屈指の名作である。(宮崎駿:映画監督)

 

黒澤明さんは、世界的にも評価の高い映画監督です。
88歳までに作った映画は30作品。
その中で1952年、東宝20周年記念として作られた映画が「生きる」です。

 

主人公の渡辺勘治は、区役所で働くごく平凡な人間です。
無気力な毎日を過ごしている彼ですが、
定年間近のある日、
突然自分が胃がんで余命幾ばくもないと知ります。

 

絶望の淵に立たされた主人公。
死の宣告を受けてはじめて、
過去の自分の無意味な生き方に気がつきます。

 

大事に育ててきた息子とのすれ違い。
自分が「ひとりぼっち」であると思い知らされます。
仕事を休み、パチンコやダンスホール等、
慣れない遊びに手を出しますが、満たされません。

 

そんな中、ある女性の言葉がきっかけで、
生きる目的を見いだします。
熱心に、その仕事に精を出します。
周りを説得し、時には嫌がらせも受けますが、

 

「わしは人を憎んでなんかいられない。
わしには、そんな暇はない。」

 

ついに彼はやり遂げます。
小さな公園の建設。
戦って燃え尽きる主人公でした。

 

人間が直面する選択、価値観、絶望からの勇気など、
人生において真に大切な事柄はすべてこの映画で語りつくされている。
……われわれ人間は皆、渡辺勘治と同じように時間がない。
(落合信彦:ジャーナリスト)

 

【生まれ変わる】

 

印象的な場面があります。

 

「わしにも何かできる……わしにも何か……」

 

女性の言葉で突然やる気になって立ち上がった主人公が、
喫茶店を出て、いさんで階段を降りていきます。
その背後で、誕生日会をしていた若者たちが合唱しています。

 

「ハッピーバースデー、トゥーユー♪」

 

まるで彼を励まして見送るかのようです。
彼は“生まれ変わった”かのように働きます。

 

五ヶ月後、彼は亡くなります。
通夜に参列していた部下達は、
話し合う内に、徐々に主人公の事が分かってきます。
死を覚悟して、
貧しい人々のために小さな公園作りに奔走した事に感動し、
決起するのです。

 

「僕はやる。断じてやるぞ!」
「渡辺さんの後に続け!」
「渡辺さんの死を無駄にしては……」
「僕はね、生まれ変わったつもりでやるよ。」
「自己を滅して万民の公僕たれだ。」
「頑張ろうな!」
「この感激、忘れるなよ!」
「僕はやりますよ、やりますよ!」

 

ところが、後日の区役所。
通夜の時とは裏腹に、
淡々と仕事をこなす部下達。
元の木阿弥です。

 

……自分には残された時間があとわずかと知ると、
あわてて懸命に生きるのが人間。
でもそうでない場合………長続きしないのも人間。

 

黒澤監督はインタビューで、

 

「僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇を、
しみじみと描いて見たい。」

 

【現生正定聚】

 

本願を信受するは、「前念命終」なり。
即得往生は、後念即生なり。(『愚禿鈔』)

 

親鸞聖人は、
信心を得た心境を、
「命の終わり」、言い換えれば「生まれ変わり」と味わわれています。
それほど大きな出来事なのです。

 

「生まれ変わる」といっても、
心を入れ替え、生活が激変するわけではありません。
欲や怒りの煩悩は相変わらず、
仏の心にはほど遠い状況です。

 

しかし信心を得たということは、
如来さまの本願を聞き受けたのです。
ひとりぼっちではなかったと知ります。

 

いつも通り食べて働きつつ、
しかし如来の誓い通りに、
まっすぐ浄土へ歩む人生の足取り。
その揺るぎのなさから、
喜びの念仏、
ご恩報謝の念仏を申す身に。

 

煩悩まみれの心のまま、
悪業離れできない身のふるまいのまま、
浄土へ往生して仏となる事が定まった身。
それを真宗では「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と言います。

 

自力のはからいの人生が終わり、
他力のおまかせの人生が始まります。
それがお念仏の人生です。

 

【いのち短し】

 

最後の晩、
主人公は雪の中、完成した公園のブランコで歌います。

 

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に(ゴンドラの唄)

 

大正時代の流行歌、ラブソングです。
しかしこの映画では、
諸行無常の響きを奏でています。

 

突然の事故の葬儀や、
親しい方との別れの通夜の時など、
わが身の「時間はなき」現実を思い知らされます。

 

故人を通して生まれ変わります。
心を入れ替える……それも素晴らしいですが、
お念仏をいただきます。

 

人生の苦悩・問題は誰のせいでもなく、
私であるとする仏教です。
そんな私が、悲しいかな変わりようもない身と知らされ、
そんな私を、変わる事なく離さぬ仏を知らされるお念仏。

 

私にいたりとどく「声」の姿の仏さま、
南無阿弥陀仏のお念「仏」さまです。
如来さまと二人連れの人生。
時間はなくても、
全く焦る必要はないのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

奇特の念仏(1月下旬)

【奇特なし】

 

今年は丑年(うしどし)です。
物事が遅々として進まないことを「牛歩」と言いますが、
逆に、ゆっくり前にすすむ牛のように、
少しずつでも着実に自らを成長させていく年にしたいものです。

 

また牛偏に「寺」と書いて「特」。
お寺も「特別」な年にしたいものです。

 

そう思ってふと「特」がつく「ことわざ」を調べた所、
こんな言葉が出てきました。

 

「正法に奇特なし(しょうぼうにきどくなし)。」

 

出典は狂言「犬山伏」(いぬやまぶし)です。
正法は「正しい教法、教え」、
そして「奇特」とはこの場合、いわゆる「奇跡」です。

 

「正しい宗教には私たちが思う奇跡、
奇妙で珍しい、不思議な利益など存在せず、
むしろそれを説くのは邪教である。」

 

「これを信じれば、癌が治ります。」
「これを拝めば、幸運がまいこみます。」

 

正しい教えの本質からずれています。
不思議なパワーにあずかるのではなく、
現実をきちんとみつめ、
その苦悩にきちんと答えの出る教え。
堅苦しいですが、それが正しい教えです。

 

【奇特の法】

 

「正法に奇特なし」を聞いて思い出したのが、
『大無量寿経』の言葉。

 

阿弥陀様の説法をされようとしたお釈迦様を、
弟子の阿難が次のように讃えました。

 

「今日世尊、奇特の法に住したまへり。」
(こんにちせそん、きどくのほうにじゅうしたまえり)

 

この場合の「奇特の法」とは、
「奇跡の教え」ではありません。
「特にすぐれた禅定(ぜんじょう)、精神統一状態」(※1)です。

 

本来「奇特」とは、
「特にすぐれている」「素晴らしい」といった、相手(仏)を讃える意味です。
上から目線、疑いの目でいう「奇妙な、不可解な」ではありません。
お釈迦さまは今、おさとりの境地、
涅槃寂静なる心の安定したすがたをしておられるというのです。

 

延命や開運といった人間の切なる願望、
しかし同時に終わる事のない欲望をこえて、
仏さまは永遠で普遍の道理にたたれます。
その上で、一切を救うべく活動しておられます。
それがお経に説かれる真理、正しき教法、「奇特の法」です。
私たちが期待しがちな「奇跡の法則」とは違います。

 

【帰着点】

 

そんな法にのっとって「お念仏」はお経に説かれます。

 

仏を念ずる「お念仏」。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀様に帰依します)と、
仏さまに帰依する宣言です。
仏道の出発点です。

 

しかし同時に「お念仏」は帰着点でした。
阿弥陀様の話を疑いなく聞いたからです。

 

……阿弥陀様の本願成就の物語。
「私が何をすべきか」の自力ではなく、
「仏さまは何を願い、何を成就されたのか」の方を聞き学びます。

 

何としても救わねばという仏さまの願いを通して、
何をしても間に合わない自分、
にもかかわらず仏の心を聞き流してきた私に気づかされます。

 

わが疑いの目、自力心が一番の障害でした。
譬えるなら、自分で勝手に敵を作り、
もがいていた自分に気づかされます。

 

気づけば自力の壁が剥がれ落ちていました。

 

念仏の他に何も必要でなかった事、
もう事は済んでいた事、
そういう意味で、お念仏が帰着点なのです。
今はただ、
浄土で仏となる揺るぎない一筋の道の上です。

 

【牛歩での聴聞】

 

……それにしても、
念仏で始まり念仏で終わる浄土真宗。
煩悩まみれのまま、浄土で仏になる浄土真宗。
ご縁のない人からみれば、
「仕組みが分からない」、
「なぜそうなるのか理解できない」、
奇妙な教えかもしれません。

 

ご一緒にお聴聞いたしましょう。
コロナ禍で法座に参りづらいこの頃ですが、
牛歩でもよいので前にすすんでください。
法然上人、親鸞聖人が歩まれた道です。
数多くの先人が、
苦悩し、そして出遇った喜びの道です。

 

「正法に奇特なし」、
奇跡はありません。
けれども、
「念仏は奇特の法なり」、
お念仏は良い意味で不思議な教えです。
不思議なことですが、
苦悩あるまま今、
最後まで、ご恩報謝の生活を歩ませていただく、
お念仏の道です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
「法」という語は仏教で、様々な意味を持ちます。
原語を「ダルマ」(達磨)といい、
古来、難解ですが、
@「任持自性(にんじじしょう:それ自体の本性を保持する)」、
A「軌生物解(きしょうもつげ:軌として物の解を生ず。認識や行為の規範となる)」、
そう解釈されます。
そこから派生して、
(A)存在しているもの・事物、
(B)特性・性質、
(C)規範・規準、
(D)教法・教説、
(E)真理、
(F)善・善行、そんな意味が生まれました。
「正法に奇特なし」の「法」は(D)
「奇特の法に住す」の「法」は(F)です。

 

世間一般でいう「法」は(C)に近いのでしょうか。
お説教で聞く「法」は、大体(D)(E)(F)です。

 

    ※冒頭へ

 

 

 

落語の目的(1月上旬)

【流行らない理由】

 

落語家Sさんが、落語のマクラ(本題の落語に入る前の部分)で、
「落語がはやらないワケ」について語っていました。

 

その理由の一つが、
「世間で、落語の目的が“お笑い”と勘違いされているから」。

 

人は落語を聴いて笑います。
けれども笑いの量からいえば、
漫才やコント、テレビのバラエティー番組など、
落語はとてもかないません。

 

落語に笑いがあるのは「聞かせる」ためです。
「笑う要素がなければ、人は3分以上聞いてられないから」です。
そんな聞かせるための落語に対し、
テレビは「見せる」ためのものです。
その意味でも、落語は他の演芸に比べて見劣りします。

 

また、テレビは作る側・視る側ともに、短時間で終わるものを好みます。
漫才やコントなど3分で一段落できるのに対し、
落語は無理です。

 

そして、落語は周りに良さが伝わりにくい。
他のコンサートへ行った人は、帰宅してその感動を、
「開演と同時にメンバーがね!一曲目はね!……」と語り大いに盛り上がります。
でも落語会へ行った人は……。

 

(Sさん)「……あなた方、今日帰って言う?」

 

言わないし、伝えにくい。
落語のあらすじを言った所で伝わりません。

 

【脱力感】

 

落語の目的は何か。

 

Sさんいわく、
「あ〜なんだ、そうだったのか。日本人ってそうだよな。みんな一緒か。」と知る事。
心地よい脱力感。
それが味わえる唯一の芸能が落語だそうです。

 

たとえば、
「寿限無(じゅげむじゅげむ) 五劫のすり切れ……」
という長い名前の人がいたんだよという、
おなじみ「寿限無」という落語。
面白いし、笑い話です。
それはそれで良いとして、
しかし「寿限無」という話はそういう話なのか。

 

(Sさん)「あれはつまり……自分の子が長生きしてもらいたいと思ったがあまり、
良いものをつなげていったら長い名前になっちゃったという。
笑い話ではあるけど、多分、どの親もが思う子供に『元気な子であってほしい……』、
その思う気持ちが、結果として笑い話になっちゃったのよ。
笑わせようとしてつなげたのではないのよ、きっと。」

 

そしてSさんはこう結論を。

 

(Sさん)「落語は何も特殊なものでも、古いものでもなく、
人間生きてるかぎり、どこにでも転がっている要素、
それをたまたま落語という作品として出しているだけなんです。
日本人が生きてるってこと自体が落語です。」

 

マクラが終わり、楽しい落語が始まりました。

 

【安心感】

 

ところで、
浄土真宗のご法事の目的。
世間では「先祖供養」と勘違いされがちです。

 

勿論、法事は○○さんの○回忌の法要です。
○○さんのご命日。素通りにはできません。
年忌という節目には、
縁ある各々で集い、故人を偲ぶ大切な時間としたいものです。

 

それはそれで良いとして、
しかしその「読経」「法話」の目的は何か。
参列者の各々自身が、
仏さまの話を聞き、
その教えの尊さに触れ、
「なんと、そうだったのか。
この煩悩凡夫のまま、
包み込んでくださる法のはたらきとは、こうだったのか。
仏さまの光の中、みんな一緒なのか。また浄土で会えるのか」と知る事です。

 

心配のない大きな安堵心。
それが他力のご法義、浄土真宗です。

 

笑いながら味わう落語の「脱力感」。
何度聞いても良いものです。

 

同様に、
故人の別れを縁として、
聴聞し味わう法話の「安心感」。
何度聞いても有り難いものです。

 

【法座へ】

 

ところで、
法話も落語と同じく、
短時間が苦手です。
法事の時間では、
申し訳ないのですが、
本領を発揮しづらいものが。

 

ですから住職は「法座」を案内します。

 

現在、コロナウイルスの影響で、
法座は2時間のところ、半分の1時間に。
法話も40〜45分の一席のみです。
けれども逆に講師陣は、
内容を凝縮してご法話くださいます。
感染予防には気をつけつつ、
ご法話をお聴聞ください。

 

落語と同様、
相手に伝えにくい法話です。
コロナ禍ではありますが、
今年も工夫しながら法座へのお誘いを心がけて参ります。
(このホームページ法話もそうなのですが。)

 

皆さんのご参詣お待ちしています。
(今年の法話日程はこちら

 

(おわり)    ※冒頭へ

法話2021関連ページ

法話2020
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2019
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2018
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2017
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2016
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2015
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2014
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2013
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2012
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2011
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2010
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2009
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2008
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法話2007
ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。

 
境内案内 内陣 歴史 ◆納骨堂・永代供養墓◆ 地図