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生まれ変わる(2月上旬)

【生きる】

 

映画『生きる』は、黒沢明監督作品の中でも屈指の名作である。(宮崎駿:映画監督)

 

黒澤明さんは、世界的にも評価の高い映画監督です。
88歳までに作った映画は30作品。
その中で1952年、東宝20周年記念として作られた映画が「生きる」です。

 

主人公の渡辺勘治は、区役所で働くごく平凡な人間です。
無気力な毎日を過ごしている彼ですが、
定年間近のある日、
突然自分が胃がんで余命幾ばくもないと知ります。

 

絶望の淵に立たされた主人公。
死の宣告を受けてはじめて、
過去の自分の無意味な生き方に気がつきます。

 

大事に育ててきた息子とのすれ違い。
自分が「ひとりぼっち」であると思い知らされます。
仕事を休み、パチンコやダンスホール等、
慣れない遊びに手を出しますが、満たされません。

 

そんな中、ある女性の言葉がきっかけで、
生きる目的を見いだします。
熱心に、その仕事に精を出します。
周りを説得し、時には嫌がらせも受けますが、

 

「わしは人を憎んでなんかいられない。
わしには、そんな暇はない。」

 

ついに彼はやり遂げます。
小さな公園の建設。
戦って燃え尽きる主人公でした。

 

人間が直面する選択、価値観、絶望からの勇気など、
人生において真に大切な事柄はすべてこの映画で語りつくされている。
……われわれ人間は皆、渡辺勘治と同じように時間がない。
(落合信彦:ジャーナリスト)

 

【生まれ変わる】

 

印象的な場面があります。

 

「わしにも何かできる……わしにも何か……」

 

女性の言葉で突然やる気になって立ち上がった主人公が、
喫茶店を出て、いさんで階段を降りていきます。
その背後で、誕生日会をしていた若者たちが合唱しています。

 

「ハッピーバースデー、トゥーユー♪」

 

まるで彼を励まして見送るかのようです。
彼は“生まれ変わった”かのように働きます。

 

五ヶ月後、彼は亡くなります。
通夜に参列していた部下達は、
話し合う内に、徐々に主人公の事が分かってきます。
死を覚悟して、
貧しい人々のために小さな公園作りに奔走した事に感動し、
決起するのです。

 

「僕はやる。断じてやるぞ!」
「渡辺さんの後に続け!」
「渡辺さんの死を無駄にしては……」
「僕はね、生まれ変わったつもりでやるよ。」
「自己を滅して万民の公僕たれだ。」
「頑張ろうな!」
「この感激、忘れるなよ!」
「僕はやりますよ、やりますよ!」

 

ところが、後日の区役所。
通夜の時とは裏腹に、
淡々と仕事をこなす部下達。
元の木阿弥です。

 

……自分には残された時間があとわずかと知ると、
あわてて懸命に生きるのが人間。
でもそうでない場合………長続きしないのも人間。

 

黒澤監督はインタビューで、

 

「僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇を、
しみじみと描いて見たい。」

 

【現生正定聚】

 

本願を信受するは、「前念命終」なり。
即得往生は、後念即生なり。(『愚禿鈔』)

 

親鸞聖人は、
信心を得た心境を、
「命の終わり」、言い換えれば「生まれ変わり」と味わわれています。
それほど大きな出来事なのです。

 

「生まれ変わる」といっても、
心を入れ替え、生活が激変するわけではありません。
欲や怒りの煩悩は相変わらず、
仏の心にはほど遠い状況です。

 

しかし信心を得たということは、
如来さまの本願を聞き受けたのです。
ひとりぼっちではなかったと知ります。

 

いつも通り食べて働きつつ、
しかし如来の誓い通りに、
まっすぐ浄土へ歩む人生の足取り。
その揺るぎのなさから、
喜びの念仏、
ご恩報謝の念仏を申す身に。

 

煩悩まみれの心のまま、
悪業離れできない身のふるまいのまま、
浄土へ往生して仏となる事が定まった身。
それを真宗では「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と言います。

 

自力のはからいの人生が終わり、
他力のおまかせの人生が始まります。
それがお念仏の人生です。

 

【いのち短し】

 

最後の晩、
主人公は雪の中、完成した公園のブランコで歌います。

 

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に(ゴンドラの唄)

 

大正時代の流行歌、ラブソングです。
しかしこの映画では、
諸行無常の響きを奏でています。

 

突然の事故の葬儀や、
親しい方との別れの通夜の時など、
わが身の「時間はなき」現実を思い知らされます。

 

故人を通して生まれ変わります。
心を入れ替える……それも素晴らしいですが、
お念仏をいただきます。

 

人生の苦悩・問題は誰のせいでもなく、
私であるとする仏教です。
そんな私が、悲しいかな変わりようもない身と知らされ、
そんな私を、変わる事なく離さぬ仏を知らされるお念仏。

 

私にいたりとどく「声」の姿の仏さま、
南無阿弥陀仏のお念「仏」さまです。
如来さまと二人連れの人生。
時間はなくても、
全く焦る必要はないのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

奇特の念仏(1月下旬)

【奇特なし】

 

今年は丑年(うしどし)です。
物事が遅々として進まないことを「牛歩」と言いますが、
逆に、ゆっくり前にすすむ牛のように、
少しずつでも着実に自らを成長させていく年にしたいものです。

 

また牛偏に「寺」と書いて「特」。
お寺も「特別」な年にしたいものです。

 

そう思ってふと「特」がつく「ことわざ」を調べた所、
こんな言葉が出てきました。

 

「正法に奇特なし(しょうぼうにきどくなし)。」

 

出典は狂言「犬山伏」(いぬやまぶし)です。
正法は「正しい教法、教え」、
そして「奇特」とはこの場合、いわゆる「奇跡」です。

 

「正しい宗教には私たちが思う奇跡、
奇妙で珍しい、不思議な利益など存在せず、
むしろそれを説くのは邪教である。」

 

「これを信じれば、癌が治ります。」
「これを拝めば、幸運がまいこみます。」

 

正しい教えの本質からずれています。
不思議なパワーにあずかるのではなく、
現実をきちんとみつめ、
その苦悩にきちんと答えの出る教え。
堅苦しいですが、それが正しい教えです。

 

【奇特の法】

 

「正法に奇特なし」を聞いて思い出したのが、
『大無量寿経』の言葉。

 

阿弥陀様の説法をされようとしたお釈迦様を、
弟子の阿難が次のように讃えました。

 

「今日世尊、奇特の法に住したまへり。」
(こんにちせそん、きどくのほうにじゅうしたまえり)

 

この場合の「奇特の法」とは、
「奇跡の教え」ではありません。
「特にすぐれた禅定(ぜんじょう)、精神統一状態」(※1)です。

 

本来「奇特」とは、
「特にすぐれている」「素晴らしい」といった、相手(仏)を讃える意味です。
上から目線、疑いの目でいう「奇妙な、不可解な」ではありません。
お釈迦さまは今、おさとりの境地、
涅槃寂静なる心の安定したすがたをしておられるというのです。

 

延命や開運といった人間の切なる願望、
しかし同時に終わる事のない欲望をこえて、
仏さまは永遠で普遍の道理にたたれます。
その上で、一切を救うべく活動しておられます。
それがお経に説かれる真理、正しき教法、「奇特の法」です。
私たちが期待しがちな「奇跡の法則」とは違います。

 

【帰着点】

 

そんな法にのっとって「お念仏」はお経に説かれます。

 

仏を念ずる「お念仏」。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀様に帰依します)と、
仏さまに帰依する宣言です。
仏道の出発点です。

 

しかし同時に「お念仏」は帰着点でした。
阿弥陀様の話を疑いなく聞いたからです。

 

……阿弥陀様の本願成就の物語。
「私が何をすべきか」の自力ではなく、
「仏さまは何を願い、何を成就されたのか」の方を聞き学びます。

 

何としても救わねばという仏さまの願いを通して、
何をしても間に合わない自分、
にもかかわらず仏の心を聞き流してきた私に気づかされます。

 

わが疑いの目、自力心が一番の障害でした。
譬えるなら、自分で勝手に敵を作り、
もがいていた自分に気づかされます。

 

気づけば自力の壁が剥がれ落ちていました。

 

念仏の他に何も必要でなかった事、
もう事は済んでいた事、
そういう意味で、お念仏が帰着点なのです。
今はただ、
浄土で仏となる揺るぎない一筋の道の上です。

 

【牛歩での聴聞】

 

……それにしても、
念仏で始まり念仏で終わる浄土真宗。
煩悩まみれのまま、浄土で仏になる浄土真宗。
ご縁のない人からみれば、
「仕組みが分からない」、
「なぜそうなるのか理解できない」、
奇妙な教えかもしれません。

 

ご一緒にお聴聞いたしましょう。
コロナ禍で法座に参りづらいこの頃ですが、
牛歩でもよいので前にすすんでください。
法然上人、親鸞聖人が歩まれた道です。
数多くの先人が、
苦悩し、そして出遇った喜びの道です。

 

「正法に奇特なし」、
奇跡はありません。
けれども、
「念仏は奇特の法なり」、
お念仏は良い意味で不思議な教えです。
不思議なことですが、
苦悩あるまま今、
最後まで、ご恩報謝の生活を歩ませていただく、
お念仏の道です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
「法」という語は仏教で、様々な意味を持ちます。
原語を「ダルマ」(達磨)といい、
古来、難解ですが、
@「任持自性(にんじじしょう:それ自体の本性を保持する)」、
A「軌生物解(きしょうもつげ:軌として物の解を生ず。認識や行為の規範となる)」、
そう解釈されます。
そこから派生して、
(A)存在しているもの・事物、
(B)特性・性質、
(C)規範・規準、
(D)教法・教説、
(E)真理、
(F)善・善行、そんな意味が生まれました。
「正法に奇特なし」の「法」は(D)
「奇特の法に住す」の「法」は(F)です。

 

世間一般でいう「法」は(C)に近いのでしょうか。
お説教で聞く「法」は、大体(D)(E)(F)です。

 

    ※冒頭へ

 

 

 

落語の目的(1月上旬)

【流行らない理由】

 

落語家Sさんが、落語のマクラ(本題の落語に入る前の部分)で、
「落語がはやらないワケ」について語っていました。

 

その理由の一つが、
「世間で、落語の目的が“お笑い”と勘違いされているから」。

 

人は落語を聴いて笑います。
けれども笑いの量からいえば、
漫才やコント、テレビのバラエティー番組など、
落語はとてもかないません。

 

落語に笑いがあるのは「聞かせる」ためです。
「笑う要素がなければ、人は3分以上聞いてられないから」です。
そんな聞かせるための落語に対し、
テレビは「見せる」ためのものです。
その意味でも、落語は他の演芸に比べて見劣りします。

 

また、テレビは作る側・視る側ともに、短時間で終わるものを好みます。
漫才やコントなど3分で一段落できるのに対し、
落語は無理です。

 

そして、落語は周りに良さが伝わりにくい。
他のコンサートへ行った人は、帰宅してその感動を、
「開演と同時にメンバーがね!一曲目はね!……」と語り大いに盛り上がります。
でも落語会へ行った人は……。

 

(Sさん)「……あなた方、今日帰って言う?」

 

言わないし、伝えにくい。
落語のあらすじを言った所で伝わりません。

 

【脱力感】

 

落語の目的は何か。

 

Sさんいわく、
「あ〜なんだ、そうだったのか。日本人ってそうだよな。みんな一緒か。」と知る事。
心地よい脱力感。
それが味わえる唯一の芸能が落語だそうです。

 

たとえば、
「寿限無(じゅげむじゅげむ) 五劫のすり切れ……」
という長い名前の人がいたんだよという、
おなじみ「寿限無」という落語。
面白いし、笑い話です。
それはそれで良いとして、
しかし「寿限無」という話はそういう話なのか。

 

(Sさん)「あれはつまり……自分の子が長生きしてもらいたいと思ったがあまり、
良いものをつなげていったら長い名前になっちゃったという。
笑い話ではあるけど、多分、どの親もが思う子供に『元気な子であってほしい……』、
その思う気持ちが、結果として笑い話になっちゃったのよ。
笑わせようとしてつなげたのではないのよ、きっと。」

 

そしてSさんはこう結論を。

 

(Sさん)「落語は何も特殊なものでも、古いものでもなく、
人間生きてるかぎり、どこにでも転がっている要素、
それをたまたま落語という作品として出しているだけなんです。
日本人が生きてるってこと自体が落語です。」

 

マクラが終わり、楽しい落語が始まりました。

 

【安心感】

 

ところで、
浄土真宗のご法事の目的。
世間では「先祖供養」と勘違いされがちです。

 

勿論、法事は○○さんの○回忌の法要です。
○○さんのご命日。素通りにはできません。
年忌という節目には、
縁ある各々で集い、故人を偲ぶ大切な時間としたいものです。

 

それはそれで良いとして、
しかしその「読経」「法話」の目的は何か。
参列者の各々自身が、
仏さまの話を聞き、
その教えの尊さに触れ、
「なんと、そうだったのか。
この煩悩凡夫のまま、
包み込んでくださる法のはたらきとは、こうだったのか。
仏さまの光の中、みんな一緒なのか。また浄土で会えるのか」と知る事です。

 

心配のない大きな安堵心。
それが他力のご法義、浄土真宗です。

 

笑いながら味わう落語の「脱力感」。
何度聞いても良いものです。

 

同様に、
故人の別れを縁として、
聴聞し味わう法話の「安心感」。
何度聞いても有り難いものです。

 

【法座へ】

 

ところで、
法話も落語と同じく、
短時間が苦手です。
法事の時間では、
申し訳ないのですが、
本領を発揮しづらいものが。

 

ですから住職は「法座」を案内します。

 

現在、コロナウイルスの影響で、
法座は2時間のところ、半分の1時間に。
法話も40〜45分の一席のみです。
けれども逆に講師陣は、
内容を凝縮してご法話くださいます。
感染予防には気をつけつつ、
ご法話をお聴聞ください。

 

落語と同様、
相手に伝えにくい法話です。
コロナ禍ではありますが、
今年も工夫しながら法座へのお誘いを心がけて参ります。
(このホームページ法話もそうなのですが。)

 

皆さんのご参詣お待ちしています。
(今年の法話日程はこちら

 

(おわり)    ※冒頭へ

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