山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

唯仏是真(12月下旬)

【一億円札】

 

Nさんの家にお参りに行くと、
壁に何やらお札のようなものがかかっています。

 

近づいて見ると上段に「金のたまる人」と題して、
十箇条が書かれてあります。

 

「一、感謝の生活をする人
 一、収入以下で生活する人
 一、夫婦仲の良い人
 一、……」

 

下段には聖徳太子が描かれた昔のお札が描かれています。
見るとゼロが……8つ、「一億円札」です。
「日本銀行券」ではなく「金成銀行券」と書いてあります。
少し笑ってしまいました。

 

掲示板

 

【十七条憲法】

 

昔はお札でおなじみだった聖徳太子。
今年、太子の1400回忌でした。

 

篤く仏を敬った聖徳太子。
日本最古の木造建築物である法隆寺や、
大阪の四天王寺を建立しました。

 

親鸞聖人も、大変太子を崇められ、
観音菩薩の化身・和国の教主と言われました。
太子に関する和讃も実に200首製作されています。

 

また推古天皇を助けて、
十箇条ではなく、『憲法十七条』を制定されました。
これは今の憲法とは違って、
役人の心構えを示したものです。

 

第一条冒頭は有名です。

「和(やわ)らかなるをもって貴しとなし、」

争いのない平和な世の中を願われています。
そして第二条は、

篤く三宝(さんぼう)を敬ふ。三宝は仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。
(中略)
それ三宝(さんぼう)に帰(よ)りまつらずは、
なにをもってが枉(まが)れるを直(ただ)さん。

仏教に帰依する事を説いています。
間違った方向にすすみがちの私を、
正しい方向に導くからです。

 

【世間虚仮】

 

ご門徒へ毎年配布している「直枉(じきおう)カレンダー」。
先ほどの「枉(まが)れるを直(ただ)さん」が名前の由来です。
12月にはこう書いてあります。

如来さまは世間を虚仮(そらごと)と目覚めしめる

掲示板

 

イラストには金髪の男性とお寺の掲示板。
「世間虚仮」(せけんこけ)とあります。
やはり聖徳太子の言葉です。

 

「世間虚仮」とは、「この世にある物事はすべて仮の物」。
流行にかぎらず、若さや健康も長続きしません。
そして家族や友人も、最後は離れていきます。

 

しかし凡夫の私には執着・愛着があります。
一時的に面白いもの、楽しいものから離れられません。
そして時間がどんどん過ぎていき、
最後、「人生は結局、何も残らない」と、
一人、虚しく愚痴をこぼしてしまうのです。
「世間(私も含めて)虚仮」です。

 

誤解してはいけません。
「その通り。どうせこの世は冗談さ」という開き直りではありません。

 

「世間虚仮」に続く言葉があります。
「唯仏是真」(ゆいぶつぜしん)

 

我執を離れ、無常を超えた出世間の存在「仏」。
故に決して虚しく消える事なく、
最後まであてになるもの、
私達の人生のよりどころ足りうる存在です。

 

仏さまこそ唯一真実なものなのです。
(「仏こそ一番偉い!」という意味ではありません。)

 

【タタリからの解放】

 

1400年以上前から、
「厚く仏教(三宝)を敬え」とお示しの聖徳太子。
一億円どころか、
どれほどのお金にも換えがたい仏の教え。
私の曲がった心、煩悩混じりの価値観を修正してくださるからです。

 

「世間虚仮・唯仏是真」と心得て、
仏さまをたよりとする時、
世間の“気休め”的なものとは距離ができます。

 

直枉カレンダーの11月にはこうありました。

如来さまはバチ・タタリから解放してくださる。

掲示板

 

バチ・タタリを気にする人は多いです。
たとえば60代のHさん。
先日、「○○山へ行け!」と友人に号令したそうです。
理由は同級生が急に亡くなり始めたから。
「これはおかしい。みんなでお祓いに行こう!」
ご門徒であるHさん。
半分冗談でしょうが、でも半分本気なのでしょう。

 

しかし仏法をよりどころとし、
念仏の道を歩む浄土真宗です。
「何が真実であったか」と知った時、
○○山へ行く必要はなくなります。

 

「ガンバレでもなく、
アキラメロでもなく、
“そのままの救い”でした。」

 

いつでも引き戻してくださる教えです。
気休めに時間を費やさず、
かけがえのない人生をかみしめさせていただきます。

 

年末の忙しい毎日。
しかし、いつでも今が救いのどまん中です。

 

「お互い、真実にであえて、
本当にあてになるものにであえて良かったね」

 

聖徳太子の言葉を心に思い起こつつ、
今年も最後まで、
ご恩報謝の生活です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

暁の念仏者(12月上旬)

【チャボの生態】

 

わが家には十羽のチャボがいます。
名前は「あーちゃん」「いーちゃん」「うーちゃん」……。

 

長女はチャボが大好きです。
そんな長女が決めた夏休みの自由研究は「チャボの生態」。
図鑑を使って、
いろいろチャボについて調べていました。

 

そんな長女へ提案しました。
「一番鶏(夜明け前の最初の鳴き声)を遅くする方法を見つけてほしい」
以前から近所迷惑を感じていました。
何か良い方法はないものかと。

 

娘は言いました。
「それならまず一番鶏が何時なのか調べる。」
母親は反対します。
「中学生なのに、そんなに早く起きてはいけません。」
結局、一番鶏の時間を調べる役は私に。

 

提案しなければ良かったと後悔しつつ、
仕方なく8月中旬から10日間調査しました。
やり方としては、

 

1 朝3時前に起床。
2 鶏小屋へ行き、ICレコーダー(録音機器)をスタート。
3 約2時間後、停止。
4 録音した音の波長が見える「音声編集ソフト」を使いながら一番鶏を探す。

 

大変眠たい10日間でした。

 

真夜中2時間の録音です。
基本的に無音です。
しかし時々、車の音やバイク、電車の音が。
仕事をしている人の姿が目に浮かびます。
そしてしばらくすると「コケコッコー!」と。
一番鶏は、
雨の日を除いて3時40分から50分頃でした。
……こんなに早いとは。

 

【光暁】

 

智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
(現代語訳:
 阿弥陀仏の智慧の光明は限りがない。
 迷いの世界のもので、その光に照らされないものはない。
 真実の智慧の光である真実明(しんじつみょう)に帰命するがよい。)

 

親鸞聖人の和讃です。
この「光暁(こうきょう)」というお言葉ですが、
阿弥陀さまの智慧の光が、
私の煩悩の闇を破ることを「暁(あかつき)」にたとえたものです。

 

他の聖人の著作にも、
信心を得た人の心を暁(あかつき)と表現されます※1>。

 

暁(あかつき)とは何か。
現在では夜明けの「空がぼんやり明るくなる頃」を指します。
けれども昔は夜明け前。
「あか」がつきますが、空は真っ暗な状態です。
そこから「東雲(しののめ)」となり、
夜明けを指すのは「曙(あけぼの)」でした。

 

「信心を得たらどうなるのですか?」
あまり見た目は変わりません。

 

いつでもどこでも
阿弥陀さまの光に照らされていた事に気づき念仏する、
信心をいただいた念仏者です。
けれども「夜」と「暁」が、
見た目が同じ「真っ暗」であるように、
信心をいただく前と後、
心の煩悩の闇は相変わらずです。

 

けれども「夜」と「暁」、
信心をいただく前と後は違うのです。
それは一番鶏です。
阿弥陀さまの喚び声、
「朝はきたぞ(仏はもうここにいるぞ)」の喚び声が聞こえる念仏者です。

 

暁の念仏者。
もう永きにわたる迷いの夜は明けました。

 

苦悩の原因である煩悩はかわりません。
日々犯す殺生の罪深さが軽くなるわけでもありません。

 

けれどもその夜のような人生、
先のみえない道を、
月の光、阿弥陀さまの光に照らされながら、
まっすぐ歩んでまいります。
「なにがあっても心配なかった」という安心。
見た目も中身も変わりませんが、
くずれることのない信心をいただいた
念仏者です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
「摂取心光常照護」といふは、
信心をえたる人をば、
無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、
無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。
「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、
信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。
(『尊号真像銘文』)

 

 

 

私と仏と領解文(11月下旬)

【ブレイクスルー】

 

「夏の終わりにコロナにかかりました。」
先日のS家のお取越で言われました。

 

原因は分からないそうです。
ある日突然倦怠感が起こり、
一週間続くので思い切って検査すると陽性。

 

倦怠感以外はなかったのですが、
担当医師は、遠方ですが病院を探してくれました。
入院後、精密検査をすると、なんと肺炎。
「もしホテルなんかに隔離されていたら、
命がなかったかもしれません。」

 

Sさんが感染したのはショックでした。
私の知る中、最もコロナを警戒されていました。
自宅に入るときは消毒を10回。
海外のWHOの情報を翻訳して教えてくれる程でした。

 

2度ワクチン接種していたSさん。
ブレイクスルー感染です。

 

あらためて、諸行無常の中を生きる私たち、
いつ何時、何がおこってもおかしくない中と
教えていただきました。

 

その私のために、
特別の願いをかけられました。

 

どのような人生も、
決してむなしく終わらせない、
いのちの行く末、
わが浄土でさとりの仏とするという誓い。

 

本願を成就された阿弥陀さま。
これを「後生の一大事」といいます。

 

【一大事】

 

「ご院さん、おたずねしてもいいですか。
……領解文を毎日唱えています。
そこにある“一大事”って、
亡くなった主人の葬儀の事ですよね?」

 

Mさんに云われて領解文を読み返します。

 

「……一心に阿弥陀如来、
われらが今度の一大事の後生、
御助けそうらえと、
たのみもうしてそうろう」

 

たしかに、何気なく読んでいれば、
「一大事」は「葬儀」に読めます。

 

「……どうかどうか阿弥陀さま、
私のこの度の一大事だった葬儀で(一大事)、
なくなった主人の死んだ後(後生)、
良い所に生まれるように、お助けくださいませ。」

 

そしてMさんは笑いながらおっしゃいました。
「いつまで主人の事を考えないといけないのですかね?」

 

慌てて説明しました。

 

世間では一般的に「一大事」は、
「一番の大事(おおごと)、大変な事」として、
多くの場合、「葬儀」です。

 

しかし本来「一大事」は仏教用語です。
「一番の大事(だいじ)、大切な事」であり、
すなわち、
「私が迷いを離れて仏になること」です。

 

「私が仏にならせていただくことです。」
「はー、そういうことにしときましょう(笑)」

 

なかなか分かってもらえずの帰宅でした。

 

それほど私が「私ごと」と自覚することは難しいのです。
元気な時はピンとこず、
コロナの重症患者のように、
病気になれば苦しくて、
「私のいのちとは何だったか」、
そんな事を考える余裕はありません。

 

ましてや、認知になったらもう手遅れです。
仏さまの救いは届いていますが、
それを聞き信じての喜びのご縁はありません。

 

仏縁の難しさを教えられました。
私を離れて、仏教はありません。

 

【供養≠救い】

 

「いつまで供養しなければ。切りがないのでは……」

 

そんなMさんの考えは、どこから起こるのか。
「私が供養して故人を幸せにしないと。」
この供養の考えを「追善供養」(ついぜんくよう)といいます。

 

面倒な仏事でも「これも供養だ」と思えば、
やる気が起きます。
しかし追善供養は、そんなに長持ちしません。
そのことMさんが教えてくれました。

 

ならばどうするか。
仏事(法事)でのお説教を通して、
自分自身、法の尊さに出遇います。

 

故人を偲ぶと共に、
故人に偲ばれる私でした。
「あなたのいのちの大問題。仏法に出遇えよ」と。

 

法を聞き重ねていくうち、
「私が供物をしたり荘厳したり、供養するから、
故人は救われるのではなかった。」
そう気づいていくはずです。

 

日々のお仏壇のお荘厳は大切な事です。
自身が「やろう」と思わないときれいにできません。
しかし、
お荘厳や供養をしたから故人が救われるわけではありません。
私と同様、
故人を助けるのは仏さまです。

 

故人のための仏事から、
故人からの仏事、
故人から賜る私の仏縁の行事とします。

 

【無碍の力】

 

コロナは私のワクチンの網を通り抜けて(ブレイクスルー)入ってきます。
同様に、
阿弥陀さまの無碍のはたらきは、
私の疑いの網をやぶって飛び込んでくださっています。

 

阿弥陀さまのご苦労を聞く中、
わが身の浅はかな計算がご破算に。

 

そして領解文の言葉、
「御助けそうらえとたのみもうしてそうろう」、
その誤解に気づいていきます。

 

「どうか阿弥陀さま……お助けくださいませ。」
ではありませんでした。
「お助け」という期待心、
それも自力という、煩悩まじりの心と知らされます。

 

苦しい時はとりわけ「お助け」と思う凡夫の私たち。
しかし「南無阿弥陀仏」とお念仏する時、思い直します。
「仏さまの方がすでに『助けるぞ、仕上がっているぞ』と、
願い喚んでくださっていました。
お助けくださる事、おたよりする(おまかせする)ばかりです。

 

「一心に阿弥陀如来」(領解文)

 

「一心」は「一生懸命」ではありませんでした。
阿弥陀さま唯お一方に定まった心持ち。
ぶれない心持ちです。

 

誘惑に弱い凡夫の私には決して起こりえなかった心持ち。
如来さまから賜った真実の心持ちです。
故に「他力の信心」といいます。

 

浄土真宗は「領解文」を繰り返します。
何度も読む内に、
自らの煩悩の自力心がひっくり返される感動をいただきます。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

舎利とお墓(11月上旬)

【すしの日】

 

11月1日は「すしの日」です。
その由来は歌舞伎にあり、
なんでも『義経千本桜』に登場する平維盛(これもり)が、
「鮨屋(すしや)の弥助」に改名した日なのだとか。

 

そんな鮨屋には独特の業界用語があります。
お茶は「あがり」、ショウガは「がり」、醤油は「むらさき」。
具材は「ネタ」といって、
一説に「種」がひっくり返って「ネタ」になったとか。

 

そんな寿司用語に「シャリ」があります。
これは寿司飯のことで、
由来は仏教用語の「お骨」を意味します。
「シャリコウベ」とか「仏舎利(ぶっしゃり)」の「シャリ」です。
インドの「シャリーラ」の音写語です。

 

魚の身(ネタ)を支える白い寿司飯。
丁度、肉を支える白い骨にみたてて、
「シャリ(骨)」と言ったのかもしれません。

 

ところでなぜ仏教では「骨」といわずに「舎利」というのか。
簡単に「骨」とはいえない事情があります。

 

【舎利塔】

 

お釈迦さまは80歳で涅槃(ねはん)に入られます。
涅槃は煩悩から解放され、
輪廻の苦しみを超えた境地です。

 

涅槃に入る前の最後の説法で有名なのが
「自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)」。
自己自身をよりどころに、
そして法をよりどころにするようにと。
正しい理性と真理を忘れぬよう諭されました。

 

涅槃の後、
火葬して残ったお釈迦さまの遺骨「舎利(シャリ)」は、
平等に八等分されました。
そしてインド各地に「仏舎利塔」が建てられます。

 

舎利塔はお釈迦さまを拝むと共に、
生前、お釈迦さまが説いてくださったみ教えを聞く場所でもあります。
舎利は骨であって、
ただの骨ではないのです。

 

【お墓の意味】

 

人によって「遺骨」の意味は様々です。
魂(御霊)がやどっているもの、
生前の思いが残っているもの、
そういう意味で、人によってお墓は、
薄気味悪く感じる場所かもしれません。

 

しかし仏教の場合、
「舎利」「仏舎利」という見方があります。
それは故人のいのちを支えていただけでなく、
故人の思い出が残る場所だけでなく、
故人が人生のよりどころとした「法」を、
今度は私が聞く場所なのです。

 

「南無阿弥陀仏」

 

お念仏も「舎利」同様、音写語です。
単に如来さまに帰依するだけでない、
如来さまのお心、おはたらきを聞く、
仏さまの法そのものです。
浄土真宗で「お念仏一つ」とか、
「南無阿弥陀仏一つ」といわれる理由があります。

 

いつでもどこでもお念仏は出ます。
特別な場所はいらない、
最も特別な言葉です。

 

寿司は美味しい料理です。
「しゃり」の上に様々なネタがのります。

 

仏教徒は故人をご縁として、
仏さまの色とりどりのネタ(法)を味わいます。
人生の悲喜こもごもな出来事が、
お釈迦様の法によって、
「そうでありました。有り難いことです」と。

 

お墓(納骨堂)にお参りします。
「お陰様で、お念仏申せる人生です。」
浄土におられる故人にそんな報告・お礼を。
もちろん「南無阿弥陀仏」と申しつつ。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

赤とんぼ(10月下旬)

【世代の違い】

 

先月の子ども会で「赤とんぼ」の歌を紹介しました。

 

夕やけ小やけの 赤とんぼ♪

 

すると半数の子が「初めて聴いた」と。
教科書にないのだそうです。
「もっと新しい曲じゃないと」と笑う2年生男子。
世代の違いを感じました。

 

そういう私も子どもの頃は、
歌詞の意味も分からず歌っていました。

 

【おわれてみたのは】

 

「赤とんぼ」の作者は三木露風。
明治22年生まれの兵庫県生まれで、
北原白秋と並ぶ、近代日本を代表する詩人です。

 

5歳の時、両親が離婚。
祖父の元で育てられます。
そこにいたのが、女中奉公の「ねえや」と呼ばれる女性。
三木さんの母代わりになってくれました。

 

  山の畑の 桑の実を
  小籠に摘んだは まぼろしか(「赤とんぼ」2番)

 

二人で桑の実をおやつ代わりに食べたのかもしれません。

 

また秋の夕暮れ。
遊びつかれた三木さんを「ねえや」はおぶって帰ります。

 

  夕やけ小やけの 赤とんぼ
  おわれて見たのは いつの日か(「赤とんぼ」1番)

 

背中の温もりを感じつつの帰り道。
空が燃えるように赤い景色を眺めながら、
二人は家路につくのでした。

 

「赤とんぼ」は大正10年、三木さん32歳、
童謡集『真珠島』に掲載されました。

 

「ねえやや両親は今、どこで何を……。」

 

子どもの頃の思い出、懐かしい故郷、
もう会えない大切な人たち。
短い詩の中に、広大な情景がこめられています。
5年後、山田耕筰が見事に作曲し、
日本語を代表する叙情歌が誕生しました。

 

【夕焼けの赤とんぼ】

 

念仏者は、夕焼けにそまる赤とんぼのように、
救いの光に「南無阿弥陀仏」とそめられます。

 

「どのような者も救う」と願い誓われたご本願。
その仏の思いを“わが事”と受けとめ、
「私一人に向けられた大プロジェクト」と目覚めます。
罪業重き煩悩まみれの凡夫。
けれどもそんな私を「ねえや」のように背負ってくれる仏さま。
仏さまの広き背中の温もりを感じつつ、
お浄土へ「かえって往く」のです。

 

念仏者は「聞名不退」(もんみょうふたい)です。
決して後ろに下がらないトンボのように、
「聞名」、仏の名(仏の心)を聞きうけた(信心を得た)以上、
「不退」、決して退きません。
どのような曲がりくねった人生であろうとも、
踏んだり蹴ったりの日々であろうとも、
お浄土への一本道です。

 

  夕焼小焼の 赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先(4番)

 

年々、懐かしき人が増えていきます。
「赤とんぼ」を口ずさむ時、
「子どもの頃お世話になったあの人はどうしているか」
「亡くなったあの人は、今どこに……」
夕焼けにそまった西の空を眺めながら、
けれどもそれは、お浄土の方角です。
懐かしい人びとが残らずおられる景色です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

柿(10月上旬)

【柿食えば】

 

秋は果物が豊富です。
お仏壇にも様々な果物のお供えをみかけます。

 

日本の果物の生産量を調べると、
1位はミカン、2位はリンゴ、3位はナシ。
そして4位はカキです。

 

カキといえば思い出すのが、
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
正岡子規の歌です。

 

生涯に20万ともいわれる句を詠んだ子規。
その作品の中でも、最も有名な一句ともいわれます。

 

明治28年(1895年)、
28歳の子規は「法隆寺の茶店に憩ひて」(という設定で)この句を詠みました。

 

秋晴れの青空の下。
鮮やかなオレンジ色のカキを食べていると、
不意に法隆寺の鐘の音。

 

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

 

五感すべてが刺激される素敵な句です。

 

【鐘が鳴る】

 

けれどもこの句を詠んだ頃の子規は、
体調をくずしていました。
原因は結核のようで、
その年、兵庫県の病院に入院、
また夏には故郷の松山で療養しています。

 

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

 

秋のおとずれを楽しく感じさせる句ですが、
見方によっては、
お寺の鐘の音から仏教の教え、
諸行無常の響きも知らされる句です。

 

秋は季節が冬に向かう時期。
人生でいえば壮年期が終わって老年期です。
老いと病い、ぬぐいがたい現実です。
止まることなき時の流れ。

 

故に目覚めよ、正しき道を歩めというお釈迦さまです。
現実に目を背けず、
二度と来ない今日の日暮らしの重みを味わいます。

 

「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」(子規)

 

【渋甘】

 

カキといえば思い出す句がもう一つ。

 

「渋柿は シブそのものが 甘みかな」

 

お説教の例え話でよく聞く秋の句です。
「干し柿は〜」と言いかえたりも。

 

そのままではとても食べられたものではない渋柿。
けれども場所をうつし、
日光を浴びているうちに、
自然と熟して、美味しい柿に変化します。

 

念仏者も同様です。
渋柿同様に場所をうつし、
如来さまの大悲の光の前、
如来さまのお説教を聞くばかりです。

 

心の中は煩悩というシブいっぱいのわが身です。
とりようのないほどの罪悪のシブ。
その煩悩・悪業あるがまま、
如来さまの他力の光によって、甘み、
煩悩とは真逆のものとかえなされます。
浄土へ参り、さとりの仏となる身に変化します。

 

邪魔しているのは自力の心です。
「私は渋柿ではない」とか、
「渋柿が何したって仕方ない」とか、
自分で自分の罪福を診断する心。
故に如来の光を見る気がおこりません。

 

木からとって天日にさらさなければ干し柿にはなりません。
日常の生活の手を休め、
法座へどうぞお参りください。

 

【日の当たる世界に】

 

「一体、念仏の教えは何をしているのか?」

 

他宗から疑問に思われても仕方のない程、
何もしていません。
弁解のしようがありません。
けれども、
何もしていないように見えますが、
言わずとしれた如来のありったけの願いの力、
「大願業力」の光に身をおいた状態、
それが念仏者です。

 

光のあたらない世界に身をおいてきた私を、
この仏さまこそ誓ってくださり、
光のあたる場所に置いてくださった喜び。
そのまま熟され、お浄土へ参らせていただくばかりです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

大切な「きまり」(9月下旬)

【質問】

 

S住職の息子さんが小学校高学年になった時です。

 

「なぜ毎朝、仏さまにお礼をしなければいけないの?」

 

お朝事の後、お父さんにたずねたそうです。

 

S住職は突然の質問に驚きつつも、

 

「よくたずねたね。大切な質問だよ。

 

では逆に訊くけれども、
あなたが一番大切にしているものは何だい?」

 

「……それは自分です。」

 

「ならば、もう一つ尋ねるが、
その一番大切な自分を、
本当に大切にしているかい?」

 

「……大切にしているつもりです。」

 

「そうだろう。
“つもり”なんだよ。
仏さまのみ教えにあわなければ、
一生涯、一番大切なものを、
“大切なつもり”で終わらせてしまう。
だから、毎朝、お礼をするんだよ。」

 

【自己制御】

 

「あなたがこの世で一番大切なものは何か。」

 

多くの人は「いのち」と答えるかもしれません。
そんな大切な私のいのちを守るため、
仕事をし、健康に気をつけ、家族と生活します。

 

しかし「いのち」には「生命」の意味だけでなく、
「こころ」も密接につながっています。

 

その「こころ」の部分を、
私たちは本当に大切にしているでしょうか。
そして正しい生活、行動をしているでしょうか。

 

悪い事とは分かっていても、
ウソをついてしまう。
悪事をおかしてしまう。
心の中の「ねたみ」「いかり」は、
いくらでも湧き出てきます。

 

悪業で自らを傷つけてしまいます。
「いのち」の大切な部分を粗末にする私がいます。
自己制御できない私。
「わかっちゃいるのにやめられない」私です。

 

その私を制御するものがあります。
私の周りにいつでもどこにでもある法則、「法」(ダルマ)です。
お釈迦さまが発見されたので「仏法」ともいいます。
創造されたわけではありません。

 

【他力の法】

 

仏法を聞き、己の内実を知り、
実践を行うことで、
自らを制御していきます。
そして最も理想的な人格にめざめる時、
それをおさとりと言います。

 

よって実践には種々あります。
瞑想だったり、苦行だったり。

 

一方、
浄土真宗の法は他力の法です。
「自ら実践する」事の心持ちが違います。

 

他力の法は何を聞くか。
阿弥陀さまという仏の慈しみの願いを聞きます。
その願いの理由を通して自らの内実を知ります。
「南無阿弥陀仏」と、仏の願いに帰依します。

 

縁があれば制御不能、
死ぬまで愚かな凡夫と知りつつも、
開き直りません。
そんな凡夫の私を決して見離すことなく、
「仏の世界に生まれさせん」と願い、
私と寄り添う仏の温もり。
安心して前を向いて歩きます。

 

【ご恩報謝】

 

「いかに自ら気をつけて生活するか」ではなく、
「いかにこの仏さまにお礼(ご恩報謝)ができるか」。
他力の信心の生活です。

 

仏事をつとめ、お仏壇をきれいに。
仏法の生活は様々あります。

 

そんな仏さまを給仕する手と足で、
他と関わります。
介護をしたり、ボランティアをしたり。
お念仏の出る口で、
相手をほめたり、社会に提言したり。
人によって様々でしょう。

 

そして他と関わった後、
また一日の最後、お念仏で終わり。
疲れてたり、忘れてたり、
お念仏が出なくても全く問題ありません。
忘れたまわぬ仏さまと一緒です。

 

いのちを大切にしているつもりではなく、
大切となっている他力の生活をします。
浄土真宗が大切にしている「きまり」です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

ノーマライゼーション(9月上旬)

 

障害は不便だが不幸ではない(ヘレン・ケラー)
 (A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though.)

 

【元気でなくても】

 

ある寺院の「お便り」にこんな記事がありました。
とても有り難い文章でした。

 

[寺内あれこれ]

 

先日、境内のお花について話していた時のこと。
次女が、
「私が小さいとき、お母さんがチューリップを譲ってくれたのを覚えているよ」
と言ってくれました。

 

次女が幼稚園に通っていた頃のことです。
三人の子ども達が好きな色を選んで、
一人ずつチューリップの球根を植えたことがありました。
しかし、最初の年は次女の花だけが咲きませんでした。
悲しい思いをさせましたので、次の年もまた同じく、
今度は私の分も加えて、チューリップを植えました。

 

その年は見事にみんなの花が咲きましたが、
次女が自分のチューリップをちょっと指先で触った途端に、
花びらがはらりと全部落ちてしまいました。
次女がわーんと泣きました。
その花びらは拾って押し花にし、
私の花をあげたことでした。

 

次女が植えたチューリップは白でした。

 

この出来事を思い出すとき、
私はいつも心の中で、
青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光(しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう)と称えます。
浄土三部経の一つである『仏説無量寿経』の一節で、
お浄土に咲く蓮の花を表された言葉です。

 

青い花からは青い光が、
黄色い花からは黄色い光が、
赤い花からは赤い光が、
白い花からは白い光が放たれていて、
そのいずれも光り輝き美しく、
香り高いと語られています。

 

極楽浄土の荘厳が説かれているのではありますが、
この一節から、
私たちはみな光り輝くかけがえのない命をいただいていると、
いずれも美しく尊いと、味わうことです。

 

第一子である長女を出産する前、
住職に「元気で明るい子だったらそれで十分ですね」
と言ったことがあります。

 

すると住職が、
「元気でなくても、明るくなくてもいいよ」
と返してくれました。

 

話の流れの中で何気なく出た言葉ではありましたが、
授かったかけがえのない我が子にさえも、
条件をつけるような言葉であったと、
はっとしました。
自分を恥じ入ると共に、
生まれてくる子のいのちをそのまま受けとめようという住職の言葉に、
大きな安心を得ました。

 

以来22年、
母とならせてもらった後も、
その言葉は常に私の支えとなりました。
いつの間にか子ども達は成長し、
それぞれの世界を広げつつあります。
どこにいても何をしていても、
お念仏を忘れず、
自分自身も周りの人も、
お互いにかけがえのない存在として、
大切にし、
日々過ごしてくれたらいいと願っています。

 

(坊守)
   (『敬行寺だより』(R3−7))

 

 

【ノーマライゼーション】

 

先月24日から始まった東京パラリンピック。
毎日、熱戦がくりひろげられています。
オリンピック同様、
たくさんの感動をもらいました。

 

そしてあらためて学びました。

 

視覚障害や運動障害。
障害の程度もいろいろおられます。
様々なハンディキャップをかかえた人がおられます。
その人数は世界に10億人。
世界人口のおよそ15パーセントだそうです。

 

ノーマライゼーション。
厚生労働省が提唱する理念です。
「障害のある人も障害のない人も、
当たり前のように、
同じ生活、同じ活動ができる社会を目指す」
という意味だそうです。

 

そのためには話し合いが必要です。
障がい者と健常者はどのような点が異なり、
どのような状況で不便さを感じるのか。

 

障がい者の事をよく知り、
障がい者の気持ちを理解し、
皆で考えながら、
共に無理なく生活・仕事をできる環境づくりです。

 

そのような改善・工夫の取り組みは、
結局、健常者も住みよい生活、
よりよい仕事につながります。

 

障害を受け入れつつも、
あきらめずに前進するパラリンピック選手同様、
お寺も、少しずつでも、
レジリエンス(しなやかな心、折れない心)を忘れず、
ノーマライゼーションに取り組んでいきたいと思います。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

一人ひとりの一時停止(8月下旬)

【7,000円】

 

先日、赤信号で止まっていると後方から、
「ピピピピー!」という音が聞こえました。
サイドミラーを見ると警察官が走ってきます。
どこへ行くのかと見ていると、
なんと、私の車で立ち止まりました。

 

「一時停止無視です」。

 

先ほど右折する時、
前の車と一緒に本線に入ったとの事。
慣れた道であり、考え事をしていて、
うっかり忘れていました。

 

諸々の書類に署名した後、
青い紙を渡され、
最後にこう言われました。
「事故にあわなくてよかったですね。」
……全くです。

 

【一人のしのぎ】

 

後日、罰金を払いながら思いました。
「ご法事も同じだ。」

 

日頃、仕事など猪突猛進する私たちが、
故人を縁として立ち止まらせてもらいます。

 

一人ひとりがきちんと立ち止まります。

 

悲しみをご縁として、
自らの人生の支えに、
自らの存在の意味に、
自らの人生の方向を
問いたずねて聞いていきます。

 

(171) 往生は一人のしのぎなり。
一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。
(蓮如上人真宗聖典註釈版、1284頁)

 

「前がいくから自分もそのまま」では、
いつか事故にあうかもしれません。

 

【聴聞するのは】

 

一人ひとりの一時停止。
特に肝に銘じなければならないのが僧侶の私です。

 

「せっかく法事に来られた方々にどんな法話が良いか。」
「何とかお寺でお聴聞してもらうにはどうすれば。」

 

そんな思いは、ある意味余計です。

 

自分自身が「お念仏とは何であったか」と向き合います。

 

お念仏は阿弥陀様の喚び声であった事。
ご本願通りの「われにまかせよ」との仰せを聞き、
その身そのまま救われる存在のわが身と知ります。
全てをつつみこむ摂取不捨の仏さまの支え。
歩む人生はどこへ往こうが往生浄土の道。

 

私自身が故人から立ち止まらせていただきます。

 

【故人はどこへ】

 

先日もこんな事がありました。

 

遠方のIさんの奥さんからの電話で、
Iさんが突然亡くなられたとの事。

 

「コロナ禍なので家族だけの葬儀にしました。
葬儀は2日前に近隣のお寺に来ていただいて終わりました。」

 

そして用件は、
49日に納骨をするのでお参りしてもらいたいとの事。

 

お参りの約束をして、
Iさんの最後はおだやかだった事等を聞かせてもらい、
電話を切りました。

 

電話を終えてしばらくして思ったのは、
「お浄土という言葉がなかったな。」

 

長いことお会いしていないIさんですが、
果たしてお念仏のご縁に遇い、
お浄土へ往かれたのか。

 

「先日、主人が亡くなりました。
生前は大変お世話になりました。
最後はおだやかにお浄土に参らせてもらいました。」

 

そんな言葉を期待してしまう私。
「ご教化がいたってなかったな」と思う私。

 

【私事】

 

しばらくしてから、思い直します。
余計な事なのです。
Iさん、Iさんの奥さんの事よりも、
私自身がこのIさんの臨終をご縁とします。

 

「Iさん、一年前の肺炎から、
ずっとがんばられたのですね。
さびしくはありません。
私もまもなく、あなたと同じお浄土に往きますから。」

 

「後生の一大事」をもつ念仏者です。
今生が夢幻(むげん)のごとくはかなく、
一寸先が闇である事を承知しつつ、
その闇を照らしてくださる仏と共に歩みます。
日々、仏の光がともった心を燃やしつつ、
ただ念仏一筋の道です。

 

黄泉の国でなく、天国でなく、お浄土に参らせてもらいます。
お浄土がどこにあるかは分かりません。
しかし今生の最後、
必ずたどりつく場所である事は確かです。
列車にはかならず終着駅があるように、
無限の光、阿弥陀仏の列車にのった私たち。
終着駅は、阿弥陀仏の本願にある通りです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

仏の所見(8月上旬)

【病院通い】

 

夏休みになりました。
次男は張り切って朝5時に起き、
勉強したり、体操したり……。
そして数日後、
病院通いが始まりました。

 

背中に赤いブツブツができました。
あわてて「救急センター」へ。
医師の所見は「帯状疱疹」でした。

 

数日後、今度は耳の下あたりが腫れました。
翌朝、「小児科」へ。
所見は「おたふくかぜ」ではなく、単なる疲れだろうと。

 

さらに、突然耳が痛くなりました。
「耳鼻科」で耳にカメラを入れた先生は、
「急性中耳炎ですね」と即答。

 

現在は安静にすごしています。
朝は7時半すぎまでのんびり寝てます。
それにつけこみ、
妹もゴロゴロしています。

 

……かくいう私もここ数ヶ月、
様々な病院にお世話になっています。

 

耳鳴りがするのでやはり「耳鼻科」へ。
所見は「突発性難聴」でした。

 

なおってきた頃、
臀部の痛みが治らないので「整形外科」へ。
MRIの結果、なんと「ヘルニア」でした。

 

さらにワクチン接種で病院へ。
接種の二ヶ月前、
「早めに接種する事ができますから」と、
いわれて書類に記入した後、
初めて自分が「基礎疾患を有する者」を自覚しました。
苦笑いしました。

 

他にも歯科、泌尿器科……いろいろお世話になりました。
病院のありがたみを思うこの頃です。

 

【仏の所見】

 

仏教の基本に「四諦(したい)」という教えがあります。
四つの真実という意味であり、
まずもって領解すべき事柄です。

 

@苦悩について(苦諦)、
A苦悩の原因について(集諦)、
B苦悩の解決について(滅諦)、
C解決の方法について(道諦)、です。

 

@が仏教の出発点です。
仏教の考える苦悩とは「四苦八苦」であり、
特に「死」は大問題です。

 

死の問題をどう受けとめるか。
延命をしたり、エンディングノートを作成したり、
また納骨堂を準備したり、
考えるのをやめて今を楽しむ事に専念したり。
いろいろ努力はありますが、
死の根本解決になりません。

 

ヘルニアと同じです。
臀部や太ももの裏が痛いのですが、
そこに湿布しても単なる応急処置です。
原因は腰部にあるのです。

 

死の問題の原因はわが心、煩悩にあるというのが、
仏さまの所見です。
死を受け入れられない私の心。
ウイルス問題が解決し、
たとえ戦争なき世界になっても、
明日死ぬと分かった時、
それに絶えられない私がいます。

 

そんな煩悩の問題を解決されたのが仏さまです。
解決するための修行方法、
宗派によって様々です。

 

浄土真宗は全く逆の修行方法です。
耳鼻科ならぬ、耳を治します。
自力でなく他力、
自分ではなく阿弥陀様の修行物語、
仏の活動相を聞くのです。

 

【弥陀の所見】

 

法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。(正信偈)

 

後の阿弥陀仏となる法蔵菩薩は、
師の世自在王仏によって、
あらゆる世界を観察されました。
そして他ならぬ私も所見され、
無上の大悲のご本願を建てられました。
決して私を救うまで、
覚りを完成しないという誓いでした。

 

二度目のワクチン接種後、
人によって様々ですが、
私の場合、
翌日の間中、倦怠感が続きました。
何をやるのも嫌に。

 

頭痛はなくとも、発熱はなくとも、
倦怠感はいやなものです。

 

親鸞聖人は正信偈で阿弥陀様の事を、
「大悲無倦常照我」
(大悲ものうきことなく常に我を照らしたもう)
と示されました。

 

今、倦怠感など一片もなきお慈悲の仏さまが、
私を照らしてくださいます。
どれほど私を救うために頭を痛くして、
熱にうなされようとも、
私を片時も離すことをやめることなく、
はたらき続けられます。
その活動の相(すがた)を「南無阿弥陀仏」、
私の口からこぼれでる六字の声でいただきます。
声の仏さまの阿弥陀様です。

 

【他力的人生】

 

「拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている」(東井義雄)

 

煩悩かかえたまま、
苦悩あれども、
それ以上に歓喜あふれる人生があります。

 

南無阿弥陀仏を通して、他力の法義を聞き、
他力的思考をいただきます。

 

世間でいう「他力本願」、
「どうにかなるさ」ではありません。

 

「大切な方とご一緒のわが人生。
 無理せず、無駄にせず、無精をせず」
たとえばこれも他力的思考でしょうか。

 

「確かな力と一緒でした(他力本願)。
 救われるべき私でした(悪人正機)。
 行き先のある道でした(往生浄土)。
 心配せず、今日も生きていきます。」
たとえばこれも他力的思考でしょうか。

 

他力的思考をもちつつ、
他力的言動を申しつつ、
他力的行動に生きます。
他力的人格による、
他力的人生の道です。

 

これからも病院通いは増えていきます。
医師の所見を受けながら、
お釈迦さまの所見も聞きつつ、
ご恩報謝のお念仏は増えていきます。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

花は誇らず(7月下旬)

 

【帰り花】

 

今年もお盆参りが始まりました。
どの家もお仏壇をきちんとお飾りくださいます。
右側にはロウソク、左側には仏華がきれいです。

 

街の花壇が花材に見えるという、
お花がお好きなSさんの家に行くと、
玄関前の庭にコスモスのような花が咲いていました。

 

「……コスモスに似ていますが。」
「コスモスなんですよ!」

 

冬に咲く「返り花(帰り花)」は知っていましたが、
真夏に秋の花が咲くとは思いませんでした。
偶然、一輪だけ咲いたのだそうです。

 

加えてこんな事も教えてくださいました。

 

「今、花屋に行くとリンドウを見かけます。
リンドウも秋の花です。
温室か何かでうまく栽培するのでしょう。
色が涼やかで、高く売れますからね(笑)」

 

高く売れるかは置いておいて、
言われて初めて気がつきました。
行く先々の家のお仏壇。
キキョウもありますが、
リンドウがちらちらと仏華に生けてあります。

 

【花と慈悲】

花は誇らず

 

〈花は誇らず〉

 

花は食べる事もできませんし、燃料にもなりません。
実益はありませんが、
人間は花が好きです。
その華やかな姿に心が和みます。

 

飾りも誇りもせず、黙って咲いている花に、
人は各々、美を見いだし、
感動します。

 

その花の姿を仏のお慈悲に重ねたのがお仏壇です。

 

仏の存在にであったからといって、
お腹が膨れることも、お金が満たされることもありません。
実益はありませんが、
何も言わず黙って私の側にいてくれます。
私の内面を静かに目視し、
愚痴まみれの事は黙し、
「我にまかせよ」と喚ばれます。

 

お念仏を通して仏の声を聞く時、
「無用の用」の通り、
実益をこえた大きなご利益が、
わが人生にひろがっている事に気づかされます。

 

【季節をこえて】

 

「どの花みてもきれいだな♪」(チューリップ)の通り、
どの花も美しいです。

 

ただ今回のお盆参りは、
秋にであうと思っていたリンドウに注目しています。

 

真夏に咲く涼やかなリンドウ。
決して当たり前ではなく、
花農家のご苦労も思いつつ、
その美を見つめます。

 

まるで猛暑のように、
痛みと怒りがやむことなきわが人生故に、
ひかりといのちきわみなき、
光寿の仏、阿弥陀仏はおられます。
現世の私の現前に、
「南無阿弥陀仏」の声となって
あらわれ出てくださいます。
「南無阿弥陀仏」の念仏の花に、
往生浄土の功徳をまるごとこめて、
今、私に手向けておられます。

 

死んでから知る仏ではなく、
今ここにすでにおられる仏さま。
お浄土から「われに帰せよ」と、
帰ってくださる阿弥陀さまです。

 

凡夫の私が知るはずもないと思っていたものに、
今ふれているお念仏。
季節をとびこた帰り花のように、
生死をとびこた仏の救いの出来事を体験させていただく、
お盆の一時です。

 

 

  涼しさや 弥陀成仏のこの方は(一茶)

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

仏って何ですか?(7月上旬)

 

【親の願い】

 

夫婦でお酒を飲んでいる時、
子どもの将来の話になりました。

 

「親として、どんな大人になってもらいたいだろう。」
「やさしい大人になってもらいですね。」
「生活がきちんとできる事も大事だね。」

「辛抱強い、ねばり強い人になってほしい。」

 

そんな話をしながら、
ふと思ったのは、
「自分の親は、私にどんな事を願っていたのだろう。」

子どもの頃を思い出してみます。

 

「常に努力する大人」
「落ち着いた人」
「賢い人間」

 

いろいろ願いをもっていたことでしょう。
さて今の私はというと、
その願い通りになったか……。

 

【仏さま】

 

keijiban

 

「仏って何ですか?」
「それは素敵な人のことだよ(笑)」

 

先日の法座のご講師は、
いとも簡単に回答くださいました。

 

世間で「仏」というと、
若者は死んだ人と思っています。
そうでなくても厳しそうな、暗そうなイメージがあるかもしれません。

 

けれども「仏さま」というと、
印象が全くかわってきます。

 

「あの人は、仏さまのような人だ。」

 

優しくて、思いやりのある人。
人柄も良く、困った人を助けてくれる人。
そんな人が「仏さま」です。
仏さまは素敵な方です。

 

「じゃあ、仏教って素敵な人になろうとする教えなんですか?」
「その通り!」

 

これで良いのです。

 

【波羅蜜】

 

私たちは日々、『讃仏偈』(さんぶつげ)をお勤めします。
そこには、

 

「布施……、戒・忍・精進……三昧、智慧」(讃仏偈)

 

仏さまが終えられた六科目の菩薩のご修行です。
「六波羅蜜」(ろっぱらみつ)といいます。
(波羅蜜(はらみつ)とはインドの言葉「パーラーミター」の漢訳音写語。
「完成」という意味です。)

 

1 布施(ふ せ)  :物惜しみすることなく、人々に施すことに徹する。
2 持戒(じかい)  :全ての戒律を、徹底的に保つ。
3 忍辱(にんにく) :ひたすら耐え忍ぶ。
4 精進(しょうじん):修行に励む。
5 禅定(ぜんじょう):心の安定をはかることに徹する。
6 般若(はんにゃ) :真実を洞察する智慧を完成する。

 

一見、言葉や内容は難しいですが、
考えてみると、
親が願う子どものビジョン、
「理想的な人間」と重なります。

 

「やさしくて、人を思いやる人間になってもらい。」
それは「布施」に通じます。

 

「生活がきちんとできる事も大事だね。」
その究極が「持戒波羅蜜」。

 

「辛抱強い、ねばり強い人になってほしい。」は「忍辱」です。

 

「常に努力する大人」、それは「精進」です。

 

「落ち着いた人」、その極致が「禅定波羅蜜」です。

 

「賢い人間」は智慧波羅蜜。

 

親が子どもに願う、
人類全てが理想とする人間。
その集大成が仏さまです。

 

【お盆参り】

 

まもなくお盆です。

 

お盆にお墓に参る人は多いことでしょう。
手を合わせて故人を思う時、
生前の思い出だけではなく、
今の故人の事、「仏さま」も想像してみましょう。

 

阿弥陀様の願い通り、
お浄土でおさとりの方、素敵な方となって、
私をふくめ、あらゆる所へ行き渡っておられます。
苦悩の私の側に寄り添い(布施)、
そのために、
自らのコンディションは万全です。
持戒、忍辱、精進は完成しています。

 

透き通る心で、苦悩の方を見つめ(禅定)、
その苦悩を除く手段を示されています。
お念仏です。

 

「一本の木があれば、十分“秋”は感じられる」

 

一本で十分なのです。

 

「一声のお念仏で、お慈悲の救いは十分である」

 

水平線のように、
どこまでも、力強く、まっすぐな方。
それが故人であり、
また後の私であり、
今の阿弥陀様といただきます。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

言葉遊びだが(6月下旬)

 

【コとロとナ】

 

「しばらくは 離れて暮らす 『コ』と『ロ』と『ナ』 
つぎ逢ふ時は 『君』といふ字に」(タナカサダユキ)

 

昨年、Facebookで話題になった短歌です。

 

「コ」と「ロ」と「ナ」をくっつけると、「君」という文字に。
文字遊びですが、よく出来ています。

 

三密(密閉・密集・密接)やクラスター(集団感染)を警戒し、
大切な人と会うことができないつらさ。
ソーシャルディスタンス(社会的距離)のもどかしさが、
「『コ』と『ロ』と『ナ』」で表現されています。

 

「君」(あなた)とじっくり会いたい」、
そんな願いがうかがえます。

 

【仏と私】

 

「仏」は私の中にいる(超覚寺)

 

2年前、「お寺の掲示板大賞2019」で受賞した作品です。

 

仏は「佛」(人偏に打ち消しの助字「弗」)なので、
これも文字遊びですが、よく出来ています。

 

お慈悲の仏さまは、どこにおられるか。
仏さまは私の中におられます。

 

どれほど心を修練しても、
油断すれば煩悩にさいなまれる私。
死ぬまで愚痴がこぼれる私と心配し、
仏さまは私の中を住処とされてます。
お浄土への歩みを共にされます。

 

子どもを心配する親のように、
いつでも寄りそう仏さまです。

 

  「仏」は私の中にいる。

 

ただ、仏さまが寄り添ってくださるだけでは、
本当の解決、「救い」ではありません。
足りないものがあります。

 

【君后に帰す】

 

「忠臣の后に帰して」(曇鸞大師)

 

家臣が主につかえるように、
仏さまに帰依します。
「コとロとナ」とバラバラにしません。
はっきりとした「君」に会ってつかえるのです。
君の名は「阿弥陀仏」。

 

の命令通り動く家臣です。
私も仏の仰せのままに動きます。
仏さまの仰せは何か。
「精進せよ!」ではなく、
「われにまかせよ!」です。
がいわれる通り、
功徳を積む修練はあきらめ、
仏さまのお慈悲にゆだねます。

 

仏の本願を聞き、
仏の恩徳を知り、
仏の功徳をいただくばかり。
「他力の信心をいただく」とも言います。
「南無阿弥陀仏」とお念仏申す以外、
用事なき仏道です。

 

【仏凡一体】

 

「仏心と凡心と一体になる」(蓮如上人)

 

信心を得た念仏者の心の内実を、
蓮如上人はこのようにあらわされました。
「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」ともいいます。

 

寄り添ってくださっていた仏さまが、
いよいよ私の心の中に入り込まれ、
一つになった状態です。
私の悪の心はそのままに、
善の心にしてくださいます。

 

罪悪深重の私の心はかわりません。
しかし、そんな私の罪深さなど、
まったく意に介さない、
真実清浄の仏の心と一体です。

 

譬えるなら、海岸の砂浜に置いた一杯の墨汁が、
あっという間に波に飲み込まれた光景です。
墨汁は消えたわけではありません。
墨汁は海水と一味になったのです。

 

届いてくださった仏心が、
私の煩悩の全体を仏心に転成してくださいます。
煩悩具足のままで仏さまと一体に。
故に、浄土に往生して仏とならせていただけるのです。

 

【補足:二君に仕えず】

 

「忠臣は二に仕えず」(史記)

 

似たような海外の諺として、

 

「He that serves two masters has to lie to one (of them).」
(二人の主人に仕える者は、どちらかの主人に嘘を言わねばならない)

 

つかえる主は一人です。
同様に、
決して、他の仏や神を無視するわけではなく(※1)
帰依の対象は一仏にします。

 

芸能の世界と同じです。
「師匠」と呼ぶ方はたくさんおられても、
自分の師匠はただ一人です。

 

法(仏法)の前で、嘘はつけません。

 

(おわり)

 

 

(※1)
蓮如上人も誤解のないように、

 

「阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。」
(【現代語訳】
阿弥陀如来は三世の諸仏にとっての本師本仏ですから、
その師匠である仏をたのみとするときに、
どうして弟子である諸仏がこれをお喜びにならないことがありましょうか。)

 

と述べられ、

 

「南無阿弥陀仏といへる行体には、
一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、
ことごとくみなこもれるがゆゑに、
なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。」
(【現代語訳】
南無阿弥陀仏という行そのものには、
一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほかすべての善や行も、
ことごとくみなこめられております。
いったい何の不足があって、他の善行に心をとめる必要がありましょうか。)

(以上、『御文章』二帖目第九通)

 

と諭されます。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

生まれる事、出会う事(6月上旬)

 

なぜめぐり逢うのかを
私たちはなにも知らない
いつめぐり逢うのかを
私たちはいつも知らない
どこにいたの生きてきたの
遠い空の下ふたつの物語

 

(中略)

 

縦の糸はあなた横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合わせと呼びます
(中島みゆき「糸」)

 

【あえてよかった】

 

コロナ禍の恩恵で、
ずいぶん法話の動画配信が増えました。
懐かしいご法話にもであえます。

 

先日、雪山隆弘先生のお話を聞きました(51:00)。

 

その先生のご長男が、4歳ぐらいの時です。
物の順番をつけるのが大好きな子でした。

 

ある日の朝ごはんの時、

 

「お父さん、このお家で一番最初に生まれたのは誰?」
「トシくん、あなたが探してごらん。」
「うーん……あ、このお家で一番最初に生まれたのは、おじいちゃまだ!」
「そうだ、よう分かったね。」
「2番は誰?」
「探してごらん。」
「ええっと、1番はおじいちゃんで、2番は……おばあちゃんだ!」
「あたり!」
「3番目は?」
「……探してごらん。」
「3番目は……お父ちゃんだ。4番目は…お母ちゃんだ。5番目はお姉ちゃんだ。
6番目は僕だ。最後はノリ君。」

 

終ったかと思うと、

 

「このお家で一番最初に生まれたのは誰?」
「しつこいね。もういっぺん探してごらん(さっき言ったじゃない)!」
「1番はおじいちゃま、2番はおばあちゃま、3番はおとうちゃん、4番はおかあちゃん。
5番はお姉ちゃん、6番は僕、ノリ君。……1番目はおじいちゃん……」

 

「終わらないなぁ」と思いながら、仕方なく聞いていると、
その内、ピタッと言葉がやみました。
見ると、茶碗と箸をもってぽかんとしています。

 

そして家族の顔を不思議そうにみながら言いました。

 

「みんな……生まれたねぇ! みんな、生まれたねぇ!」

 

4歳の子の言葉にハッとしました。
するとその時、お母さんが言ったのでした。

 

「あえてよかったねぇ!」

 

【何もいらない】

 

「みんな、生まれたねぇ!」

 

生まれるという事のものすごさを、
すっかり忘れていた大人が、
子どもに教えられます。

 

人間に生まれる。
当たり前のようで、
とんでもない事かもしれません。

 

さらにもっとすごいのは、

 

「あえてよかったねぇ!」

 

生まれただけでは出会えません。
「袖すり合うも多生の縁」ということわざもあります。
親子・夫婦、家族という出会い、
よほどの事がないと、
ありえないはずの出来事が、
今、ここに起こっています。

 

これ以上、何を望むか、
これ以上、何もいらない、
そう断言できるものが、
今、ここに広がっています。

 

【誕生と出会い】

 

「人生は邂逅(めぐりあい)と別れの繰り返し」

 

しかし念仏者には別の見方があります。

 

「人生は誕生と出遇いの繰り返し」

 

かけがえのない人間に生まれ、
多くの出会いを経験します。

 

別れや悲しみを通して、
「われにまかせよ」と喚ぶ、
ゆるぎない本願に出遇い、
わが身に真実の信心が生まれます。

 

阿弥陀さまの本願にゆだねる人生。
その最後は、
お浄土へ生まれ、
なつかしい人達と再会します。
みんなが待っています。

 

「あえてよかった」です。
みんなとあえてよかった。
仏様にあえてよかった。
そしてまた、みんなとあえる。

 

私たちは、「会う」ために生まれるのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

丁度良い(5月下旬)

【丁度良い】

 

隣町のとあるお店。
会計の時、ふと見ると、後ろの壁に、
何やら文字の書かれた杉板がかけてありました。

 

「これ、どうしたのですか?」
「両親が山陽自動車道の小谷(こだに)サービスエリアで買ったものです。」

 

そこにはこう書いてました(一部訂正)

 

丁度良い

 

丁度良い   良寛

 

お前はお前でちょうどよい.
顔も体も名前も姓も、お前に
それは丁度よい。
貧も富も親も子も 息子の
嫁もその孫も、それはお前に丁度
よい。幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度よい。
歩いたお前の人生は悪くも
なければ良くもない、
お前にとって丁度よい。
地獄へいこうと極楽へいこうと 
いったところが丁度よい。
うぬぼれる要もなく卑下する
要もなく上もなければ下もない 
死ぬ月日さえも丁度よい。
お前はそれで丁度よい。

 

「分るような分らないような(笑)」 

 

苦笑いの若い店主さん。

 

確かに、なぜ「丁度良い」のでしょう?

 

【仏様のことば】

 

何度も出てくる“丁度良い”という言葉の響きが印象的なこの詩。

 

実は、良寛作と書いてありますが、
本当は浄土真宗の坊守(ぼうもり)「藤場美津路(ふじばみつじ)」さんの詩です。
そして実際のタイトルは「丁度良い」ではなく、「仏様のことば」。

 

実は、最後の五行が抜けてます。

 

仏様と二人連れの人生
丁度よくないはずがない
丁度よいと聞こえた時
憶念(おくねん)の信が生まれます
 南無阿弥陀仏

 

丁度良い理由が、はっきりとあらわれています。

 

この詩はお念仏の喜び、
阿弥陀様のお慈悲に出遇えた喜びの詩なのです。

 

【他力の信心】

 

コロナ禍の今だけでなく、
これからもイライラしたり、
愚痴がこぼれる私です。
「こんなはずではなかった」と嘆いたり、
「私の人生丁度良い(こんなもの)」と開き直ったり。

 

あせってあがいたり、反対にあきらめて居直ったり。
それとは違う第三の道、仏様と二人連れの人生の道があります。

 

「何の不足もありませんでした。」

 

仏様の救いが聞こえた時、「他力の信心」が生まれます。

 

自ら信じて救われるのではなく、救われていた事を聞くばかりです。

 

【追伸:コロナ禍に】

 

いろんな法座がありまして
いろんな法話を聞きました。
コロナの時も聞きました。
弥陀の大悲を聞きました。
 南無阿弥陀仏

 

今月20、21日と当山は宗祖降誕会です。

 

コロナ禍の第四波の影響は深刻です。
山口もGWから2週間、
コロナ感染者が50人を超え出してます。

 

感染対策はしっかりとして、
ご恩報謝もしっかりと、
法座を開きたいと思います。

 

仏様が見つめているのは、他ならぬ私です。
始まりもわからぬ昔から迷いつづけてきた私の歴史。
条件そろえば、あっけなく終わる私の人生。
見つめた上で、
見捨ててはおけぬと本願をおこし、
その願いの完成についやした時間は「兆載永劫(ちょうさいようごう)=永遠」。

 

「われにまかせよ」と喚び続け、
どこまでもいつまでも、
光と名のはたらきで、
私と離れない仏さま。

 

今日もお念仏を通して、
南無阿弥陀仏の広大なおいわれを聞くばかりです。

 

疑いのなき仏の道
どこどこまでも仏の道
いついつまでも仏の道
仏さまとの仏の道
 南無阿弥陀仏

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

警察ではない警察(5月上旬)

【日常にある仏教用語】

 

「油断禁物」の「油断」。
「愚痴をこぼす」の「愚痴」。
「金輪際あなたとは会いません」の「金輪際」。

 

これら日常語は、元々、仏教用語です。
日本語には多く仏教の言葉が浸透しています。

 

「一大事」や「有頂天」、「精進」や「退屈」、
「挨拶」や「玄関」等々、探せばいろいろと出てきます。

 

そんな言葉の中で、
浄土真宗の僧侶があまり用いない言葉づかいがあります。

 

「(突然ガラスが割れて)……何だか『縁起が悪い』」。

 

何かよくないことがおこりそうな様子、
そのようなしるしを見た場合に用いる表現です。
「縁起が良い」と同じく、
浄土真宗の僧侶はあまり言いません。

 

「縁起」は仏教の最も基本的な教えで、
正しい物の見方を指す言葉です。
運の良し悪しを指す言葉として、
あまり使いたくありません。

 

もし使うなら「何だか気味が悪い」とか、
「縁起が良い」は「ついてる!」で十分です。
(もっとも浄土真宗は、
『これは何か悪い(良い)予兆だ』という考え自体、あまりもちません。)

 

また「嘘も方便」は、
「ものごとがスムーズにすすむためには、嘘も時に必要」ということわざ。
これもあまり使いたくありません。

 

「方便」は仏さまの「巧みな手立て」、人を正しく導く力です。
「人をだます」意味の「嘘」と一緒にしたくないのです。

 

【三本柱】

 

「縁起が悪い」や「嘘も方便」以上に使わない言葉があります。

 

「車がこんで往生した。」
「もう他力本願しかない。」

 

「往生」と「他力本願」の使い方が気になって使えません。

 

浄土真宗は「阿弥陀仏の救済の教え」です。

 

仏さまの願いは、
「どのようなものも皆、もらさず救う」という誓いでした。
その誓いを成し遂げ、
阿弥陀仏と名のり、
どこまでも、いつまでも衆生をもらさず、
「浄土往生」、
仏の世界、お浄土へ往生させるべく、
はたらきつづけておられます。

 

仏の切なる願いを聞き、
仏の本心にふれた時、
仏の眼にうつったわが身のふるまいが知らされます。
自業自得の道理にて、
地獄まっしぐらの自分。
その私をよそ見なく、仏の眼は真っ直ぐ見つめておられます。

 

阿弥陀様の救いの正しき相手は、
他ならぬ悪凡夫の私。
これを「悪人正機(あくにんしょうき)」と言います。

 

この「他力本願、浄土往生、悪人正機」が、
浄土真宗の三本柱です。

 

本願も往生も阿弥陀さまの救いの話であり、
大切にしたい言葉なので、
「困った」意味の「往生」、
「他人まかせ」「運命まかせ」の「他力本願」という、
世間の言葉は避けるのです。

 

特に「本願」は私の願いではなく、
仏さまの願いです。

 

【警察でない警察】

 

昨年できた言葉に「マスク警察」「自粛警察」があります。

 

コロナウイルスが広がるのを防ぐためなのでしょうが、
マスクを強要したり、
自粛を強要するあまり、
営業している店へ押しかけたりする人を指します。
「オミセシメロ」などの貼り紙を店に張ったり、
他県ナンバーの自動車を傷つけたりする事件もありました。

 

昨今は「不織布マスク警察」を聞きます。
おしゃれなウレタンマスクではなく、
飛沫防止のすぐれた不織布マスクを強要する人の事です。

 

そんな警察を装う「○○警察」。
ところで、かれらは本物の警察官ではありません。
そして、本物の警察官はそんな事をしません。
迷惑な人を指す「○○警察」。
警察官にとって、いい迷惑な言葉でしょう。

 

【本願でない本願】

 

「そんな他力本願ではダメだ。」

 

自分は何もせず、
何とかなるさと考える「他力本願」。

 

「他力本願な人」は「○○警察」同様、
世間ではよく思われません。

 

ただ本来、「本願」は仏さまの願いです。
そして「他力」は摂取不捨(せっしゅふしゃ)、
私を離さぬお慈悲の力です。
困った時の援助ではありません。
怠け心を指す世間の「他力本願」。
仏さまの心とは次元が違います。

 

「どのような人生でも、
 私と共におられる仏さまがおられる。」

 

浄土往生という大きな目的をもって、
悠然と生きる、
他力本願をいただいた念仏者がいます。

 

世間に出回る「他力本願」は今更仕方ないですが、
本来の「他力本願」の意味も忘れてもらいたくないものです。

 

【立ち止まる】

 

昨年末、車の運転をしていると、
突然、左前方に立っていた警察官から「止まれ」の合図。

 

「しまった、スピードが出ていたか。」

 

恐る恐る停車して窓をあけると、

 

「年末の交通安全運動で止めました。どちらに行かれますか?」
「ええっと、○○の方へ。」
「そうですか。では安全運転を!」

 

何のおとがめもなく、ホッとして出発しました。
やはり警察を見ると緊張します。
それからしばらく安全運転に……。

 

立ち止まらせてくれた警察のおかげで、
安全運転、正しいマナーを思い出します。

 

同様に、
法事も故人が私を立ち止まらせてくれます。
めまぐるしい社会の流れから。
何が一番大切なのか。
願うべきものは、
目先の利益よりも大きなものでした。

 

世間の「自粛警察」ではなく、
本物の警察に遇うように、
世間の「他力本願」ではなく、
本物の仏願に遇ってもらいたい、
それが真宗僧侶の願いです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

日めくりメッセージ(4月下旬)

【尊敬する人】

 

先日、子どもの中学入学式に出席しました。
入学式の後、生徒はクラスへ。
担任の先生から自己紹介がありました。

 

「私は何事も全力でやるのが好きです。
 私が尊敬するのはこの人(本をだしながら)、松岡修造さんです。
 この人の作った「日めくりカレンダー」、
 毎日読んでいます。

 

 この人のメッセージは、
 すごく分かる時もあれば、意味不明な時もあります。
 でも先生は尊敬しています。

 

 ……これからの中学校生活、
 『先生はなぜ私に厳しく言うのか』と思う時もあるでしょう。
 けれど先生はあなたたちの3年後の卒業の事を考えています。
 その事を忘れないでください。」

 

なかなか熱血な先生でした。

 

【意味不明な話】

 

尊敬する人といえば、
仏教徒の名前を法名(ほうみょう)と言います。

 

「釈○○」

 

釈は釈尊、お釈迦さまのことです。
おさとりを開かれ、私たちにお経、み教えを説き残してくださったお釈迦さま。
必ず「釈」がつくのは、
私たちはお釈迦さまの弟子である事を意味します。

 

お釈迦さまの言葉は、すごくよく分かる時もあります。

 

生まれによって、いやしい人となるのではない。
生まれによって、バラモンとなるのではない。
行為によっていやしい人となり、
行為によってバラモンともなる。

 

運命(さだめ)といったものから距離をおく仏教です。
個人的に好きな言葉です。

 

けれどもよく分からない言葉もあります。
「お浄土」もそうです。

 

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。
いま現にましまして法を説きたまふ。」(『阿弥陀経』)

 

書き下し文にされても、
見たこともない浄土の話、
考えてもピンときません。

 

そんな浄土や阿弥陀さまのメッセージを、
わかりやすく、奥深く示された多くの先人、
そして親鸞聖人がおられます。
おかげで浄土の教えの意味、
今私に間に合う救いの話を聞くことができます。

 

別れの悲しみを縁に、
親鸞聖人、多くの先人がたのご恩、
さらにそれを法話してくださる方々のお陰で、
今、お念仏の喜びをいただくことができます。

 

【33回忌】

 

先月の法事でした。
祖母の33回忌というお寺参りがありました。

 

お勤めが終わって、何気なく、

 

「お婆さまのご命日は4月8日ですね。
花まつり、お釈迦様のお誕生日と一緒ですね。」

 

「そうです。そしてこの次女の誕生日でもあります(笑)。

 

 ……このお婆さんの葬儀からです、
 私が仏壇で手を合わすようになったのは。
 慣れなかった『正信偈』や『阿弥陀経』のお勤めも、
 お陰で、今では一人でできるようになりました。
 お仏壇に手を合わせる事が習慣となりました。」

 

何とも有り難く聞かせていただきました。

 

亡くなられましたが、その別れをご縁として、み教えが伝わり、
阿弥陀様中心の生活をされる人がまた一人生まれていく。
とても嬉しく思いました。

 

【法に遇う事の難しさ】

 

逆にこんな事も。

 

道で知り合いとすれ違い、
「お元気ですか?」というと、

 

「いや、悩んでいる。
自分は不信心で寺にも参らないが、
最近、今までの人生を振り返る。
いろんな悪いこと、反省する事も多い。
これから先どんな生き方をしていけば良いのか……。

 

あなたのお寺の説教に悪口を言うつもりがないが、
どうも笑い話、馬鹿話が多い気がする。
それよりも、み教えのどまん中、
『こういう風に生きるのだ』という話が聞きたい。
そんな話の時には是非、案内をしてもらいたい。」

 

別れた後、住職の仕事、
教化のいたらなさを嘆いたことです。

 

80歳を過ぎられ、耳も遠くなられました。
これまで多くの葬儀や法事、
また法座や法話にも触れられたでしょうが。

 

他力の法に遇う事の難しさを教えられました。

 

【今からではなく】

 

「私はどう生きれば良いのか」という論理回路。
私中心、自力の論理には答えがないと教えられる、
他力の論理、阿弥陀様中心のみ教えです。

 

もちろん「自分」が大切なお互いです。
しかし「急がば回れ」というか、
阿弥陀様の説法を、
そのまま聞いていきます。
他力の信心をいただいた時、
笑い話、バカ話の意味も、
「あ、そういう事ね」と分かってもらえるのですが。

 

「今ここから私は何を」ではなく、
「今、ここに仏が私を」です。

 

他力の法話は最初から、
み教えのど真ん中、
救いのど真ん中の法話です。

 

……私自身、毎朝、仏壇の前でお経とお念仏です。
「日めくりカレンダー」ならぬ、
和讃、三部経をくりよみ、そして御文章を一通ずつ拝読します。
お釈迦様の日めくりメッセージ。

 

今ここに阿弥陀様が私を思ってくださっています。
念仏者は3年後どころか、人生の最後、
その後の後生までみすえた大きなまなざしに包まれているのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

桜の花びらふる時は(4月上旬)

 

   この法話を山田のOさんへ

 

【歌詞と違う】

 

四月から小学生になる娘が、
不満そうな顔で話しかけてきました。

 

「お父さん、卒園式の歌と違う!」

 

それは『さよならぼくたちのようちえん』という歌。
卒園式の最後、みんなで合唱した曲です。

 

「あの時、
『さよならぼくたちのようちえん♪
  ぼくたちのあそんだにわ〜〜♪
  さくらのはなびらふるころは♪
  ランドセルのいちねんせい♪』

って歌ったのに、
まだ小学校に行けてない!」

 

今年は例年より二週間ばかり桜の開花が早い年です。
町はいたるところ桜吹雪の真っ最中。
娘が入学する頃は、
おそらく小学校の桜の花びらは一枚もないでしょう。

 

【散る桜】

 

桜吹雪で思い出すのが、
読み人知らず(一説に良寛さん)の歌です。

 

散る桜 残る桜も 散る桜

 

綺麗に咲いていますが、
やがて残らず散りゆく桜。
同様に、いのちある者はみな必ず死んでいく……。

 

若い頃は「なんと陰気な歌だ」と嫌っていましたが、
この頃は身にしみます。
場をしらけさせる歌ではありません。
限られたお互いのいのち。
今日という日暮らしの大切さを教えてくれます(※1)

 

また葬儀の時も、
この歌が思い出されます。

 

散る桜」とは、棺の中の故人です。
波瀾万丈の人生を終えられました。

 

残る桜も 散る桜」とは、
他ならぬ残された私たちです。

 

葬儀を他人事にしません。
ましてや義理の席だからと、
居眠りしている場合でもありません。
私のための時間、
仏法のご縁に遇う時間といただきます。

 

【弥勒と同じ】

 

便同弥勒」(べんどうみろく)という教えがあります。
念仏者は弥勒菩薩と中身が同じだというのです。

 

その事について、
親鸞聖人は次のように説明されます。

 

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、
 龍華三会の曉、まさに無上覚を極むべし。
 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、
 臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
 ゆゑに便同[弥勒]といふなり。」
  (『教行信証』 註釈版聖典p.264)

 

弥勒さまは「等覚(とうがく)」、
非常に高い位で、「金剛心(こんごうしん)」を得た菩薩さまです。
ですから次の生(五十六億七千万年後ですが)、
龍華樹の下でさとりを開かれ、
大衆の前で三回説法をされます。

 

一方、念仏の衆生は凡夫です。
修行の量も智慧も、菩薩さまには遠く及びません。
まして弥勒菩薩さまとは比べようにも桁が違いすぎます。

 

でも念仏者は「他力の金剛心」を得ています。
そして、この世の命を終えて、
五十六億七千万年どころか、ただちに浄土に生まれ、
たちまちに完全なさとりを開かせていただきます。
次の生に間違いなく仏となる……、
そういう意味で「念仏者は弥勒菩薩と同じ位」といえるのです。

 

【内定・伴走】

 

浄土真宗のお説教。
お聞かせにあずかってみれば、
この身この心のまま、
浄土へ往生して仏となる事が内定したわが身に驚かされます。

 

煩悩を払うことなく、苦悩が除かれる道。
それは他力の信心、
言い換えれば金剛心(決してくずれることのない心)、
如来さまのさとりのすべてをいただいているからです。
それほどの功徳の仏様が、
常に私と伴走くださっている出来事に気づかされます。

 

如来のみちみちているわが身。
力むことなく報恩のお念仏、
わが身にのりこんで下さってある如来様の御名(みな)を称えます。

 

【名に帰す】

 

想像してみてください。
自分の葬儀。

 

棺の中の自分。
それは死(し)に帰した姿。
しかし無(む)に帰るのではありません。

 

この人生は念仏の人生でした。
如来さまに帰依した人生。
南無阿弥陀仏の名(な)に帰した十分たる人生。

 

 桜の花びらふるころは♪
 ランドセルのいちねんせい♪

 

散る桜の時節が入学の時節であるように、
故に念仏者の最後は、
浄土へ入学、いえ往生して、
ランドセルの一年生ならぬ、おさとりの仏となります。

 

死を見つめつつ、
法の眼をいただき、
「だれもが最後は必ず死に帰す」という事よりも、
大事な事をいただきます。

 

皆、死に帰す(帰る。終わる)ではなく、
今、名に帰す(帰依する)念仏者です。

 

 

(※1)
親鸞聖人は9歳で得度をされる際。
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠まれました。
こちらの方がより無常観、
「今、なにをすべきか」と身が引き締まります。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

あの日あの時あの念仏(3月下旬)

【試験に役立つマンガ】

 

先日、林修さんが司会をする某テレビ番組で、
こんなランキングを紹介していました。
「東大生が選ぶ勉強になると思う漫画ランキング」

 

古典の勉強に役立つと、
源氏物語を漫画化した『あさきゆめみし』が8位。
生物の勉強になると、
人の細胞を擬人化した『はたらく細胞』が5位。

 

昨今人気の『鬼滅の刃』、
また『ワンピース』『進撃の巨人』『宇宙兄弟』などが、
次々とランクイン。

 

そして栄えある1位は何だったか。
まさかの『ドラえもん』でした。
番組が始まってから、
「ドラえもん!」と主張していた幼稚園児の娘は大喜び。

 

なぜ『ドラえもん』が試験勉強に役立つのか。
番組では、
「ひみつ道具が理科系への興味になった。」
「発明のヒントになる」等と評価されていました。

 

またある人は、
ひみつ道具「バイバイン」は利率の計算につながり、
お金の勉強になったと。
……分かるような分からないような。

 

【ダルマ】

 

『ドラえもん』には勉強にまつわる、次のようなお話があります。
第18巻の「あの日あの時あのダルマ」

 

……「ママの指輪を失くして勉強どころじゃない」と落ち込むのび太に、
ドラえもんはひみつ道具「なくし物とりよせ機」を取り出します。

 

過去に失った物を取り戻すことが出来るこの道具。
無事、ママの指輪を取り寄せますが、
その後、のび太は次々と過去に失った漫画や玩具を取り戻し始めます。

 

勉強せずに、とりよせた昔の物を懐かしむのび太。
あきらめて部屋を出て行くドラえもん。

 

しばらくして、のび太は一個のダルマの玩具を見つけます。
それは幼稚園の頃、庭で転んで泣いていたのび太に、
急いでかけつけたおばあちゃんがもっていたダルマでした。

 

「病気だから寝てなきゃ!」
「のびちゃんが泣いていたら、心配で寝てなんかいられないよ。」

 

やさしいおばあちゃんは、ダルマを渡して言いました。

 

「ダルマさんは偉いね。何度転んでも、すぐに起き上がるんだもの。
のびちゃんもダルマさんのようになってくれると嬉しいな。」
「転んでも転んでも、1人で起き上がれる強い子になってくれると、
おばあちゃんとっても安心なんだけどな。」
「僕、ダルマになる。約束するよ、おばあちゃん」

 

その後、おばあちゃんはすぐに亡くなってしまいました。

 

回想が終わり、のび太は机に向かいます。

 

「僕、一人で起きるよ。
これから何度も転ぶだろうけど、必ず起き上がるから。
安心してね、おばあちゃん。」

 

のび太の勉強する姿を見て、ドラえもんはほほ笑んでいるのでした。

 

【本願というダルマ】

 

亡くなる前に残してくれたダルマの玩具。
そしておばあちゃんの願い。
何度失敗しても、立ち上がるのび太の原動力になっています。

 

ご法事も同様です。

 

法はインドの言葉で「ダルマ」と言います。
お釈迦様の正しいみ教え(教法)を指します。

 

故人は私に様々な思い出を、
そして何度失敗しても立ち上がることのできる、
お釈迦様の教法を聞くご縁を残してくれました。
それが読経であり、聴聞です。
その法(ダルマ)の名を、
親鸞聖人は「浄土真宗」と名づけられました。

 

「選択本願は浄土真宗なり」(ご消息より)

 

 ※選択本願(せんじゃくほんがん):阿弥陀様の第十八願を指します。

 

阿弥陀如来の大悲の願い。
私のために選びに選ばれた救いのはたらきが、
決してくずれることのない私の人生の支えになります。

 

【故人の願い】

 

ダルマを知ったからといって、
試験勉強には何の役にも立ちません。
勝ち負けのためのものではないからです。

 

しかし人生の試練は受験だけではありません。
失敗はつきものです。
「何のためのわが人生か」と、
苦難の道に立ち止まる時、
お念仏に聞く「そのままこいよ」の如来の喚び声は、
単なるその場しのぎで終わりません。

 

生涯、煩悩にたえず悩まされる私。
しかしその都度、
「その煩悩あるが故に、
離れたまわぬ南無阿弥陀仏のお慈悲でした」と、
その支えの勿体なさをいただき歩む道。
お念仏の道、浄土往生の道です。

 

お念仏を称える時、故人の思い出がよみがえります。
たとえばこんな思い出とか。

 

「阿弥陀様はすごいね。
どんなに罪深き煩悩の私たちも、決して離さないんだもの。
○○ちゃんも、お念仏を喜べる人になってくれると嬉しいな。」
「どんなに苦悩の人生でも、阿弥陀様と二人でしっかり歩んでくれると、
おばあちゃんとっても安心なんだけどな。」
「僕、お念仏するよ。
これから何度も転ぶだろうけど、阿弥陀様と一緒に必ず起き上がるから。
安心してお浄土で待っててね、おばあちゃん。」

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

牛にひかれて(3月上旬)

【丑年クイズ】

 

今年は丑年です。
そこでいきなりですが、「クイズ・牛の出てくることわざ」。

 

次の意味のことわざは何でしょう?

 

@牛のよだれが細く長く尾を引くように、商売は気長に辛抱してやるということ。

 

答えは「商いは牛のよだれ」
ご存じだったでしょうか?
では、一気に三問!

 

A曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまう事から、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまう事。

 

B同類や似た者同士は、自然と集まりやすいことのたとえ。

 

C暗い所に黒い牛がいると何が何やらはっきりしないところから、物の区別がつかないたとえ。また、言動等がにぶくて、はきはきしないたとえ。

 

答えは次の通りです。

 

A角を矯(た)めて(直して)牛を殺す
B牛は牛連れ馬は馬連れ
C暗がりから牛

 

です。では最後にもう一つ。

 

D牛に引かれて善光寺(ぜんこうじ)参り

 

これは、どういう意味でしょう?

 

【牛にひかれて】

 

昔、長野県の善光寺の近所に、
一人のお婆さんが住んでいました。

 

「お浄土なんて、死んだ後の話さ」

 

仏縁のなかったお婆さんでしたが、
ある日、干していた自分の洗濯物を牛が角にかけて逃げたそうです。
追いかけるうちに善光寺へ。
見ると牛のよだれで、

 

うしとのみ おもひはなちそ このみちに なれをみちびく おのがこころを
(ただの牛の仕業(しわざ)と思ってくれるな。あなたを、この仏の道へ導いている私[弥陀]の心に気づいておくれ) [住職訳]

 

と書かれた文字。
驚いたお婆さん。
それがきっかけでお聴聞し、
仏法を喜ぶ人に・・・転じて、
「思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれること」を、
「D牛に引かれて善光寺参り」
というようになったそうです。

 

【専徳寺参り】

 

善光寺だけでなく、
ご先祖を「牛」といただき、専徳寺へもお参りください。

 

仏の道は難しくありません。
「南無阿弥陀仏の名号=真実の信心」一つです。
それ以外にはありません。

 

世間の場にいては「仏」も「浄土」もよくわかりません。
暗がりから牛」です。
だからこそ、お寺という特別の場所があります。
先祖が仏法聴聞のために大切に伝え残してきました。

 

牛は牛連れ馬は馬連れ」、そして門徒は門徒連れ。
今年こそ一緒にお聴聞しましょう!

 

(住職便り 25号より)

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

縁起でもない縁起の話(2月下旬)

【最後の会話】

 

義理の叔父Hさんと最後にお会いしたのは、
一昨年の年の瀬、大坂のホテルでした。
世間はクリスマスイブの日、ホテルも華やかでした。

 

二次会の後、ほろ酔いで陽気な叔父さんは、
「ラーメンを食べに行こう!」
「叔父さん、すいません、もうお腹いっぱいで。解散します。」
「そうかぁ、ではまた。」

 

次の日、ホテルで別れる際、
子ども達にお小遣いをくれました。

 

それからおよそ半月後、
インフルエンザにかかったと聞き、
「お大事に」という間もなく、数日後には肺炎に。
半月後、脳幹機能停止。
そして、世間がバレンタイデーという日、
静かに息を引き取られました。
数え70歳でのご往生でした。

 

【思い出話】

 

一週間後が葬儀でした。
叔父さんが住職をつとめるお寺へ。

 

葬儀の中で、
別れを惜しむ方々が弔辞を述べられました。
養子として入寺された叔父さん。
毎朝せっせと月忌参りに励んでおられた様子。
お寺へ参る方に気さくに声をかけ、
法座では一緒に幕をはったりと、
親しみのあるご院家さんだったようです。

 

またこんな話も。
「住職は『世の中には三つの偉大な「子」がいます。
孔子、老子、そして養子です』と言って、
場を和ませてくれました。」
「こんなお話を覚えています。
ある若い奥さんの所へお参りにいった際、
『お仏飯がないね。』というと、
『ご院家さん、オブッパンってどんなパンですか?』
面白かったです。」
「彼いわく、『私は三つの言語がしゃべれます。筑豊弁、八代弁、佐賀弁……』、
3ヶ国語を駆使される素晴らしい説教をしていました。」
楽しい叔父さんでした。

 

【色紙】

 

本堂の隣に叔父さんの事務室がありました。
ふと見ると、三枚の色紙が。
どうやら先月の元旦会の法話用に作成したもののようです。

 

一枚目には、一休禅師の言葉、
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」

 

二枚目には、
「縁起でもない縁起の話」とあって、
「来年の正月が迎えられなかったらどうしよう」

 

叔父さんらしいなと思いました。
そして叔父さん、
身をもってその事を示してくれました。

 

最後の色紙には、阿弥陀様の顔が描かれてありました。
その下には「大悲無倦常照我」の文字。
正信偈の言葉です。
意味は「大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照したまう」。

 

慈しみの極まりである仏様。
その救いのはたらきは、
光となって途切れることなく私を照らし護ってくださいます。
極重の悪人、煩悩盛んな凡夫の私。
こちらが目を向けることができなくても、
まったくお構いなく、私を慈しむ光の仏様、
それが阿弥陀様です。

 

【他力の話】

 

仏法は「縁起でもない縁起の話」です。

 

平生、死の問題は避けられがちです。
でもその問題こそ本当は大切な話です。
死の縁は無量、いつ死んでもおかしくないわが身です。

 

語り合う事がはばかられる話。
だからこそ共に法座に座り、仏様の話を聞いておきます。

 

……死の問題が避けられない時がやってきます。
たとえば、大切な人を亡くす時です。

 

「なぜ別れていかねば……、死んでいかねば……」

 

受け入れがたく、解決しがたい悩みに、
お釈迦様のご指南は、やはりお念仏一つでした。

 

「大悲無倦常照我」(大悲ものうきことなく、常に我を照したまう)

 

疲れ知らずのお慈悲の仏様。
私の生命の現場に、
「ナモアミダ仏」と名号法、
声の姿となって届き活動くださっています。
気づけば私にも、大切なあの方にも、
死の縁以上に、
生死(しょうじ)を超える縁が用意されてありました。

 

「お浄土でお会いしましょう」

 

故人をご縁として、
私自身が、死の問題を乗りこえていきます。

 

【おまけ:他力の信心】

 

浄土真宗では、
阿弥陀様に対する真実の信心を「他力の信心」といいます。
一般的な信心、「自力の信心」と、
性質が異なるからです。

 

……恩ある故人の棺に花を手向けます。
おだやかで眠ったような姿。
とても亡くなったとは思えません。

 

「信じられません。ついこの間、元気に会ってたのに……。」

 

一年たっても、思い出すたび、信じられません。
事実と違うのですが、受け入れられません。

 

理由は煩悩とあわないからです。
自力の信心は、
希望的観測、期待や願望と密着しています。

 

そんな自力の信心では、
どんなに「阿弥陀様を信じる」、「お浄土を信じる」と思っても、
決して長続きしません。
必ず疑いが残ります。

 

……死んだことを受け入れたくない私。
しかし、故人がお浄土へ往生したことは疑っていません。
疑いようのない心、他力の信心です。
一見、矛盾していますが、
それは出所が違うからです。

 

如来さまから賜った信心は、
私の煩悩を水源とする「自力の信」とは、
別のところからわき出た心持ちです。

 

……私が信じようと、信じられまいと、
まったく構わない他力のお話です。
煩悩に関わってくる信心、わが心の判断は問題にしません。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

生まれ変わる(2月上旬)

【生きる】

 

映画『生きる』は、黒沢明監督作品の中でも屈指の名作である。(宮崎駿:映画監督)

 

黒澤明さんは、世界的にも評価の高い映画監督です。
88歳までに作った映画は30作品。
その中で1952年、東宝20周年記念として作られた映画が「生きる」です。

 

主人公の渡辺勘治は、区役所で働くごく平凡な人間です。
無気力な毎日を過ごしている彼ですが、
定年間近のある日、
突然自分が胃がんで余命幾ばくもないと知ります。

 

絶望の淵に立たされた主人公。
死の宣告を受けてはじめて、
過去の自分の無意味な生き方に気がつきます。

 

大事に育ててきた息子とのすれ違い。
自分が「ひとりぼっち」であると思い知らされます。
仕事を休み、パチンコやダンスホール等、
慣れない遊びに手を出しますが、満たされません。

 

そんな中、ある女性の言葉がきっかけで、
生きる目的を見いだします。
熱心に、その仕事に精を出します。
周りを説得し、時には嫌がらせも受けますが、

 

「わしは人を憎んでなんかいられない。
わしには、そんな暇はない。」

 

ついに彼はやり遂げます。
小さな公園の建設。
戦って燃え尽きる主人公でした。

 

人間が直面する選択、価値観、絶望からの勇気など、
人生において真に大切な事柄はすべてこの映画で語りつくされている。
……われわれ人間は皆、渡辺勘治と同じように時間がない。
(落合信彦:ジャーナリスト)

 

【生まれ変わる】

 

印象的な場面があります。

 

「わしにも何かできる……わしにも何か……」

 

女性の言葉で突然やる気になって立ち上がった主人公が、
喫茶店を出て、いさんで階段を降りていきます。
その背後で、誕生日会をしていた若者たちが合唱しています。

 

「ハッピーバースデー、トゥーユー♪」

 

まるで彼を励まして見送るかのようです。
彼は“生まれ変わった”かのように働きます。

 

五ヶ月後、彼は亡くなります。
通夜に参列していた部下達は、
話し合う内に、徐々に主人公の事が分かってきます。
死を覚悟して、
貧しい人々のために小さな公園作りに奔走した事に感動し、
決起するのです。

 

「僕はやる。断じてやるぞ!」
「渡辺さんの後に続け!」
「渡辺さんの死を無駄にしては……」
「僕はね、生まれ変わったつもりでやるよ。」
「自己を滅して万民の公僕たれだ。」
「頑張ろうな!」
「この感激、忘れるなよ!」
「僕はやりますよ、やりますよ!」

 

ところが、後日の区役所。
通夜の時とは裏腹に、
淡々と仕事をこなす部下達。
元の木阿弥です。

 

……自分には残された時間があとわずかと知ると、
あわてて懸命に生きるのが人間。
でもそうでない場合………長続きしないのも人間。

 

黒澤監督はインタビューで、

 

「僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇を、
しみじみと描いて見たい。」

 

【現生正定聚】

 

本願を信受するは、「前念命終」なり。
即得往生は、後念即生なり。(『愚禿鈔』)

 

親鸞聖人は、
信心を得た心境を、
「命の終わり」、言い換えれば「生まれ変わり」と味わわれています。
それほど大きな出来事なのです。

 

「生まれ変わる」といっても、
心を入れ替え、生活が激変するわけではありません。
欲や怒りの煩悩は相変わらず、
仏の心にはほど遠い状況です。

 

しかし信心を得たということは、
如来さまの本願を聞き受けたのです。
ひとりぼっちではなかったと知ります。

 

いつも通り食べて働きつつ、
しかし如来の誓い通りに、
まっすぐ浄土へ歩む人生の足取り。
その揺るぎのなさから、
喜びの念仏、
ご恩報謝の念仏を申す身に。

 

煩悩まみれの心のまま、
悪業離れできない身のふるまいのまま、
浄土へ往生して仏となる事が定まった身。
それを真宗では「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と言います。

 

自力のはからいの人生が終わり、
他力のおまかせの人生が始まります。
それがお念仏の人生です。

 

【いのち短し】

 

最後の晩、
主人公は雪の中、完成した公園のブランコで歌います。

 

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に(ゴンドラの唄)

 

大正時代の流行歌、ラブソングです。
しかしこの映画では、
諸行無常の響きを奏でています。

 

突然の事故の葬儀や、
親しい方との別れの通夜の時など、
わが身の「時間はなき」現実を思い知らされます。

 

故人を通して生まれ変わります。
心を入れ替える……それも素晴らしいですが、
お念仏をいただきます。

 

人生の苦悩・問題は誰のせいでもなく、
私であるとする仏教です。
そんな私が、悲しいかな変わりようもない身と知らされ、
そんな私を、変わる事なく離さぬ仏を知らされるお念仏。

 

私にいたりとどく「声」の姿の仏さま、
南無阿弥陀仏のお念「仏」さまです。
如来さまと二人連れの人生。
時間はなくても、
全く焦る必要はないのです。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

 

 

奇特の念仏(1月下旬)

【奇特なし】

 

今年は丑年(うしどし)です。
物事が遅々として進まないことを「牛歩」と言いますが、
逆に、ゆっくり前にすすむ牛のように、
少しずつでも着実に自らを成長させていく年にしたいものです。

 

また牛偏に「寺」と書いて「特」。
お寺も「特別」な年にしたいものです。

 

そう思ってふと「特」がつく「ことわざ」を調べた所、
こんな言葉が出てきました。

 

「正法に奇特なし(しょうぼうにきどくなし)。」

 

出典は狂言「犬山伏」(いぬやまぶし)です。
正法は「正しい教法、教え」、
そして「奇特」とはこの場合、いわゆる「奇跡」です。

 

「正しい宗教には私たちが思う奇跡、
奇妙で珍しい、不思議な利益など存在せず、
むしろそれを説くのは邪教である。」

 

「これを信じれば、癌が治ります。」
「これを拝めば、幸運がまいこみます。」

 

正しい教えの本質からずれています。
不思議なパワーにあずかるのではなく、
現実をきちんとみつめ、
その苦悩にきちんと答えの出る教え。
堅苦しいですが、それが正しい教えです。

 

【奇特の法】

 

「正法に奇特なし」を聞いて思い出したのが、
『大無量寿経』の言葉。

 

阿弥陀様の説法をされようとしたお釈迦様を、
弟子の阿難が次のように讃えました。

 

「今日世尊、奇特の法に住したまへり。」
(こんにちせそん、きどくのほうにじゅうしたまえり)

 

この場合の「奇特の法」とは、
「奇跡の教え」ではありません。
「特にすぐれた禅定(ぜんじょう)、精神統一状態」(※1)です。

 

本来「奇特」とは、
「特にすぐれている」「素晴らしい」といった、相手(仏)を讃える意味です。
上から目線、疑いの目でいう「奇妙な、不可解な」ではありません。
お釈迦さまは今、おさとりの境地、
涅槃寂静なる心の安定したすがたをしておられるというのです。

 

延命や開運といった人間の切なる願望、
しかし同時に終わる事のない欲望をこえて、
仏さまは永遠で普遍の道理にたたれます。
その上で、一切を救うべく活動しておられます。
それがお経に説かれる真理、正しき教法、「奇特の法」です。
私たちが期待しがちな「奇跡の法則」とは違います。

 

【帰着点】

 

そんな法にのっとって「お念仏」はお経に説かれます。

 

仏を念ずる「お念仏」。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀様に帰依します)と、
仏さまに帰依する宣言です。
仏道の出発点です。

 

しかし同時に「お念仏」は帰着点でした。
阿弥陀様の話を疑いなく聞いたからです。

 

……阿弥陀様の本願成就の物語。
「私が何をすべきか」の自力ではなく、
「仏さまは何を願い、何を成就されたのか」の方を聞き学びます。

 

何としても救わねばという仏さまの願いを通して、
何をしても間に合わない自分、
にもかかわらず仏の心を聞き流してきた私に気づかされます。

 

わが疑いの目、自力心が一番の障害でした。
譬えるなら、自分で勝手に敵を作り、
もがいていた自分に気づかされます。

 

気づけば自力の壁が剥がれ落ちていました。

 

念仏の他に何も必要でなかった事、
もう事は済んでいた事、
そういう意味で、お念仏が帰着点なのです。
今はただ、
浄土で仏となる揺るぎない一筋の道の上です。

 

【牛歩での聴聞】

 

……それにしても、
念仏で始まり念仏で終わる浄土真宗。
煩悩まみれのまま、浄土で仏になる浄土真宗。
ご縁のない人からみれば、
「仕組みが分からない」、
「なぜそうなるのか理解できない」、
奇妙な教えかもしれません。

 

ご一緒にお聴聞いたしましょう。
コロナ禍で法座に参りづらいこの頃ですが、
牛歩でもよいので前にすすんでください。
法然上人、親鸞聖人が歩まれた道です。
数多くの先人が、
苦悩し、そして出遇った喜びの道です。

 

「正法に奇特なし」、
奇跡はありません。
けれども、
「念仏は奇特の法なり」、
お念仏は良い意味で不思議な教えです。
不思議なことですが、
苦悩あるまま今、
最後まで、ご恩報謝の生活を歩ませていただく、
お念仏の道です。

 

(おわり)    ※冒頭へ

 

(※1)
「法」という語は仏教で、様々な意味を持ちます。
原語を「ダルマ」(達磨)といい、
古来、難解ですが、
@「任持自性(にんじじしょう:それ自体の本性を保持する)」、
A「軌生物解(きしょうもつげ:軌として物の解を生ず。認識や行為の規範となる)」、
そう解釈されます。
そこから派生して、
(A)存在しているもの・事物、
(B)特性・性質、
(C)規範・規準、
(D)教法・教説、
(E)真理、
(F)善・善行、そんな意味が生まれました。
「正法に奇特なし」の「法」は(D)
「奇特の法に住す」の「法」は(F)です。

 

世間一般でいう「法」は(C)に近いのでしょうか。
お説教で聞く「法」は、大体(D)(E)(F)です。

 

    ※冒頭へ

 

 

 

落語の目的(1月上旬)

【流行らない理由】

 

落語家Sさんが、落語のマクラ(本題の落語に入る前の部分)で、
「落語がはやらないワケ」について語っていました。

 

その理由の一つが、
「世間で、落語の目的が“お笑い”と勘違いされているから」。

 

人は落語を聴いて笑います。
けれども笑いの量からいえば、
漫才やコント、テレビのバラエティー番組など、
落語はとてもかないません。

 

落語に笑いがあるのは「聞かせる」ためです。
「笑う要素がなければ、人は3分以上聞いてられないから」です。
そんな聞かせるための落語に対し、
テレビは「見せる」ためのものです。
その意味でも、落語は他の演芸に比べて見劣りします。

 

また、テレビは作る側・視る側ともに、短時間で終わるものを好みます。
漫才やコントなど3分で一段落できるのに対し、
落語は無理です。

 

そして、落語は周りに良さが伝わりにくい。
他のコンサートへ行った人は、帰宅してその感動を、
「開演と同時にメンバーがね!一曲目はね!……」と語り大いに盛り上がります。
でも落語会へ行った人は……。

 

(Sさん)「……あなた方、今日帰って言う?」

 

言わないし、伝えにくい。
落語のあらすじを言った所で伝わりません。

 

【脱力感】

 

落語の目的は何か。

 

Sさんいわく、
「あ〜なんだ、そうだったのか。日本人ってそうだよな。みんな一緒か。」と知る事。
心地よい脱力感。
それが味わえる唯一の芸能が落語だそうです。

 

たとえば、
「寿限無(じゅげむじゅげむ) 五劫のすり切れ……」
という長い名前の人がいたんだよという、
おなじみ「寿限無」という落語。
面白いし、笑い話です。
それはそれで良いとして、
しかし「寿限無」という話はそういう話なのか。

 

(Sさん)「あれはつまり……自分の子が長生きしてもらいたいと思ったがあまり、
良いものをつなげていったら長い名前になっちゃったという。
笑い話ではあるけど、多分、どの親もが思う子供に『元気な子であってほしい……』、
その思う気持ちが、結果として笑い話になっちゃったのよ。
笑わせようとしてつなげたのではないのよ、きっと。」

 

そしてSさんはこう結論を。

 

(Sさん)「落語は何も特殊なものでも、古いものでもなく、
人間生きてるかぎり、どこにでも転がっている要素、
それをたまたま落語という作品として出しているだけなんです。
日本人が生きてるってこと自体が落語です。」

 

マクラが終わり、楽しい落語が始まりました。

 

【安心感】

 

ところで、
浄土真宗のご法事の目的。
世間では「先祖供養」と勘違いされがちです。

 

勿論、法事は○○さんの○回忌の法要です。
○○さんのご命日。素通りにはできません。
年忌という節目には、
縁ある各々で集い、故人を偲ぶ大切な時間としたいものです。

 

それはそれで良いとして、
しかしその「読経」「法話」の目的は何か。
参列者の各々自身が、
仏さまの話を聞き、
その教えの尊さに触れ、
「なんと、そうだったのか。
この煩悩凡夫のまま、
包み込んでくださる法のはたらきとは、こうだったのか。
仏さまの光の中、みんな一緒なのか。また浄土で会えるのか」と知る事です。

 

心配のない大きな安堵心。
それが他力のご法義、浄土真宗です。

 

笑いながら味わう落語の「脱力感」。
何度聞いても良いものです。

 

同様に、
故人の別れを縁として、
聴聞し味わう法話の「安心感」。
何度聞いても有り難いものです。

 

【法座へ】

 

ところで、
法話も落語と同じく、
短時間が苦手です。
法事の時間では、
申し訳ないのですが、
本領を発揮しづらいものが。

 

ですから住職は「法座」を案内します。

 

現在、コロナウイルスの影響で、
法座は2時間のところ、半分の1時間に。
法話も40〜45分の一席のみです。
けれども逆に講師陣は、
内容を凝縮してご法話くださいます。
感染予防には気をつけつつ、
ご法話をお聴聞ください。

 

落語と同様、
相手に伝えにくい法話です。
コロナ禍ではありますが、
今年も工夫しながら法座へのお誘いを心がけて参ります。
(このホームページ法話もそうなのですが。)

 

皆さんのご参詣お待ちしています。
(今年の法話日程はこちら

 

(おわり)    ※冒頭へ

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