山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

法座の言葉(201〜300)

目次

 

内容

No.296 渡辺崇之師 (2023/11/15-16)

 

【讃題】 
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり

 

永代経の「経」の中身は、
「私がお金持ちになる話」、ではなく
「私が仏になる話」です。
煩悩まみれだった「凡夫が仏になる」という壮大な道が説かれています。

 

ただ、浄土真宗のお経『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』の場合は、
少し言葉をかえたほうが分かりやすいです。
すなわち、
「凡夫が仏になる」でなく、
「凡夫仏になのです。

 

凡夫よ、仏になるのです。精進しなさいよ。」
と仰せの仏(阿弥陀=無量寿仏)さまではありませんでした。

 

凡夫よ、私が仏になすぞ。安心しなさいよ。」
と仰せなのが、阿弥陀さまです。

 

最後はたった一人で死にゆく私。
そのいのちの事実を心配した仏さまの誓いは、
徹頭徹尾、お慈悲です。
その事をお経から読み解いてくださった親鸞聖人です。

 

(おわり)
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No.295 中島昭念師 (2023/9/29-30)

【讃題】 
弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。
名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。
たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。
名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。(註釈版166頁)

 

浄土真宗の話を聞き誤った人は言います。
「自分は何もせんでよいとは楽な教えだ。」
それでは浄土真宗は怠けの宗教になります。

 

仏教は因果の道理であり、
私たちは生涯「自因自果(じいんじか)」
自分が努力して賢く善くなっていく(賢善精進)のです。

 

その上で「他因自果(たいんじか)」
阿弥陀さまの他力がわが身の生きる力となっている話をお聴聞するのです。

 

聞き誤らず消化した人は、
今までの世界が転換され、
「ありがたい。もったいない、おはずかしい」と頭が下がる身にお育ていただき、
報恩感謝の人生が始まります。
それくらい心豊かで尊い人生はないと親鸞聖人が示されたのが
「他力回向(たりきえこう)」というお念仏の教えなのです。

 

(おわり)
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No.294 白石智昭師 (令和5(2023)8/29-30)

【讃題】 
聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と

 

【不思議と当たり前】

 

不思議な事といえば、たとえば飛行機。
何故あんな重たいものが空に浮いていられるのか?

 

メールも不思議です。
なぜ文字が瞬時に地球の裏側まで届くのか?

 

飛ぶ理由も分からず、届く理屈も分からないが、
私たちは楽しく利用します。

 

そんな不思議な飛行機も、
飛行機を作った方、
航空力学を学び作った人からすれば逆です。
つまり飛ぶのが当たり前。
メールも同様、届くのが当たり前です。

 

そのメカニズムをご存じの方からすれば、
決して不思議ではないのです。

 

【願力自然】

 

世の中の多くの不思議なものに対し、
仏教が問題にするのはもっと大きな不思議です。

 

「何故、南無阿弥陀仏一つで、
それこそ地獄行きの私が浄土の仏となるか。」

 

たずねられても凡夫の私にはわかりません。
とうてい思議のおよぶ世界ではないのです。

 

ところが救う側の如来さまからすれば逆です。
ご苦労をかさねて、
「南無阿弥陀仏一つで私を浄土の仏にする」というこのメカニズム、
如来さまが完成をして、
この口元まで「ナンマンダブツ」と運ばれます。
それを「願力自然」といいます。
つまり当たり前の事なのです。

 

お聞かせにあずかってみると、
仏さまの側のお心は、
私がわからんまんまで良い、
どうにもならん私であろうとも、
その私を救わずにはおれんという親心です。

 

「私はあなたの親じゃもの、
手放すことも見放すこともできん」と、
罪業深重、煩悩凡夫なれども、その私を救うために
願いと力を成し遂げたぞと喚んでくださるのがお念仏。
そのことに気づいた私は、
そのメカニズムは分からないまま、
ありがたく称えさせていただきます。

 

(おわり)
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No.293 舟川智也師 (令和5(2023)6/19)

【讃題】 
 本願力にあひぬれば   むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

 

このいのち、いつか必ず終わります。

 

けれども私を仏縁にあわせてくださった故人同様、
私も同じ如来の願いにいだかれ浄土参りさせていただきます。
仏さまになったあかつきには、
今度は私のいのちを通して子や孫がお念仏してくれます。
それが私の行く末です。

 

この私のいのちが終わるという事は悲しい事です。
慣れ親しんだこの世界から離れてゆくのはさみしい事です。
わが家族から離れていくことは辛い事です。
その事にかわりはないけれども、
果たしてそれがむなしい事であったでしょうか。

 

花に二種類あります。
花とあだ花。
あだ花とは華麗に咲き誇るけれども、
散ったら終わりの花です。
では花はどうか。
同じように散っていくけれど、最後に実をならす。
実をならすという事は次のいのちが始まるということです。

 

私達はこの世のいのちは散っていきますが、
浄土に実をならしていくいのちです。
そして仏という次のいのちがそこからまた始まります。
散ってしまい、死んでしまいの世界ではないのです。

 

「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」
と親鸞さまは詠ってくださいました。

 

このご本願にであった人生は、
阿弥陀さまがご一緒の人生です。
二人連れの人生と喜んでいけます。
でもそれだけではありません。
このいのちの受け皿まで用意してくれました。
浄土に生まれて仏となる。
次のいのちがあたえられるのです。

 

私のいのちの生と死をつらぬいて、
「ご本願」という願いがかかってあるいのち。
だから「このご本願にであっていけよ」と、
親鸞さまは私達におすすめくださるのです。

 

(おわり)
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No.292 北嶋文雄師 (令和5(2023)5/25-26)

【讃題】 
人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、
さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

 

仏さまの教えとは、私達の現実を変えていくのではなく、意味をかえてくださるものです。

 

「私の人生は苦しい事、辛い事ばっかり……一体何のために苦労したんだろう」

 

そんな空しい思いで終っていくならばこれほど悲惨なことはありません。

 

しかし仏法にであった者は、
自分の人生をふり返った時に、
「私の人生は苦しい事多かったけど、本当に尊い人生だった」と、
自分の人生に合掌していのち終っていく世界が切り開かれます。
そこに仏法を聞いていく尊い意味があるのです。

 

(おわり)
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No.291 紫藤常昭師 (令和5(2023)3/25-26)

【讃題】 
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、
南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。
これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。
これを『大経』(上)には「令諸衆生功徳成就」と説けり。

 

「ホーホケキョ♪」とウグイスが鳴くところに、
春というものがその姿をあらわすように、
柿の実が上から下に落ちるところに、
万有引力の法則がその力を示すように、
この私が「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」と耳に聞き口に称える所に、
「弥陀願力」という
仏さまのこの上ないお慈悲のはたらきがそのすがたを現している、
というのが浄土真宗です。

 

中世室町の戦乱のさなかに、
画期的な方法で浄土真宗を伝え、
日本人の骨格を作られた本願寺の八代門主蓮如上人。
その上人が、
「仏さまの話を聞く機会」として柔軟に本願寺に取り入れられたのが「彼岸会」です。

 

(おわり)
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No.290 瀧渕良孝師 (令和5(2023/1/17-19)

【讃題】 
大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、
教の理致をきはめて、これをのべたまふに、
たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、
あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。
(『御伝鈔』上巻・第二段)

 

へつらいのない教え

 

浄土真宗の「真」について、
親鸞聖人はある箇所(「真実明」)で、
「偽り諂わぬを真という」と言われました。
「諂う(へつらう)」とは、相手が気に入るようにものを言う事。
相手のご機嫌を取る言葉です。
時折、会話の中で聞きますが、ごまかしにすぎません。

 

宗教にもそんな「諂う宗教」があります。
「これを信じたら家族は円満に、病気もなおる」等、
人間に都合良い利益をふりまく教えが、
見渡せば世の中にはいくらでもあります。

 

本物の救いの道理に出遇えよといわれる聖人。
故にその教えを「浄土真宗」と言われたのでした。

 

(おわり)
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No.289 安方哲爾師 (令和4(2022/11/24-25)

【讃題】 
西方寂静無為の楽は、
畢竟逍遥して有無を離れたり。
(真仏土巻、定善義引文)

 

銘々思いたいように

 

阿弥陀さまは我々に煩悩を断ってからお浄土へ来いとはおっしゃっていません。
どうおっしゃっているかというと、
「我、南無阿弥陀仏という名となってあなたの身に入り満ちてあなたを救う」です。

 

浄土真宗のお救いにあずかりお浄土へ参る方というのは、
「如来さまがこの口からこぼれ出てくださる」事を聞き受けた方、お念仏する方です。

 

ではどのようにお浄土を思ったらよいのか。
銘々が思いたいように思っても何の差し障りありません。
「懐かしいあの人がお浄土で迎えてくださる」と願って良いのが、阿弥陀さまのお慈悲です。

 

(おわり)
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No.288 加藤一英師 (令和4(2022/9/29-30)

 

【讃題】 
なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。
ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、
おどろきおぼしめすべからず候ふ。
まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、
信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。

 

[現代語訳]
「何よりも、 去年から今年に欠けて、 老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、 本当に悲しいことです。
けれども、 命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、 すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、 驚かれるようなことではありません。
わたし自身としては、 どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません。
信心が定まった人は、 本願を疑う心がないので正定聚(しょうじょうしゅ)の位に定まっているのです。
何の心配もありません。」
(親鸞聖人88歳の手紙 [先日の彼岸会のご讃題])

 

 

独生独死 

 

お経に「独生独死(どくしょうどくし)」とあります。
私達は一人で生まれ一人で死んでいきます。
その事から逆に、常日頃、お互い支え合って生きている事のかけがえのなさに気づかされます。

 

昨今、コロナ禍で家族の定義、親族との付き合い方が変わりつつあります。
老若男女を問わず、いよいよ孤立化。孤独の世界が広がっています。

 

そうせざるを得ない所もありますが、
お彼岸(阿弥陀さまのお浄土)に向けて歩む者は、
今のうちからお互い尊敬しあいたいものです。

 

そして最期は「独死(どくし)」・・・いえ、最も尊敬していた方がご一緒です。

 

 

No.287 赤井智顕師 (令和4(2022/6/20)

 

【讃題】 
噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

 

聴聞の心得 

 

法座で仏法を聞く「お聴聞(ちょうもん)」は、浄土真宗の生命線です。
「選挙は国民の義務」ならぬ「聴聞は門徒の義務」といって過言ではありません。

 

そんな聴聞に注意すべき三ヶ条があります。

 

  • 一 この度のこのご縁は初事(はつごと)と思うべし
  • 一 この度のこのご縁は我一人(われひとり)の為と思うべし
  • 一 この度のこのご縁は今生最後(こんじようさいご)と思うべし

 

「その話はもう聞いた」と横着せず、
私自身の苦しみ悲しみをいただきとってくださる救いの話として、
一期一会の場として、
ご一緒にお念仏の喜びをいただきましょう。

 

(おわり)
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No.286 福間義朝師 (令和4(2022)/05/12-13)

 

【讃題】 

 

十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

 

お浄土におられる人だから 

 

葬儀で「亡き母は天国で見守って・・・・」と聞きます。
しかし、仏教で天国と浄土は区別します。

 

天国は人の願う世界、浄土は仏の願う世界です。

 

人の願いは常に煩悩が混じっています。
例えば「あんまり働かずにお金が入って楽したい」、それが天国です。
わたし独りが欲がみたされて楽をしたい世界。

 

浄土は全然違います。
自分はどうでも良いのです。
衆生を救うのが喜びとなるのが仏です。

 

地獄の反対は天国、いったりきたりします。
浄土は地獄も天国もいだきます。

 

故に浄土は遠くでじっとしていません。
今浄土はここではたらいています。
どうはたらいているか。
「南無阿弥陀仏」、これが浄土のはたらきです。

 

亡くなった方の姿は遺影ではありません。
一番身近なのは阿弥陀さまの姿。
もっと言えば「南無阿弥陀仏」、声の姿です。
故人は「南無阿弥陀仏」と新しい姿となってここにいらっしゃる。
いずれお浄土で再会しますが、
よくみ教えを味わったらここにおられます。
すべてが「南無阿弥陀仏」にいたるのです。

 

(おわり)
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No.285 服部法樹師 (令和4(2022)/03/11-12)

 

【讃題】 

 

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
(教行信証 総序)

 

 

煩悩の中で味わう 

 

昔から「お慈悲は煩悩の中で味わえ」という。

 

煩悩のあるかぎり、
死ぬまでちょっとした事で腹を立て、
何気ない事で人を恨む連続かもしれません。

 

しかし、その腹立ちの心をご縁として、
お念仏を思い出し、
腹立ちの心を糸口として、
お念仏をもうさせて頂きます。

 

「ナマンダブく。また私(鬼の本性)がでました。
しかし、それでもあなた様だけは救いますと言うてくれますなぁ」と、
お念仏し、お慈悲を味わう事ができたなら、
わが煩悩の人生が、
そのまま念仏の道場として大きな意味をもってきます。

 

(おわり)
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No.284 内藤昭文師 (2021/11/12-13)

 

【讃題】 
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

 

聴聞の極意

 

「聴聞(説教)は、聴こうとしなかったら聞こえてこんぞ。
だが聞こえてきたのは、聴こうとしたからではないぞ。」     
   村上速水(むらかみそくすい) 和上)

 

浄土真宗は、お聴聞を大切にいたします。
一人一人、自分が足を運び、自分が聴きます。

 

そして聞こえてきたのは「他力(たりき)」の話。
阿弥陀さまという広大なお慈悲の話。
自力(じりき)のはからい心が、
「もう救いの中でした」の安堵心(あんどしん)に変わります。

 

安堵した上からは報恩(ほうおん)感謝(かんしゃ)の生活につとめます。
(お聴聞にもつとめます[笑])
(おわり)
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No.283 藤本唯信師 (令和3(2021)/09/27-28)

 

【讃題】 

 

大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
(教行信証 行巻)

 

 

禍(わざわい)を転じて

 

「コロナ禍」にかぎらず、人生には悪い出来事、禍いはいつでもやってきます。

 

「禍い」といえば、
親鸞聖人は「衆禍(しゅうか)の波 転ず」と言われました。
お念仏のみ教えにであった時、どのような悲しみ(衆禍)も転換されていきます。

 

「転悪成善(てんまくじょうぜん)」(悪を転じて善を成す)の利益です。
お念仏に、
あの悲しみに包まれた悪い出来事も、
この消し去ることのできないわが煩悩・悪業も、
いつの間にやら転じられます。
責め悔いる相手が
「お陰で仏のお慈悲にあえました。お陰様でした」
とお礼を申す尊い相手・思い出に変わるのです。

 

(おわり)
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No.282 新 晃真師 (令和3(2021)08/30-31)

 

【讃題】 

 

念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあずかるのではない。
いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。

 

親鸞聖人は仰せになる。

 

  信心の定まるとき往生また定まるなり

 

信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。
如来は、悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。
本願のはたらきに出あうそのときに、煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。

 

苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩のままではない。
阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとりの世界に導かれていくこととなる。

 

まさに今、ここに至りとどいている救い、これが浄土真宗の救いである。

 

                   「拝読 浄土真宗のみ教え」より

 

 

あっという間

 

「あっという間」の感覚には二つある。

 

一つは「楽しい時間はあっという間」。
逆に、年の暮れに思う「一年、あっという間」は、
決して楽しく充実した事を意味していない。

 

仏教が問題にするのは、
今まさに自らのいのちが終わる時に思う「人生、あっという間」の感覚。
その時、
「もう終わりか。何とはかなく面白くない人生だったか」と、
悔し涙で終わっていくのか。
逆に、
「尊い豊かな人生でした。ありがたいみ教えにあい、
いのちの親にあわせていただきました」と
合掌して終っていくのか。

 

「諸行無常。あなたはどちらを歩むのか?」
仏法は今、私に問いかけてくださる。

 

(おわり)
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No.281 長倉 伯博師 (令和3(2021)06/20)

 

【讃題】 
人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
此の身今生において度せずんば、
さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

 

南無帰依仏
南無帰依法
南無帰依僧

 

無上甚深微妙の法は、
百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

 

 

【宝石箱とゴミ箱】

 

「俺はゴミ箱・・・」

 

三回つぶやいて病室に入る。

 

宝石箱は美しくきれいでいいものだが、弱点がある。
鼻をかんだものを入れられない。
宝石箱は宝石をいれるため。
逆にゴミ箱は何でも来い。

 

そういう覚悟の「ゴミ箱理論」。
病室には一番いい顔を持っていく。

 

案の定、
「なんで来たか!」
ボロカスに言われる。
ただただ、患者の罵倒を笑顔で聞く。

 

患者はたまっていたものを吐き出して、
ぐっすり休む。
不眠症から解放される。

 

自分は死ぬのか、どうなるのか?
お寺ではお浄土と聞いてきたけれど、
いざ自分の眼前にくると、本当だろうか。
そういう不安で、患者は眠れなかった。

 

【大きなゴミ箱】

 

「先生、よくあんな病室に笑顔でいけますね。」
「だって僕には大きなゴミ箱があるもの(笑)」

 

私の全部を引き受けてくれる如来さまがいる。

 

ええ格好せんでも良い。
仏壇の前で愚痴をいう時もある。
人間同士はあたりさわりがある。
しかしそれを全部ひきうけてくれて「捨ててはおかん」という如来さまを聞いてきた。

 

それがあれば、ゴミ箱やれます。

 

 

(おわり)
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No.280 菅原 昭生師 (令和2(2021)05/20-21)

 

【讃題】 
たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、
摂め取って捨てぬと、どこまでもどこまでもはたらき続ける仏がおられます。
その仏を、阿弥陀如来と申し上げます。

 

親鸞聖人は仰せになりました。

  十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる

 

 

【ご法義ウイルス】

 

百年前、新型インフルエンザ(スペイン風邪)にかかった妙好人(みょうこうにん)の浅原才市(さいち)さんは、
こんな詩(口(くち)あい)を作りました。

  かぜをひけば せきがでる 
  さいちが ごほうぎのかぜをひいた
  ねんぶつのせきがでるでる

 

北原白秋も絶賛のお念仏を喜ぶ詩です。

 

いつでもどこでもゴホンゴホン。
一人であってもみんなといてもゴホンゴホン。
出せと言って出せるものじゃない。
出すなと言われてこらえられるものじゃない。

 

そんな風邪の咳を「ナンマンダブ」のお念仏に重ねておられる。

 

パンデミックの中、新型コロナウイルスには感染せず、
お寺でご法義ウイルスに感染します。
お念仏の咳をしながら、共にお浄土へ帰ります。

 

【コロナのおかげで】

 

パンデミックは100年きざみでおこるようだ。
100年前はスペイン風邪といわれた。
200年前はコレラといわれた。

 

だが、スペイン風邪が流行らなければ、
才市さんの咳の詩はできなかったかもしれない。
また200年前、
コレラが流行らなかったら、
「ようこそ ようこそ」で有名な妙好人「因幡の源左さん」もいなかったかも。
様々なご縁がご縁となっていきます。

 

……

 

今、言われているのが「withコロナ」(コロナと一緒に)
「コロナのおかげで」という世界があってもいいのではないか。

 

にげるのではなく、引き受けていく。

 

  「こいのぼり 泳ぐはいつも 向かい風」

 

決して思い通りにならない「生老病死(しょうろうびょうし)」の問題。
いやがるのではなく、
真正面から引き受けて泳いでいける道がある。
阿弥陀様と共に歩む道。

 

  「死ぬるは浮世のきまりなり 死なぬは浄土のきまりなり」(才市)

 

「きまり」は「法(法則)」です。
死んだらしまいは浮世の法。
しかしお浄土へ生まれさせてもらったら、もうさようならはない。

 

「死なない世界に生まれさせてもらうんだよ」という法を、
親鸞さまは「弥陀法(みだほう)」としてお届けくださいました。
その法を私が受け取らせていただく時、
「(親鸞さま、)生まれてきてくださってありがとう」と、
降誕会をおつとめさせてもらいます。

 

(おわり)
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No.279 有國 智光師 (令和2(2021)03/12-13)

 

仏願に乗ずるを我が命となす。(論註)

 

【いのちの願い】

 

『無量寿経』(浄土真宗の根本聖典)の主人公である仏さまは、
自らを「阿弥陀(インド語でアミターユス):限りなきいのちの者(無量寿(むりょうじゅ))
と名のられました。
それは「あらゆる者を救いたい」という仏の願いの完成(本願成就)を意味します。

 

〈限られたいのちを生きる私〉がいます。
どんなに努力しても、
いつか終っていくわがいのち。

 

仏さまは、全く異なる人生の見方を示されます。

 

限りなきいのちがあなたを生きている〉と。

 

「あなたを離したくない」という仏さまの願いに抱かれたお念仏の人生に終わりはありません。

 

(おわり)
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No.278 白鳥 文明師 (令和2(2021)01/28-29)

 

【肝要の言葉】

 

私の心がどのようであろうとも、阿弥陀様がこの私を仏にせずにはおけないという、
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光の中に生かされてあるという事であります。

 

一人さみしくおくる日も、苦しみと悲しさの底に沈んでいようとも、
また得意の絶頂にある時も、阿弥陀様を裏切りそむいている時も、
阿弥陀様は摂取(せっしゅ)の光で抱いていてくださってあります。

 

凡夫の眼には見えずとも大悲は常に照らします。
いつでもどこでも、阿弥陀様と共にあるという人生を力強く歩む日々を、
南無阿弥陀仏と届けてくださってあります

 

(おわり)
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No.277 白石 智昭師 (令和2(2020)11/19-20)

 

真言を採り集めて、往益を助修せしむ。
いかんとなれば、前に生まれんものは後を導き、
後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、
願はくは休止せざらしめんと欲す。
無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。

 

【ひとりぼっち】

 

  思い出す秋の日 一人ぽっちの夜 (永六輔「上を向いて歩こう」)

 

私たちは全員、
「独生独死(どくしょうどくし)」(無量寿経)
独り生まれ独り死んでいかねばならぬひとりぼっち。

 

しかしお釈迦様は同時に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の法(おみのり)、
阿弥陀様のお救いもお説きくださいました。

 

ひとりぼっちは、本来「独り法師」でした。
お念仏の法にひたり、悠然と浄土への道を歩みます。

 

  そうだ俺には俺しかいない
     俺はすてきなひとりぼっち
  (谷川俊太郎「すてきなひとりぼっち」より)

 

(おわり)
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【気の毒なのは】

 

Sさんの家は5年で4度の葬儀を出しました。
お爺さんが最初で、
その後、お嫁さん、そのご主人、そして最後は認知症気味のお婆さん。

 

周りは「お気の毒に」というばかり。
けれども少し違うのです。

 

お爺さんの葬儀をご縁に、
仏法へ関心を持ち、質問までしてくださるようになった息子さんです。
しかしその息子さんは突然、難病になり、
終末医療の病院に入りました。
その息子を見舞いにきた認知症気味のお婆さん。
帰りの車内で、
「お爺さん、もうすぐ○○がお浄土へ参りますよ……あ、私も参るんじゃった(笑)」と、
独り言のようにお浄土のありがたさ、
お念仏の喜びをかみしめるお婆さんの姿に、
運転していたお嫁さんも、とうとう仏法に涙する身になりました。

 

はたからみれば、
「若い者から亡くなって、お気の毒に。」

 

けれども全員が仏法に出遇い、
さらに現在はお孫さんに法が伝わっています。

 

本当にお気の毒なのは……。

 

(おわり)
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No.276 中島 昭念師 (令和2(2020)09/30-10/1)

 

噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

 

【お念仏】

 

今日はお彼岸のご縁にひととき、ようこそお参りくださいました。
お盆・お彼岸は、日本で最も長い伝統のある仏教行事の一つです。

 

そのお寺にお参りくださったということは、倫理道徳の話をきくわけではない。
宗教です。

 

宗教的なものには、祈る宗教もあれば、座禅とか瞑想、行にはいっていく宗教もある。
でも私たちは親鸞さまをご開山といただきますから、お念仏の教えにあう。

 

お念仏の教えでもいろいろご宗旨がございますけど、
私たちは親鸞さまをご開山といただきますと、救済教、
阿弥陀様に救われていくというお念仏の教えにあう。

 

救われていくということは溺れておるのが前提です。
何が救われたいのか。
私の本当の生きているよりどころ、
真に帰るべきところはどこか。
誰も答えが出ない。
しかもそういう中にいる私が至極短命である。
いつ死ぬか分からんような短いいのちをかかえておる者。
手間暇かかるような教えでは、
今晩死んだのでは間に合わない。

 

そういう私をどう救うか。

 

それには何かといったら、聞く一つで救われていくという教えがすばらしい。
聞いて信じるとはいわない。
聞こえたままが信(聞即信:もんそくしん)であるという。

 

何が聞こえるか。
そういう私をあわれんで、必ず「逃ぐるものをおわえとる」という、
摂取して捨てないと、今、はたらいてくださっておる、
如来さまのお慈悲を喜ばさせていただくほど、有り難く尊く素晴らしいものはない。

 

言われても如来さまは色がない、形がない、
心もおよばない、言葉もたえた方といわれたら、凡人はわかりようがない。
ですから親鸞聖人が『教行信証』に引用なさったのは、
「わが弥陀は名をもって物を接す」という有名な句。
わが阿弥陀様はナマンダブツという言葉となってはたらいてくださるといただいた。
ナマンダブツというお名号、お念仏をいただく。

 

今日のお彼岸のご縁は、
お念仏を申す身にお育ていただく事のありがたさ尊さ、素晴らしさを
あらためてご縁に遇い、喜ばさせていただきます。

 

 

……私は85年、お寺に生まれさせていただいて、
ひたすら阿弥陀様にお給仕をさせていただいて、
人生をすごさせていただきました。

 

自分自身が人生をふりかえって、
何をおいてもお念仏申す身にお育ていただきました事ほど、
人生にとって有り難く尊い事はないなと思います。

 

今日のこうした立派なお寺を建てて残してくださって、
「どうぞお念仏を申し、お念仏を喜ぶご縁を大切にしてくださいよ」と、
ご先祖の方が残してくださったご恩を偲ばせていただきながら、
お念仏を申す身に、一人一人が味わわさせていただくのが、
このお彼岸のご縁であろうかと、今日いただきたいと思う事です。

 

ようこそお参りくださいました。 (初日の法話より)

 

(おわり)
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No.275 紫藤 常昭師 (令和2(2020)01/23-25)

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

【お荘厳】

お仏壇の花は仏さまにお供えするものなのに、
何故向こうではなくこっちを向いているのか。
それは「お荘厳(しようごん)」だからです。

 

荘厳とは、相(すがた)なきものが相(すがた)を現しているもの。

 

光は闇をやぶる。だから@ローソクは智慧を意味します。Aお香は清らかさを、Bお花はお慈悲です。

 

お仏壇の@AB(三具足(みつぐそく)といいます)は、
仏の三徳が常に私に届いている事を意味します。
だからこっち向きで良いのです。
逆に向こう向きなら、お徳をつきかえす事になります。

 

お念仏も同様です。
仏の届いたお徳をつきかえさず(自分勝手なはからいをまじえず)、
仏の声を「我にまかせよ、必ず救う」と聞信したままに、いただきます。

 

(おわり)
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No.274 成 照星師 (令和1(2019)11/19-20)

 

【仏法と科学】

 

お仏壇の花は仏さまにお供えするものなのに、
何故向こうではなくこっちを向いているのか。
それは「お荘厳(しようごん)」だからです。

 

荘厳とは、相(すがた)なきものが相(すがた)を現しているもの。

 

光は闇をやぶる。だから@ローソクは智慧を意味します。Aお香は清らかさを、Bお花はお慈悲です。

 

お仏壇の@AB(三具足(みつぐそく)といいます)は、
仏の三徳が常に私に届いている事を意味します。
だからこっち向きで良いのです。
逆に向こう向きなら、お徳をつきかえす事になります。

 

お念仏も同様です。
仏の届いたお徳をつきかえさず(自分勝手なはからいをまじえず)、
仏の声を「我にまかせよ、必ず救う」と聞信したままに、いただきます。

 

 

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」
(『阿弥陀経』より)

 

お釈迦様の説法である「経典」を、
仏教にご縁がない人は、科学の道理で見てしまいます。

 

「西方?」
「極楽浄土?そんな世界がどこに?」

 

しかし仏法と科学では、
ちょうど「ハカリとメジャーでは、はかる相手(長さと重さ)が異なる」のと同様、
問題にする相手が違います。

 

仏法が答えようとしている問題は「私」です。
いつか死んでいく私という苦悩の問題です。
科学の対象の範疇にありません。
その問題の私にむけて答えてくださっているのが、
お経の言葉です。
科学とは必然的に指し示し方が異なります。

 

【十万億の仏土を過ぎて】

 

お経の「〜過ぎて世界あり」の「過」。
天親菩薩や善導大師は、
「勝過」または「超過」と教えてくれました。
勝れている、超えているという意味です。

 

「私が……」と、物事を私の都合で分別する煩悩の世界、
それが私の境涯です。
そんな不平等の世界をはるかに超え勝れた、
無分別、平等という世界、
仏(おさとり)の境涯が「ある」とお釈迦様は説き述べられます。
その境涯を「阿弥陀仏」と号し、
その仏様は「法を説きたまふ」、
すなわち私を変えなしてくださっているというのです。

 

【球面と氷】

 

「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」

お弔いの時に読む親鸞聖人の和讃です。

 

阿弥陀さまの功徳、おさとりのすがた(すなわちお浄土の世界)は見えません。
ましてやお助けぶりは決して分かりません。

 

けれども、「球面はどこを押さえても、中心を指す」という理屈と同じく、
煩悩と共に生きる我々の生活の有り様のどこを押さえても、
阿弥陀さまのおられない所はありません。
隠れていますが、
私が生きている所にずーっと行き渡っています。

 

そして阿弥陀さまのおられる所は、
阿弥陀さまのお助けぶり、
「我と同じ価値の仏にする」というはたらき場所です。
「氷は触れる相手を冷たくする」と同じです。

 

願い(本願)となって私たちに示される阿弥陀さまのお助け、
「助けるぞ」「必ず救う」というお助けを聞き、
そんな阿弥陀さまにうちまかせたすがた、
それが「南無阿弥陀仏」と称える浄土真宗のお念仏、
御恩報謝のお念仏です。

 

【西方】

 

「西方に」とは、太陽が沈む方向、
言い換えればいのちが尽きんとする時をあらわす方向です。

 

私の上におさとりという相(すがた)は隠れていますが、
しかし、結果として現れてくる時がきます。
私のいのちの尽きる時です。
煩悩の雲がはれてお浄土という境涯があらわれます。
その事を指し示してくださったのが、
お経で説かれる「西方の阿弥陀さま」のすがたです。
「西方」といっても、決して向こうにあるのではありません。
私の所に「南無阿弥陀仏」という名のいわれの通り、
いつでもどこでも来てくださってあります。

 

【個人の感想】

 

すでに来てくださってある仏様。
私を変えなしてくださったおさとりの阿弥陀さま。

 

ですが、何度も言いますがそのすがたは、
おさとりのすがた故、決して私の上に表れはしません。
「どうなったら阿弥陀さまのお助けなのですか?」
他人に尋ねても仕方ありません。
「これが阿弥陀さまのお助けだ。」
というのは、化粧品のCMにある「個人の感想です」と同じです。
人それぞれ違います。
けれど「他人に尋ねなくても、お腹が一杯になったかどうかは、本人がわかる」ように、
阿弥陀さまのお助けにであった者はわかります。
「私はお腹が満たされているのでしょうか?」
人に尋ねても仕方ありません。

 

【念仏往生】

 

すがたはあらわれていませんが、
そのお助けのはたらきは、
「私が念仏しお浄土に参るすがた」として私の上にお経では示されてあります。
「子どもの行儀をみれば、親の育てぶりがわかる」ように、
「私が浄土へ参る」という私(子)の往生の因果の所に、
阿弥陀さま(親)のお育て、おはたらきを示してくださったのが、
念仏往生というご法義です。

 

(おわり)
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No.273 安方 哲爾師 (令和1(2019)09/27-28)

 

【在家とは】

 

浄土真宗は在家の仏教です。
逆に比叡山や東南アジアの仏教は出家です。

 

出家と在家はどちらが厳しいかというと、実は在家です。
「在家が厳しいから出家する」というのが本当です。

 

在家は家族と一緒に暮らします。
助け合い尊敬しあう時は良いですが、一歩間違うと何が出てくるか。
……親子・夫婦・兄弟が憎しみ合わなければならない程、辛い事はありません。
何故なら、逃げ出す事ができませんし、あまり人に相談できないからです。
自分が責任を問わねばならない。

 

そんな私たち在家の身の上に、
「阿弥陀さまのお救いが届いております」というのが浄土真宗のおみのりなのです。

 

【間に合いすぎる程】

 

「今頑張ったら後でむくわれる」というのが世間の常識です。
それとは違う浄土真宗の道理は、確かに分かりにくいです。

 

けれども、
仏さまがもう届いてくださる。
何は置いても貴方を捨てないと、
今現にもうここに届いてくださると聞きます。

 

ハッと気がついたときに、
仏さまがご一緒してくださったんだと気づかせてもらいます。

 

つまりここが出発点であり、同時にゴールです。

 

ここが臨終の席であって、
生まれて初めてお聞かせにあずかったとしても、
間に合いすぎる程間に合っている。
それが他の宗旨と違う、浄土真宗というおみのりです。

 

(おわり)
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No.272 加藤 一英師 (令和1(2019)08/29-30)

 

【最後の一葉】

 

昔、ある仏教婦人会の会長さんが入院され、
お見舞いに来た方々に、
「窓の外、柿の木の葉が一枚あるのが見えますか。
入院した頃はたくさんあったのに……とうとうあと一枚に。」

 

だまって聞いている友人達に、
会長さんはこう言った。

 

「あの最後の一枚の葉っぱ、揺れているのが見えますか。
だから外に風が吹いているのが分かります。
それと一緒です。
私の口から今、お念仏が出てくださいます。
だから阿弥陀様がここにいるのが分かるのです。
長い間お世話になりました。
一足先にお参りをさせていただきます。」

 

オー・ヘンリー『最後の一葉』の画家のジョンジーのように、
「あの葉が散ったとき、私の命も…」と、さめざめと死んでいく世界と、
「一足先に……」と今を生きる世界。
死を背負うお互いだが、大きな違いがある。

 

  海の近まるしるしには、岸打つ波の音がする。
  山の近まるしるしには、松吹く風の音がする。
  浄土の近まるしるしには、南無阿弥陀仏の声がする。

 

暗闇の中でも波音が聞こえたら、「もうすぐ海だ」とわかる。
「ザー」という松風の音で、自然界の存在がうかがえる。
同様に、仏法聴聞をしてきた者、
お念仏が出る者は、阿弥陀さまの存在、
私の体の中にまで入ってくださる阿弥陀さまの存在がわかる。

 

お念仏は、阿弥陀が私から出たり入ったりしてくださるすがたであり、
「お浄土に生まれさせる」という仏の喚び声である。
これほど確かな「浄土参り」の証拠はない。

 

(おわり)
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No.271 新  晃真師 (令和1(2019)06/17)

 

【帰悦】

 

行信教校には、山本仏骨和上の晩年のエピソードが残っている。

 

寝たきり状態の病院のベッドで、
しかし和上はにっこりほほえみつつ空中に字を書いていた。
お嫁さんが、
「お父さん、今、何て書いておられたのですか?」
「【帰悦(きえつ)】と書いたんだよ。」
「どういうお心ですか?」
「悦んで、親元に帰らせてもらうこっちゃ!」

 

自らのいのちの終わり、死と向き合う中で、
常々聞かせてもらった往生浄土のみ教えを思い出す。
「死ぬのではなく、お浄土へ往(ゆ)いて生まれる」。
それはまるで親のいる故郷(ふるさと)へ帰るような心持ちです。

 

心の視野が広がっていくお念仏のみ教えです。

 

(おわり)
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No.270 福間 義朝師 (令和1(2019)05/17-18)

 

【安心して、どうしなさるの?】

 

高松和上の法話を三日間、聴聞していた方が、
法座終了後、悩みを打ち明けにこられた。

 

「ずっと真剣に法話を聴聞しましたが、どうしてもこころが晴れません。
どうやったら心が晴れるのでしょう?」
すると和上は、
「あんた、心を晴らして、どうしなさるの?」
「ですから、胸をすっきりさせたいのです。」
「あんた、胸をすっきりさせて、どうしなさるの?」
「わかりませんか! 安心して、この境界を終えたいのです!」
「あんた、安心して、どうしんさるの?」
「……もう結構です。帰ります。」
「あんた、そのまま帰って、どうしんさるの?」
「……どうしろというのですか!」
「あのな、(仏さまの喚び声は、)ああしてこい、こうしてこいの喚び声ではなかったわいの。」

 

【そのまま】

 

阿弥陀さまのお誓いは、
「心をすっきりさせて、浄土へ来いよ」とか、
「安心して参れよ」とはおっしゃっていない。

 

「そのまま来いよ。」

 

えてして私たちは安心しなければと思いがちです。
しかしそれらも結局「自力」です。
私のはからい心、迷いの原因です。

 

いろいろな心配、思い悩む気持ちは、
一つ消えてもまた一つ、
次から次へとわき起こってきます。
そんな煩悩を山ほど抱えたままの私をまるごと抱えて、
仏は「そのまま浄土へ参るぞ」とおっしゃいます。
だからこそ安心(大(だい)安(あん)堵(ど)心(しん)、他力の信心)なのです。

 

(おわり)
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No.269 服部 法樹師 (平成31(2019)03/15-16)

 

【讃嘆】

 

「まづ聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもて本とせられ候。
そのゆへはもろもろの雑行をなげすてゝ、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたより往生を治定せしめ給ふなり。
このくらゐを「一念発起入正定之聚」(論註・巻上意)とも釈したまへり。
このうへには行住座臥の称名念仏は、
如来往生を定め給ふ御恩報尽の念仏と心得べきなり。」
  (御文章集成より。『浄土真宗聖典全書』五, p. 236)

 

 

【どこにおっても】

 

本堂でご法義を聞いても、
右から入って左に出てしまう、
すぐ忘れてしまう私の耳、“ざる耳”。

 

そんな“ざる”でも一杯にしておく方法があると蓮如上人はおっしゃる。
「そのざるを水につけて置け。そしたら一杯にできるぞ」と。

 

お説教で聞いた事は忘れても良い。
でもお慈悲の中に住まわせてもらっている事は、
忘れてはいけないということか。

 

……山本仏骨和上(1991年2月6日往生)は、
晩年、体調崩され長いこと入院されていました。
その頃、講師だったK先生は、
しょっちゅうお見舞いに行っていた。

 

「和上、最後のおいとまにやって参りました。」
「そうか、そうか。」
機嫌良く、和上は出迎えてくださっていた。

 

だが病院の食事が原因なのか、
ある日、機嫌の悪い時があった。
「わしゃ、いつになったら退院できるんだ!」

 

誰が見ても退院できる状態ではない。
K先生は困った顔をされ、
「和上、もうしばらくのご辛抱を。」

 

それを聞いた山本和上。
答えにくい事を言わせてしまったなと、
途端にニコッと笑って、
「そうか。まあ、どこおってもお慈悲の中やでな。ナンマンダブ。」

 

病院であろうが、自宅であろうが、
生きておろうが、命を終えようが、
いつでもどこでもお慈悲の中に住まわせてもらっているのが、
お念仏という生活である。

 

私の心はどうにもならない。
機嫌が良い時もあれば悪いときもある。
ついついお慈悲の事も忘れてしまう。
しかしそれでも、お慈悲の中に変わりない。
だから時々、縁にふれ、思い出すことがあった時、「ナマンダブ」と。
私の心は問題にせず、
如来の「たのむからお念仏してお浄土へ生まれてきておくれ」という、
お誓い通り、お念仏申させてもらうのである。

 

(おわり)
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No.268 溪 宏道師 (平成31(2019)01/17-19)

 

磁石のたとえ

 

仏教の目的は何と言っても「私が仏になる事」です。

 

人間が立派な人間になる事なら、倫理道徳で良いのです。
しかし仏教は目的が違います。
人間が仏になるのです。

 

それはどういう事か。
喩えれば「鉄が磁石になるという事」です。

 

私たちは鉄です。哀しいかな才能なきくず鉄です。
だから努力して磨きます。

 

天才親鸞聖人も9歳から20年、
比叡山で心身を磨きました。
生き仏ともいうべき、輝くような鉄になられました。
けれども鉄は鉄のまま、磁石にはなれませんでした。

 

29歳の時、
磁石になれない鉄が磁石になれる世界がたった一つある事を、
法然上人から聞かされます。

 

鉄を磨くのではなかったのです。
磁石の磁気の方が中に入ってくださいます。
くず鉄だろうがきれいな鉄であろうが関係ありません。
磁石の磁気が入った途端に、
くず鉄であろうと磁石に転じかえられていくのです。

 

「お前をしあわせにできない限り、私は仏にならない。」
と誓われるお慈悲の仏さまは、
「かならず救う」と今すでに私に宿りこんでおられました。

 

自力の教えから他力の教えにひっくり返った親鸞聖人。
そして今、
私たちもひっくり返ります。
如来の大きなお慈悲(磁気)に包まれていたことに驚き、
お慈悲がこぼれでるがごとき、
お念仏を申すばかりです。

 

(おわり)
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No.267 深野 純一師 (平成30(2018)11/20-21)

 

本当の他力本願

 

世間では「他力本願」を、
「人の褌で相撲を取る」(他人に便乗して、自分の利益にしてしまう事)と同じように考えがちです。

 

たとえるならヒッチハイクです。
通りがかりの自動車に無料で乗せてもらいます。
「やれ助かった……」、思わぬ幸運です。

 

そのように阿弥陀さまの願いも考えがちです。
たとえば、
「死んだ後の事なんて自分ではどうしようもない事だ。
 なら“どんな者も救いたい”という阿弥陀さまの車に、
 私もそろそろ便乗させてもらおう。
 南無阿弥陀仏(よろしくお願いします)。」

 

けれども親鸞聖人は常日頃、このように仰せでした。

 

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」

 

阿弥陀さまのお慈悲の車は、
製造計画の段階から、
他でもなく“私”を乗せて運転する事を目的(目当て)にしていました。
その事が阿弥陀さまの願いにあらわれている事を、
師の法然上人の導きによって、
親鸞聖人はつきとめ、喜ばれたのでした。

 

「他力本願ではダメだ(自力で頑張らないと)」という使い方とはまるで違う、
他力本願の大切な味わいを、
親鸞聖人は示してくださいました。

 

(おわり)
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No.266 成  照星師 (平成30(2018)09/25-26)

 

浄土をもって生きる

 

「同期のご老人方よ。念仏を称えませんか。……人生の未来に浄土を持って生きます。悠然として生き、死んでいけます。……」(専徳寺報441号一頁下段)

 

お念仏は誰でも称えられますが、
お陰様でこの度、弥陀をたのむお念仏、
阿弥陀さまの「我にまかせよ」の仰せをうけたまわった身に、お互いなりました。

 

もう死んでいくのに悲しく寂しい境涯ではありません。
ただ死ぬのを待つのではなく、
阿弥陀さまのおたすけぶり、
やがて私という世界がかわりゆく “お浄土”というものを考える楽しみをもって生きます。

 

それが浄土真宗という暮らしぶりです。

 

(おわり)
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No.265 松林行圓師 (平成30(2018)08/29-30)

 

【ご讃題(さんだい)】 ※法話のテーマ

 

亡くなられた方々のご恩に対し、あらためて思いを寄せるのがお盆です。

 

親鸞聖人は仰せになりました。

 

願土(がんど)にいたればすみやかに
無上涅槃(むじょうねはん)を証(しょう)してぞ
すなはち大悲(だいひ)をおこすなり
これを回向(えこう)となづけたり

 

浄土へと往生した人は、
阿弥陀如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、
大いなるお慈悲の心をおこすのです。
迷いのこの世に還り来て、
私たちを常に真実の道へ導こうとはたらいているのです。

 

仏の国に往き生まれていった懐かしい方々。
仏さまのはたらきとなって、いつも私とともにあり、
私をみまもっていてくださる……そのようにいただくのです。

 

     (『拝読 浄土真宗のみ教え』より)

 

【死にさえすれば】

 

「死にさえすれば天国にいける」と思う人が、
今の日本人には増えてきたように思います。

 

しかしどの経典やバイブルにも、
死にさえすれば天国にいけるとは書いてありません。

 

死にさえすれば地獄へいけます。何の努力もいりません。

 

生まれてこのかた、どれほど多くの命を食らってきたか。
どれほど多くの命を獲ってきたか。
そのことを考えてみたら、
人はごまかせても、自分の心をごまかすことはできません。

 

地獄へ落ちていく……そんな私をみつけた阿弥陀さまが、
「オレが助けてみせる」と誓われます。

 

お浄土へ迎え取って仏にする以外、
あの者を幸せにすることはできないと見切ってくださり、
すがた形をかえて、南無阿弥陀仏という声(みこえ)となられます。
遠くから見ておられるのでなく、
「親がここにおるぞ」と、この私に届いてくださいます。

 

すでにあなたをお浄土へ迎える算段をぜんぶ整えて、
仏さまが名告りをあげてくださっておられます。
その事に、
お念仏を通してに気づかせていただくお互いでありたいものです。

 

(おわり)
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No.264 渡辺 崇之師 (平成30(2018)06/18)

 

【讃題】
「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。
(本典行巻・元照律師『弥陀経義』引文)

 

(わが弥陀は名をもって接す)

 

阿弥陀さまという仏さまは、
南無阿弥陀仏の名前となって私にぴったりと接しておられます。

 

生老病死のわが人生。
しかしその苦しみにおいて、
自分の間違えには気づかず、
逆に腹を立て、
最後は「なんでこんな目に」と愚痴の涙をこぼす私です。

 

その私を放っておけない阿弥陀さまでしたから、
「ナモアミダブツ」の名号となって、
この私のいのちに宿りこまれ、
涙の中に住み込んでくださいます。

 

私どもの耳に聞こえの良い、称えられる仏さま。

 

親鸞聖人は、
「仏さまなんてなれはしない私を、
何としても仏さまにするぞと誓い、
ぴったり離れずおられるのが我々の仏さまだ」とお話をくださいます。

 

(おわり)
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No.263 中島 昭念師 (平成30(2018)05/24-25)

 

【讃題】
「現にこれ生死の凡夫、
罪障深重にして六道に輪廻せり。
苦しみいふべからず。
いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。
一心に称念して往生を求願せよ。」
(本典行巻・礼讃引文)

 

(念仏成仏これ真宗)

 

「どうやって参られました?(車ですか?歩いて?)」
「ご案内があったから参りました。」

 

……ではご案内がなかったら参らないのですか?
お寺へ参る目的がわかりにくい時代になりました。

 

親鸞聖人は、

「念仏成仏これ真宗」

と明言されます。
お寺へ参る目的、それは結局、「この私が仏になる」事です。
その為にお寺で、

「学仏大悲心(仏の大慈悲心を学ぶ)」(善導大師・帰三宝偈の言葉)

とあるように、
仏のこの上ない慈悲の心を学ぶ事が大切です。

 

(人間苦)

 

隣県のA町へのお説教へ。
ナビでA町の役場を目的地にして出発し、
町に着いたら、
役場はあってもお寺が見つからない。
その時、初めて市町村合併に気づく。
お寺は一山向こうと知り、すぐに車を走らせるが、
焦っているため、いけどもいけども山の中。

 

「すいません、ちょっと道を間違えたようで。
 お斎にはつけませんが、法座開始までには参ります。」
「先生、待ってるから早くきてください。
 それで今、どちらですか?」
「いや、それが分からないから苦労してて……」

 

その事から教えられた。
一つは、私が行く目的を間違えたらダメとい事。
そして、私が今どこに立っておるかという事が、
分からない人には道は教えられない。

 

私の人生はどこに向いているか。
私は今どこに立っているか。
この二つが分からない事、それを「人間苦」といいます。
文明の進歩で解決できる生活苦とは違います。
お寺はこの人間苦の解決を聞く場所です。

 

(五畏)

 

お寺とは仏さまの教えを聞いて“驚く”所です。

 

「三界はみな苦」ですよ。「一切は苦ですよ」。
今の私の状況を知らされます。

 

「独り生き、独り死んでいきます。」
80歳すぎてつくづく身にしみる仏の言葉です。
尾崎放哉の名句、「咳をしてもひとり」、
100年前の言葉とは思えません。

 

故に『華厳経』には人間の五つの畏れが説かれます。

 

  1. 活命畏:震災や食料難等、命の危険に対する畏れ。
  2. 悪名畏:自分の悪評が出ていないかという畏れ。
  3. 怯衆畏[こしゅうい]: 世間体を気にし、世間の目に対する畏れ。
  4. 命終畏:病気やケガ等、自分の命がこれで終わるのではないかという畏れ。
  5. 悪趣畏:死んでから恐ろしい所に行きはしないかという先の畏れ。

 

どれか一つ……いや全て当っている私です。

 

(お礼)

 

そんな私をお育てくださる智慧の光に出遇います。
人間の知識・知恵ではなく、仏さまの智慧。
人間苦という闇をうちやぶる智慧の光明です。

 

大海にうかぶ一艘の小舟のように、
行き先の見えていない自分、
今どこにいるのかわかっていない自分と知らされ、
ではどうやって人生を進んでいくかを聞いていきます。
迷いの人生、煩悩まみれの凡夫のまま終わらない道、
それがお念仏の道です。

 

……最近、浄土真宗で言わなくなった言葉が2つあります。

 

「お礼をせえよ。」
そして、
「お育てをいただけよ。」

 

古くさいのでしょうか?
しかし真宗の場合、仏事はどこまでも「お礼」です。
今、落ち行く私を落とさないと喚ぶ、阿弥陀さまの声を聞いたが故の言葉です。

 

(お育て)

 

そして仏事はお育てです。
お育ていただくとは食べること。
食べなければ育ちません

 

まず世間では次の四つを食します。

 

  1. 段食(だんじき):肉体を養い保つために米やパンを食べること。朝・昼・晩と分断的に摂取します。
  2. 触食(そくじき):良いものに触れる。
  3. 識食(しきじき):知識が増える。
  4. そして、

  5. 思食(しじき):親亀が産卵後、いつも卵の事を思う事において卵は腐らず、逆に忘れたら卵は腐るそうです。
  6. 私たちは他人の思い、そして親の思い、親の願いを食べて育つのです。
     ※以上の四食は他の解釈もあるようですが……。

 

今の四つは大切な食事です。
しかし、これは世間の食事。
仏になるには仏になるようにお育てをいただかなければなりません。
世間の倫理道徳ではなく、
世間をこえたお念仏の法(おみのり)の喜びをいただく。
「法喜食(ほうきじき)」です。
これをいただいた故に、
お参りを真宗では「ごちそうさまでした」と、「お礼をする」と言うのです。

 

(宗祖降誕会)

 

聖人は九十年の大変な生涯の中で、
お念仏を申し、お念仏をいただき、
智慧の人生に育てられるというものは、
こういう素晴らしい道がありますよという事を、
身をかけて残してくださいました。
だから「親鸞さまようこそご誕生くださいました」とお祝いさせていただく、
それが宗祖降誕会の由縁です。

 

(仏法を)学ぶ事が少ない人は牛のように老いる。
肉は増しても智慧は増さない。
(『ダンマパダ』第152句)

 

今、あなたは牛ですか?
いえ、勿体なくも人間に生まれさせていただきました。
そして迷いの境涯を超える道を聞き学び、
如来様の妙なるおみのりを味わいさせていただきました。

 

(おわり)

 

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No.262 菅原 昭生師(平成30(2018)03/13-14)

六字丸

 

如来様のお見立てによれば、私はかなりの重病人のようです。
カルテには「無自覚性自己中心症候群」、
「先天性不治癒型悪性傲慢炎」等々。
現代の科学技術ではまるで治る見込みがありません。

 

そんな私に処方箋が出されました。
薬の名は「六字丸」。
「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
わずか六字ですが、相当な手間と時間…
如来の限りないいのち(無量寿)をかけた修行(くろう)の末に完成した丸薬です。

 

「我にまかせよ」。
如来様の“お喚び声”の六字丸。
凡夫の浅知恵を捨て、口からこぼれる程に頂(いただ)きます。

 

如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる    
才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ

 

(おわり)

 

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No.261 若林 真人師(平成30(2018)01/18-20)

必ず生まれる

 

人の世は未来不確定です。
故に人は大概、
「死んだ先なぞわかってたまるか」と、
今を楽しく、しかし不安のまま人生を過ごします。

 

しかし親鸞聖人は「人は必ずお浄土へ生まれる」といただかれました。
何故そう明言されたのか?

 

人は必ず……死にます。
何故そう言えるのか?

 

「当たり前のことだよ!
そんなの生まれた時から、既に決まってるよ。」

 

その言葉が聞きたかった。

 

そうです。
未来が必ずそうなる為には、
今既にその事に決定している事実があります。

 

「必ず生まれる」には、
今、既に阿弥陀様の浄土参りが決定した、
わが身の不安なき事実があるのです。
それがお念仏です。
法然様は「ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定往生のおもひをなすべし。」
とおっしゃっいました。

 

「阿弥陀さまはどこに?」
「いらんこっちゃ。
お前はお念仏をしよる。
今この身に入り満ちて、
今この口に南無阿弥陀仏とはたらいてくださる。
それがお念仏ではないか。」

 

浄土真宗は、ただ阿弥陀様の願いを聴聞し、
その願い通り、お念仏申す身となったわが身の事実をいただくばかり……ご恩報謝(お礼)の宗教です。

 

(おわり)

 

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No.260 白石 智昭師(平成29(2017)11/24-25)

 

声となり名となり光となり

 

阿弥陀如来は私を救う為(ため)、
わざわざ菩薩の位に降り、
“法蔵”と名乗られ、
私の“ありのまんま”をご覧になられました(覩見(とけん))。
すなわち、
罪を重ねてしか生きられない[煩悩凡夫]の姿をご覧になりました。

 

そんな私と承知した上で、
「あなたをあなたのまんま救います」と誓われます(本願)。
凡夫を凡夫のまま…仏や浄土に背を向け通しの私を、
そのまま救うというのです。

 

想像つかぬほどの長い時間お考えになり(思惟)、
ご恩・ご苦労を重ねての「南無阿弥陀仏」(名号)の成就でした。
声となり名となり光となり、今、私に届いています。

 

すでに抱かれている安心の世界です。
「助けてください」ではなく「もう助かっておりました」とお聴聞します。

 

(おわり)

 

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No.259 成 照星師(平成29(2017)9/29-30)

 

南無阿弥陀仏の私

 

「南無阿弥陀仏」は、おはたらきの相(すがた)です。
どんな所にも行き渡り、相手を自らの性質と同じく、
「他者とさまたげのないありさまにする」という功徳のはたらきです。

 

ここにもナンマンダブツという阿弥陀さまの功徳が満ちています。
阿弥陀さまの中に暮らす私です。

 

迷いの境涯(穢(え)土(ど))からは一歩も出られない私です。
しかし阿弥陀さまの境涯から離れているわけでもありません。
阿弥陀さまの境涯は私の所にずっと行き渡っています。

 

迷いの境涯が終わる時、
私が暮らしている阿弥陀さまの境涯(浄(じよう)土(ど))があらわれます。
それを「往生」といいます。

 

ではお浄土の私とは何か?
南無阿弥陀仏です。
もみだねがイネになるように、
至極必然の道理です。

 

(おわり)

 

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No.258 北嶋文雄師(平成29(2017)8/30-31)

 

【讃題】
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就(じょうじゅ)せり

 

仏力100%

 

お念仏は易行、やさしい行です。
それは私の力が0%、阿弥陀さまの力が100%を意味します。

 

 「でも称えるのも、称えようと思ったのも私の力では…」
思ったのは私ですが、思わせたのは仏さまの方です。

 

「ああ辛」と 言うは後なり 唐辛子 (利井鮮妙(かがいせんみよう))

 

唐辛子を食べて「辛い」と言ったのは、「辛い」と思ったからです。
でも思わせたのは唐辛子の方です。
「辛そうだな」とは思えても、食べる前から「辛い」と思うのは無理です。

 

お念仏は、
称えようと思ったから称えたのですが、それを思わせたのはやっぱり阿弥陀さまの方です。
私たちはひと声の「南無阿弥陀仏」を通して、
私の力を超えた大きなお慈悲のおはたらきに包まれていると味わうのです。

 

(おわり)

 

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No.257 木下明水師 (平成29(2017/6/19))

 

【讃題】
南無の言は帰命なり。
帰の言は、[至なり、]また帰説なり、
説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、
説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]
命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

 

名告りの宗教

 

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」の「南無(帰命)」を事細かに釈されました。
南無阿弥陀仏のお心は、私一人(いちにん)に響いて「我にまかせよ。必ず救う」と喚んでくださる声。
仏の名そのままが阿弥陀さまであるというのです。

 

「あなたに至(いた)りとどくよ。
我に至(いた)れよ。
われを憑(たの)めよ。
あなたに喜びを与えるよ。わが浄土にやどるのだよ。

 

あなたを招き引くよ。
あなたの口を使って『南無阿弥陀仏』と出てくるよ。
心を使って信をめぐむよ。
あなたにナマンダブツのありがたさを教えるよ。
この道をおいで。
この道は信(まこと)の道だよ。
あなたは何も計らわなくて良いよ。
あなたをナマンダブツと喚び続けるよ。」

 

名告りの宗教、それが浄土真宗です。

 

(おわり)

 

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No.256 紫藤常昭師(平成29(2017)5/26)

 

【讃題】
そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく、「これより西方に、十万億の
仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と
号す。いま現にましまして法を説きたまふ。

 

お念仏の中で

 

「亡き方と、私はどこであえるのでしょうか?」

 

答えは浄土真宗には二つあります。

 

一つはお浄土で会えます。

 

そしてもう一つは、今、お念仏の中に遇(あ)っていくのです。

 

「往(ゆ)きし人 みなこの我に かえりきて
    南無阿弥陀仏と 称えさせます」(作者不明)

 

元来、私たちは生活に役立たないものに興味はありません。
だからお念仏なんかしたくありません。
ましてや不可思議の仏さまの話なんて聞きたくないものです。

 

しかし先に往かれたお方々が、
私をしてお念仏申させ、お聴聞させます。
そうさせる方々が仏さまなのです。
お念仏の中に、亡き方々の仏となってくださったご恩をいただきます。

 

(おわり)

 

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No.255 天岸浄圓師(平成29(2017)3/15-16)

 

【讃題】
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし

 

お浄土はあるのですか?

明治の頃から言われはじめた、
「浄土はあるのか?」という質問に、
仏教では答えない事になっています。

 

質問がずれているから答えようがないのです。
たとえて言えば、本堂のど真ん中に座っているのに、
「本堂はあるのか?ないのか?」と尋ねるようなものです。

 

「あるのか?ないのか?」ではなく、
「開けてくるのか?開かれてこないのか?」と、
自ら問い直します。

 

お浄土は煩悩のけがれを離れた世界、
仏さまの眼に映る風景です。
仏さまはどこをご覧になっても浄土です。

 

現実の私には決して見えない、
心に開けてこない浄土。
しかし、お念仏のご縁に出遇い、
お慈悲のぬくもりに触れた者は、
「お浄土の仏とならせていただく人生が開かれました」と喜ばせて頂きます。

 

(おわり)

 

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No.254 安方哲爾師(平成29(2017)1/26-28)

 

【讃題】
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

 

【転じられていく人生】

 

私たちはお寺で阿弥陀さまの話を聞きます。
「南無阿弥陀仏の仏さまは、
今、南無阿弥陀仏の名となりまして、
この身に届いてくださり、
この口から『ナマンダブ』とこぼれ出てくださる、
『あなたをお浄土へ迎え取るよ』と言ってくださった仏さまです…。」

 

お寺でお聴聞する人は、
仏さまのお智慧を通して物事を見る癖がついてきます。

 

すると物の見方・人生の意味が変わってきます。
「空しい人生」から「尊い人生」へと方向が転じられていくのです。

 

育児や仕事。
かつて色鮮(いろあざ)やかだった人生の目標も、
時と共に色あせてきます。
家族を失い、
「こんな辛い人生とは思わなかった。
こんなにも孤独だったとは」
と思う時、
私たちは「空しい人生」と言うのです。

 

しかしお聴聞を通して、
「私の人生…口にできない辛い事、悲しい事、いっぱいありました。
でもそれらのお陰で、
この度の人生、大悲の仏さまにお出遇(であ)いすることができました」
といただく時、
「尊い人生」と言えるのです。
そこに浄土真宗のお法(みのり)があります。

 

(おわり)

 

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No.253 服部 法樹師(平成28(2016)11/24-25)

真実の意味

親鸞聖人は、
自らがいただいたみ教えを「浄土真宗」と言われました。
「真宗」とは〈真実の教え〉という意味です。
そしてこの場合、真実の「実」の字は“充実”という意味です。
真実(如来の大悲)にきちっと出遇(であ)った者は、
人生が充実していく、というのが真実の特徴だからです。

 

真実に出遇ったからといって、
世の中がバラ色になるわけではありません。
どんな人生にも必ず苦しみ、悲しみ、障害……いろいろあります。

 

しかし、
直後は苦しみの中で涙する事はあっても、
後から「あの出来事も無駄ではありませんでした」と言わせてくれるもの、それが真実です。

 

どれ一つとして、
空しく、忘れ去るべき思い出ではなく、
如来の大悲とのご縁でした。

 

(おわり)

 

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No.252 成 照星師(平成28(2016)9/30-10/1)

 

阿弥陀さまの話

 

浄土真宗のご法義は、
阿弥陀さまの話、阿弥陀さまのお助けぶりをいうのであり、
私の話、私の暮らしぶりを指しません。
これが基本であり極意です。
嫌という程気をつけます。

 

暮らしの話は楽しいです。
知識や容貌、家族や財産の話。
しかし最後はどれ一つあてになりません。

 

また「老いを楽しもう!」「病気は仕方がないよ」
「死は受け入れるしかない」「ピンピンコロリが良い」。
すべて私の話です。
悪いとは言いませんが、
その話に悲願の阿弥陀さまはおられません。

 

お念仏します。
「我をたのめ。我にまかせよ」。
名の声の仏である阿弥陀さまの話を聞きます。
話はお念仏ただ一つなのです。
分かり易いとか難しいとか、心が軽くなったとか、
私の話(感想)に用事はないのです。

 

(おわり)

 

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No.251 加藤 一英師(平成28(2016)8/26-27)

 

今も楽しいよ

ある方の臨終の時の事。

 

奥さんが、
「あなた…好きな勉強をさせてもらって、良い人生、楽しい人生でしたね」
と言うと、
「うん…そうだな。楽しかったな。けれど、今も楽しいよ」。
消えて行くいのちの中でハッキリとこたえられた。

 

奥さんもハッとして、
「あなた……そうですよね。一番会いたかった人に会えるんですからね。」

 

親鸞聖人、
阿弥陀さま、
あの多くの有縁の方々にとうとう会える。
だから今も楽しい。
浄土真宗のいのちのとらえ方の極致である。

 

お念仏申す時、
死は単なる通過点でした。
再会する世界が明確にあります。
「また会えたらいいね」ではなく、
もっとすごい世界を身近に持った私たち。
共々に伝え合い、語り合っていくお盆。

 

(おわり)

 

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No.250 森田 義見師(平成28(2016)6/27)

 

浄土への人生

 

往生 往生 言うけれど

 

死ぬるんでない 生きるんです

 

やがて此の世に還(かえ)り来て

 

あなたと 共に生きるんです

 

ナムアミダブツの 身となって

 

あなたに 語りかけるのです

 

(参照:木村無相「還相」より)

 

人は去っても、
称えるお念仏の中に還って来て下さいます。
お浄土への人生を歩ませんと導いて下さっています。
そのはたらきの根源がお浄土です。 

 

お浄土を真実(まこと)なるはたらきといただき、
そのはたらきを私の生きる人生の宗(むね)、
中心とさせていただく。
それが浄土真宗という宗教です。

 

(おわり)

 

 

追記:参考までに木村無相さんの「還相」という詩を紹介します。

 

 

還相(一) ―末讃を戴きつつ―

 

“ナムアミダブツの廻向の
恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には
還相回向に廻入せり”

 

わたしがあらわす
還相は
未来のほかは
ありません
ただただ未来と
言ったとて
わたしが死んだ
その時で
とおい未来ぢゃ
ありませぬ

 

わたしの未来は
ナムアミダブツ
ただ念仏の
身となって
此の世であなたに
遇うのです
ナムアミダブツは
にょらいさま
ナミアミダブツは
未来のわたし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(二)―末讃を戴きつつ―

 

“像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり”

 

往生 往生
言うけれど
死ぬるんでない
生きるんですよ
生まれかわって
生きるんですよ
やはり此の世に
還り来て
やはりあなたと
語るのです

 

ただただ未来は
此の身ぢゃなく
ナムアミダブツの
身となって
ただ念仏の
身となって
あなたに語り
かけるのです
ナムアミダブツが
未来のわたし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(三) ―末讃を戴きつつ―

 

“弥陀の尊號となえつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり”

 

尊號 尊號
ナムアミダブツ
念仏往生
信ずるひと
信楽まことに
えたるひと
尊號信ずる
身とならば
やがてはみ名の
身とならん

 

やがてはみ名の
身と知らば
ナニカニつけて
ナムアミダブツ
憶念の心
つねにして
仏恩嘆ずる
ことならん
仏恩嘆ずる
ことならん

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(四) ―末讃を戴きつつ―

 

“如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし”

 

ナムアミダブツの
一つにて
往還二益を
たまいたる
にょらい大悲の
恩徳と
それを称える
師主の恩
粉骨砕身
報ずべし

 

されど粉骨
砕身の
かなわぬ凡愚の
身にあれば
ただただ弥陀の
名願を
たのみて未来
還相の
身となり恩徳
報ずべし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

(木村無相『念仏詩抄』)
  ※井上敬信さん、資料ありがとうございました。

 

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No.249 福間 義朝師(平成28(2016)5/20-21)

 

私からの自由

 

「この子が大きくなったら、自由になれる。」
「退職したら、[私は]自由に…。」

 

だが年を取っても私は自由にならない。
むしろ用事は増え、次から次へと束縛される。

 

「私が自由になりたい」が間違っていた。

 

「私」そのものが、「我(が)」という煩悩で、苦悩の種でした。
私に煩悩がくっついているのではなく、煩悩の塊にラベルをはったのが私。
自分で自分は持ち上げられない。
「私が[煩い悩みから]自由になる」事は永遠に無理です。

 

「私から自由にさせていただく」のが他力の世界。

 

人生という航海。
煩悩の私は船の荷物。
舵取りは届いてくださった南無阿弥陀仏。
この身の政権交代です。
舵から手を離し、合掌(念仏)礼拝いたします。

 

(おわり)

 

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No.248 中島 昭念師(平成28(2016)3/25-26)

 

法楽

 

人生の楽しみに、
「外楽(げらく)、内楽(ないらく)、法楽楽(ほうがくらく)」の三種があると親鸞聖人はお説きになります。

 

「外楽」とは外から得た楽しみです。
食事や旅行、趣味や道楽といった、欲望が満たされる事です。

 

「内楽」とは要するに心の持ちよう、プラス思考の事です。
困った事も、考え次第で元気になります。

 

「法楽楽」とは、
聞法により、仏の智慧を恵まれて生じた楽です。
「尊いご縁でした」と、あらゆる物事に対して頭が下がる身になった、静かな喜びです。

 

皆が等しく与えられた「いのち」。
それを今、どのようにして生きるのか。
如来の智慧をいただいた上でものが味わえる世界があります。
そういう身にお育ていただくほど尊い、素晴らしい事はないと、聖人は教えてくださいます。

 

(おわり)

 

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No.247 溪  宏道師(平成28(2016)1/20-22)

 

はかり

 

お念仏は口で称えるので別名「称名」といいます。
しかし親鸞聖人は「称」をわざわざ「はかり」の意味だと説かれました。

 

称(はかり)とは、たとえば体重計です。
体重計は乗ったものの体重をそのままあらわします。

 

同様に、称名(=念仏)とは「名号」という、
如来の名前であると同時に、
この上ないお徳を、そのまま聞き頂戴することです。

 

決して口に出すという人間の行為に手柄があるのではありません。
称名という行為は、
自分の受け持ちではなく、如来の受け持ちなのです。
ですから「他力の称名」と呼びます。

 

念仏は私が口で称えていますが、
称えているまんまが如来さまの大きなおたはらきの世界なのです。

 

(おわり)

 

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No.246 深野 純一師(平成27(2015)11/19-20)

 

慣れておく

 

私たちの先祖は、お聴聞の稽古を残されました。

 

私たち同様、毎日慌ただしい中でも、先祖はたびたびお聴聞を繰り返しました。
そして自分自身の「いのちの所在」というものを、お釈迦さまのお説教の中に確認いたしました。

 

いつか終わるいのち…しかし消滅するのではなく、
万端の用意があるというお説教に、私たちも慣れておこうではありませんか。

 

あなたをあなた以上に大切にされたお方です。
今、あなたの口元におられます。
「残りの人生を一緒に生きてくださいますから、聞いておきなさい」と説かれるお釈迦さまのお説法を、
先祖たちは長い歴史を生きて私たちに届けてくれました。

 

(おわり)

 

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No.245 成   照星師(平成27(2015)09/29-30)

 

人情ではなく

 

私たちは亡き方の事を思った時、お念仏します。
それは世間の「(故人は)お星さまになった」と同じ人情の話ではありません。
根拠なき、人情だけのお念仏をしているのではないのです。

 

「お爺ちゃんがどこにいるのか知りたかったら、ナンマンダブと言ってごらん。
お爺ちゃんは南無阿弥陀仏という仏さまになったんだよ。」

 

今、私の所に“南無阿弥陀仏”というおはたらき(功徳)の有り様があり、
それはそのまま、やがてお浄土へ参ったら開くべきはたらきです。
ならば、故人もこの南無阿弥陀仏に違いないのです。

 

こいしくば 南無阿弥陀仏を とのうべし
われも六字の うちにこそ住め (蓮如)

 

(おわり)

 

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No.244 松林 行圓師 平成27(2015)08/27-28

 

内なる声

 

お盆(盂蘭盆(うらぼん))には「逆さま」という意味があります。

 

生まれる前からお仏壇はありましたので、
仏はあそこ(仏壇の中)にいると思って来ました。
しかしお聴聞してみると仏さまはここ(私の心)でした。
逆さまな見方だった自分に気づかされます。

 

夕方、お仏壇の前でお礼をしながら思います。
「反省ばかりの一日でした。あなたの事も忘れ通しの私でした」。
しかしそんな私の心に聞こえてくる、
内なる仏さまの声があります。
「あなたが忘れても、あなた一人を忘れない仏がここにいるよ」。 

 

お聴聞し、
内なる声が聞こえてくる人、
仏さまとの会話が身につく人になります。
私と一緒に息をしておられるのが本当の仏さまです。

 

(おわり)

 

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No.243 御園生 宣尚師 平成27(2015)06/17

 

喚び声

 

浄土真宗では南无阿弥陀仏を、
「弥陀の喚(よ)び声」と解釈します。

 

「呼」でなく「喚」と書きます。
「招喚(まねきよばう)」の声だからです。
「阿弥陀さまは私をいつでも、『そのまま参れよ』と招いてくださっている。」
「私はお浄土で親様に待たれている」
という喜びから自然にわき出た解釈です。

 

目の前の事に心奪われ、
用事が何だったか忘れてしまう私がいます。
日常に追われ、
人生の目的を忘れてしまいがちな私。
そんな私を阿弥陀さまの方が片時もお忘れでないという世界があります。
私が私の事を忘れていても、
阿弥陀さまは一時もお忘れでなく、
常に喚び続けてくださっているというのが、
他力の世界です

 

(おわり)

 

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No.242 若林 真人師 平成27(2015)05/15-16

 

今の天気

 

「あなたを一人にはしない」「必ず救う」…私を喚び通しの阿弥陀さま。
一時も私をお忘れでない他力の話です。それは“今”の話です。

 

たとえば「明日はきっと晴れると(私は)信じます」とは言いますが、
「今、晴れていると信じます…」、
そんな言い方はありません。
何故なら晴れた中では「…と信じる」ではなく
「あ、ぬくいわ♪」です。
思うのは私ですが、
それは天気の用(はたら)き(他力)です。

 

親鸞聖人がいわれた他力の信心も同様です。
「きっと救われる」、「死んだら浄土へ生まれられる(と信じる)」ではないのです。
お浄土参りは未来の話ですが、
明日の天気みたいな話ではありません。
今の天気です。
今、念仏申す私の不安なき心こそ、
如来の用(はたら)きであり、それを「如来よりたまわりたる信心」(『歎異鈔』)といわれたのです。

 

(おわり)

 

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No.241 和田 俊昭師 平成27(2015)3/13-14

 

因縁がととのう

お浄土へ生まれ仏となるには、
生まれたいという[願い]と、
生まれるための[修行]が必要です。
しかし修行どころか、
願う事さえ忘れて生活する私です。
煩悩まみれの私は娑婆がどこまでも好きなのです。

 

しかしそんな私だからこそ見捨てることができないと、
阿弥陀さまの方が[願い]をたてられました。
果てしない[修行]の末に、
今、私を照らし、煩悩の闇を破って、私に至り届きます。

 

お念仏は、
「[願い]と[行]を具えた仏がここにいるよ」という仏さまの喚び声です。
お浄土参りの因縁である[願]と[行]は今まさにととのっているのです。

 

お浄土を願いもしない私のまま、間違いなく、生まれさせていただくお念仏の教えです。

 

(おわり)

 

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No.240 安方 哲爾師 平成27(2015)1/22-24

 

私一人のため

 

阿弥陀さまは遠いお浄土におられるのでもなければ、
お仏壇に鎮座ましますのでもありません。
仏さまはおっしゃいます。
「あなたの〔いのち〕の上に『ナマンダブ』とあらわれでる仏となるよ」と。
ここしか仏さまの働き場所、現場はないのです。

 

お聴聞するのに邪魔な、一つの先入観があります。

お経といっても、お念仏といっても……、
あれはみんな死んだ人のためにあるのだ。

これが少しでもあると、お聴聞は耳に残りません。

 

他の人、昔の人の話ではありません。
「阿弥陀さまがご苦労くださったのは、ひとへに今、私一人のためでありました」と聞く時、
初めてお経が、お経本来の意味をもってくるのです。

 

(おわり)

 

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No.239 服部 法樹師  平成26(2014)11/13-14

 

思い直す

 

「人間に生まれる事を誕生というのだ。
お浄土に生まれる事を往生というのだ。
誕生したら人間として生きていく。
同様に、往生したら仏さまとして生きていくのだ。
お浄土の話を死んでから先の話と誤解してはいけない。
お浄土に生まれ、仏さまとなって、一切の人を救っていく。
お浄土に生まれ、生きていくのだよ!」(梯和上)

 

お念仏をしながら、もし「死んでおしまいになる」と思ったら、思い直してください。
「そう…私の頭は、死んでおしまいになるとしか思えないけれど、
仏さまはお浄土っておっしゃっていたな。
お浄土に生まれて今度は仏さまとして生かさせてもらうのだ」。
そのようにキチッと思い直し、生きていく念仏生活です。

 

(おわり)

 

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No.238 成 照星師  平成26(2014)09/26-27

 

お礼

 

朝の(お仏壇での)おつとめを《お礼》という。
《お礼》とは済んでしまった事に対して使う言葉。
これからすることに対してではない。

 

我々のご法義は、これから一生懸命、努力聴聞して、
お浄土参りを間違いないものにするのではない。

 

「氷のつめたさは氷が教える」という。
氷がしゃべるわけではない。
氷を持った時、「冷たい!」と知る手の冷たさは、
氷のはたらきによるものということ。

 

同様に、私の浄土参りへの心が定まり、
「お浄土へ参れるだろうか、やはり駄目か」という関心が消えたのは、
お浄土を完成された阿弥陀さま自身のおおせを聞いたからです。
それは全く阿弥陀さまのおはたらきす。

 

用事は既にすんでいました。
だからお礼せずには…。

 

(おわり)

 

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No.237 篠原 信昭師  平成26(2014)08/28-29

 

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠
なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。」
(教行信証 行巻 正信偈冒頭)

 

[賑やかな道中] 

 

一人いてしも喜びなば二人と思え。
二人にして喜ぶおりは三人(みたり)なるぞ。
その一人こそ親鸞なれ。   (報恩講の歌 2番)

 

大切な人を亡くし、
孤独のいのちを嘆く私と深く洞察された阿弥陀さまでした。
だからこそ、
共に歩む「南無阿弥陀仏」の声の仏となられました。

 

お念仏申す時、
一人たたずむ我が身ながら、
如来さまと二人三脚であった事をしみじみ味わいます。

 

いえ二人ではありません。
親鸞聖人もおられます。
また先に浄土へ生まれられた故人も、
如来さま同様、いつも一緒でした。
賑やかな道中です。

 

別れの出来事でしたが、
それを歓喜(かんぎ)の法縁(法に出遇うご縁)にかえなす、
お念仏の教えです。

 

(おわり)

 

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No.236 加藤信行師  平成26(2014)06/25

 

【讃題】
「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳、識心に攬入す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、
少善根にあらず、これ多功徳なり」と。
(元照律師『弥陀経義疏』(『教行信証』行巻引文), 『浄土真宗聖典』p. 180))

 

[行く先を告げる]

 

  声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり
  仏は声のお六字と  姿をかえて我に来る

 

阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」の声の仏・音の仏となって、私に届いてくださる。
迷い苦しみ、哀しみ惑い続ける私を、「必ずお浄土に生まれさせる」と誓い、その通りに仕上げてくださる。

 

「二三日の旅行でも家族に行く先を告げて出かけるではないか。
一生の別れに望んで、いのちの行く先もつげずに行っていいのだろうか……。」
(某師の暑中見舞いより)

 

「お浄土がある」「お浄土へ行く」「(故人は)お浄土へ行かれた」「お浄土で会う」…。
行き先が告げられる人生はすがすがしい。
残る人も安心です。

 

(おわり)

 

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No.235 紫藤 常昭師  平成26(2014)05/08-09

 

【讃題】
「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。
いかんとなれば、
前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、
連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。
無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。

 

  わたくしが こんなに優しくないなんて
  介護の日々に 思い知らさる

 

如来さまの見たこの私は、縁によって何をしでかすか分からない凡夫でした。
そんな私に、「強くなれ、賢くなれ」とは言わず、誓われたのがご本願です。

 

 母「わたしゃあ、仏にはなりきらん。」
 娘「ああ、なりきるもんか。誰もなりきりゃせん。私だって仏になりきらん。
   だから阿弥陀さまが『仏にする』って言うてくださったんじゃないと?」

 

我々のご宗旨は「(私が)仏になる」ご宗旨ではありません。
「(阿弥陀さまが私を)仏にする」ご宗旨です。
全て仏さま側の話。
今その事を、お念仏の中に聞かせて頂きます。
「もうちゃんと出来ておるから、安心せよ」と。
知っているのが大切です。

 

(おわり)

 

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No.234 天岸浄圓師  平成26(2014)03/12-13

 

【讃題】
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

 

【如来の大悲】

 

大慈・大悲の方、それを仏さまといいます。
「慈」とは慈愛。見返りを求めず愛をそそぐ事。
「悲」とは悲しむ事。人の悲・苦・不幸を見過ごせず、その苦しみを代わっていきたいと思い、行動する事です。
「大」は分け隔てがないという事です。仏さまはどのような者も見捨てておけないのです。

 

大慈悲の仏さまを尊い方と仰ぐの者を仏教徒と呼びます。
そして、それは単に仰ぐだけでなく、自らの反省となってあらわれます。
慈悲の心も行いも極めて限られている自分。
どちらかといえば自分の幸せばかりにこだわり、
他人の不幸を見て見ぬふりし、時には他人の悲しみをみて「自分でなくてよかった」と思う自分への反省です。
その反省からわが身を「凡夫」と呼びます。
「凡夫であります。」という言葉こそ、そのまま仏さまを仰ぐ生き方なのです。
仏も立派、私も立派とはいきません。

 

【涅槃経】

 

そんな仏のお慈悲の深さを示すのに、
親鸞聖人は『涅槃経』を通してお示しくださいました。

 

お釈迦さまは80年の生涯でおかくれになられた。
仏さまも私たちも死んでしまえば同じか?
違う。
本(もと)が違う。

 

私たちは自分の幸せばかり、それに突き動かされて一生いきていく。
ところが仏さまは、
世界の人々の幸せを実現していこう、という思いに突き動かされて生き続けておられたお方。

 

では仏さまが亡くなると、それで慈悲は終わるのか?
大慈悲の大が消えてしまい、機能停止になるのか?
そうではありませんと教えてくれるお経が『涅槃経』。
お釈迦様が亡くなることを手がかりにして仏の本当の気持ちを示された経典。
具体的には、アジャセ王の廻心(信仰がおこること)の話。

 

【アジャセの救い】

 

いよいよ慚愧(恥ずかしい)の念で苦しむアジャセ王を、クシナガラから察していたお釈迦さまは、
「アジャセのために涅槃に入らない」と言った。

 

涅槃とは「常楽」ともいう。永遠の安らぎである。
釈尊が涅槃に入るといこと、それはこれまでの大変なご苦労である「教化活動」の終了を意味する。
そんな涅槃に入らないといった意味は何か?

 

アジャセとは、ただ人間アジャセではない。これから先もアジャセと同じ苦しみをもつ、物の道理が分からなくなり、
してはならない事をしてしまう者が、いくらでも出てくる。
またその中で後悔し苦しまなければならない者がいくらでも出てくる。
実はアジャセとは歴史の中の一人の人格、名前ではなくて、
これから未来永劫こういう生き方をしなければならないものが次から次から生まれる。
そういう人達のために、仏さまは「決して涅槃に入らない」と言った。

 

仏さまとは、苦しみ悲しみ苛まれる人と共に生きていく。
決してその人を見捨てることができない。
それを慈悲という。
お釈迦さまのご存命は80年。
でも慈悲の心は80年ではない。
未来永劫いかなる時代になっても、アジャセと同じ者が生まれ出てくるかぎり、生き続ける。
したがって大悲には終わりや、死はない。
終わりがない大悲を「無量寿如来」と名づけた。
「帰命無碍光如来」、実はこれが釈尊の仏のもとであった。
仏の本は阿弥陀さまである。

 

つまり阿弥陀さまの大悲をこの地上においてはっきりと実現くださったのがお釈迦さまである。
お釈迦さまは80年間、大悲によって生きぬかれた。
大悲に突き動かされた方は、実は阿弥陀さまに突き動かされて生きぬかれたお方である。

 

【他力の信心】

 

ところでお慈悲を聞いて、
慚愧の念、恥ずかしいなと思えた心、
それは阿弥陀さまのお慈悲に感動し、
お釈迦さまを動かしたお慈悲に感動し、
その感動が自分の現実をふりかえって「凡夫である」とか、恥ずかしいとなったのである。

 

「煩悩具足の凡夫」といわせてもらっていることは、実は出場所は私の心ではない。
仏の慈悲から生まれてきたもの。
だからそれを信心という。
仏さまから恵まれたのだから、他力回向という。
仏さまのもとを仏性という。
だから当然、ご信心が仏性です。

 

(おわり)

 

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No.233 岡村謙英師  平成26(2014)01/20-22

 

慶ばしいかな、
西蕃(せいばん)・月支(げっし)の聖典(しょうてん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈に、
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信(きょうしん)して、
ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

「浄土真宗のお坊さんはなぁ、
親鸞聖人からあずかったご門徒を何人お浄土へつれていくことができるか、
それが本懐というものじゃ。
そのために『阿弥陀さまのお救いは本当です!』、
その事を伝え続けるのがお坊さんの責務である」。

 

33年前の父の遺言、忘れがたし。
今日まで育てられたご恩を思うばかり。

 

親鸞聖人が法然上人からお聞かせにあずかったのも、
「阿弥陀さまの救いこそが本当であった」、その事一つでした。

 

「今、私は間違いない念仏を喜ぶ者にさせていただいた」と、
師匠のご恩を思われたご開山様でした。

 

(おわり)

 

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No.232 松月博宣師  平成25(2013)11/14-15(永代経)

 

「いはんやわが弥陀は名をもつて物(※1)を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳、識心(※2)に攬入(らんにゅう。※3)す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、
少善根にあらず、これ多功徳なり」と。
(元照律師『弥陀経義疏』(『教行信証』行巻引文), 『浄土真宗聖典』p. 180))

 

  ※1 物:衆生のこと
  ※2 識心:衆生の心。
  ※3 攬入:入り満ちること。

 

「あなたは善(い)い人ですか?」
「いえいえ、そんな事はありません。」
「では、あなたは悪い人ですか?」
「とんでもありません!」

 

善人でもないが、それ程悪人でもないと思っている私がいます。
自分より善い人間、自分より悪い(嫌いな)人間を身近に置いて比べるからでしょう。
「あの人よりは悪くない」と。

 

 「浄土宗は愚者になりて往生す」。
親鸞聖人が長い間、大切にされてきた師法然上人の言葉です。
浄土宗…念仏申すものは、日々、
「一緒に歩むよ。一人にはしないよ」と誓われた智慧の阿弥陀さまが身近です。
弥陀と共に歩む往生への道。
「愚者になりて」とは、阿弥陀さまと二人三脚の人生となったことの表明です。
申し訳なく、頼もしく。

 

(おわり)

 

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No.231 成 照星師  平成25(2013)09/27-28(秋讃仏会)

 

「南無阿弥陀仏」。
それは阿弥陀仏さまのお覚りの姿の事であり、おはたらきの姿の表明です。
それを何故私たちは飽きもせず味わうのか。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏というはたらきは、
この私がお浄土へ参るべき功徳の力だからです。
単なる仏の性質ではないのです。
他人事ではないから何度も口にもうします。 

 

船の上の石は沈みません。
この私は石です。
どこにも仏さまのような功徳はみつからない、迷いに沈む身です。
そんな私がどうして仏になるというのか。
私を離さない南無阿弥陀仏のお慈悲の力、お慈悲の船がありました。

 

(おわり)

 

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No.230 加藤 一英師  平成25(2013)08/30-31(歓喜会)

 

如来の作願をたづぬれば
 『無量寿経優婆提舎願生偈』(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)にいはく、
「いかんが回向する 一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に」
この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。
一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。

 

(如来二種廻向文 『註釈版』721頁)

 

浄土真宗では「お盆法要」のことを「歓喜会(かんぎえ)法要」と言います。
なぜか。お盆は「盂蘭盆(うらぼん)(ウランバーナ)」の略称で、
「逆さづりの苦悩」という意味があります。
私たちは時として、親子関係、対人関係を逆さまに受けとめ苦しんでいる事があるのではないでしょうか?
「何でこんな子どもを持ったか?」
「何でこんな親に生まれたか?」。
その苦悩を歓喜にかえていくのがご法義です。

 

……

 

息子さんを突然なくされた高史明(こうしめい)さんが色紙に書いてくれました。

 

  泣いて、泣いて、泣いて、涙がかれるまで泣けばよい。
  枯れた涙の後に、大きな喜びがわいてくるのだ。

 

本当に辛い経験も、ご法義の縁によって、“ここ一番”という大切なものが身につく機縁(きえん)へとかわります。
決して折れない人生の軸となるもの。
それは「南無阿弥陀仏」の声一つである、と歩まれたのが親鸞聖人90年の他力一筋の生涯でした。

 

     ※現在、中国新聞で「親鸞(完結編)」を毎日好評連載中!

 

(おわり)

 

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No.229 北嶋 文雄師  平成25(2013)06/19(仏婦法座)

 

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(正像末和讃38首目 『註釈版』606頁)

 

仏の眼にうつる私の姿を「苦悩の有情(うじょう)」という。
有情とは「情ある者」。
感情をもち、様々な事情を抱えて苦悩する私がいる。
この苦しみは、悲しいかな誰にも分かってもらえない。

 

私は一人で生きてたった一人で死んでいくのか。
そうではないよと教えてくださったのがお釈迦さまと親鸞さま。
阿弥陀仏だけは、こんな私の胸に入り満ちて、
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)―私がここにいるよ―」とお慈悲を届けてくださる。

 

私の孤独の人生にご一緒くださる仏、その仏の名を「阿弥陀」という。
私がいるから阿弥陀さまがおられる。

 

(おわり)

 

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No.228 中島 昭念  平成25(2013)05/10-11(降誕会)

【讃題】
弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。
名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。
たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。
名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。(註釈版166頁)

 

親鸞さまはご自身を「非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)」といわれた。
流罪によって僧侶の身分を剥奪されたから「非僧」なのではない。

 

悲しい事にこの世は不平等な世界。それは僧侶の世界も同様でした。
勝ち負けがあり、損得があり、貧富がある。
下は上を見て妬み、上は下を見て同情する。
そういう上下にとらわれた世界から抜け出る人生、「生死いずべき道」をお示しくださった。
どこにあるのか?阿弥陀さまに救われていく世界。
聖人の言葉に従い、
阿弥陀さまのお救いを喜んで、仏になりお浄土に生まれる人生を歩ませていただくご縁が降誕会です。

 

(おわり)

 

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No.227 福間 義朝  平成25(2013)03/15-16(春季讃仏会)

 

【讃題】
帰去来、他郷には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。
本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。(法事讃、註釈版411頁)

 

愛しい人であってもすれ違いが多いのがこの世。
彼岸の浄土はあの人と本当に会える(心通じ合える)「倶(く)会一処(えいつしよ)」の世界である。
必ず会える。
だが手ぶらで会ってはいけない。
「あなたとの別れを単なる悲しみにはおわらせませんでしたよ。
悲しみをご縁として法を聞き、念仏をよりどころに精一杯生き抜きました」
の一言(おみやげ)を先だった方はどんなに待っておられるか。
今日のひとひ、どんなにつらいこと悲しいことがあっても、
念仏をよりどころに歩むことが、そのまま浄土の荘厳(手土産)にてんじられていく。

 

(おわり)

 

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No.226 溪  宏道  平成25(2013)01/23-25(報恩講)

 

【讃題】
『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮することなかれ。』
(『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131)

 

世間の常とう句は「家族を亡くされて、ご不幸なことですね」かもしれない。
たしかに別れは悲しい。
だが「悲しい(苦しい)=不幸」とだけしか思えない人、その人こそ本当の不幸者だ。
悲しい事であろうとも、それを決して不幸ではなかったといただける世界が聖人(しようにん)の教えにはある。
それは「幸せ」ではく「仕合(しあ)わせ」の世界。真実に遇う世界。
お念仏を称(とな)える時、「(苦しいけれども)この悲しみにであったおかげで、大切なもの(真実)にであえました」といただける。

 

(おわり)

 

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第225回 深野純一師(2012/11/09-10・永代経法要)

 

【讃題】無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞こえんと。

 

いつの時代にも通じる“人間の常識”、それは「世の中は何事も努力次第、行き方次第で解決がつくはずだ!」というもの。

 

努力・真面目は何よりも大切である。そしてそれによって多くの“賢さ”を身につける。知識・教養・経験という賢さ。世の中の問題、人生論……たいてい私たちは解決できる。

 

しかしどれだけ努力し真面目であって賢さをみにつけても、決して解決のつかないものがある。すなわち、

 

「生の従来するところ、死の趣向するところ」(『大無量寿経』)

 

世の中ではなく、人生ではなく、あなた自身です。さてあなたは一体どこからやってきましたか?今度はどこへ行きますか?そういういのちの来し方、行く末を思う時、賢さの限界を知る。答えようのない人間の賢さ。

 

いのちの行く末……誰もが向き合わなければならないいのちの現実。どれだけ経験をつんでも答えられない。だからせいぜい開き直って「死んだらしまい」というのが私たちの答えだろう。悲しいかな賢くなると分からないといえなくなる。私たちの最後の最後まで残るもの、それは自尊心(プライド)。

 

「私はどこへ行くのか?」その人間の賢さでは答えの出ない問いに対して、阿弥陀さまがあなた以上の心配をされますよと説かれるお説教(法)がある。私たちの話ではない。阿弥陀さまのご心配のお話。聞いておこうではありませんか。

 

(おわり)

 

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第224回 成 照星師(2012/9/28-29・秋讃仏会)

 

【讃題】
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、
安楽国に生ぜんと願ず。

 

われ修多羅の真実功徳相によりて、
願偈を説きて総持し、仏教と相応せん。

 

彼岸とは単に時節のことではなく、
本来の意味は「@仏のお覚(さと)り」「Aさとりに到るべきタネ」のことである。

 

だが@もAも、我々凡夫にはわからない。
そこで釈尊は我々の智慧に間に合うべく、
長々と仏のご讃嘆(仏説無量寿経(ぶつせつむりようじゆきよう))をされた。
その中身と、
私がお念仏を申して仏のお慈悲を喜ぶ有り様(それはそのまま、如来のお慈悲に危ぶみのない有り様。
(例)氷をもったら手が冷たい)とが、
共に@Aに通じる内容だったので、
それを喜ぶ意味で浄土真宗では「讃仏会」という。

 

(おわり)

 

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第223回 松林 行圓師(2012/8/28-29・歓喜会)

 

【讃題】

 

人身受けがたし、今すでに受く。
仏法聞きがたし、今すでに聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依したてまつるべし」
(礼讃文)

 

この私が頼んだから
仏は立ち上がられたのではない。
今ここでお参りし手を合わしたから
仏はなんとかしようと思ったのではない。
仏とも法とも思わなかった時から
この仏は立ち続けて「オレが必ず助けてみせる」と
おってくださった。
そういう頼みもせんのに願いがかけられている事に気がつく人生は、あったかい。

 

(おわり)

 

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第222回 海谷則之師(2012/6/18・仏婦法座)

 

 

【覚醒の宗教】

 

世間ではよく死ぬことを「お迎えがくる」という。
誰がくるのか?
死に神か。
閻魔の使いか。

 

こんな言葉があるそうだ。

 

米寿(88歳)でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云え。

白寿(99歳)でお迎えの来た時は まだまだやりたい事があると云え。
茶寿(108歳)でお迎えの来た時は まだまだお茶がのみ足らんと云え。
          (『長寿の心得』より)

 

確かに人間だれしも死にたくはない。
元気で長生きはしたい。
その応援歌であるこの「心得」は、一見、聞き心地がよい。

 

しかしそうやって死から一生目をそむけることが果たして正しいのか。
仏教は“覚醒”、“目覚め”の宗教である。
健康な身体の今こそ、死をみつめていくのが仏教であり、
死を実際にみつめていけるのが浄土真宗である。

 

病に倒れて、いよいよベッドで仏書・宗教書をひらく………気にはならない。
癌になって身をもってしった事実である。

 

【常来迎】

 

浄土真宗は親鸞聖人のひらかれた、
阿弥陀様という如来の本願の教えである。

 

阿弥陀様はあらゆる者を救うために本願をたて、
お浄土をこしらえ、
念仏往生の道をあらわされた仏様である。

 

そして、さらに親鸞聖人は、
その阿弥陀様を、
「常来迎」の仏様といただかれた。
阿弥陀様は、
臨終になって来迎(迎えに来る、おむかえ)されるのではない。
常に来迎しつづけているのである。

 

如来は私を“糸のきれた凧”、すなわち、
無常の風の中を平気でさまよう私と見抜かれた。

 

人生にある3つの坂。
上り坂、下り坂、そして“まさか”。
“まさか”この私が最愛の人と別れようとは。
“まさか”この私が癌になろうとは。
夢にも思っていない。
しかしそれが現実。
……“まさか”この私がもういのち終わろうとは。
そのことを承知され、
そんな私をほおってはおけないと、
如来は名号(念仏)となって常に私によりそっておられる。

 

親鸞聖人はこう示される。

 

@来迎の「来」は「きたらしむ」。

  かならずお浄土へ生まれさせる仏様である。

 

 Aまた来迎の「来」は「かえる」。
  真実の世界へ帰り戻し、
  阿弥陀様同様、
  この上ない慈悲の活動をはじめる存在にする仏様である。

 

 B来迎の「迎」は「むかへたまふ」。
  他力の仏様である。
  いつ何があっても迷いの世界にはおとさない仏様である。

 

 Cまた来迎の「迎」は「まつ」。
  これは如来のはたらき(他力)に疑いをさしはさまず聞く私の心持ち。
  お浄土参りを楽しみに待つ。

 

 

痛がりで未練がましい私である。
いのち終わる最後まで「死にたくない」と思い続けるに違いない。
だが今、如来の本願・他力という真実のみ教えを聞く。
今生の最後は、私が思うような、空虚で悲観的な死ではない。
迷いのない真実の世界、お浄土に生まれ、
慈悲行を始める第一歩なのである。

 

浄土真宗の教えにであった時、
いま「おむかえ」があることをいただき、
そのことを喜んでいける世界に入る。

 

(おわり)

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
(『正像末和讃』)

 

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《第221回 安方哲爾師  平成24(2012)年5月14・15日》

 

【悪人正機】
私たちのご法義は「悪人正機(あくにんしょうき)」といいます。
率直にいえば「阿弥陀様のお目当ては悪人」という意味です。
こう言うと「あんな悪い人でも救われるというのか」と言う人がいます。
それは誤解です。

 

悪人とは、言ってみれば人間の本性みたいなものです。
私の本性は悲しいかな煩悩まみれ。
必ずといっていいほど苦しみのこの世界を、
苦悩して生き、苦悩して死んでいきます。
だから生まれ変わり死に変わり、
迷いの世界を経巡ってきました。

 

 

阿弥陀様は我々の悲しみを見た時に「ほおってはおけない」とおっしゃいました。
しかも我々というものが罪深き悪人であり、
自分でそれをどうすることもできない者とお見抜きになった仏様は、
「こうしろ、ああしろ」とは言わず、
「私があなた(悪人)を救える仏となるよ」とおっしゃいました。
そして五劫の間思惟し、永劫の間修行して
「あなたのせねばならないことを私の手元でしたよ」とおっしゃいました。
そのことを今お念仏を通して聞いていくのが、
悪人が悪人のまま救われていくという、
我々浄土真宗の「悪人正機(悪人こそが仏のお目当て)」というみ教えでした。

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

煩悩具足のわれらは、
いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、
仰せ候ひき。(『歎異抄』)
(あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。
阿弥陀佛は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、
そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、
まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。

 

それで、善人でさえも往生するのだから、
まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
(『歎異抄』第三章 現代語訳)

 

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《第220回 若林 真人師  平成24(2012)年3月23・24日》

 

【捨てない】
お念仏は阿弥陀様のこんなお喚び声です。
「安心なさい。そのままでいいよ。一人じゃないよ。あなたを捨てない如来だよ。」

 

@「安心なさい」…
  仏道にそむきつづける私を待ちつづけ、かかりつづける仏。
  決して裁くことのない慈悲の持ち主です。

 

A「そのままでいいよ」…
  私の全人格が救いの目当てでした。
  隠し事はいりません。
  願いも愚痴も聞いてくださる仏です。
B「一人じゃないよ」…
  たった一人で死んでいく私に、ただ一人寄り添ってくださる仏。
  支えの多い日常生活。
  でも、ふと孤独の思いが心をふさぐ時、お念仏申すと良いですよ。

 

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

 舎利弗、
 なんぢが意においていかん、
 かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。
 舎利弗、
 かの仏の光明無量にして、
 十方の国を照らすに障碍するところなし。
 このゆゑに号して阿弥陀とす。
 また舎利弗、
 かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。
 ゆゑに阿弥陀と名づく。
  (仏説阿弥陀経)

 

 

 

 

 

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《第219回 舟川 宏顕師  平成24(2012)年1月20・21日》


【捨てない】
阿弥陀様のことを、
親鸞聖人は「摂取・不捨(せつしゆ ふしや)」と教えて下さいました。
如来様は私を摂(おさ)め取って捨てないというのです。

 

一流の料理人は食材を捨てません。
「ゴミを絶対に出さない」ように心掛けます。
野菜のくずも皮もヘタも種も、
全て無駄せず、
料理に活かします。

 

阿弥陀様も一流の料理人。
私という食材の全てを無駄にせず、
仏陀(ぶつだ)(目覚めた者)に仕上げるとはたらいてくださっています。
苦悩も煩悩も全て引き受け、
「南無(なも)/阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)(マカセヨ/カナラズスクウ)」
と喚んでくださっているのです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『弟子四禅(でししぜん)の線(いとすじ)の端に、
たまたま南浮人身(なんぶにんじん)の針を貫き、
曠海(こうかい)の浪(なみ)の上に、
まれに西土仏教の査(うきぎ)に遇へり。
ここに祖師聖人の化導(けどう)によりて、
法蔵因位(ほうぞんいんに)の本誓を聴く、
歓喜胸に満ち渇仰(かつごう)肝に銘ず。
しかればすなはち報じても報ずべきは大悲の仏恩、
謝しても謝すべきは師長の遺徳なり。』

 

 

 

 

 

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《第218回 紫藤 常昭師  平成23(2011)年11月17・18日》


【お仏壇】
我々の先輩は家に仏壇を遺して行ってくださいました。
それは「仏様の話を聞いていけ」ということです。
仏様の話を大切にする先輩方でした。
家庭というのは裸になって大いばりで歩ける所だが、
その中で膝を合わせ、手を合わし、
賢い頭を下げて、仏様のお慈悲を聞く場所を設けてくださった。

 

人間の仕合わせとは衣食住足りることは勿論、
お金もないよりはあったほうが良いだろうが、
それよりも南無阿弥陀仏と届いた仏様に「南無阿弥陀仏」とおまかせして、
浄土参りさせてもらうという人生を生きるがええよと、
先に行かれたお方々が、後に行く者を導いてくださっているのです。
「ようこそでございました」と勤めさせていただくご法事が、
永代経法要の肝要であります。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

 

 

 

 

 

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《第217回 深川 倫雄和上  平成23(2011)年9月28・29日》


【私の身の上】
昔、大江和上がこうおっしゃっていた。
「仏願(ぶつがん)の生起本末(しようきほんまつ)
(阿弥陀様の一切の物語)を聴いては忘れ、聞いては忘れする。
その内ふと『仏願の生起本末は、私の身の上と似ているぞ』と思うようになる。
これが大切です。
仏願の生起本末は
私を含んだ事と思える身になったのをご信心という。
……まもなくこの世をさらねばならぬ。
何の憂いもない。
ここは障害のある国だ。
今度は、この世の理屈は一切通用しない、
明るい智慧の国、悟りの世界に生まれる。
何の心配もない」と。

 

念仏が出る老境の身は仕合わせです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
  (教行信証「信巻」 註釈版, p.251)

 

 

 

 

 

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《第216回 和田 俊昭師  平成23(2011)年8月26・27日》


【願わぬ故】
私どもの阿弥陀様という仏様は、
私どもを、その身のまま、
縁起の道理の世界であるお浄土に生まれさせ仏にしたいと願われ、
私の所にお出ましくださっているお方です。

 

 

法然上人最晩年の作としてこんな歌があります。

 

  「極楽は日に日に近くなりにけり あわれうれしき老の暮かな」

 

こんな境地になりた……くはない私がいます。
凡夫の私は「娑婆好きの浄土嫌い」。
何故、私はお浄土に参りたいと願わないのでしょうか?

 

私たちは、各々、好きな食べ物があります。
しかし、それは必ず一度は食べた事があるもの。
一度も食べたことのない物を「好きな物」と、誰が想像できるでしょう?

 

お浄土は悟りの世界です。
無苦無楽、苦もなく楽もない世界です。
それはこの私が決して経験したことのない世界。
頭で考えられない世界(お浄土)に生まれたいと願わないのは、当然なのです。

 

しかし、願わぬ私だから、
阿弥陀様の方が「そのような者を救いたい」と願われ、
今、仏の姿を捨て声の仏となって、
私の口を借り、 声となり、「ナマンダブツ」とあらわれて下さっているのです。

 

どうぞ、お念仏申させていただきましょう。

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり

 

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ
  (浄土和讃 註釈版, p.555)

 

 

 

 

 

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《第215回 藤本 唯信師  平成23(2011)年6月27日》

 

【浜までは】
「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」(滝瓢水(たき ひょうすい))

 

【海女(あま)】海中にもぐってアワビ・海藻(かいそう)などをとる仕事をしている女の人。
【蓑(みの)】カヤやスゲなどで編(あ)んで作り、肩から背中にかける、むかしの雨具。
【時雨(しぐれ)】冬の初めごろ、さっと降(ふ)ったり、やんだりする雨。

 

浜へ仕事に向かう女性達。
その道中は雨模様。
皆、一様に雨具を着ている。
雨に濡れないためだ。

 

それを見て笑う人がいる。
「どうせ海に入れば濡れるのに、なぜ蓑を着るのだ」と。

 

それは大きな勘違いだ。
今は濡れる場所ではない。
大切な仕事が待っている。
それまでは濡れない。
海水浴に行く子ども達とは違うのだ。

 

 

……

 

今、念仏者はお浄土への道を歩む。
いのちの行く末、それはお浄土の浜。
そこは仕事場だ。
仏になって人びとを救う仕事の始まりだ。
それまで一日ゝゝ、精進して生きる。

 

それを見て笑う人がいる。
「どうせ最後は仏になるんだ。なぜ今、真面目に生きるのか。」

 

それは大きな勘違いだ。
私の最後は地獄行きだった。
欲望、怒り、妬み……煩悩の心、地獄行きの心が止めどなく湧き起こる。
お浄土で仏になるはずもない私。

 

そんな私を仏は必ず救う(往生・成仏)という。
救いようのない私のために、法蔵菩薩(阿弥陀仏)は、
果てしなく悩み、終わりのない労苦を惜しまなかった。
その救いの証拠が、南無阿弥陀仏。

 

お念仏を称える時、最後まで見放すことのない仏のお慈悲に触れる。
悪人の自覚。

 

これ以上、罪を重ねる事を肯定してどうする!

 

 

  「欲や怒りや愚痴が出る 出る度毎にみ仏の
  慈悲の心に立ち返り 力の限り生きて行く
  (藤秀すい[王+翠])

 

(おわり)
(今年3月の「法座のことば」も宜しければ)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲(げんてつ)・愚夫(ぐぶ)もえらばれず
豪貴・鄙賤(ひせん)もへだてなし
  (『高僧和讃』 註釈版聖典 p. 597)

 

 

 

 

 

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《第214回 中島 昭念師  平成23(2011)年5月27〜28日》


【人間の喜び】
今日の福祉の進んだ社会において、
「生活苦」はずいぶん改善されてきた。
@貧困、A失業、B不潔(病気)、C怠惰(窮乏)、D無知(無能力)は、
昔より格段に減った。
ではもう仏教(仏法)は必要ないのだろうか?

 

仏法は、@〜Dの苦しみの解決が目的ではない。
いついかなる時に生まれようとも存在する「人間苦」の解決が目的である。
人間苦とは、「四苦八苦」である。
これらは人智を尽くしても片が付かない問題である。
だから苦しみ悩み、のたうち回って終わって行くしかない。

 

人間に生まれた以上、仏法には出遇わないとならない。
「あなた方が見て経験している人智の世界とは違う、素晴らしい世界がありますよ」
と残してくださったお経様の、仏智の話を聞かなければならない。
それはお念仏の話であり、ご信心の話である。
真実のお慈悲の話である。

 

仏智をいただく時、
決して解決の見えなかった悩みが、悩みとならなくなる世界がある。
喜びの世界である。
その事を全人生をかけて示してくださったのが親鸞聖人である。
今ここに苦しむ私の為にご出世くださった聖人。
ようこそご誕生くださいました!

 

 

  「人間に生まれたことの有り難さ
  仏法に遇えたことのかたじけなさ
  今日まで生かされていることの勿体なさ」
  (金子)大栄96歳(最晩年の色紙より)

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

如来、世に興出したまふゆゑは、
ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、
如来如実の言を信ずべし。
  (『教行信証』行巻 註釈版聖典 p. 203)

 

 

 

 

 

 

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《第213回 天岸 浄圓師  平成23(2011)年3月4〜5日》


【造悪無慚】
阿弥陀仏の救いは、善悪関係なく、平等に到り届きます。
しかしそのご法義をねじ曲げて、
「どんな悪いことをしても構わないのが浄土真宗だ」
と言う方がおられます。
造悪無慚(ぞうあくむざん。悪を造れども慚愧なし)と呼ばれる方々です。

 

そのような考え方に対して、
親鸞聖人はお手紙の中で、厳しく誡められておられます。

 

 

「聖典を見ることもなく、その教えの内容を知らないみなさんのような人びとが、
『往生のさまたげとなるものは何もない』ということだけを聞いて、
誤って理解(悪を造っても構わない)することが多くありました。
今もきっとそうであろうと思います。……

 

そもそもみなさんは、
かつては阿弥陀仏の本願も知らず、
念仏することもありませんでした。
しかし釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、
今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。

 

以前は「無明(むみょう)の酒」というものに酔って、
自分の都合ばかりで生き、
「@むさぼり、Aいかり、B自己中」の三毒ばかりを好んでおられました。
しかし阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、
無明の酔いも次第に醒め、
少しずつ三毒も好まないようになり、
阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。

 

ところが、
まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、
毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、
実に嘆かわしいことです。

 

煩悩をそなえた身であるからといって、
『どうせ私は煩悩まみれの悪人よ』と、
心にまかせて、
してはならないことをし、
言ってはならないことを言い、
思ってはならないことを思い、
どのようにでも心のままにすればよいといいあっているようですが、
それは何とも心の痛むことです。……

 

薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。
阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、
念仏するようになってから久しい人びとは、
後に迷いの世界に生まれることを厭い、
わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。

 

はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、
自らの悪い行いや悪い心を思い知り、
このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、
煩悩をそなえた身であるから、
阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、
間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。

 

……煩悩をそなえた身であっても、
真実の信心をいただいたからには、
どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。」
(末灯鈔第20通、参考 現代語版『親鸞聖人御消息 恵信尼消息』(本願寺出版))
薬があるからといって毒を飲んでも良いという道理がどこにありますでしょう?
だからどうぞ薬を好んで、
毒をうけないような生き方をつとめていきましょう。
それが如来様のご縁をいただいた者の生き方です。
そしてそれが、お救いを頂いた者の生き方です。

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、
真実の浄信(じょうしん)、億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信(ぎょうしん)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。』
  (『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131-132)

 

 

 

 

 

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《第212回 徳永 一道和上  平成23(2011)年1月26〜27日(お待ち受け法要)》


【悪人正機】
 親鸞聖人のご法義(み教え)の一つに「悪人正機(あくにんしようき)」(悪人こそが正(まさ)しく救いのめあて)がある。
『歎異抄(たんにしよう)』の次の言葉は有名である。
 「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」
(現代語訳…善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人は言うまでもありません)
この言葉を聞いて、
ある人は「悪人が救われると説くような本願寺を、なぜ警察は放っておくのか!」と言ったが、
そんな話ではない。
この言葉にどれほどのヨーロッパ、世界の人格者は感動し、念仏者になったことか。
世間の常識と真反対の言い方、そこに深い味わいがある。

 

世間は善悪の基準がなければ成り立たない。
だから私は常に、善悪の中でうごめき、相手といがみあっている。
「善(よ)し悪(あ)しの はざまに迷い」(仏教讃歌『分陀利華(ふんだりけ)』、作詞 川上清吉)続けている。

 

一生涯、誰であろうと否定しなければ生きていけない私。
そして悩み苦しみ命終わっていく。
そんな私を弥陀の慈悲はまるごと抱きかかえる。
「善(よ)し悪(あ)し」を超えたものが私の上に今、念仏となってはたらいている。

 

だが根性が変わるわけではない。
私はどこまでも悪人(あくにん)。
だからお慈悲にも背を向けて生きる。
そんなどこまでも背を向ける私を、向こうが追いかけてつかまえてくださる。
それを聖人は「救い」と言った。

 

 

 「これ阿弥陀 助けたいなら 助けさしょう(させよう)
  罪はようやらん(渡さぬ)  罪はよろこびのたね」
  (浅原才市(あさはらさいち))
島根の妙好人、浅原才市は念仏者の心のありようを見事に詠っている。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

 

 

 

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《第211回 松月 博宣師  平成22(2010)年11月5〜6日 (永代経)》


【救われない者】
私どもの浄土真宗という教えにはテーマがあります。
そのテーマは親鸞聖人の人生のテーマでもありました。
それは何か。

 

  「救われない者の救い」。

 

“救われる者が救われていく”のだったら分かります。
理屈が通っています。
しかし浄土真宗は「救われない者の救い」。
これはどういうことか。

 

私の理屈ではないのです。
阿弥陀様の理屈なのす。
救われない者を救おうとするはたらき、
これを聞いていくのが浄土真宗です。

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
(『浄土真宗聖典(注釈版)』, p. 85)

 

 

 

 

 

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《第210回 深川 倫雄和上  平成22(2010)年9月28〜29日 (彼岸会)》


【師】
師の教えは絶対です。
それが仏教の伝統です。
私たちの師は宗祖親鸞聖人です。
親鸞聖人は仰せになりました。

 

  仏願の生起本末を聞く

 

“阿弥陀様のお心を聞いた事が大切なんだ”と説かれました。
その師の言をひたすら守るのが何より肝心です。
【安心:お念仏の心】
仏教の筋立ては普通、「教行証」の三法立てです。
まず「教え」があり、その教えの通りに「行」じ、そうすると「証(しるし)」、すなわち悟りを得るのです。
ところが宗祖は、「教行信証」と四法立てを示されました。
何故そんなことをおっしゃったのか?

 

私たちの「教え」が、「阿弥陀様の話」だからです。
「私が〜する」という教えではありません。
他人(ひと)の話なのです。
「他人が力一杯〜した」ので、「他力」と言います。
だから私は何もしてないし、これからもしない。

 

雨が降って外に出ればどうなるか?
濡れます。
何もしなくても、濡れます。
手を広げたり、傘を逆さにしたりせずとも、濡れます。
びしょ濡れになり、水だらけになり、雨と一緒になります。
何故か。
余所から降ってくる雨だからです。

 

他力とは、余所から降ってくる仏教。
余所から降ってくる南無阿弥陀仏。
それに、私が濡れていくのが「信」。
雨の中で私が濡れるがごとく、
弥陀の他力の雨にびしょ濡れになっていくのが「信」。
何もしないのです。

 

でも傘をさすと濡れません。
他力の雨の中、自らの智慧を使うと濡れないのです。
「だんだんと降る他力のお助けの雨に、びしょ濡れになれば他力と一緒になる」、
というのに、〈自分は賢いと思っている人〉は、浅はかな智慧の傘をさすのです。
宗祖は一生涯「自分の智慧を使うのが一番いけない」と言い続けられたのです。

 

他力とは濡れること、それがそのまま信ずるということです。
【ご恩報謝】
真宗では「(私が)信じた」とは申しません。
何故なら他力にならない。
少しぶんどったことになります。
純粋他力は、何もしないのです。

 

では読経や御仏飯という行為は何か?
あれは“後からやる”事です。
「何もかもご用意くださった他力の親様に、
私も食べずにはおられないご飯をあげましょう、
お花をあげましょう、饅頭を……」というのは、
他力に濡れた後のご恩報謝です。
何をするのも、全て、
先手をかけた阿弥陀様の力用(はたらき)に「勿体ないことです」「尊い有り難いことです」というのが私たちの仏教生活です。
ですから真宗の仏教生活には、他宗がやるような難しいことはありません。
できる位でやっておけば良いのです。
けれど同時にご恩報謝だから、「(私は)やったぞ!」と威張ることはないのです
ご恩報謝をしながら、ご恩報謝を誇ってはならないというのが、
このご法義であります。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
(『正信偈』 註釈版聖典p.203)

 

 

 

 

 

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《第209回 加藤 一英師  平成22(2010)年8月24〜25日 (歓喜会)》


【夫婦】
藤沢量正先生の法話でこんなお話があった。

 

若くして妻をなくした夫、
そして三人の子供。
納骨の際、父は5歳の坊やにこんな話をして、
納骨をさせた。

 

「いいかい良くお聞き。
この骨はお母さんの骨だけど、もうただの骨なんだよ。
その意味が分かるかい?

 

いいかい、良く聞くのだよ。
お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ。
そこをお浄土と言うのだよ。
そのお浄土へ生まれられたお前のお母さんは仏さまに成られたのだよ。
だから、仏さまに成られたお母さんが残していったこの骨は、
もう、ただの骨なんだよ。

 

だけどね。
この骨は、お前を生んでくれたお母さん、
お前を今日まで育ててくれたお母さん、
そのお母さんの「いのち」を支えておったのがこの骨なんだよ。
だから、
これはただの骨であってただの骨ではないんだよ。
大切にお礼を言いながら、納めさせていただこうね。」
藤沢先生の法話の後、1ヶ月、考えた。
先生は何をおっしゃりたかったのだろうか……。

 

ふっと気がついた。
このお父さんは、子どもの前でお母さんを語る時、全部、敬語。

 

ただの並の夫婦ではなかったのだ。
お互いが阿弥陀様の世界をいただいた夫婦なのだ。

 

夫婦であっても、どちらかが先に死んでいかねばならない。
でもどちらが先に死んでも、共に行き先はお浄土。
そうお互い聞きあってきたからこそのお父さんの言葉。

 

  「お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ……」

 

仏さまのご本願の中に生きたご夫婦。
男と女の関係ではあるが、
お互いを仏さまに成っていく身の上、
仏さまに成らせていただく身の上と、
常日頃から思い、敬いあっておられたに違いない。

 

【本当のよろこび】
社会に出て身につける肩書きは
足下から狙われていく肩書きです。
身につけた途端、人が狙っている。
そんな肩書きは私の幸せにはならない。
それは不安材料です。

 

本当の喜びは分ければ増えるものです。

 

  「一緒にお浄土に生まれさせていただこう」

 

  「共にお浄土の道を歩かせてもらおう」

 

  「お互に仏法を聞く座(お寺)につかせてもらおう」

 

そして共々に味わえる事柄を増やしていくことが、
本当の喜びではないでしょうか。
そこを親鸞聖人は「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」と表現してくださいました。

 

この度は「歓喜会(かんぎえ)」の法要でした。
苦悩の人生、苦難の人生、悩みある人生ですが、
ご本願を聞き入れて、
喜びの人生へとかえていくということが
大きな我々浄土真宗のテーマです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん
(本願成就文(『一念多念証文』より)、注釈版677頁)

 

 

 

 

 

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《第208回 松岡 洋之師  平成22(2010)年6月21日 (仏婦法座)》


【ブラジル開教物語】
ブラジルでの約五年の開教生活。
そこであらためてお念仏の有り難さを感じました。
それはお念仏の教えが日本と何も変わっていない事でした。

 

ブラジルは「日本と正反対の国」と言われます。
地球上の位置が反対。
車の運転席と車線が反対。
国旗が反対(朝を表す日の丸と、夜空の星を描いたブラジル国旗)。
ノコギリの使用方法が反対。
挙げ句の果てに、ホタルの光る場所が反対!

 

日本の文化は奥ゆかしいものです。茶道、相撲、盆踊り……。
しかしブラジルは、珈琲、サッカー、カーニバル……実に陽気です。

 

日本と違い貧富の差が非常に激しい国ブラジル。
犯罪大国ブラジル。

 

 

環境が違う、言葉が違う、文化はまるで違う。
それなのにお念仏の教えは全く同じ。
何故でしょう。
お念仏の教えは、
環境でも言葉でも文化でもなく、
人間の真実の姿、
真実の苦しみに真正面に応えるものだからです。

 

環境・言葉・文化が違えど変わることなくある教えこそ真実と言えるのではないでしょうか。
だからお念仏は変わらないのです。
ブラジルの日系移民は今、
2世、3世へとお念仏の教えを一人々々変えることなく大切に受け伝えています。

 

どのような時代にも首尾一貫し続けるもの、
それこそが本当の意味で私の依り所になるのです。
ブラジルに生きるお念仏は、そのことを如実に物語っています。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『前に生まれんものは後を導き、
後に生まれんひとは前を訪へ、
連続無窮にして願はくは休止せざらんと欲す。
無辺の生死界を尽さんがためのゆえなり。』
  (『教行信証』 註釈版聖典p.474)

 

 

 

 

 

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《第207回 内田 正祥師  平成22(2010)年5月28・29日》


【御用ある世界】
本山のある夜の法座にて。

 

その晩の聴聞者は6人。
その方達へ質問をした。
「“あの世”と聞くとどんな世界を思われますか?」

 

最初の方は「お浄土」と答えられた。
次の方は「無量光明土」。
次の方は「倶会一処(くえいっしょ)」。

 

お浄土、無量光明土、倶会一処……すべて同じである。
「もう少し易しい言い方で何かありませんか(たとえば冥土とか)?」
すると次の方は、少し考えられてから、
「いのちのふるさと」
「……それはもしかしてお浄土ですか?」
「そうです。」
次の方はもう答えを考えておられた。
「私を待っていてくださる世界」

 

とうとう全員答えが同じであった。
そこでこう尋ねた。
「『冥土』とか『天国』とか『草葉の陰』とか『お星様』とか『黄泉の国』とか、
世間にはいろんな事が言われていますよね。
それらをあの世と思ったことは無いのですか?」
すると最初におっしゃった方が、
「冥土、天国、草葉の陰……私はそのようなところにご用はございません。」
【私事として】
「人は死んだらどこへ行くのですか?」

 

仏教の教えは一般論ではない。
この私がどこへ行くのか?
どこへ行きたいのか?
私を目当てとして如来のご本願は発されていることを聞く。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、
同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。
(観経疏、『浄土真宗聖典(七祖篇)』, 299頁)

 

 

 

 

 

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《第206回 福間 義朝師  平成22(2010)年3月12-13日》

 

 

 

【最後の親孝行】
「孝行したい時分に親はなし」
私たちは親を亡くした際、お互い何某かの後悔の念にかられます。
「なぜもっと優しくしてあげられなかったのか」「なぜあんな酷いことを言ったのか」……。
平素は親をないがしろにしておきながら。

 

しかし今、たった一つだけ親孝行が残っています。
それは「聞法」です。

 

死を大切なご縁として法(お浄土の教え)を聞くのです。
先だった方はそれを一番喜んでくださっています。

 

お浄土は「倶会一処(一つのところで共に会う)」の世界です。
必ず会える世界、それがお浄土です。

 

同じ屋根の下に住んでもすれ違いがあるのが娑婆ではないでしょうか。
出会っているようで、本当は出会っていないのです。
相手の心は分かりません。
しかし浄土はお互い仏となって会うのです。
互いに拝みあうのです。
本当の意味で出会うことができるのがお浄土です。

 

手土産を持ってお浄土、真実のふるさとへ帰りましょう。
手土産とは何か?
お金?ごちそう?……私の事です。
日々の嬉しい時も、またどんなにつらい悲しい時があっても「南無阿弥陀仏」と歩んだ事です。
「あなたが先だっても、それを単なる悲しみでは終わらせませんでした。
それをご縁としてますます法を聞いてお念仏を依り所に精一杯生き抜きました。」
お浄土であの方と山ほど話すことがあるでしょうが、
先だった人が待っているのは、その一言です。

 

毎日がお念仏との生活。
今日の一日(ひとひ)を抜きに語れないのがご法義なのです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

「帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」
(『教行信証』化身土文類、浄土真宗聖典411頁)

 

  帰去来:さあ帰ろう。故郷に帰る決意を述べたものであるが、ここでは浄土に生まれたいという意をあらわす。
  他郷:娑婆世界のこと。衆生にとって真実の故郷というべきは阿弥陀仏の浄土であるから、娑婆を他郷という。
  本家・本国:阿弥陀仏の浄土を指す。
  行願:自利利他の完成を願うことと、その実践修行をいう。

 

 

 

 

 

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《第205回 溪 宏道師  平成22(2010)年1月27-29日》

 

 

 

【永遠のいのち】
お慈悲をいただきにくい時代です。
その原因の一つに、
現代ほど死を嫌う時代はないからでしょう。

 

誰だって死にたくはありません。
しかし「死にたくない」と「死を嫌って死を受け入れない」とは違います。
後者の場合、
たとへ200歳まで長生きしたとしても、
その人の人生は最後、虚しく終わっていくでしょう。

 

  「あなたは“滅びのいのち”を終わっていくのですか?」(某哲学者)

 

死を向こうに追いやったら、結局、
滅びのいのちを終わっていくだけなのです。
“滅びのいのち”ではなく“永遠のいのち”を生きる道。
その道をお示しくださったお方を、
私たちは御開山様、親鸞様と仰ぐのです。
【宗教の目的】
  「死んでいく私たちが死を見つめようとしないのは不真面目ではありませんか?」(K和上)

 

これを聞いてある方がこう反論されるかもしれません。

 

  「我々はまだ死んでいないではないか!
  ならば死の話よりも、今の話、
  健康、お金、家族……そういう話が大事ではないか。」

 

勿論、健康も、お金も、家族だって大事な問題です。
それを否定するのではありません。
しかし、
これら(健康・お金・家族)が“宗教の目的”であるかのごとく説く宗教の何と多いことか!

 

「私どもの所へ入信したら、病気が治る、お金が入る、家族が仲良くなりますよ!」

 

これが嘘というのではないのです。
しかし仏教はこれを説かないのです。
特に浄土真宗は言わない。
何故か?
……これを目的にしていると、
やがて「これが目的ではなかった」と泣いて知らされる時が来るからです。
そして“滅びのいのち”を終わっていく時が必ず来るからです。

 

私たちの歩む浄土真宗の道、
それは死を向こうに追いやっていくのではなく、
死をしっかり見つめ、
死を超えていくことのできる道なのです。

 

 

(おわり)

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、
 多生にも値(もうあ)ひがたく、
 真実の浄信(じょうしん)、
 億劫(おっこう)にも獲がたし。
 たまたま行信を獲ば、
 遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
 もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
 かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。

 

 誠なるかな、
 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
 超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
 聞思して遅慮することなかれ。』
  (『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131)

 

  (意味…ああ、この大いなる本願は、
  いくたび生を重ねてもあえるものではなく、
  まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
  思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、
  遠く過去からの因縁をよろこべ。
  もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、
  もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。

 

  如来の本願の何とまことであることか。
  摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。
  世に超えてたぐいまれな正しい法である。
  この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。)
  (『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』、p. 5)

 

 

 

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《第204回 紫藤 常昭師  平成21(2009)年11月16-17日》


『諸仏如来はこれ法界身なり。
一切衆生の心想中に入りたまふ。
かるがゆゑになんぢら、心に仏を想ふときは、
この心これすなはち三十二相・八十随形好なり。
この心作仏す、この心これ仏なり。』
(観無量寿経、参照 [註釈版聖典p.100])
【苦悩を除く法】
「私、最近、癌になって良かったかなと思うのです」

 

癌がきっかけでお寺参りを始めたお方の言葉です。

 

すい臓癌になって良いことはありません。
できたらならならない方が良いでしょう。
しかし癌になった時から、
その方は過去の栄光や実績を振り返るのではなくて、
現在、そして未来を見るようになったです。

 

お念仏をしたからといって、
苦しみが無くなるということはありません。
悲しみが消えるということもありません。
しかしその苦悩や悲しみを縁として「開き行く世界」があるならば、
苦悩や悲しみは決してそのまま終わっていかないのです。

 

どのような過去の悲しいものにも手を合わせていく世界がある。
お釈迦さまは『観無量寿経』でそのことをお話されたのでした。

 

 

 

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《第203回 深川 倫雄師  平成21(2009)年9月26−27日》

 

『大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海
なり。ゆゑに大行と名づく。』
  (教行信証、註釈版聖典p.141)

 

【名の声】
仏さまはこうお誓いです。

 

「われ仏道を成るに至りて、“名声”十方に超えん」(重誓偈、注釈版聖典p.24)

 

「名声(めいせい)=評判」ではありません。
「名の声」です。
仏さまの名、それは“声”になるのです。

 

お念仏というのは、
私が「南無阿弥陀仏」という言葉(評判)を聞き知って、
称えるのではありません。

 

“私”の口から「南無阿弥陀仏」と“声”になりなさるのが仏さまです。
もっと詳しく言えば、
私に届けられた仏さまの功徳全体が、
「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」という仏の名前として声になるのです。

 

「南無阿弥陀仏」の本になる仏さまの功徳は、既に全部、私に届いています。
その功徳は私には分かりません。
だから仏さまの方が、
分かるように聞こえるように称えられる声になると、
長いのでは大変だから短く「ナマンダブ」という声になると、
そうお誓いになったのです。

 

もう一度言いますが、
「ナマンダブ」は“私”の口から出る時、
初めて“声”になります。
だから私の口から仏さまになる前に
「ナマンダブ」が他のどこかに出来ておるのではないのです。
仏さまのたくさん功徳が私に届いてそれが一つになって「ナマンダブ」と出てくるのです。

 

 

(追記)

 

(和上)「私は今、86か7ですが、
毎朝おつとめをしながら楽しいです。
若い頃は朝のおつとめが面倒で(笑)。
口では言われんですがそうでした。
この歳になったら他に用事がないですから。
皆さんもあんまり用事がないでしょ?

 

どうかすると若い者が「死ね」と言わんばかりのことを言う。
死なれるか!
この老境こそ味わい深いものなのだ。
うんとうんと人生の味、お念仏の味がわき出てくるものなのだ。

 

これからお互いもっともっと身体に気をつけて、
長生きをして、
長生きするだけでなくて、
その老境の中へ私の声となった「ナマンダブ」の味を楽しんでくれたら良いですね。
宗教というものはそういうものです。
理屈をいうものではありません。」

 

(初日、最後の言葉より)

 

 

 

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《第202回 松林 行円師  平成21(2009)年8月27〜28日》


『如来の作願をたずぬれば
 苦悩の有情を捨てずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり』
(『正像末和讃』 註釈版聖典p.606) 
浄土真宗は「お聴聞」(法話を聞く)につきます。
お聴聞……したらどうなるのでしょうか?
最初にして最大の問題です。

 

結論、お聴聞をすると、
だんだん阿弥陀さまのお心、お慈悲の心が見えてます。

 

しかし今日、この「慈悲」がピンときません。
慈悲とは何か?

 

善導大師(ぜんどうだいし)は「慈悲とは無背相(むはいそう)である」
とお示しくださいました。
「無背相」、すなわち「背無き姿」。
言い換えると「裏切りがない」ということです。
阿弥陀さまのお慈悲の心とは、
「決して裏切らない心」であります。

 

娑婆は裏切りの世界です。
都合が悪くなると人は簡単に離れ去っていきます。
そして頼みの“家族”“自分”さえも、私を裏切ります。

 

しかしこのお慈悲の心だけは違いました。
「たとえ周り全てがあなたに背を向けたとしても、私は立ち去らない。
そのために私は“南無阿弥陀仏”の声の仏となって、
あなたと共に呼吸をし、
命終わったと同時に必ずお浄土のへ連れて行く!」
阿弥陀さまのご本願、救済大計画でした。

 

お聴聞……それは裏切りのない世界、
真実の世界に気づかせてだく場所であります。

 

 

 

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《第201回 宮崎幸枝先生(平成21年6月22日)》

 
「怖くてよぉ、怖くて仕方が無いんだよ」
「何がそんなに怖いの?」
「死だよ。死ぬのが恐いんだよ」

 

幸枝先生はこの言葉を聞き、
カルテに文字を書いていたペンを止め、
その方の膝にそっと手を乗せました。

 

「何をおっしゃるの。
阿弥陀さまはいつでもあなたを救いたい、救いたい、と思ってくださるから、
何も心配することは無いのよ。
私たちは気がつかないだけで、
阿弥陀さまの温かい胸に抱かれて暮らしているのだから」

 

それを聞いたその方は、思わぬ反応をしました。
わっ、と顔を両手で覆い、声を上げて泣き出したのです。

 

「そうなのか……そうなのか……阿弥陀さまが助けてくれるのか……良かった……」

 

どんなに地位や名声やお金があっても幸せでは無い人もいれば、
病床で苦しんでいても尚、幸せな人もいます。
それは「こころ」の問題であり、
どんなにお金を出して高価な薬を買っても、救われない人は救われない。
今、この瞬間に、その方のこころは「本当の救い」というものを得たのでしょう。

 

「阿弥陀さまありがとう、と思ったら、
いつでもどこでも『南無阿弥陀仏』と称(とな)えてね。
それだけでいいのよ」

 

そう言って先生が「南無阿弥陀仏」と書いたメモを渡すと、
その方は涙で濡れた手でその小さな紙を握り締め、
何度も御礼を言いながら帰ってゆきました。

 

後日、あの方は人が違ったかのような、
明るい雰囲気を纏い、笑顔と共に診察室にやってきました。

 

「先生、看護婦さん、オレはあれから嘘のように安心して暮らしているよ、
お念仏も称(とな)えているよ。ありがとう」
  (『お浄土があってよかったね』より(抄出) pp. 204-206)

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ようこそ専徳寺へお参りくださいました。 専徳寺は岩国市通津にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。 どうぞごゆっくりくつろいでください。
法座の言葉(1〜100)
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