山口県は岩国にある浄土真宗寺院のWebサイト

法座の言葉(201〜300)

目次

 

内容

No.258 北嶋文雄師(平成29(2017)8/30-31)

 

【讃題】
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就(じょうじゅ)せり

 

仏力100%

 

お念仏は易行、やさしい行です。
それは私の力が0%、阿弥陀さまの力が100%を意味します。

 

 「でも称えるのも、称えようと思ったのも私の力では…」
思ったのは私ですが、思わせたのは仏さまの方です。

 

「ああ辛」と 言うは後なり 唐辛子 (利井鮮妙(かがいせんみよう))

 

唐辛子を食べて「辛い」と言ったのは、「辛い」と思ったからです。
でも思わせたのは唐辛子の方です。
「辛そうだな」とは思えても、食べる前から「辛い」と思うのは無理です。

 

お念仏は、
称えようと思ったから称えたのですが、それを思わせたのはやっぱり阿弥陀さまの方です。
私たちはひと声の「南無阿弥陀仏」を通して、
私の力を超えた大きなお慈悲のおはたらきに包まれていると味わうのです。

 

(おわり)

 

 

No.257 木下明水師 (平成29(2017/6/19))

 

【讃題】
南無の言は帰命なり。
帰の言は、[至なり、]また帰説なり、
説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、
説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]
命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

 

名告りの宗教

 

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」の「南無(帰命)」を事細かに釈されました。
南無阿弥陀仏のお心は、私一人(いちにん)に響いて「我にまかせよ。必ず救う」と喚んでくださる声。
仏の名そのままが阿弥陀さまであるというのです。

 

「あなたに至(いた)りとどくよ。
我に至(いた)れよ。
われを憑(たの)めよ。
あなたに喜びを与えるよ。わが浄土にやどるのだよ。

 

あなたを招き引くよ。
あなたの口を使って『南無阿弥陀仏』と出てくるよ。
心を使って信をめぐむよ。
あなたにナマンダブツのありがたさを教えるよ。
この道をおいで。
この道は信(まこと)の道だよ。
あなたは何も計らわなくて良いよ。
あなたをナマンダブツと喚び続けるよ。」

 

名告りの宗教、それが浄土真宗です。

 

(おわり)

 

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No.256 紫藤常昭師(平成29(2017)5/26)

 

【讃題】
そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく、「これより西方に、十万億の
仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と
号す。いま現にましまして法を説きたまふ。

 

お念仏の中で

 

「亡き方と、私はどこであえるのでしょうか?」

 

答えは浄土真宗には二つあります。

 

一つはお浄土で会えます。

 

そしてもう一つは、今、お念仏の中に遇(あ)っていくのです。

 

「往(ゆ)きし人 みなこの我に かえりきて
    南無阿弥陀仏と 称えさせます」(作者不明)

 

元来、私たちは生活に役立たないものに興味はありません。
だからお念仏なんかしたくありません。
ましてや不可思議の仏さまの話なんて聞きたくないものです。

 

しかし先に往かれたお方々が、
私をしてお念仏申させ、お聴聞させます。
そうさせる方々が仏さまなのです。
お念仏の中に、亡き方々の仏となってくださったご恩をいただきます。

 

(おわり)

 

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No.255 天岸浄圓師(平成29(2017)3/15-16)

 

【讃題】
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし

 

お浄土はあるのですか?

明治の頃から言われはじめた、
「浄土はあるのか?」という質問に、
仏教では答えない事になっています。

 

質問がずれているから答えようがないのです。
たとえて言えば、本堂のど真ん中に座っているのに、
「本堂はあるのか?ないのか?」と尋ねるようなものです。

 

「あるのか?ないのか?」ではなく、
「開けてくるのか?開かれてこないのか?」と、
自ら問い直します。

 

お浄土は煩悩のけがれを離れた世界、
仏さまの眼に映る風景です。
仏さまはどこをご覧になっても浄土です。

 

現実の私には決して見えない、
心に開けてこない浄土。
しかし、お念仏のご縁に出遇い、
お慈悲のぬくもりに触れた者は、
「お浄土の仏とならせていただく人生が開かれました」と喜ばせて頂きます。

 

(おわり)

 

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No.254 安方哲爾師(平成29(2017)1/26-28)

 

【讃題】
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

 

【転じられていく人生】

 

私たちはお寺で阿弥陀さまの話を聞きます。
「南無阿弥陀仏の仏さまは、
今、南無阿弥陀仏の名となりまして、
この身に届いてくださり、
この口から『ナマンダブ』とこぼれ出てくださる、
『あなたをお浄土へ迎え取るよ』と言ってくださった仏さまです…。」

 

お寺でお聴聞する人は、
仏さまのお智慧を通して物事を見る癖がついてきます。

 

すると物の見方・人生の意味が変わってきます。
「空しい人生」から「尊い人生」へと方向が転じられていくのです。

 

育児や仕事。
かつて色鮮(いろあざ)やかだった人生の目標も、
時と共に色あせてきます。
家族を失い、
「こんな辛い人生とは思わなかった。
こんなにも孤独だったとは」
と思う時、
私たちは「空しい人生」と言うのです。

 

しかしお聴聞を通して、
「私の人生…口にできない辛い事、悲しい事、いっぱいありました。
でもそれらのお陰で、
この度の人生、大悲の仏さまにお出遇(であ)いすることができました」
といただく時、
「尊い人生」と言えるのです。
そこに浄土真宗のお法(みのり)があります。

 

(おわり)

 

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No.253 服部 法樹師(平成28(2016)11/24-25)

真実の意味

親鸞聖人は、
自らがいただいたみ教えを「浄土真宗」と言われました。
「真宗」とは〈真実の教え〉という意味です。
そしてこの場合、真実の「実」の字は“充実”という意味です。
真実(如来の大悲)にきちっと出遇(であ)った者は、
人生が充実していく、というのが真実の特徴だからです。

 

真実に出遇ったからといって、
世の中がバラ色になるわけではありません。
どんな人生にも必ず苦しみ、悲しみ、障害……いろいろあります。

 

しかし、
直後は苦しみの中で涙する事はあっても、
後から「あの出来事も無駄ではありませんでした」と言わせてくれるもの、それが真実です。

 

どれ一つとして、
空しく、忘れ去るべき思い出ではなく、
如来の大悲とのご縁でした。

 

(おわり)

 

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No.252 成 照星師(平成28(2016)9/30-10/1)

 

阿弥陀さまの話

 

浄土真宗のご法義は、
阿弥陀さまの話、阿弥陀さまのお助けぶりをいうのであり、
私の話、私の暮らしぶりを指しません。
これが基本であり極意です。
嫌という程気をつけます。

 

暮らしの話は楽しいです。
知識や容貌、家族や財産の話。
しかし最後はどれ一つあてになりません。

 

また「老いを楽しもう!」「病気は仕方がないよ」
「死は受け入れるしかない」「ピンピンコロリが良い」。
すべて私の話です。
悪いとは言いませんが、
その話に悲願の阿弥陀さまはおられません。

 

お念仏します。
「我をたのめ。我にまかせよ」。
名の声の仏である阿弥陀さまの話を聞きます。
話はお念仏ただ一つなのです。
分かり易いとか難しいとか、心が軽くなったとか、
私の話(感想)に用事はないのです。

 

(おわり)

 

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No.251 加藤 一英師(平成28(2016)8/26-27)

 

今も楽しいよ

ある方の臨終の時の事。

 

奥さんが、
「あなた…好きな勉強をさせてもらって、良い人生、楽しい人生でしたね」
と言うと、
「うん…そうだな。楽しかったな。けれど、今も楽しいよ」。
消えて行くいのちの中でハッキリとこたえられた。

 

奥さんもハッとして、
「あなた……そうですよね。一番会いたかった人に会えるんですからね。」

 

親鸞聖人、
阿弥陀さま、
あの多くの有縁の方々にとうとう会える。
だから今も楽しい。
浄土真宗のいのちのとらえ方の極致である。

 

お念仏申す時、
死は単なる通過点でした。
再会する世界が明確にあります。
「また会えたらいいね」ではなく、
もっとすごい世界を身近に持った私たち。
共々に伝え合い、語り合っていくお盆。

 

(おわり)

 

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No.250 森田 義見師(平成28(2016)6/27)

 

浄土への人生

 

往生 往生 言うけれど

 

死ぬるんでない 生きるんです

 

やがて此の世に還(かえ)り来て

 

あなたと 共に生きるんです

 

ナムアミダブツの 身となって

 

あなたに 語りかけるのです

 

(参照:木村無相「還相」より)

 

人は去っても、
称えるお念仏の中に還って来て下さいます。
お浄土への人生を歩ませんと導いて下さっています。
そのはたらきの根源がお浄土です。 

 

お浄土を真実(まこと)なるはたらきといただき、
そのはたらきを私の生きる人生の宗(むね)、
中心とさせていただく。
それが浄土真宗という宗教です。

 

(おわり)

 

 

追記:参考までに木村無相さんの「還相」という詩を紹介します。

 

 

還相(一) ―末讃を戴きつつ―

 

“ナムアミダブツの廻向の
恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には
還相回向に廻入せり”

 

わたしがあらわす
還相は
未来のほかは
ありません
ただただ未来と
言ったとて
わたしが死んだ
その時で
とおい未来ぢゃ
ありませぬ

 

わたしの未来は
ナムアミダブツ
ただ念仏の
身となって
此の世であなたに
遇うのです
ナムアミダブツは
にょらいさま
ナミアミダブツは
未来のわたし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(二)―末讃を戴きつつ―

 

“像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり”

 

往生 往生
言うけれど
死ぬるんでない
生きるんですよ
生まれかわって
生きるんですよ
やはり此の世に
還り来て
やはりあなたと
語るのです

 

ただただ未来は
此の身ぢゃなく
ナムアミダブツの
身となって
ただ念仏の
身となって
あなたに語り
かけるのです
ナムアミダブツが
未来のわたし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(三) ―末讃を戴きつつ―

 

“弥陀の尊號となえつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり”

 

尊號 尊號
ナムアミダブツ
念仏往生
信ずるひと
信楽まことに
えたるひと
尊號信ずる
身とならば
やがてはみ名の
身とならん

 

やがてはみ名の
身と知らば
ナニカニつけて
ナムアミダブツ
憶念の心
つねにして
仏恩嘆ずる
ことならん
仏恩嘆ずる
ことならん

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

 

還相(四) ―末讃を戴きつつ―

 

“如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし”

 

ナムアミダブツの
一つにて
往還二益を
たまいたる
にょらい大悲の
恩徳と
それを称える
師主の恩
粉骨砕身
報ずべし

 

されど粉骨
砕身の
かなわぬ凡愚の
身にあれば
ただただ弥陀の
名願を
たのみて未来
還相の
身となり恩徳
報ずべし

 

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ

 

(木村無相『念仏詩抄』)
  ※井上敬信さん、資料ありがとうございました。

 

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No.249 福間 義朝師(平成28(2016)5/20-21)

 

私からの自由

 

「この子が大きくなったら、自由になれる。」
「退職したら、[私は]自由に…。」

 

だが年を取っても私は自由にならない。
むしろ用事は増え、次から次へと束縛される。

 

「私が自由になりたい」が間違っていた。

 

「私」そのものが、「我(が)」という煩悩で、苦悩の種でした。
私に煩悩がくっついているのではなく、煩悩の塊にラベルをはったのが私。
自分で自分は持ち上げられない。
「私が[煩い悩みから]自由になる」事は永遠に無理です。

 

「私から自由にさせていただく」のが他力の世界。

 

人生という航海。
煩悩の私は船の荷物。
舵取りは届いてくださった南無阿弥陀仏。
この身の政権交代です。
舵から手を離し、合掌(念仏)礼拝いたします。

 

(おわり)

 

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No.248 中島 昭念師(平成28(2016)3/25-26)

 

法楽

 

人生の楽しみに、
「外楽(げらく)、内楽(ないらく)、法楽楽(ほうがくらく)」の三種があると親鸞聖人はお説きになります。

 

「外楽」とは外から得た楽しみです。
食事や旅行、趣味や道楽といった、欲望が満たされる事です。

 

「内楽」とは要するに心の持ちよう、プラス思考の事です。
困った事も、考え次第で元気になります。

 

「法楽楽」とは、
聞法により、仏の智慧を恵まれて生じた楽です。
「尊いご縁でした」と、あらゆる物事に対して頭が下がる身になった、静かな喜びです。

 

皆が等しく与えられた「いのち」。
それを今、どのようにして生きるのか。
如来の智慧をいただいた上でものが味わえる世界があります。
そういう身にお育ていただくほど尊い、素晴らしい事はないと、聖人は教えてくださいます。

 

(おわり)

 

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No.247 溪  宏道師(平成28(2016)1/20-22)

 

はかり

 

お念仏は口で称えるので別名「称名」といいます。
しかし親鸞聖人は「称」をわざわざ「はかり」の意味だと説かれました。

 

称(はかり)とは、たとえば体重計です。
体重計は乗ったものの体重をそのままあらわします。

 

同様に、称名(=念仏)とは「名号」という、
如来の名前であると同時に、
この上ないお徳を、そのまま聞き頂戴することです。

 

決して口に出すという人間の行為に手柄があるのではありません。
称名という行為は、
自分の受け持ちではなく、如来の受け持ちなのです。
ですから「他力の称名」と呼びます。

 

念仏は私が口で称えていますが、
称えているまんまが如来さまの大きなおたはらきの世界なのです。

 

(おわり)

 

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No.246 深野 純一師(平成27(2015)11/19-20)

 

慣れておく

 

私たちの先祖は、お聴聞の稽古を残されました。

 

私たち同様、毎日慌ただしい中でも、先祖はたびたびお聴聞を繰り返しました。
そして自分自身の「いのちの所在」というものを、お釈迦さまのお説教の中に確認いたしました。

 

いつか終わるいのち…しかし消滅するのではなく、
万端の用意があるというお説教に、私たちも慣れておこうではありませんか。

 

あなたをあなた以上に大切にされたお方です。
今、あなたの口元におられます。
「残りの人生を一緒に生きてくださいますから、聞いておきなさい」と説かれるお釈迦さまのお説法を、
先祖たちは長い歴史を生きて私たちに届けてくれました。

 

(おわり)

 

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No.245 成   照星師(平成27(2015)09/29-30)

 

人情ではなく

 

私たちは亡き方の事を思った時、お念仏します。
それは世間の「(故人は)お星さまになった」と同じ人情の話ではありません。
根拠なき、人情だけのお念仏をしているのではないのです。

 

「お爺ちゃんがどこにいるのか知りたかったら、ナンマンダブと言ってごらん。
お爺ちゃんは南無阿弥陀仏という仏さまになったんだよ。」

 

今、私の所に“南無阿弥陀仏”というおはたらき(功徳)の有り様があり、
それはそのまま、やがてお浄土へ参ったら開くべきはたらきです。
ならば、故人もこの南無阿弥陀仏に違いないのです。

 

こいしくば 南無阿弥陀仏を とのうべし
われも六字の うちにこそ住め (蓮如)

 

(おわり)

 

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No.244 松林 行圓師 平成27(2015)08/27-28

 

内なる声

 

お盆(盂蘭盆(うらぼん))には「逆さま」という意味があります。

 

生まれる前からお仏壇はありましたので、
仏はあそこ(仏壇の中)にいると思って来ました。
しかしお聴聞してみると仏さまはここ(私の心)でした。
逆さまな見方だった自分に気づかされます。

 

夕方、お仏壇の前でお礼をしながら思います。
「反省ばかりの一日でした。あなたの事も忘れ通しの私でした」。
しかしそんな私の心に聞こえてくる、
内なる仏さまの声があります。
「あなたが忘れても、あなた一人を忘れない仏がここにいるよ」。 

 

お聴聞し、
内なる声が聞こえてくる人、
仏さまとの会話が身につく人になります。
私と一緒に息をしておられるのが本当の仏さまです。

 

(おわり)

 

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No.243 御園生 宣尚師 平成27(2015)06/17

 

喚び声

 

浄土真宗では南无阿弥陀仏を、
「弥陀の喚(よ)び声」と解釈します。

 

「呼」でなく「喚」と書きます。
「招喚(まねきよばう)」の声だからです。
「阿弥陀さまは私をいつでも、『そのまま参れよ』と招いてくださっている。」
「私はお浄土で親様に待たれている」
という喜びから自然にわき出た解釈です。

 

目の前の事に心奪われ、
用事が何だったか忘れてしまう私がいます。
日常に追われ、
人生の目的を忘れてしまいがちな私。
そんな私を阿弥陀さまの方が片時もお忘れでないという世界があります。
私が私の事を忘れていても、
阿弥陀さまは一時もお忘れでなく、
常に喚び続けてくださっているというのが、
他力の世界です

 

(おわり)

 

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No.242 若林 真人師 平成27(2015)05/15-16

 

今の天気

 

「あなたを一人にはしない」「必ず救う」…私を喚び通しの阿弥陀さま。
一時も私をお忘れでない他力の話です。それは“今”の話です。

 

たとえば「明日はきっと晴れると(私は)信じます」とは言いますが、
「今、晴れていると信じます…」、
そんな言い方はありません。
何故なら晴れた中では「…と信じる」ではなく
「あ、ぬくいわ♪」です。
思うのは私ですが、
それは天気の用(はたら)き(他力)です。

 

親鸞聖人がいわれた他力の信心も同様です。
「きっと救われる」、「死んだら浄土へ生まれられる(と信じる)」ではないのです。
お浄土参りは未来の話ですが、
明日の天気みたいな話ではありません。
今の天気です。
今、念仏申す私の不安なき心こそ、
如来の用(はたら)きであり、それを「如来よりたまわりたる信心」(『歎異鈔』)といわれたのです。

 

(おわり)

 

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No.241 和田 俊昭師 平成27(2015)3/13-14

 

因縁がととのう

お浄土へ生まれ仏となるには、
生まれたいという[願い]と、
生まれるための[修行]が必要です。
しかし修行どころか、
願う事さえ忘れて生活する私です。
煩悩まみれの私は娑婆がどこまでも好きなのです。

 

しかしそんな私だからこそ見捨てることができないと、
阿弥陀さまの方が[願い]をたてられました。
果てしない[修行]の末に、
今、私を照らし、煩悩の闇を破って、私に至り届きます。

 

お念仏は、
「[願い]と[行]を具えた仏がここにいるよ」という仏さまの喚び声です。
お浄土参りの因縁である[願]と[行]は今まさにととのっているのです。

 

お浄土を願いもしない私のまま、間違いなく、生まれさせていただくお念仏の教えです。

 

(おわり)

 

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No.240 安方 哲爾師 平成27(2015)1/22-24

 

私一人のため

 

阿弥陀さまは遠いお浄土におられるのでもなければ、
お仏壇に鎮座ましますのでもありません。
仏さまはおっしゃいます。
「あなたの〔いのち〕の上に『ナマンダブ』とあらわれでる仏となるよ」と。
ここしか仏さまの働き場所、現場はないのです。

 

お聴聞するのに邪魔な、一つの先入観があります。

お経といっても、お念仏といっても……、
あれはみんな死んだ人のためにあるのだ。

これが少しでもあると、お聴聞は耳に残りません。

 

他の人、昔の人の話ではありません。
「阿弥陀さまがご苦労くださったのは、ひとへに今、私一人のためでありました」と聞く時、
初めてお経が、お経本来の意味をもってくるのです。

 

(おわり)

 

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No.239 服部 法樹師  平成26(2014)11/13-14

 

思い直す

 

「人間に生まれる事を誕生というのだ。
お浄土に生まれる事を往生というのだ。
誕生したら人間として生きていく。
同様に、往生したら仏さまとして生きていくのだ。
お浄土の話を死んでから先の話と誤解してはいけない。
お浄土に生まれ、仏さまとなって、一切の人を救っていく。
お浄土に生まれ、生きていくのだよ!」(梯和上)

 

お念仏をしながら、もし「死んでおしまいになる」と思ったら、思い直してください。
「そう…私の頭は、死んでおしまいになるとしか思えないけれど、
仏さまはお浄土っておっしゃっていたな。
お浄土に生まれて今度は仏さまとして生かさせてもらうのだ」。
そのようにキチッと思い直し、生きていく念仏生活です。

 

(おわり)

 

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No.238 成 照星師  平成26(2014)09/26-27

 

お礼

 

朝の(お仏壇での)おつとめを《お礼》という。
《お礼》とは済んでしまった事に対して使う言葉。
これからすることに対してではない。

 

我々のご法義は、これから一生懸命、努力聴聞して、
お浄土参りを間違いないものにするのではない。

 

「氷のつめたさは氷が教える」という。
氷がしゃべるわけではない。
氷を持った時、「冷たい!」と知る手の冷たさは、
氷のはたらきによるものということ。

 

同様に、私の浄土参りへの心が定まり、
「お浄土へ参れるだろうか、やはり駄目か」という関心が消えたのは、
お浄土を完成された阿弥陀さま自身のおおせを聞いたからです。
それは全く阿弥陀さまのおはたらきす。

 

用事は既にすんでいました。
だからお礼せずには…。

 

(おわり)

 

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No.237 篠原 信昭師  平成26(2014)08/28-29

 

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠
なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。」
(教行信証 行巻 正信偈冒頭)

 

[賑やかな道中] 

 

一人いてしも喜びなば二人と思え。
二人にして喜ぶおりは三人(みたり)なるぞ。
その一人こそ親鸞なれ。   (報恩講の歌 2番)

 

大切な人を亡くし、
孤独のいのちを嘆く私と深く洞察された阿弥陀さまでした。
だからこそ、
共に歩む「南無阿弥陀仏」の声の仏となられました。

 

お念仏申す時、
一人たたずむ我が身ながら、
如来さまと二人三脚であった事をしみじみ味わいます。

 

いえ二人ではありません。
親鸞聖人もおられます。
また先に浄土へ生まれられた故人も、
如来さま同様、いつも一緒でした。
賑やかな道中です。

 

別れの出来事でしたが、
それを歓喜(かんぎ)の法縁(法に出遇うご縁)にかえなす、
お念仏の教えです。

 

(おわり)

 

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No.236 加藤信行師  平成26(2014)06/25

 

【讃題】
「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳、識心に攬入す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、
少善根にあらず、これ多功徳なり」と。
(元照律師『弥陀経義疏』(『教行信証』行巻引文), 『浄土真宗聖典』p. 180))

 

[行く先を告げる]

 

  声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり
  仏は声のお六字と  姿をかえて我に来る

 

阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」の声の仏・音の仏となって、私に届いてくださる。
迷い苦しみ、哀しみ惑い続ける私を、「必ずお浄土に生まれさせる」と誓い、その通りに仕上げてくださる。

 

「二三日の旅行でも家族に行く先を告げて出かけるではないか。
一生の別れに望んで、いのちの行く先もつげずに行っていいのだろうか……。」
(某師の暑中見舞いより)

 

「お浄土がある」「お浄土へ行く」「(故人は)お浄土へ行かれた」「お浄土で会う」…。
行き先が告げられる人生はすがすがしい。
残る人も安心です。

 

(おわり)

 

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No.235 紫藤 常昭師  平成26(2014)05/08-09

 

【讃題】
「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。
いかんとなれば、
前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、
連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。
無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。

 

  わたくしが こんなに優しくないなんて
  介護の日々に 思い知らさる

 

如来さまの見たこの私は、縁によって何をしでかすか分からない凡夫でした。
そんな私に、「強くなれ、賢くなれ」とは言わず、誓われたのがご本願です。

 

 母「わたしゃあ、仏にはなりきらん。」
 娘「ああ、なりきるもんか。誰もなりきりゃせん。私だって仏になりきらん。
   だから阿弥陀さまが『仏にする』って言うてくださったんじゃないと?」

 

我々のご宗旨は「(私が)仏になる」ご宗旨ではありません。
「(阿弥陀さまが私を)仏にする」ご宗旨です。
全て仏さま側の話。
今その事を、お念仏の中に聞かせて頂きます。
「もうちゃんと出来ておるから、安心せよ」と。
知っているのが大切です。

 

(おわり)

 

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No.234 天岸浄圓師  平成26(2014)03/12-13

 

【讃題】
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

 

【如来の大悲】

 

大慈・大悲の方、それを仏さまといいます。
「慈」とは慈愛。見返りを求めず愛をそそぐ事。
「悲」とは悲しむ事。人の悲・苦・不幸を見過ごせず、その苦しみを代わっていきたいと思い、行動する事です。
「大」は分け隔てがないという事です。仏さまはどのような者も見捨てておけないのです。

 

大慈悲の仏さまを尊い方と仰ぐの者を仏教徒と呼びます。
そして、それは単に仰ぐだけでなく、自らの反省となってあらわれます。
慈悲の心も行いも極めて限られている自分。
どちらかといえば自分の幸せばかりにこだわり、
他人の不幸を見て見ぬふりし、時には他人の悲しみをみて「自分でなくてよかった」と思う自分への反省です。
その反省からわが身を「凡夫」と呼びます。
「凡夫であります。」という言葉こそ、そのまま仏さまを仰ぐ生き方なのです。
仏も立派、私も立派とはいきません。

 

【涅槃経】

 

そんな仏のお慈悲の深さを示すのに、
親鸞聖人は『涅槃経』を通してお示しくださいました。

 

お釈迦さまは80年の生涯でおかくれになられた。
仏さまも私たちも死んでしまえば同じか?
違う。
本(もと)が違う。

 

私たちは自分の幸せばかり、それに突き動かされて一生いきていく。
ところが仏さまは、
世界の人々の幸せを実現していこう、という思いに突き動かされて生き続けておられたお方。

 

では仏さまが亡くなると、それで慈悲は終わるのか?
大慈悲の大が消えてしまい、機能停止になるのか?
そうではありませんと教えてくれるお経が『涅槃経』。
お釈迦様が亡くなることを手がかりにして仏の本当の気持ちを示された経典。
具体的には、アジャセ王の廻心(信仰がおこること)の話。

 

【アジャセの救い】

 

いよいよ慚愧(恥ずかしい)の念で苦しむアジャセ王を、クシナガラから察していたお釈迦さまは、
「アジャセのために涅槃に入らない」と言った。

 

涅槃とは「常楽」ともいう。永遠の安らぎである。
釈尊が涅槃に入るといこと、それはこれまでの大変なご苦労である「教化活動」の終了を意味する。
そんな涅槃に入らないといった意味は何か?

 

アジャセとは、ただ人間アジャセではない。これから先もアジャセと同じ苦しみをもつ、物の道理が分からなくなり、
してはならない事をしてしまう者が、いくらでも出てくる。
またその中で後悔し苦しまなければならない者がいくらでも出てくる。
実はアジャセとは歴史の中の一人の人格、名前ではなくて、
これから未来永劫こういう生き方をしなければならないものが次から次から生まれる。
そういう人達のために、仏さまは「決して涅槃に入らない」と言った。

 

仏さまとは、苦しみ悲しみ苛まれる人と共に生きていく。
決してその人を見捨てることができない。
それを慈悲という。
お釈迦さまのご存命は80年。
でも慈悲の心は80年ではない。
未来永劫いかなる時代になっても、アジャセと同じ者が生まれ出てくるかぎり、生き続ける。
したがって大悲には終わりや、死はない。
終わりがない大悲を「無量寿如来」と名づけた。
「帰命無碍光如来」、実はこれが釈尊の仏のもとであった。
仏の本は阿弥陀さまである。

 

つまり阿弥陀さまの大悲をこの地上においてはっきりと実現くださったのがお釈迦さまである。
お釈迦さまは80年間、大悲によって生きぬかれた。
大悲に突き動かされた方は、実は阿弥陀さまに突き動かされて生きぬかれたお方である。

 

【他力の信心】

 

ところでお慈悲を聞いて、
慚愧の念、恥ずかしいなと思えた心、
それは阿弥陀さまのお慈悲に感動し、
お釈迦さまを動かしたお慈悲に感動し、
その感動が自分の現実をふりかえって「凡夫である」とか、恥ずかしいとなったのである。

 

「煩悩具足の凡夫」といわせてもらっていることは、実は出場所は私の心ではない。
仏の慈悲から生まれてきたもの。
だからそれを信心という。
仏さまから恵まれたのだから、他力回向という。
仏さまのもとを仏性という。
だから当然、ご信心が仏性です。

 

(おわり)

 

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No.233 岡村謙英師  平成26(2014)01/20-22

 

慶ばしいかな、
西蕃(せいばん)・月支(げっし)の聖典(しょうてん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈に、
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信(きょうしん)して、
ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

「浄土真宗のお坊さんはなぁ、
親鸞聖人からあずかったご門徒を何人お浄土へつれていくことができるか、
それが本懐というものじゃ。
そのために『阿弥陀さまのお救いは本当です!』、
その事を伝え続けるのがお坊さんの責務である」。

 

33年前の父の遺言、忘れがたし。
今日まで育てられたご恩を思うばかり。

 

親鸞聖人が法然上人からお聞かせにあずかったのも、
「阿弥陀さまの救いこそが本当であった」、その事一つでした。

 

「今、私は間違いない念仏を喜ぶ者にさせていただいた」と、
師匠のご恩を思われたご開山様でした。

 

(おわり)

 

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No.232 松月博宣師  平成25(2013)11/14-15(永代経)

 

「いはんやわが弥陀は名をもつて物(※1)を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳、識心(※2)に攬入(らんにゅう。※3)す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、
少善根にあらず、これ多功徳なり」と。
(元照律師『弥陀経義疏』(『教行信証』行巻引文), 『浄土真宗聖典』p. 180))

 

  ※1 物:衆生のこと
  ※2 識心:衆生の心。
  ※3 攬入:入り満ちること。

 

「あなたは善(い)い人ですか?」
「いえいえ、そんな事はありません。」
「では、あなたは悪い人ですか?」
「とんでもありません!」

 

善人でもないが、それ程悪人でもないと思っている私がいます。
自分より善い人間、自分より悪い(嫌いな)人間を身近に置いて比べるからでしょう。
「あの人よりは悪くない」と。

 

 「浄土宗は愚者になりて往生す」。
親鸞聖人が長い間、大切にされてきた師法然上人の言葉です。
浄土宗…念仏申すものは、日々、
「一緒に歩むよ。一人にはしないよ」と誓われた智慧の阿弥陀さまが身近です。
弥陀と共に歩む往生への道。
「愚者になりて」とは、阿弥陀さまと二人三脚の人生となったことの表明です。
申し訳なく、頼もしく。

 

(おわり)

 

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No.231 成 照星師  平成25(2013)09/27-28(秋讃仏会)

 

「南無阿弥陀仏」。
それは阿弥陀仏さまのお覚りの姿の事であり、おはたらきの姿の表明です。
それを何故私たちは飽きもせず味わうのか。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏というはたらきは、
この私がお浄土へ参るべき功徳の力だからです。
単なる仏の性質ではないのです。
他人事ではないから何度も口にもうします。 

 

船の上の石は沈みません。
この私は石です。
どこにも仏さまのような功徳はみつからない、迷いに沈む身です。
そんな私がどうして仏になるというのか。
私を離さない南無阿弥陀仏のお慈悲の力、お慈悲の船がありました。

 

(おわり)

 

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No.230 加藤 一英師  平成25(2013)08/30-31(歓喜会)

 

如来の作願をたづぬれば
 『無量寿経優婆提舎願生偈』(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)にいはく、
「いかんが回向する 一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に」
この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。
一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。

 

(如来二種廻向文 『註釈版』721頁)

 

浄土真宗では「お盆法要」のことを「歓喜会(かんぎえ)法要」と言います。
なぜか。お盆は「盂蘭盆(うらぼん)(ウランバーナ)」の略称で、
「逆さづりの苦悩」という意味があります。
私たちは時として、親子関係、対人関係を逆さまに受けとめ苦しんでいる事があるのではないでしょうか?
「何でこんな子どもを持ったか?」
「何でこんな親に生まれたか?」。
その苦悩を歓喜にかえていくのがご法義です。

 

……

 

息子さんを突然なくされた高史明(こうしめい)さんが色紙に書いてくれました。

 

  泣いて、泣いて、泣いて、涙がかれるまで泣けばよい。
  枯れた涙の後に、大きな喜びがわいてくるのだ。

 

本当に辛い経験も、ご法義の縁によって、“ここ一番”という大切なものが身につく機縁(きえん)へとかわります。
決して折れない人生の軸となるもの。
それは「南無阿弥陀仏」の声一つである、と歩まれたのが親鸞聖人90年の他力一筋の生涯でした。

 

     ※現在、中国新聞で「親鸞(完結編)」を毎日好評連載中!

 

(おわり)

 

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No.229 北嶋 文雄師  平成25(2013)06/19(仏婦法座)

 

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(正像末和讃38首目 『註釈版』606頁)

 

仏の眼にうつる私の姿を「苦悩の有情(うじょう)」という。
有情とは「情ある者」。
感情をもち、様々な事情を抱えて苦悩する私がいる。
この苦しみは、悲しいかな誰にも分かってもらえない。

 

私は一人で生きてたった一人で死んでいくのか。
そうではないよと教えてくださったのがお釈迦さまと親鸞さま。
阿弥陀仏だけは、こんな私の胸に入り満ちて、
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)―私がここにいるよ―」とお慈悲を届けてくださる。

 

私の孤独の人生にご一緒くださる仏、その仏の名を「阿弥陀」という。
私がいるから阿弥陀さまがおられる。

 

(おわり)

 

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No.228 中島 昭念  平成25(2013)05/10-11(降誕会)

【讃題】
弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。
名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。
たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。
名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。(註釈版166頁)

 

親鸞さまはご自身を「非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)」といわれた。
流罪によって僧侶の身分を剥奪されたから「非僧」なのではない。

 

悲しい事にこの世は不平等な世界。それは僧侶の世界も同様でした。
勝ち負けがあり、損得があり、貧富がある。
下は上を見て妬み、上は下を見て同情する。
そういう上下にとらわれた世界から抜け出る人生、「生死いずべき道」をお示しくださった。
どこにあるのか?阿弥陀さまに救われていく世界。
聖人の言葉に従い、
阿弥陀さまのお救いを喜んで、仏になりお浄土に生まれる人生を歩ませていただくご縁が降誕会です。

 

(おわり)

 

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No.227 福間 義朝  平成25(2013)03/15-16(春季讃仏会)

 

【讃題】
帰去来、他郷には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。
本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。(法事讃、註釈版411頁)

 

愛しい人であってもすれ違いが多いのがこの世。
彼岸の浄土はあの人と本当に会える(心通じ合える)「倶(く)会一処(えいつしよ)」の世界である。
必ず会える。
だが手ぶらで会ってはいけない。
「あなたとの別れを単なる悲しみにはおわらせませんでしたよ。
悲しみをご縁として法を聞き、念仏をよりどころに精一杯生き抜きました」
の一言(おみやげ)を先だった方はどんなに待っておられるか。
今日のひとひ、どんなにつらいこと悲しいことがあっても、
念仏をよりどころに歩むことが、そのまま浄土の荘厳(手土産)にてんじられていく。

 

(おわり)

 

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No.226 溪  宏道  平成25(2013)01/23-25(報恩講)

 

【讃題】
『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮することなかれ。』
(『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131)

 

世間の常とう句は「家族を亡くされて、ご不幸なことですね」かもしれない。
たしかに別れは悲しい。
だが「悲しい(苦しい)=不幸」とだけしか思えない人、その人こそ本当の不幸者だ。
悲しい事であろうとも、それを決して不幸ではなかったといただける世界が聖人(しようにん)の教えにはある。
それは「幸せ」ではく「仕合(しあ)わせ」の世界。真実に遇う世界。
お念仏を称(とな)える時、「(苦しいけれども)この悲しみにであったおかげで、大切なもの(真実)にであえました」といただける。

 

(おわり)

 

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第225回 深野純一師(2012/11/09-10・永代経法要)

 

【讃題】無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞こえんと。

 

いつの時代にも通じる“人間の常識”、それは「世の中は何事も努力次第、行き方次第で解決がつくはずだ!」というもの。

 

努力・真面目は何よりも大切である。そしてそれによって多くの“賢さ”を身につける。知識・教養・経験という賢さ。世の中の問題、人生論……たいてい私たちは解決できる。

 

しかしどれだけ努力し真面目であって賢さをみにつけても、決して解決のつかないものがある。すなわち、

 

「生の従来するところ、死の趣向するところ」(『大無量寿経』)

 

世の中ではなく、人生ではなく、あなた自身です。さてあなたは一体どこからやってきましたか?今度はどこへ行きますか?そういういのちの来し方、行く末を思う時、賢さの限界を知る。答えようのない人間の賢さ。

 

いのちの行く末……誰もが向き合わなければならないいのちの現実。どれだけ経験をつんでも答えられない。だからせいぜい開き直って「死んだらしまい」というのが私たちの答えだろう。悲しいかな賢くなると分からないといえなくなる。私たちの最後の最後まで残るもの、それは自尊心(プライド)。

 

「私はどこへ行くのか?」その人間の賢さでは答えの出ない問いに対して、阿弥陀さまがあなた以上の心配をされますよと説かれるお説教(法)がある。私たちの話ではない。阿弥陀さまのご心配のお話。聞いておこうではありませんか。

 

(おわり)

 

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第224回 成 照星師(2012/9/28-29・秋讃仏会)

 

【讃題】
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、
安楽国に生ぜんと願ず。

 

われ修多羅の真実功徳相によりて、
願偈を説きて総持し、仏教と相応せん。

 

彼岸とは単に時節のことではなく、
本来の意味は「@仏のお覚(さと)り」「Aさとりに到るべきタネ」のことである。

 

だが@もAも、我々凡夫にはわからない。
そこで釈尊は我々の智慧に間に合うべく、
長々と仏のご讃嘆(仏説無量寿経(ぶつせつむりようじゆきよう))をされた。
その中身と、
私がお念仏を申して仏のお慈悲を喜ぶ有り様(それはそのまま、如来のお慈悲に危ぶみのない有り様。
(例)氷をもったら手が冷たい)とが、
共に@Aに通じる内容だったので、
それを喜ぶ意味で浄土真宗では「讃仏会」という。

 

(おわり)

 

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第223回 松林 行圓師(2012/8/28-29・歓喜会)

 

【讃題】

 

人身受けがたし、今すでに受く。
仏法聞きがたし、今すでに聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依したてまつるべし」
(礼讃文)

 

この私が頼んだから
仏は立ち上がられたのではない。
今ここでお参りし手を合わしたから
仏はなんとかしようと思ったのではない。
仏とも法とも思わなかった時から
この仏は立ち続けて「オレが必ず助けてみせる」と
おってくださった。
そういう頼みもせんのに願いがかけられている事に気がつく人生は、あったかい。

 

(おわり)

 

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第222回 海谷則之師(2012/6/18・仏婦法座)

 

 

【覚醒の宗教】

 

世間ではよく死ぬことを「お迎えがくる」という。
誰がくるのか?
死に神か。
閻魔の使いか。

 

こんな言葉があるそうだ。

 

米寿(88歳)でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云え。
白寿(99歳)でお迎えの来た時は まだまだやりたい事があると云え。
茶寿(108歳)でお迎えの来た時は まだまだお茶がのみ足らんと云え。
          (『長寿の心得』より)

 

確かに人間だれしも死にたくはない。
元気で長生きはしたい。
その応援歌であるこの「心得」は、一見、聞き心地がよい。

 

しかしそうやって死から一生目をそむけることが果たして正しいのか。
仏教は“覚醒”、“目覚め”の宗教である。
健康な身体の今こそ、死をみつめていくのが仏教であり、
死を実際にみつめていけるのが浄土真宗である。

 

病に倒れて、いよいよベッドで仏書・宗教書をひらく………気にはならない。
癌になって身をもってしった事実である。

 

【常来迎】

 

浄土真宗は親鸞聖人のひらかれた、
阿弥陀様という如来の本願の教えである。

 

阿弥陀様はあらゆる者を救うために本願をたて、
お浄土をこしらえ、
念仏往生の道をあらわされた仏様である。

 

そして、さらに親鸞聖人は、
その阿弥陀様を、
「常来迎」の仏様といただかれた。
阿弥陀様は、
臨終になって来迎(迎えに来る、おむかえ)されるのではない。
常に来迎しつづけているのである。

 

如来は私を“糸のきれた凧”、すなわち、
無常の風の中を平気でさまよう私と見抜かれた。

 

人生にある3つの坂。
上り坂、下り坂、そして“まさか”。
“まさか”この私が最愛の人と別れようとは。
“まさか”この私が癌になろうとは。
夢にも思っていない。
しかしそれが現実。
……“まさか”この私がもういのち終わろうとは。
そのことを承知され、
そんな私をほおってはおけないと、
如来は名号(念仏)となって常に私によりそっておられる。

 

親鸞聖人はこう示される。

 

@来迎の「来」は「きたらしむ」。
  かならずお浄土へ生まれさせる仏様である。

 

 Aまた来迎の「来」は「かえる」。
  真実の世界へ帰り戻し、
  阿弥陀様同様、
  この上ない慈悲の活動をはじめる存在にする仏様である。

 

 B来迎の「迎」は「むかへたまふ」。
  他力の仏様である。
  いつ何があっても迷いの世界にはおとさない仏様である。

 

 Cまた来迎の「迎」は「まつ」。
  これは如来のはたらき(他力)に疑いをさしはさまず聞く私の心持ち。
  お浄土参りを楽しみに待つ。

 

 

痛がりで未練がましい私である。
いのち終わる最後まで「死にたくない」と思い続けるに違いない。
だが今、如来の本願・他力という真実のみ教えを聞く。
今生の最後は、私が思うような、空虚で悲観的な死ではない。
迷いのない真実の世界、お浄土に生まれ、
慈悲行を始める第一歩なのである。

 

浄土真宗の教えにであった時、
いま「おむかえ」があることをいただき、
そのことを喜んでいける世界に入る。

 

(おわり)

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
(『正像末和讃』)

 

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《第221回 安方哲爾師  平成24(2012)年5月14・15日》

 

【悪人正機】
私たちのご法義は「悪人正機(あくにんしょうき)」といいます。
率直にいえば「阿弥陀様のお目当ては悪人」という意味です。
こう言うと「あんな悪い人でも救われるというのか」と言う人がいます。
それは誤解です。

 

悪人とは、言ってみれば人間の本性みたいなものです。
私の本性は悲しいかな煩悩まみれ。
必ずといっていいほど苦しみのこの世界を、
苦悩して生き、苦悩して死んでいきます。
だから生まれ変わり死に変わり、
迷いの世界を経巡ってきました。

 

 

阿弥陀様は我々の悲しみを見た時に「ほおってはおけない」とおっしゃいました。
しかも我々というものが罪深き悪人であり、
自分でそれをどうすることもできない者とお見抜きになった仏様は、
「こうしろ、ああしろ」とは言わず、
「私があなた(悪人)を救える仏となるよ」とおっしゃいました。
そして五劫の間思惟し、永劫の間修行して
「あなたのせねばならないことを私の手元でしたよ」とおっしゃいました。
そのことを今お念仏を通して聞いていくのが、
悪人が悪人のまま救われていくという、
我々浄土真宗の「悪人正機(悪人こそが仏のお目当て)」というみ教えでした。

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

煩悩具足のわれらは、
いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、
仰せ候ひき。(『歎異抄』)
(あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。
阿弥陀佛は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、
そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、
まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。

 

それで、善人でさえも往生するのだから、
まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
(『歎異抄』第三章 現代語訳)

 

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《第220回 若林 真人師  平成24(2012)年3月23・24日》

 

【捨てない】
お念仏は阿弥陀様のこんなお喚び声です。
「安心なさい。そのままでいいよ。一人じゃないよ。あなたを捨てない如来だよ。」

 

@「安心なさい」…
  仏道にそむきつづける私を待ちつづけ、かかりつづける仏。
  決して裁くことのない慈悲の持ち主です。

 

A「そのままでいいよ」…
  私の全人格が救いの目当てでした。
  隠し事はいりません。
  願いも愚痴も聞いてくださる仏です。
B「一人じゃないよ」…
  たった一人で死んでいく私に、ただ一人寄り添ってくださる仏。
  支えの多い日常生活。
  でも、ふと孤独の思いが心をふさぐ時、お念仏申すと良いですよ。

 

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

 舎利弗、
 なんぢが意においていかん、
 かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。
 舎利弗、
 かの仏の光明無量にして、
 十方の国を照らすに障碍するところなし。
 このゆゑに号して阿弥陀とす。
 また舎利弗、
 かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。
 ゆゑに阿弥陀と名づく。
  (仏説阿弥陀経)

 

 

 

 

 

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《第219回 舟川 宏顕師  平成24(2012)年1月20・21日》


【捨てない】
阿弥陀様のことを、
親鸞聖人は「摂取・不捨(せつしゆ ふしや)」と教えて下さいました。
如来様は私を摂(おさ)め取って捨てないというのです。

 

一流の料理人は食材を捨てません。
「ゴミを絶対に出さない」ように心掛けます。
野菜のくずも皮もヘタも種も、
全て無駄せず、
料理に活かします。

 

阿弥陀様も一流の料理人。
私という食材の全てを無駄にせず、
仏陀(ぶつだ)(目覚めた者)に仕上げるとはたらいてくださっています。
苦悩も煩悩も全て引き受け、
「南無(なも)/阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)(マカセヨ/カナラズスクウ)」
と喚んでくださっているのです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『弟子四禅(でししぜん)の線(いとすじ)の端に、
たまたま南浮人身(なんぶにんじん)の針を貫き、
曠海(こうかい)の浪(なみ)の上に、
まれに西土仏教の査(うきぎ)に遇へり。
ここに祖師聖人の化導(けどう)によりて、
法蔵因位(ほうぞんいんに)の本誓を聴く、
歓喜胸に満ち渇仰(かつごう)肝に銘ず。
しかればすなはち報じても報ずべきは大悲の仏恩、
謝しても謝すべきは師長の遺徳なり。』

 

 

 

 

 

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《第218回 紫藤 常昭師  平成23(2011)年11月17・18日》


【お仏壇】
我々の先輩は家に仏壇を遺して行ってくださいました。
それは「仏様の話を聞いていけ」ということです。
仏様の話を大切にする先輩方でした。
家庭というのは裸になって大いばりで歩ける所だが、
その中で膝を合わせ、手を合わし、
賢い頭を下げて、仏様のお慈悲を聞く場所を設けてくださった。

 

人間の仕合わせとは衣食住足りることは勿論、
お金もないよりはあったほうが良いだろうが、
それよりも南無阿弥陀仏と届いた仏様に「南無阿弥陀仏」とおまかせして、
浄土参りさせてもらうという人生を生きるがええよと、
先に行かれたお方々が、後に行く者を導いてくださっているのです。
「ようこそでございました」と勤めさせていただくご法事が、
永代経法要の肝要であります。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

 

 

 

 

 

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《第217回 深川 倫雄和上  平成23(2011)年9月28・29日》


【私の身の上】
昔、大江和上がこうおっしゃっていた。
「仏願(ぶつがん)の生起本末(しようきほんまつ)
(阿弥陀様の一切の物語)を聴いては忘れ、聞いては忘れする。
その内ふと『仏願の生起本末は、私の身の上と似ているぞ』と思うようになる。
これが大切です。
仏願の生起本末は
私を含んだ事と思える身になったのをご信心という。
……まもなくこの世をさらねばならぬ。
何の憂いもない。
ここは障害のある国だ。
今度は、この世の理屈は一切通用しない、
明るい智慧の国、悟りの世界に生まれる。
何の心配もない」と。

 

念仏が出る老境の身は仕合わせです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
  (教行信証「信巻」 註釈版, p.251)

 

 

 

 

 

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《第216回 和田 俊昭師  平成23(2011)年8月26・27日》


【願わぬ故】
私どもの阿弥陀様という仏様は、
私どもを、その身のまま、
縁起の道理の世界であるお浄土に生まれさせ仏にしたいと願われ、
私の所にお出ましくださっているお方です。

 

 

法然上人最晩年の作としてこんな歌があります。

 

  「極楽は日に日に近くなりにけり あわれうれしき老の暮かな」

 

こんな境地になりた……くはない私がいます。
凡夫の私は「娑婆好きの浄土嫌い」。
何故、私はお浄土に参りたいと願わないのでしょうか?

 

私たちは、各々、好きな食べ物があります。
しかし、それは必ず一度は食べた事があるもの。
一度も食べたことのない物を「好きな物」と、誰が想像できるでしょう?

 

お浄土は悟りの世界です。
無苦無楽、苦もなく楽もない世界です。
それはこの私が決して経験したことのない世界。
頭で考えられない世界(お浄土)に生まれたいと願わないのは、当然なのです。

 

しかし、願わぬ私だから、
阿弥陀様の方が「そのような者を救いたい」と願われ、
今、仏の姿を捨て声の仏となって、
私の口を借り、 声となり、「ナマンダブツ」とあらわれて下さっているのです。

 

どうぞ、お念仏申させていただきましょう。

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり

 

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ
  (浄土和讃 註釈版, p.555)

 

 

 

 

 

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《第215回 藤本 唯信師  平成23(2011)年6月27日》

 

【浜までは】
「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」(滝瓢水(たき ひょうすい))

 

【海女(あま)】海中にもぐってアワビ・海藻(かいそう)などをとる仕事をしている女の人。
【蓑(みの)】カヤやスゲなどで編(あ)んで作り、肩から背中にかける、むかしの雨具。
【時雨(しぐれ)】冬の初めごろ、さっと降(ふ)ったり、やんだりする雨。

 

浜へ仕事に向かう女性達。
その道中は雨模様。
皆、一様に雨具を着ている。
雨に濡れないためだ。

 

それを見て笑う人がいる。
「どうせ海に入れば濡れるのに、なぜ蓑を着るのだ」と。

 

それは大きな勘違いだ。
今は濡れる場所ではない。
大切な仕事が待っている。
それまでは濡れない。
海水浴に行く子ども達とは違うのだ。

 

 

……

 

今、念仏者はお浄土への道を歩む。
いのちの行く末、それはお浄土の浜。
そこは仕事場だ。
仏になって人びとを救う仕事の始まりだ。
それまで一日ゝゝ、精進して生きる。

 

それを見て笑う人がいる。
「どうせ最後は仏になるんだ。なぜ今、真面目に生きるのか。」

 

それは大きな勘違いだ。
私の最後は地獄行きだった。
欲望、怒り、妬み……煩悩の心、地獄行きの心が止めどなく湧き起こる。
お浄土で仏になるはずもない私。

 

そんな私を仏は必ず救う(往生・成仏)という。
救いようのない私のために、法蔵菩薩(阿弥陀仏)は、
果てしなく悩み、終わりのない労苦を惜しまなかった。
その救いの証拠が、南無阿弥陀仏。

 

お念仏を称える時、最後まで見放すことのない仏のお慈悲に触れる。
悪人の自覚。

 

これ以上、罪を重ねる事を肯定してどうする!

 

 

  「欲や怒りや愚痴が出る 出る度毎にみ仏の
  慈悲の心に立ち返り 力の限り生きて行く
  (藤秀すい[王+翠])

 

(おわり)
(今年3月の「法座のことば」も宜しければ)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲(げんてつ)・愚夫(ぐぶ)もえらばれず
豪貴・鄙賤(ひせん)もへだてなし
  (『高僧和讃』 註釈版聖典 p. 597)

 

 

 

 

 

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《第214回 中島 昭念師  平成23(2011)年5月27〜28日》


【人間の喜び】
今日の福祉の進んだ社会において、
「生活苦」はずいぶん改善されてきた。
@貧困、A失業、B不潔(病気)、C怠惰(窮乏)、D無知(無能力)は、
昔より格段に減った。
ではもう仏教(仏法)は必要ないのだろうか?

 

仏法は、@〜Dの苦しみの解決が目的ではない。
いついかなる時に生まれようとも存在する「人間苦」の解決が目的である。
人間苦とは、「四苦八苦」である。
これらは人智を尽くしても片が付かない問題である。
だから苦しみ悩み、のたうち回って終わって行くしかない。

 

人間に生まれた以上、仏法には出遇わないとならない。
「あなた方が見て経験している人智の世界とは違う、素晴らしい世界がありますよ」
と残してくださったお経様の、仏智の話を聞かなければならない。
それはお念仏の話であり、ご信心の話である。
真実のお慈悲の話である。

 

仏智をいただく時、
決して解決の見えなかった悩みが、悩みとならなくなる世界がある。
喜びの世界である。
その事を全人生をかけて示してくださったのが親鸞聖人である。
今ここに苦しむ私の為にご出世くださった聖人。
ようこそご誕生くださいました!

 

 

  「人間に生まれたことの有り難さ
  仏法に遇えたことのかたじけなさ
  今日まで生かされていることの勿体なさ」
  (金子)大栄96歳(最晩年の色紙より)

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

如来、世に興出したまふゆゑは、
ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、
如来如実の言を信ずべし。
  (『教行信証』行巻 註釈版聖典 p. 203)

 

 

 

 

 

 

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《第213回 天岸 浄圓師  平成23(2011)年3月4〜5日》


【造悪無慚】
阿弥陀仏の救いは、善悪関係なく、平等に到り届きます。
しかしそのご法義をねじ曲げて、
「どんな悪いことをしても構わないのが浄土真宗だ」
と言う方がおられます。
造悪無慚(ぞうあくむざん。悪を造れども慚愧なし)と呼ばれる方々です。

 

そのような考え方に対して、
親鸞聖人はお手紙の中で、厳しく誡められておられます。

 

 

「聖典を見ることもなく、その教えの内容を知らないみなさんのような人びとが、
『往生のさまたげとなるものは何もない』ということだけを聞いて、
誤って理解(悪を造っても構わない)することが多くありました。
今もきっとそうであろうと思います。……

 

そもそもみなさんは、
かつては阿弥陀仏の本願も知らず、
念仏することもありませんでした。
しかし釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、
今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。

 

以前は「無明(むみょう)の酒」というものに酔って、
自分の都合ばかりで生き、
「@むさぼり、Aいかり、B自己中」の三毒ばかりを好んでおられました。
しかし阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、
無明の酔いも次第に醒め、
少しずつ三毒も好まないようになり、
阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。

 

ところが、
まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、
毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、
実に嘆かわしいことです。

 

煩悩をそなえた身であるからといって、
『どうせ私は煩悩まみれの悪人よ』と、
心にまかせて、
してはならないことをし、
言ってはならないことを言い、
思ってはならないことを思い、
どのようにでも心のままにすればよいといいあっているようですが、
それは何とも心の痛むことです。……

 

薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。
阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、
念仏するようになってから久しい人びとは、
後に迷いの世界に生まれることを厭い、
わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。

 

はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、
自らの悪い行いや悪い心を思い知り、
このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、
煩悩をそなえた身であるから、
阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、
間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。

 

……煩悩をそなえた身であっても、
真実の信心をいただいたからには、
どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。」
(末灯鈔第20通、参考 現代語版『親鸞聖人御消息 恵信尼消息』(本願寺出版))
薬があるからといって毒を飲んでも良いという道理がどこにありますでしょう?
だからどうぞ薬を好んで、
毒をうけないような生き方をつとめていきましょう。
それが如来様のご縁をいただいた者の生き方です。
そしてそれが、お救いを頂いた者の生き方です。

 

(おわり)

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、
真実の浄信(じょうしん)、億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信(ぎょうしん)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。』
  (『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131-132)

 

 

 

 

 

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《第212回 徳永 一道和上  平成23(2011)年1月26〜27日(お待ち受け法要)》


【悪人正機】
 親鸞聖人のご法義(み教え)の一つに「悪人正機(あくにんしようき)」(悪人こそが正(まさ)しく救いのめあて)がある。
『歎異抄(たんにしよう)』の次の言葉は有名である。
 「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」
(現代語訳…善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人は言うまでもありません)
この言葉を聞いて、
ある人は「悪人が救われると説くような本願寺を、なぜ警察は放っておくのか!」と言ったが、
そんな話ではない。
この言葉にどれほどのヨーロッパ、世界の人格者は感動し、念仏者になったことか。
世間の常識と真反対の言い方、そこに深い味わいがある。

 

世間は善悪の基準がなければ成り立たない。
だから私は常に、善悪の中でうごめき、相手といがみあっている。
「善(よ)し悪(あ)しの はざまに迷い」(仏教讃歌『分陀利華(ふんだりけ)』、作詞 川上清吉)続けている。

 

一生涯、誰であろうと否定しなければ生きていけない私。
そして悩み苦しみ命終わっていく。
そんな私を弥陀の慈悲はまるごと抱きかかえる。
「善(よ)し悪(あ)し」を超えたものが私の上に今、念仏となってはたらいている。

 

だが根性が変わるわけではない。
私はどこまでも悪人(あくにん)。
だからお慈悲にも背を向けて生きる。
そんなどこまでも背を向ける私を、向こうが追いかけてつかまえてくださる。
それを聖人は「救い」と言った。

 

 

 「これ阿弥陀 助けたいなら 助けさしょう(させよう)
  罪はようやらん(渡さぬ)  罪はよろこびのたね」
  (浅原才市(あさはらさいち))
島根の妙好人、浅原才市は念仏者の心のありようを見事に詠っている。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

 

 

 

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《第211回 松月 博宣師  平成22(2010)年11月5〜6日 (永代経)》


【救われない者】
私どもの浄土真宗という教えにはテーマがあります。
そのテーマは親鸞聖人の人生のテーマでもありました。
それは何か。

 

  「救われない者の救い」。

 

“救われる者が救われていく”のだったら分かります。
理屈が通っています。
しかし浄土真宗は「救われない者の救い」。
これはどういうことか。

 

私の理屈ではないのです。
阿弥陀様の理屈なのす。
救われない者を救おうとするはたらき、
これを聞いていくのが浄土真宗です。

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
(『浄土真宗聖典(注釈版)』, p. 85)

 

 

 

 

 

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《第210回 深川 倫雄和上  平成22(2010)年9月28〜29日 (彼岸会)》


【師】
師の教えは絶対です。
それが仏教の伝統です。
私たちの師は宗祖親鸞聖人です。
親鸞聖人は仰せになりました。

 

  仏願の生起本末を聞く

 

“阿弥陀様のお心を聞いた事が大切なんだ”と説かれました。
その師の言をひたすら守るのが何より肝心です。
【安心:お念仏の心】
仏教の筋立ては普通、「教行証」の三法立てです。
まず「教え」があり、その教えの通りに「行」じ、そうすると「証(しるし)」、すなわち悟りを得るのです。
ところが宗祖は、「教行信証」と四法立てを示されました。
何故そんなことをおっしゃったのか?

 

私たちの「教え」が、「阿弥陀様の話」だからです。
「私が〜する」という教えではありません。
他人(ひと)の話なのです。
「他人が力一杯〜した」ので、「他力」と言います。
だから私は何もしてないし、これからもしない。

 

雨が降って外に出ればどうなるか?
濡れます。
何もしなくても、濡れます。
手を広げたり、傘を逆さにしたりせずとも、濡れます。
びしょ濡れになり、水だらけになり、雨と一緒になります。
何故か。
余所から降ってくる雨だからです。

 

他力とは、余所から降ってくる仏教。
余所から降ってくる南無阿弥陀仏。
それに、私が濡れていくのが「信」。
雨の中で私が濡れるがごとく、
弥陀の他力の雨にびしょ濡れになっていくのが「信」。
何もしないのです。

 

でも傘をさすと濡れません。
他力の雨の中、自らの智慧を使うと濡れないのです。
「だんだんと降る他力のお助けの雨に、びしょ濡れになれば他力と一緒になる」、
というのに、〈自分は賢いと思っている人〉は、浅はかな智慧の傘をさすのです。
宗祖は一生涯「自分の智慧を使うのが一番いけない」と言い続けられたのです。

 

他力とは濡れること、それがそのまま信ずるということです。
【ご恩報謝】
真宗では「(私が)信じた」とは申しません。
何故なら他力にならない。
少しぶんどったことになります。
純粋他力は、何もしないのです。

 

では読経や御仏飯という行為は何か?
あれは“後からやる”事です。
「何もかもご用意くださった他力の親様に、
私も食べずにはおられないご飯をあげましょう、
お花をあげましょう、饅頭を……」というのは、
他力に濡れた後のご恩報謝です。
何をするのも、全て、
先手をかけた阿弥陀様の力用(はたらき)に「勿体ないことです」「尊い有り難いことです」というのが私たちの仏教生活です。
ですから真宗の仏教生活には、他宗がやるような難しいことはありません。
できる位でやっておけば良いのです。
けれど同時にご恩報謝だから、「(私は)やったぞ!」と威張ることはないのです
ご恩報謝をしながら、ご恩報謝を誇ってはならないというのが、
このご法義であります。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
(『正信偈』 註釈版聖典p.203)

 

 

 

 

 

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《第209回 加藤 一英師  平成22(2010)年8月24〜25日 (歓喜会)》


【夫婦】
藤沢量正先生の法話でこんなお話があった。

 

若くして妻をなくした夫、
そして三人の子供。
納骨の際、父は5歳の坊やにこんな話をして、
納骨をさせた。

 

「いいかい良くお聞き。
この骨はお母さんの骨だけど、もうただの骨なんだよ。
その意味が分かるかい?

 

いいかい、良く聞くのだよ。
お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ。
そこをお浄土と言うのだよ。
そのお浄土へ生まれられたお前のお母さんは仏さまに成られたのだよ。
だから、仏さまに成られたお母さんが残していったこの骨は、
もう、ただの骨なんだよ。

 

だけどね。
この骨は、お前を生んでくれたお母さん、
お前を今日まで育ててくれたお母さん、
そのお母さんの「いのち」を支えておったのがこの骨なんだよ。
だから、
これはただの骨であってただの骨ではないんだよ。
大切にお礼を言いながら、納めさせていただこうね。」
藤沢先生の法話の後、1ヶ月、考えた。
先生は何をおっしゃりたかったのだろうか……。

 

ふっと気がついた。
このお父さんは、子どもの前でお母さんを語る時、全部、敬語。

 

ただの並の夫婦ではなかったのだ。
お互いが阿弥陀様の世界をいただいた夫婦なのだ。

 

夫婦であっても、どちらかが先に死んでいかねばならない。
でもどちらが先に死んでも、共に行き先はお浄土。
そうお互い聞きあってきたからこそのお父さんの言葉。

 

  「お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ……」

 

仏さまのご本願の中に生きたご夫婦。
男と女の関係ではあるが、
お互いを仏さまに成っていく身の上、
仏さまに成らせていただく身の上と、
常日頃から思い、敬いあっておられたに違いない。

 

【本当のよろこび】
社会に出て身につける肩書きは
足下から狙われていく肩書きです。
身につけた途端、人が狙っている。
そんな肩書きは私の幸せにはならない。
それは不安材料です。

 

本当の喜びは分ければ増えるものです。

 

  「一緒にお浄土に生まれさせていただこう」

 

  「共にお浄土の道を歩かせてもらおう」

 

  「お互に仏法を聞く座(お寺)につかせてもらおう」

 

そして共々に味わえる事柄を増やしていくことが、
本当の喜びではないでしょうか。
そこを親鸞聖人は「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」と表現してくださいました。

 

この度は「歓喜会(かんぎえ)」の法要でした。
苦悩の人生、苦難の人生、悩みある人生ですが、
ご本願を聞き入れて、
喜びの人生へとかえていくということが
大きな我々浄土真宗のテーマです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん
(本願成就文(『一念多念証文』より)、注釈版677頁)

 

 

 

 

 

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《第208回 松岡 洋之師  平成22(2010)年6月21日 (仏婦法座)》


【ブラジル開教物語】
ブラジルでの約五年の開教生活。
そこであらためてお念仏の有り難さを感じました。
それはお念仏の教えが日本と何も変わっていない事でした。

 

ブラジルは「日本と正反対の国」と言われます。
地球上の位置が反対。
車の運転席と車線が反対。
国旗が反対(朝を表す日の丸と、夜空の星を描いたブラジル国旗)。
ノコギリの使用方法が反対。
挙げ句の果てに、ホタルの光る場所が反対!

 

日本の文化は奥ゆかしいものです。茶道、相撲、盆踊り……。
しかしブラジルは、珈琲、サッカー、カーニバル……実に陽気です。

 

日本と違い貧富の差が非常に激しい国ブラジル。
犯罪大国ブラジル。

 

 

環境が違う、言葉が違う、文化はまるで違う。
それなのにお念仏の教えは全く同じ。
何故でしょう。
お念仏の教えは、
環境でも言葉でも文化でもなく、
人間の真実の姿、
真実の苦しみに真正面に応えるものだからです。

 

環境・言葉・文化が違えど変わることなくある教えこそ真実と言えるのではないでしょうか。
だからお念仏は変わらないのです。
ブラジルの日系移民は今、
2世、3世へとお念仏の教えを一人々々変えることなく大切に受け伝えています。

 

どのような時代にも首尾一貫し続けるもの、
それこそが本当の意味で私の依り所になるのです。
ブラジルに生きるお念仏は、そのことを如実に物語っています。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『前に生まれんものは後を導き、
後に生まれんひとは前を訪へ、
連続無窮にして願はくは休止せざらんと欲す。
無辺の生死界を尽さんがためのゆえなり。』
  (『教行信証』 註釈版聖典p.474)

 

 

 

 

 

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《第207回 内田 正祥師  平成22(2010)年5月28・29日》


【御用ある世界】
本山のある夜の法座にて。

 

その晩の聴聞者は6人。
その方達へ質問をした。
「“あの世”と聞くとどんな世界を思われますか?」

 

最初の方は「お浄土」と答えられた。
次の方は「無量光明土」。
次の方は「倶会一処(くえいっしょ)」。

 

お浄土、無量光明土、倶会一処……すべて同じである。
「もう少し易しい言い方で何かありませんか(たとえば冥土とか)?」
すると次の方は、少し考えられてから、
「いのちのふるさと」
「……それはもしかしてお浄土ですか?」
「そうです。」
次の方はもう答えを考えておられた。
「私を待っていてくださる世界」

 

とうとう全員答えが同じであった。
そこでこう尋ねた。
「『冥土』とか『天国』とか『草葉の陰』とか『お星様』とか『黄泉の国』とか、
世間にはいろんな事が言われていますよね。
それらをあの世と思ったことは無いのですか?」
すると最初におっしゃった方が、
「冥土、天国、草葉の陰……私はそのようなところにご用はございません。」
【私事として】
「人は死んだらどこへ行くのですか?」

 

仏教の教えは一般論ではない。
この私がどこへ行くのか?
どこへ行きたいのか?
私を目当てとして如来のご本願は発されていることを聞く。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、
同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。
(観経疏、『浄土真宗聖典(七祖篇)』, 299頁)

 

 

 

 

 

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《第206回 福間 義朝師  平成22(2010)年3月12-13日》

 

 

 

【最後の親孝行】
「孝行したい時分に親はなし」
私たちは親を亡くした際、お互い何某かの後悔の念にかられます。
「なぜもっと優しくしてあげられなかったのか」「なぜあんな酷いことを言ったのか」……。
平素は親をないがしろにしておきながら。

 

しかし今、たった一つだけ親孝行が残っています。
それは「聞法」です。

 

死を大切なご縁として法(お浄土の教え)を聞くのです。
先だった方はそれを一番喜んでくださっています。

 

お浄土は「倶会一処(一つのところで共に会う)」の世界です。
必ず会える世界、それがお浄土です。

 

同じ屋根の下に住んでもすれ違いがあるのが娑婆ではないでしょうか。
出会っているようで、本当は出会っていないのです。
相手の心は分かりません。
しかし浄土はお互い仏となって会うのです。
互いに拝みあうのです。
本当の意味で出会うことができるのがお浄土です。

 

手土産を持ってお浄土、真実のふるさとへ帰りましょう。
手土産とは何か?
お金?ごちそう?……私の事です。
日々の嬉しい時も、またどんなにつらい悲しい時があっても「南無阿弥陀仏」と歩んだ事です。
「あなたが先だっても、それを単なる悲しみでは終わらせませんでした。
それをご縁としてますます法を聞いてお念仏を依り所に精一杯生き抜きました。」
お浄土であの方と山ほど話すことがあるでしょうが、
先だった人が待っているのは、その一言です。

 

毎日がお念仏との生活。
今日の一日(ひとひ)を抜きに語れないのがご法義なのです。

 

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

「帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」
(『教行信証』化身土文類、浄土真宗聖典411頁)

 

  帰去来:さあ帰ろう。故郷に帰る決意を述べたものであるが、ここでは浄土に生まれたいという意をあらわす。
  他郷:娑婆世界のこと。衆生にとって真実の故郷というべきは阿弥陀仏の浄土であるから、娑婆を他郷という。
  本家・本国:阿弥陀仏の浄土を指す。
  行願:自利利他の完成を願うことと、その実践修行をいう。

 

 

 

 

 

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《第205回 溪 宏道師  平成22(2010)年1月27-29日》

 

 

 

【永遠のいのち】
お慈悲をいただきにくい時代です。
その原因の一つに、
現代ほど死を嫌う時代はないからでしょう。

 

誰だって死にたくはありません。
しかし「死にたくない」と「死を嫌って死を受け入れない」とは違います。
後者の場合、
たとへ200歳まで長生きしたとしても、
その人の人生は最後、虚しく終わっていくでしょう。

 

  「あなたは“滅びのいのち”を終わっていくのですか?」(某哲学者)

 

死を向こうに追いやったら、結局、
滅びのいのちを終わっていくだけなのです。
“滅びのいのち”ではなく“永遠のいのち”を生きる道。
その道をお示しくださったお方を、
私たちは御開山様、親鸞様と仰ぐのです。
【宗教の目的】
  「死んでいく私たちが死を見つめようとしないのは不真面目ではありませんか?」(K和上)

 

これを聞いてある方がこう反論されるかもしれません。

 

  「我々はまだ死んでいないではないか!
  ならば死の話よりも、今の話、
  健康、お金、家族……そういう話が大事ではないか。」

 

勿論、健康も、お金も、家族だって大事な問題です。
それを否定するのではありません。
しかし、
これら(健康・お金・家族)が“宗教の目的”であるかのごとく説く宗教の何と多いことか!

 

「私どもの所へ入信したら、病気が治る、お金が入る、家族が仲良くなりますよ!」

 

これが嘘というのではないのです。
しかし仏教はこれを説かないのです。
特に浄土真宗は言わない。
何故か?
……これを目的にしていると、
やがて「これが目的ではなかった」と泣いて知らされる時が来るからです。
そして“滅びのいのち”を終わっていく時が必ず来るからです。

 

私たちの歩む浄土真宗の道、
それは死を向こうに追いやっていくのではなく、
死をしっかり見つめ、
死を超えていくことのできる道なのです。

 

 

(おわり)

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、
 多生にも値(もうあ)ひがたく、
 真実の浄信(じょうしん)、
 億劫(おっこう)にも獲がたし。
 たまたま行信を獲ば、
 遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
 もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
 かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。

 

 誠なるかな、
 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
 超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
 聞思して遅慮することなかれ。』
  (『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131)

 

  (意味…ああ、この大いなる本願は、
  いくたび生を重ねてもあえるものではなく、
  まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
  思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、
  遠く過去からの因縁をよろこべ。
  もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、
  もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。

 

  如来の本願の何とまことであることか。
  摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。
  世に超えてたぐいまれな正しい法である。
  この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。)
  (『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』、p. 5)

 

 

 

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《第204回 紫藤 常昭師  平成21(2009)年11月16-17日》


『諸仏如来はこれ法界身なり。
一切衆生の心想中に入りたまふ。
かるがゆゑになんぢら、心に仏を想ふときは、
この心これすなはち三十二相・八十随形好なり。
この心作仏す、この心これ仏なり。』
(観無量寿経、参照 [註釈版聖典p.100])
【苦悩を除く法】
「私、最近、癌になって良かったかなと思うのです」

 

癌がきっかけでお寺参りを始めたお方の言葉です。

 

すい臓癌になって良いことはありません。
できたらならならない方が良いでしょう。
しかし癌になった時から、
その方は過去の栄光や実績を振り返るのではなくて、
現在、そして未来を見るようになったです。

 

お念仏をしたからといって、
苦しみが無くなるということはありません。
悲しみが消えるということもありません。
しかしその苦悩や悲しみを縁として「開き行く世界」があるならば、
苦悩や悲しみは決してそのまま終わっていかないのです。

 

どのような過去の悲しいものにも手を合わせていく世界がある。
お釈迦さまは『観無量寿経』でそのことをお話されたのでした。

 

 

 

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《第203回 深川 倫雄師  平成21(2009)年9月26−27日》

 

『大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海
なり。ゆゑに大行と名づく。』
  (教行信証、註釈版聖典p.141)

 

【名の声】
仏さまはこうお誓いです。

 

「われ仏道を成るに至りて、“名声”十方に超えん」(重誓偈、注釈版聖典p.24)

 

「名声(めいせい)=評判」ではありません。
「名の声」です。
仏さまの名、それは“声”になるのです。

 

お念仏というのは、
私が「南無阿弥陀仏」という言葉(評判)を聞き知って、
称えるのではありません。

 

“私”の口から「南無阿弥陀仏」と“声”になりなさるのが仏さまです。
もっと詳しく言えば、
私に届けられた仏さまの功徳全体が、
「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」という仏の名前として声になるのです。

 

「南無阿弥陀仏」の本になる仏さまの功徳は、既に全部、私に届いています。
その功徳は私には分かりません。
だから仏さまの方が、
分かるように聞こえるように称えられる声になると、
長いのでは大変だから短く「ナマンダブ」という声になると、
そうお誓いになったのです。

 

もう一度言いますが、
「ナマンダブ」は“私”の口から出る時、
初めて“声”になります。
だから私の口から仏さまになる前に
「ナマンダブ」が他のどこかに出来ておるのではないのです。
仏さまのたくさん功徳が私に届いてそれが一つになって「ナマンダブ」と出てくるのです。

 

 

(追記)

 

(和上)「私は今、86か7ですが、
毎朝おつとめをしながら楽しいです。
若い頃は朝のおつとめが面倒で(笑)。
口では言われんですがそうでした。
この歳になったら他に用事がないですから。
皆さんもあんまり用事がないでしょ?

 

どうかすると若い者が「死ね」と言わんばかりのことを言う。
死なれるか!
この老境こそ味わい深いものなのだ。
うんとうんと人生の味、お念仏の味がわき出てくるものなのだ。

 

これからお互いもっともっと身体に気をつけて、
長生きをして、
長生きするだけでなくて、
その老境の中へ私の声となった「ナマンダブ」の味を楽しんでくれたら良いですね。
宗教というものはそういうものです。
理屈をいうものではありません。」

 

(初日、最後の言葉より)

 

 

 

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《第202回 松林 行円師  平成21(2009)年8月27〜28日》


『如来の作願をたずぬれば
 苦悩の有情を捨てずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり』
(『正像末和讃』 註釈版聖典p.606) 
浄土真宗は「お聴聞」(法話を聞く)につきます。
お聴聞……したらどうなるのでしょうか?
最初にして最大の問題です。

 

結論、お聴聞をすると、
だんだん阿弥陀さまのお心、お慈悲の心が見えてます。

 

しかし今日、この「慈悲」がピンときません。
慈悲とは何か?

 

善導大師(ぜんどうだいし)は「慈悲とは無背相(むはいそう)である」
とお示しくださいました。
「無背相」、すなわち「背無き姿」。
言い換えると「裏切りがない」ということです。
阿弥陀さまのお慈悲の心とは、
「決して裏切らない心」であります。

 

娑婆は裏切りの世界です。
都合が悪くなると人は簡単に離れ去っていきます。
そして頼みの“家族”“自分”さえも、私を裏切ります。

 

しかしこのお慈悲の心だけは違いました。
「たとえ周り全てがあなたに背を向けたとしても、私は立ち去らない。
そのために私は“南無阿弥陀仏”の声の仏となって、
あなたと共に呼吸をし、
命終わったと同時に必ずお浄土のへ連れて行く!」
阿弥陀さまのご本願、救済大計画でした。

 

お聴聞……それは裏切りのない世界、
真実の世界に気づかせてだく場所であります。

 

 

 

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《第201回 宮崎幸枝先生(平成21年6月22日)》

 
「怖くてよぉ、怖くて仕方が無いんだよ」
「何がそんなに怖いの?」
「死だよ。死ぬのが恐いんだよ」

 

幸枝先生はこの言葉を聞き、
カルテに文字を書いていたペンを止め、
その方の膝にそっと手を乗せました。

 

「何をおっしゃるの。
阿弥陀さまはいつでもあなたを救いたい、救いたい、と思ってくださるから、
何も心配することは無いのよ。
私たちは気がつかないだけで、
阿弥陀さまの温かい胸に抱かれて暮らしているのだから」

 

それを聞いたその方は、思わぬ反応をしました。
わっ、と顔を両手で覆い、声を上げて泣き出したのです。

 

「そうなのか……そうなのか……阿弥陀さまが助けてくれるのか……良かった……」

 

どんなに地位や名声やお金があっても幸せでは無い人もいれば、
病床で苦しんでいても尚、幸せな人もいます。
それは「こころ」の問題であり、
どんなにお金を出して高価な薬を買っても、救われない人は救われない。
今、この瞬間に、その方のこころは「本当の救い」というものを得たのでしょう。

 

「阿弥陀さまありがとう、と思ったら、
いつでもどこでも『南無阿弥陀仏』と称(とな)えてね。
それだけでいいのよ」

 

そう言って先生が「南無阿弥陀仏」と書いたメモを渡すと、
その方は涙で濡れた手でその小さな紙を握り締め、
何度も御礼を言いながら帰ってゆきました。

 

後日、あの方は人が違ったかのような、
明るい雰囲気を纏い、笑顔と共に診察室にやってきました。

 

「先生、看護婦さん、オレはあれから嘘のように安心して暮らしているよ、
お念仏も称(とな)えているよ。ありがとう」
  (『お浄土があってよかったね』より(抄出) pp. 204-206)

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