真宗の泣きどころ
昭和37年(1962年)、浄土真宗本願寺派は、急激にご門徒が浄土真宗を離れていくことを危惧し、45日間の研修を行いました。僧侶だけでなく、大学の教授、専門家が集まって、今何が問題なのか、それについて宗門はどう歩むべきかを話し合ったのでした。
その研修に参加されていた高木宏夫(たかぎ ひろお。2005(平成17)年8月27日死去(84歳)。東洋大学名誉教授、宗教社会学者、大阪市出身)さんという方が、今の宗門の問題を15項目提言されました。
どれも非常に厳しい言葉であり、しかも47年たった現在(平成21年)、果たしてこれらの言葉にどれほど応えてきたのかと考え込んでしまいます。
以下にその十五項目を挙げます。
- 僧侶の方で熱心な燃えるような信仰の人に出おうたことがない。
- なんとかせねばならんと幼稚園などいろいろやっておられるが、それが信仰中心になっていない。
- 大衆を教えてやるという姿勢ばかりで、信仰中心に、一般と共にという態度がないと。
- 真宗の坊さんには、知識のあることが信仰のあるように錯覚している。知識だけで大衆との触れ合いがなく、インテリすぎて、一般から浮き上がっておる。
- 布教が老人層には向けられているが、なぜもっと壮年層にはたらきかけないのであろうか。
- 浄土真宗は、現代の人類、現代の文明に、何を果たし、何を答えていくかという宗教運動となっていない。
- ひとつ、大衆との接点が、儀礼だけでつながっている。大衆活動家を育てようともせぬが、また育つ余地もない今の真宗では、ただ今ある寺院を育てるのが精一杯じゃないか。
- 墓地と行事にのみ教団をささえる根源を有しているようだが、これでいいかと。
- 伝道をただ真宗の教義を平易に説くことと思いあやまっていないか。教義を平易に説くだけでは伝道とならん。それは講義だ。伝道は、人間ひとりひとりの苦悩に触れていかねばならない。
- 現代人は、真宗の教義がわからんと言って悩んでおるようなひまな人はいない。貧、病、争、事業の失敗等を縁として人生の見通しと安らぎを求めている。
- 宗教は生きていく方向と主体の確立を与えねばならない。価値体系が、近代的にはっきりと打ち立てられていない真宗では、大衆の価値転換が行われない。どれだけその人が法を聞いて価値転換されたかというようなことが注意されていないではないか。
- 真宗の教理も順を追うて段階的に教えられるべきものであろう。そのへんの研究が足りない。
- 新しく寺を立てようとする人たちを大きく育てる面が欠けていないか。むしろ、たたき落とそうとするように見えるがどうか。
- 人間が実力主義に人材が使われていない。宗門で、ひとつ、機関誌、つまり『本願寺新報』と『大乗』ですね。機関誌がもっと大衆向きになり、信者側にたって、この運動の武器とならねばならんと思うがどうか。
- 一方通行の布教だけで、両方通行、多方通行の「話し合い 法座活動」が行われていない。人間は人と人との触れあいの中で育てられ成長する。ことに、現代人にとって大切な一対一の布教が行われていない。 ……そんなことを思うがどうですか。
以上です。どれも非常に大切なお話です。
一つ一つに確かに応えていける僧侶を目指します。(平成21年2月15日)