歎異鈔を読もう
歎異抄とは
著者は親鸞聖人の直弟・唯円といわれています。
聖人の滅後、その教えに異なる解釈が生まれてきたことをなげいた著者が、
同じ念仏の道を歩む人の不審を除くために著したものです。
18条からできており、
前半10条は、親鸞聖人から聞いた法語を収録。
後半8条は、さまざまな誤った考えを挙げて著者自身の歎異を述べています。
【第一条】
【原文】一。彌陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、
念佛まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、
なはち攝取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
彌陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。
そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念佛にまさるべき善なきがゆへに。
悪をもおそるべからず、彌陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云云。
※第一章を全文そのまま。何度も読んでいると覚えられます。響きを味わえるのも、『歎異抄』の魅力です。
【第二条】
【原文(抜粋)】親鸞におきては、たゞ念佛して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念佛は、まことに淨土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
惣じてもて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからさふらう。
そのゆへは、自餘の行もはげみて佛になるべかりける身が、念佛をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、
すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
※往生浄土の道を聞くために訪ねてきた門弟に対しての言葉。非常にドラマティックな法語です。
【意訳】
あなた方が、十いくつもの国境を越えて、命がけの旅を続けて、
この京都まで私を訪ねてきてくださった御志(おんこころざし)、
つまり目的はひとえに往生極楽の道を尋ね、聞きただそうとすることであった。
そうでしょう。
しかし、この親鸞は念仏以外に往生極楽のみちを知っているのではないか、
あるいは一般の門弟には語っていない特別の深い法義を知っているのではないか、
それを聞きたいものだ、と思っておいでになったのなら、それは大きな間違いです。
もし念仏以外の往生の道が聞きたいのなら、
そういうことを研究していらっしゃる比叡山延暦寺であるとか、
奈良の興福寺といった南都北嶺(なんとほくれい)の学問寺に行って立派な学僧たちにお尋ねになったらいいでしょう。
この親鸞は、ただはからいなくお念仏を申して阿弥陀さまに助けていただきなさいと、
よき人法然上人から承った通りに信じているだけで、それ以外に何も知りません。
お念仏が本当にお浄土に生まれる道であるのか、それとも地獄に墜ちる種であるのか、
私は全く知りません。
それを知るだけの能力をこの私は持ってはいないのです。
私はただよき人から承った通り、本願のお念仏をいただいて、
そしてこれを我が道と生きていく、ただそれだけのことです。
たとえ法然聖人に騙(だま)されて念仏をしたがために地獄に墜ちたとしても、
私に後悔はありません。
他の修行によって自分自身をさとりの世界に至らしめるだけの能力を持っている人間だったら、
法然上人に騙されたという後悔もあるかもしれません。
しかし自分の力で自分を救う能力はなく、
むしろさまざまな煩悩を起し罪業(ざいごう)を作り続けている人間ですから、
もともと地獄以外に行く道のない愚かな人間なのです。
だから私は念仏をして地獄に墜ちたからといって、騙されたと後悔するほど立派な人間ではありません。
だからといって、私は念仏の教えが不確かなものだと言っているのではありません。
この教えは阿弥陀さまからの本願から流れ出てきた教えだと聞いています。
阿弥陀さまのご本願が真実でましますならば、
その通りにお説き遊ばされたお釈迦さまの『大無量寿経』の説法に嘘・偽りがあるわけがありません。
お釈迦さまのみ教えが本当ならば、
その通りに私たちにその内容を知らせてくださった善導大師(ぜんどうだいし)の御釈(おんしゃく)も嘘ではありますまい。
善導大師のみ教えがまことであるならば、
その教えにしたがって念仏の道を自らも味わい私に届けてくださった法然聖人の仰(おお)せに嘘があろうとは思いません。
法然聖人の教えがまことであるなら、
その教えの通りにいただいて生きている私の言っていることも虚(むな)しいことではないでしょう。
これが私が味わわせていただいている信心です。
この念仏往生の教えを聞き容れて信じなさるか、
それともこの道を捨ててほかの道を行きなさるかは、
あなた方一人一人のお心のままになさいませ。
(以上、『『歎異抄』師訓篇を読む1』114頁(自照社出版)より)
【第三条】
一。善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
※第三章よりの抜粋。いわゆる、“悪人正機”と言われるところであります。
【第五条】
一。親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。
※第五章よりの抜粋。浄土真宗では、“私の念仏”は供養としては考えません(というよりも、“私の念仏”という概念を否定します)。じゃあ、念仏とは何なのか、供養とは何なのか。念仏とは、他力念仏(「南無阿弥陀仏」)が私の口から出てくださった言葉として味わいます。なんだか理解しづらい表現ですが、このような表現になってしまいます。
「われ称え われ聞くなれど なもあみだ つれてゆくぞの 親の呼び声」(原口針水和上)
「みほとけの み名を称えるわが声は わが声ながら尊かりけり」(甲斐和里子)
【第六条】
親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念佛をまふさせさふらはゞこそ、弟子にてもさふらはめ。彌陀の御もよほしにあづかつて念佛まふしさふらうふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。
※第六章より抜粋。これも念仏について。「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」個人的にとても好きな言葉です。
【第九条】
一。念佛まふしさふらへども、踊躍歡喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ淨土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、
親鸞もこの不審ありつるに、唯圓房おなじこゝろにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこゝろをおさへてよろこばざるは煩悩の所爲なり。
しかるに、佛かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また淨土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、いさゝか所勞のこともあれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも煩悩の所爲なり。
久遠劫よりいままで流轉せる苦悩の舊里はすてがたく、いまだむまれざる安養の淨土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらうにこそ。
なごりおしくおもへども、娑婆の縁盡きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまひるべきなり。
いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。
踊躍歡喜のこころもあり、いそぎ淨土へもまひりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんとあやしくさふらひなましと云云。
【現代語版】
念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。
この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。
よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。
喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。
そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた*凡ぼん夫ぶであると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。
また、浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです。
果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。
どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。
はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。
このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。
おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われることでしょう。
このように聖人は仰せになりました。
(以上、『歎異抄(現代語版)』、14頁)
※長いのですが、第九章の全文です。『歎異抄』で最も好きな章ですかね。「念佛まふしさふらへども、踊躍歡喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ淨土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば…」、言葉で書くと混乱しそうな文章ですが、実際に声に出して読むと、唯円さんの感動が伝わってきそうな名文です。
【後序】
聖人のつねのおほせには、彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと
※後抜より抜粋。親鸞聖人の御文を拝読させていただくと、個から全への脹らみ、全から個へとの凝縮を感じるのは私だけでしょうか。このダイナミズムこそが、日本人を魅了させ続ける、親鸞聖人の思想思索の魅力かなぁと味わっています。
この後抜の文などは、その個への凝縮の最たるものではないでしょうか。『浄土和讃』には、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とありますが、十方世界に満ち満ちておって下さる阿弥陀仏のひかり…。しかし、では何故仏はそれほどまでに満ち満ちておって下さるのか。
「ひとへに親鸞一人がためなりけり」「本願のかたじけなさよ」。
このような阿弥陀仏の味わいを、どこで見たのかは忘れましたが、ある外国の哲学者が、「すべての場所が、その中心であるような、果てしなく巨大な球」と表現していました。
今、改めて思い出し、目をつぶって少し想像してみました…う〜ん、なるほど。
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